深く沈めて花水葬、浮かべたるは

目の前でゆらゆらと燃える暖炉の火に、悴む手を添える。肌の表面からは少し熱さを感じるのに、芯まで冷えた手のひらは未だにぴりぴりと痛いままだ。
冬の井戸水は、氷水のように冷たい。食べた後の食器を片すだけのことでも、歯を食いしばって頑張らなければ終わらなくて。洗い物や洗濯は、この時期は特に大変な家事だった。
しかし、そんな辛くて大変な作業でも、何一つとして嫌だと思わないのは、彼の存在があるからで。彼の役に立てているのだと思うと嬉しくて、悴む手にも自然と力が入った。

暖炉の前のカーペットは、いつもとても温かい。地べたに座り込むのははしたないことだと分かっていても、これだけは小さい頃から辞められなかった。そんな寒がりの私に、いつからか彼は椅子に座るようにと勧めることも無くなった。それどころか、一緒になってカーペットに座り込み、他愛もない会話をするようになった。彼は育ちが良いけれど、決して厳しい人ではなかった。いや、そもそも彼は人ですら無いのだけれど。それはともかく、そんな優しくて穏やかな彼に幼い頃に運良くこの森で拾われて、大切に大切に育てられた私は、この世の誰より幸せ者だった。


「名前」

重く古びた部屋の扉が開く音と一緒に、私を呼ぶ声が聞こえてくる。
他の誰でもない大好きな彼の声に、弾かれるように視線を上げて振り向くと、そこには穏やかな瞳でこちらを見つめる彼がいて。嬉しくて、つい胸が弾んでしまう。
勢いよくカーペットから立ち上がり、浮き足立つその足で扉の前にいる彼の元へと近づくけれど。

しかし、そこにいる彼は、どうもいつもと様子が違うくて。
勢いのままに抱き着こうとしていた足を途中で止め、しっかりとした外套を羽織った彼の姿をまじまじと見た。

ついさっき眠りから覚めて、ご飯を食べたばかりだというのに。
こんな外行きの格好をして、一体どこに行くというのか。
今日はこれから彼と二人でのんびりと夜を過ごそうと思っていたのに、どうやらそういう訳にもいかなそうで。
どうしてか、胸がざわざわと騒ついた。

「……街に、行ってくる。」

不安に揺れる私の心を読み取ったみたいに、彼は短い一言を吐き出した。
弾んでいた胸が、一気にずしりと重くなる。
そんな明らかに気を落とす私を慰めるみたいに、彼の手が優しく私の頬を撫でた。

「悪りぃ……たぶん今回は何日か掛かりそうだから、何か困った事があればいつもみたいに麗日や蛙水のところに……」
「ヤダ。」

彼の言葉を遮るように、添えられた優しい手を頬から無理やり引き剥がす。
少し驚いたように色の違う目が大きく見開かれていくけれど、そんなことは気にせず両手を広げ、彼の胸へと力いっぱいに抱きついた。

「……ねぇ、私も街に連れてってよ。」

気が付けばそんな言葉が、切ない声になって無意識のうちに口からぽろりと溢れていた。

この深い森を抜けると、大きな街があるらしい。そこには人がたくさん住んでいて、その中心にはこの国の王様が住まう城があるのだと、遠い昔に彼から教えて貰った。
そんな、こことはまるで違う街というところに、偶に彼は何かの用事で足を運ぶことがあった。とても毛並みの良い鷹が手紙を届けに来た数日後に、決まって彼は街に行くとだけ告げて屋敷を空けた。それは半日で戻ってくる日もあれば、二、三日帰って来ない日も稀にあった。しかし、例え何日であれここで待てさえいれば、彼は必ず私の元に帰って来てくれた。
だから、いつもみたいに大人しく待っていれば、いいだけの話だったのに。

でも私は、そんな良い子では居られなかった。
彼と過ごす時間が長くなればなるほど、私の知らない彼の世界がそこに広がっていることが、何だか無性に許せなくて。私も、彼と一緒に街に行ってみたかった。彼の世界を、もっともっと知りたかった。

しかし、そんな醜い想いは、当然だが快く受け入れて貰えるものではなくて。

「ダメだ。名前には、まだ早い。」
「むっ…私ももう16だよ?立派な大人だもん……」
「16は、まだまだ子供だろ。」

そう言って、彼は困ったような声色で、私を遠ざけるような言葉を吐く。
数百年もこの世に生きる彼からしたら、誰だって生まれたての子供に違いない。そんなことを言い出せば、私は一体いつになれば彼と街に行けるのか到底分かったものではない。

「じゃあ、いつになったら良いって言ってくれるの?」

彼の外套に埋めていた顔を上げて、口を尖らせる。
そんな私の髪をそっと撫でた彼は、少し考えながら口にした。

「そうだな……名前が20になったら、一緒に行こう。」
「20って、あと4年も待たなきゃいけないの?」
「4年なんて、あっという間に過ぎる。」
「焦凍はそうかもしれないけど、私は違うの…!」

彼の生きる数百年の時間の中では、たったの4年なのかもしれない。でも、私はまだ16年しか時間の流れを知らない訳で。あと4年なんて、到底待てる筈もない。それに、そんなにも時間が経ってしまえば、今より更に彼が遠くに行ってしまう気がしてならなくて。

ぎゅっと、彼を抱きしめる腕に力を込める。
彼が頷いてくれるまでは、絶対に離さないのだと、そんなことばかりを考えるけれど。

静まり返った部屋の中には、暖炉の火がパキパキと薪を割る音が聞こえてくる。
そんな何でも無い音がする中で、低く穏やかな声が不意に私の名前を呼んだ。

「名前」

大きな両手が、私の頬を優しく包む。不安気に見上げる私の瞳を、彼の瞳が愛おしそうに見つめていて。
たったそれだけなのに、どうしようもないほどの嬉しさが込み上げてきて、胸が震えてしまう。

「……もし名前が4年待ってくれたなら、その時は街でも海でも名前の行きたいところに、好きなだけ一緒に行こう。」

美味しいものを食べながら、美しい景色を見て、新しい物に触れて。きっと、それは想像もつかないほどに楽しい時間になる筈だけど。しかし、それは今ではダメなのだと、彼の瞳はそう静かに訴えかけるみたいに私を見つめていて。
きっとそこには何か理由があるだろう。彼は理由もなく誰かを拒絶するような人では無いから。
それなら、理由ぐらいは教えてくれたっていいのに。彼はいつも私を子供扱いするだけで、何も教えてはくれない。そんな彼に、いつもみたいに駄々をこねたって良かったのだ。教えてくりなきゃ離さないと泣き喚いても良かったのに。それをしなかったのは、彼が私のことを心底大切に想ってくれているのを知っていて、そんな彼の困った顔を見たい訳では無かったから。

「うん……約束だよ?」

絶対に、20になったら色んなところに連れて行って。
焦凍の知っている風景も、焦凍の知らない風景も、私は全てを彼と一緒に見たいのだ。
それに、その時には今は言えない子供扱いの理由も、きっと言える筈だということだから。
全部全部、包み隠さず私に全てを教えて欲しくて。
立てた小指を、ゆっくりと彼の前へと差し出す。

「ああ、約束だ。」

そう言って、彼も同じように小指を立てて、私のそれと絡ませる。

そうして、屋敷の前まで迎えに来てくれていた出久くん達と森を出て行った彼は、二度とこの屋敷に戻ってくることはなかった。





ぽろぽろと熱い雫が、知らぬ間に目尻からこぼれ落ちていた。
ゆっくりと瞼を開くと、そこにはいつもと変わらない自室の天上が広がっていて。何となく頭に残る夢の余韻に、胸が引き千切れるような切なさに襲われる。

ああ、またこの夢か。
濡れる目元を服の袖で拭いながら、そっと静かに溜息を吐き出す。

この妙にリアルな夢を見るのは、実はこれが初めてではなくて。ここ何年もの間、ずっと似たような夢を繰り返し見続けていた。
それは、今日みたいに最後の日の出来事だったり、彼と過ごす穏やかな日常だったり、あの広い屋敷で一人彼を待ち続ける日々だったり。時と場合によって見る夢は様々だけど、しかしどの時間軸の夢であれ、私はとても彼のことを大切に想い続けていた。

本物の吸血鬼なんて、この世には存在しない。
夢の中で創り上げられた、ただの捏造に過ぎないのに。
それなのに、容姿すらはっきりと思い出せない彼のことが、どうしようもなく愛おしくて仕方が無かった。
こんなの絶対におかしいのに、何十年も待ち続けた報われない彼への想いを、どうしても否定することなどできなかった。


丁度その頃、世間では雄英体育祭の放送がされていて。私は仲のいい友達の家で、その中継を眺めていた。何でも、今年はあのNo.2ヒーローの息子が雄英に入学したらしく、報道陣達は挙って彼のことを取り上げていて。有名人の子供は大変だね、なんて話を友達としていると、映像が別のカメラに切り替わり、氷に包まれた美しい少年が画面いっぱいに映された。

どくん、と心臓が飛び跳ねたのは、どうしてか。
無性に切なくて、嬉しい気持ちが胸の中を駆け巡り、気が付けば目からポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
理由は、何も分からない。
私はこの少年を、知らないのに。
どうしてか、酷く懐かしい気持ちに心がいっぱいになった。

不意に脳裏に浮かぶのは、顔も思い出せないあの人の姿で。
そんなことは、あり得ない。それは私の夢の中の話しでしか無いのだと、自分に何度も言い聞かせてみるけれど、焦がれる想いは止めどなく胸の中から溢れ出る。
テレビの向こうにいる彼が、まるでその人なのだと訴えかけているみたいで、変な気持ちになってしまう。

そんな葛藤を一人繰り広げていた私に、隣に座る友達はぎょっとした目をながら「え、うそ。轟くん、泣くほど格好良かったの?」と笑っていて。本当のことなんて言えない私は、適当にその話に首を縦に振り誤魔化した。



それから私は、これまで何の興味もなかった雄英高校の受験を決めた。もちろん、個性も運動神経も人並みのものしか持たない私が、日本一のヒーロー科を目指せるほど世間は甘くはなくて。普通科志望で、とにかく目一杯に頑張った。

私が入学する頃には、彼は3年生になっている。雄英で彼と重なる時間はたったの1年しかないというのに、一体何ができるのか。
そもそも私たちに接点なんて何もなくて、会話を交わすことすら不自然なのに。学校で会って、訳の分からない私の夢の話をして、その先は……?
そう、私は本当におかしいのだ。そう分かっているのに、胸を焦がすこの大きな気持ちは、一つも止められなかった。










「出久くんの嘘つき…っ!」

認めたくない現実から目を背けたくて、握りしめた拳で何度も何度も胸を打つ。やり場のない酷く荒んだ不安定な気持ちを、とにかく目の前の男へとぶつけた。それしか、できなかった。
出久くんは、何も悪くはない。寧ろ、私のことを気遣って、十分傷も癒さぬままにここまで来て、憎まれ役を買って出てくれているのに。私は、なんて最低なのだろう。
癇癪を起こす私の身体を、彼の腕がそっと優しく抱きしめる。「焦凍くんじゃなくて、ごめんね。」と傷だらけの手でぎこちなく頭を撫でられれば、切なくて苦しくて、涙がじわりと溢れ出た。


それは、彼がこの屋敷を発ってから数ヶ月後のことだった。数日だと聞いていた彼の不在は、気付けば100日を超えていて。心配や不安が胸の中を支配して、もう一層のこと彼を探しに街まで一人で向かってしまおうかと、そう考えていた頃だった。

屋敷の門が開く音に、やっと彼が帰って来たのだと思った私は、慌てて玄関へと向かった。しかし、屋敷の扉を開いた先に待っていたのは、傷だらけでぼろぼろになった彼の友人の姿だけだった。
一体何があったのか、状況がまるで理解できなかった。
一先ず怪我の手当をしなければと、出久くんを屋敷の中へと通したが、彼は手当は不要だと首を横に振った。

そして、彼はいつもの明るい声色とはまるで違う、聞いたこともないような震えた声で「ごめん」と私に謝った。
それが何を意味するのか分からないほど、私は愚かではなかった。

膝から崩れ落ちる私を、彼は優しく抱き止めた。
そして、一体何が起こったのかを一つ一つ話してくれた。

今、世界中では大きな争いが起きているのだということ、それを終わらせるための最終秘策として、人外である焦凍くんや出久くん達が戦場へと出向いていたこと。そして、その先で彼が予期せぬ最期を迎えたこと。
そんな信じられない話を突然聞かされた私の頭は、盛大に混乱した。
だって、世界のことも彼のことも、私は呆れるほどに何一つとして知らなかったのだ。
争いも、誰かの死も、私の生きる世界には全く無縁のものだった。だから他の場所も、この森と同じぐらい穏やかで平和な場所しかないのだと、信じて疑いもしなかった。
そんな私を、彼は何も否定しなかった。だから、楽しくて幸せなことばかりを想像して、彼にたくさん駄々をこねた。

彼が、汚い世界から私を守ってくれていただけだったのに。

それを知らない私は、4年も待てないと言って彼を困らせた。
4年後にはきっと争いも止み、街も海も綺麗になっているだろうという彼の意図を、今になって漸く理解するのに。
もう全部が、遅くて。

焦凍は、私の大切な人は、もう戻ってこないのだと、出久くんは重く沈みった低い声ではっきりと告げた。

初めて、感情のままに声を出して泣いた。
初めて、心が壊れるほどの悲しみを感じた。

別に街に行きたい訳じゃ無かった。
もっとずっと、彼と一緒に居たかっただけなのに。
彼が居なければ、綺麗な街も海も、何一つとして意味を持たないのに。

「出久くんの嘘つき、大っ嫌い…っ!」
「……ごめん、でも本当のことだから……君に、伝えなきゃいけないと思って…」

辛くて堪らない気持ちを必死に抑え込む様な、苦しい彼の声が私の鼓膜を揺らす。額を押し付けた彼の胸からは、埃や血の匂いがして。

本当は、誰が一番辛いのか。誰が一番苦しいのか。
また一つ、自分の愚行に気付いてしまう。

ああ、そうだ。この数ヶ月、こんなにも綺麗な屋敷で一人、血も痛みもない時間を過ごしていた私が、どうして彼に泣き縋ることができるというのか。
大切な友人を失って、それでも必死になって戦い続け、そしてやっとの思いで漸くこの森に帰って来たというのに。
私は、彼に自分の気持ちばかりをぶつけて、楽になろうとしている。
彼が一番辛いのに。本当は、私は彼がここに帰って来てくれたことに、焦凍のことを伝えに来てくれたことに、感謝をしないといけないのに。
どうしても、涙と嗚咽で言葉がうまく出て来ない。
そんな私を突き放すことなく、出久くんは何度も「ごめん…ごめんね…」と謝り続ける。
ああ、本当に、彼はどれだけお人好しなのだろうか。
彼がそうやって私を優しく肯定するから、私は胸の中に渦巻き続けるこの思いを、無性に吐き出したくなってしまう。

「焦凍は死なないって……ッ、吸血鬼は不老不死だって、自分で言ってたのに…っ」

不意に脳裏に浮かぶのは、あの日、雨の降る森で一人震えていた幼い私に、大きくて温かい手を差し出してくれた焦凍の姿で。
あの日から、彼は私の全てであり、当たり前の存在で、私の世界そのものだった。

「私が20になったら、好きなところに連れて行ってくれるって、そう約束したのに……っ」

どうして、一人で居なくなってしまったのか。
どうして、ここに私を置き去りにして遠くへ行ってしまったのか。

その問いかけに、答えなんて何も返って来やしない。
その代わりに、泣き縋る私の背中を、出久くんの傷だらけの手が優しく撫で続けてくれていた。




それから幾つもの春を通り越し、20をとっくに超える歳になっても一人、私はこの屋敷で彼の帰りを待ち続けた。

命は巡る。
そう教えてくれたのは誰でもない彼で。だからここで待っていれば、いつかきっと彼が戻って来るのだと信じていた。

季節を重ねる度に、鏡に映るその姿は変わっていく。髪の色も皺の数もあの頃とはまるで違って、すっかり老いた自分の姿に、少し不安を覚えるけれど。
でもきっと、彼はそんなことなんて気にしない。私がどんなに変わり果てた姿になろうとも、いつものあの穏やかな声で名前を呼んで、優しい腕でぎゅっと抱きしめてくれるに、違いないのだ。

だから私は、心だけは彼の知る私のまま、ここで彼の帰りを待てばいい。

そうして彼を待ち続けたとある雪の日に、私は一人、彼の寝室で静かに息を引き取った。








その日の夢は、どうしてかいつもよりもはっきりと頭の中に残っていた。
朝、目が覚めても彼の名前や姿を覚えていたのは初めてで、胸が震えて堪らない気持ちになった。
そして同時に、大好きだった彼の名前も容姿も、あのヒーロー科の『轟焦凍』と全く同じだということに気付くと、瞬く間に困惑が胸の中を支配した。

これは偶然なのだろうか。
こんな偶然があるのだろうか。

ぐるぐると巡る思考の先に、答えなんて何もない。そう分かっているのに、ふとした瞬間には、頭の中は彼のことでいっぱいになっていて。
友達との会話も、授業中も、その日は全てが上の空だった。
とにかく彼に、轟焦凍に会いたくて堪らなかった。

そして最後の授業が終わり、帰り支度を済ませた私をいつもの様に友達が帰路に誘ってくれた。それに快く頷いた私は、まだ生徒の多く残る普通科の教室を後にした。
「名前、今日はずっと上の空だったね。」と笑いかける友達に、まさか夢の話をできる筈もなく、少し寝不足なのだと適当な嘘を吐いて誤魔化した。
こんな頭の可笑しな話など、誰にも言える筈がなかった。

そうして他愛もない話をしながら廊下を歩いていると、すぐ側の曲がり角を曲がって来た男子生徒3人とすれ違う。

それは、ほんの一瞬の出来事で。
窓から差し込む西陽が眩しくて、あまりはっきりとは見えなかったけれども。
すれ違い様に聞こえて来た、どこか懐かしくて穏やかな声に、自然と足がその場に縫い付けられてしまう。

この声を、私は知っている。
忘れられるはずもない。
だって私は、この声に再び名前を呼んでもらえる日を、ずっと待ち望んでいたのだから。

刹那、いろんな感情が、とめどなく心の中に押し寄せてきて。
彼と過ごした美しい日々が、彼を待ち続けた孤独な日々が、胸をじわりと熱くした。

焦凍が、いる。
焦凍が生きて、そこにいるのだ。

その事実だけで、もう胸がいっぱいだった。
涙が溢れてしまわぬように、ぎゅっと唇を結ぶ。ゆっくりとその場に振り返ると、そこには3人組の男子生徒の後ろ姿が目に映る。その一番左には、すらりと伸びた背に雄英の制服を纏った、見慣れた紅白頭があって。
込み上げてくる感情がしきりに胸を焦がし続け、身体が痺れたみたいに動かなくなった。

突然、何も言わずに立ち止まった私に、隣にいる友達は不思議そうに首を傾げて、「どうしたの?」と尋ねるけれど。
私の心は、それに返す嘘を考えるほどの余裕はなくて。

「ごめん、ちょっと忘れ物したから、先に寮に戻ってて!」
「え?ちょっと、名前…?!」

友達に一言断りを入れ、振り返り元来た道へと足を踏み出すけれども。背後には、既に彼らの姿はどこにもなかった。

すぐ右手には曲がり角、左手には階段の踊り場があって、きっとどちらかに歩いて行った筈だけど。そのどちらに消えていったかなんて、想像もつかなくて。しかし、焦りでいっぱいの胸は、とにかくどこかを必死に探せと、そう脳に煩いぐらいに訴えかける。
山を張り、曲がり角を曲がって少し先に進んでみるけど、そこには彼と同じ制服を着た、彼ではない姿があるだけで。ここではない。そう判断するのと同時に、迅る足は次に階段を下へと駆け降りるけれど。

しかし、そこにも彼の姿は見当たらなくて。
何度も何度も辺りを見回し、赤と白の色彩を探す。それだけを、ただ瞳に映したいと願うのに、見えるのは誰もいない西陽の差し込む廊下だけで。

目の前が、徐々に暗くなっていく。
いつの間にか息が切れ、浅い呼吸を何度も繰り返すけれど、思うように酸素は胸に取り込めない。

また私は、彼と交わらない日々を繰り返すのか。
このまま彼と会うことも、言葉を交わすこともないまま、また静かに終わりを迎えるのだろうか。

そんなのは絶対に嫌だと思うのに、彼に会いに行こうにも、もうどこに向かえば良いのか分からなくて。
立ち止まり、俯いた私の足元からは、長い影が伸びていて。

どうしてか、今日が無理ならこの先もう二度と彼とは交わらないような気がした。
言い表せない悍ましい恐怖が、一気に胸を支配して。堪え切れずに溢れた涙が、視界をどんどん濡らしていく。
それを、必死になってブレザーの袖で拭っていれば、いつの間にか目の前には、もう一つ大きな影が伸びていた。



「名前」

その声に、弾かれたように視線を上げる。
するとそこには、窓から差し込む夕日を浴び、橙がかった右半分の白色が、優しい色を纏っていて。青灰色の美しい瞳が、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「……焦凍、」

以前のように彼の名を、大切に大切に口にする。
随分と懐かしいその音に、自分でも少しだけ驚いてしまう。

「本当に、名前なのか……?」

一歩一歩と近づく彼は、まるで信じられないものを見るような目をしていて。確かめるように伸びてきた彼の右手が、優しく私の頬を包む。

それだけで、もう十分だった。
頬に触れる優しい手の感覚も、右手が少し冷たい彼の特徴も。
全てがあの頃のままで、今目の前にいる彼が、私の知るあの焦凍であることは明らかだった。

あの頃よりも少し若くて、口元には牙もないけど。でも彼は確かに吸血鬼の焦凍で、そのことに一切の疑問も浮かばなかった。

「焦凍……やっと、会えた……っ」

昂る感情のままに彼へと手を伸ばせば、身体を引き寄せられぎゅっと強く抱きしめられる。
埋めた彼の胸から香る懐かしい匂いに、目頭が無性に熱くなっていく。

「名前…っ、会いたかった……っ」

掻き抱かれた耳元では、まるで堪らなく込み上げてくる想いを噛み締めるみたいに、静かな言葉が吐き出された。
それは決して嬉しそうな声とは言えないけれど。目には見えない彼の心からの想いが伝わってくるみたいで、胸が苦しいぐらいにいっぱいになった。

何十年も待ち望んだ彼の腕の中に、私は今いるのだ。それが、嬉しくて堪らなくて。バクバクとうるさい心臓を黙らせようと、深く息を吸い込み吐き出す。
彼と会ったら、たくさん話がしたかった。あの頃は、彼が帰ってきたらまず何から話そうかなんてことを毎日考えていたのに。いざ彼を目の前にすると、言葉が何も浮かんでこなくて。

生きる世界が変わってもなお、彼は私に会いたいと思ってくれていた。それが、とにかく嬉しくて堪らない。
私も同じ気持ちであることを伝えたくて、彼の胸に額を当てながら何度も何度も頷く。そんな私の髪を、彼はあの頃と何も変わらぬ手付きでそっと優しく撫でてくれた。

「名前……あのとき屋敷に一人にして、約束も破っちまって、本当にごめん。」

言葉を紡ぐ彼の腕が、少しずつ強まっていく。
それはまるで過去の自分への後悔に、心が酷く蝕まれているみたいだった。
思い出すのは、何度も夢の中で見た、彼と最後に交わした言葉で。お互いの小指を絡め合い、20になったら私をどこでも好きなところへ連れ出してくれると約束した。
そんな些細な約束など、もうとっくの昔に忘れ去られたとばかり思っていた。私だけだと知っていて、それでもその約束に縋りついて必死に生きてきたのに。
時間も世界も何もかもを飛び越えた今も、彼はそれを覚えてくれていた。守ろうとしてくれていた。それに、心がいっぱいに満たされていく。
だから、胸の奥底に詰め込んで、決して引き摺り出さずにいた感情を、ゆっくりと言葉に乗せて吐き出した。

「焦凍…っ、私ね、あのお屋敷でずっと一人で、焦凍のこと待ってたんだよ…っ」
「っ、!…ああ、」
「20になっても、何十年経っても、焦凍との約束ずっと楽しみにしてたの……っ」

何度も何度も季節が巡るその度に、彼がいた頃の記憶を呼び起こした。擦り切れるほどに何度も何度も思い出しては、大切に胸の中へと仕舞い込み、一人でベットに入り眠りにつく。そんな味気のない日々を、飽きるという感覚すら失くしてしまうほどに繰り返した。
大好きな彼との最後の約束を、私から破るわけにはいかなかったから。

「それなのに、焦凍が全然戻ってこないから、また16に戻っちゃったよ……っ!」

気の遠くなるような時間を超えて、こうして巡り会えたのに。これでは、彼の約束を満たすことはできなくて。
ぎゅっと彼の胸に縋りつきすすり泣く私に、彼は静かに首を振った。

「16でもいい…っ、名前がいくつだって、本当はそんなのどうでも良いんだ…っ!
だから今度こそ二人で一緒に、街も海も好きなだけ行こう…っ、」

あの世界とは違って、ここは綺麗で安全な場所しかない。だからもう、彼が綺麗にしてくれるのを知らな顔で待ったりなんてしなくていいのだ。
そう頭では理解できるのに、何十年も待ち焦がれたその瞬間がいざ目の前に訪れると、何故だか心がたじろいでしまう。

「本当に…?今度はちゃんと、連れて行ってくれる…?」
「ああ、もちろんだ。もう名前を置いてどこにも行ったりなんかしない。」

もうあんな一人で空しくて、苦しい思いはしなくていい。焦凍が争いの犠牲にならない優しい世界に、せっかく二人で生まれ落ちたのだ。

もう1秒たりとも無駄になんてしたくはないし、離れて過ごしたくなどはない。
今度こそ、私は彼と一緒に生きれるのだ。

「名前、愛してる。今度はずっと側にいてくれ。」

強く強く私を抱くその腕からは、もう二度と離さないという彼の意思が伝わってきて。

心を揺さぶるその言葉は、彼を一人待ち続けたあの日々に静かに色をつけていく。
ずっとずっと、側にいたい。
次の人生でも、そのまた次の人生でも、何度だって巡り合って彼と共に生きていたい。

それが例え終わりの無い輪廻を巡る旅だとしても、彼と一緒なら何でも良いと本気で思ったのだった。





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