02. Effervescent


ピピピピピ………
けたたましいアラーム音が薄暗い部屋に鳴り響く。ぼんやりと意識が浮上していく中、これは一体何回目のアラームだったかと考える。手探りで枕元にあるスマホを探り出し、薄らと瞼を開いてアラームを止める。
早起きは三文の徳だと昔誰かが唱えていた様だが、果たしてそれは本当だろうか。この温かくて心地の良い空間にいる方が、よっぽど得な気がしてならない。そんなくだらない事を毎朝のように考えるのに、結局最後にはちゃんと布団から起き上がる。それが社会で生きるということだと、どうやら私の本髄はしっかりと理解している様だ。

いつもの様にテレビをつけニュース番組を流しながら、トースターへとパンを放り込む。ポットでお湯を沸かしている間に顔を洗えば、冷たい水の感覚に漸く目が覚めた様な気持ちになる。目の前の鏡に映る自分の顔を見つめながら、よし、と小声で気合を入れ、再びキッチンへと戻る。
焼き上がったパンとお気に入りのジャム、そして湯気の立つコーヒーをテーブルの上に並べれば、準備は万端だ。
そうして朝食を食べ終え、身支度を整えた私は、いつもの星占いコーナーを最後まで見てから家を出た。

いつも通りの1日が、今日も始まろうとしている。


足早に流れる人の波に飲まれながら最寄駅の改札を通り、そのまま地下鉄へと乗り込む。朝のこの時間帯は人が多く、車内はいつもぎゅうぎゅうの鮨詰め状態だ。新入社員の頃は慣れない満員電車に体力を奪われ、会社に着く頃にはヘトヘトになっていたのを思い出す。あれから2年が過ぎようとしているが、毎日のように満員電車に乗っていると、流石に慣れてしまうものだ。何なら今はスマホだって触れる余裕があるぐらいだ。

いつも通り開かない方のドア付近に立ってスマホを弄る。見知らぬ誰かと肩がぶつかり合うことも、一々気に留めたりしない。今日は少しだけダイヤが乱れているせいか、電車の揺れがいつもよりも激しい気がする。やけに左右に引っ張られる身体が、少し不快だ。
そして、電車がカーブに差し掛かると、私の身体は大きくドアの方へと傾いていく。何とかドアに手をついて、身体が倒れない様に持ち堪える。すぐ隣の人を見ると、電車が傾くままに背後の人に押されていて、辛そうだ。カーブの度に車内は揉みくちゃ状態になるのだが、それは仕方のないこと。こんな狭い空間にこれだけの人が詰まっているのだから、当然といえば当然なのだ。
そこまで考えたところで、ふと自分の背後からは何も重みが来ていないことに気付く。

あれ、おかしい。いつもなら、私も隣の人の様に誰かに押し潰されるのを必死で耐えている筈なのに。背後には人の気配があるものの、此方にもたれ掛かってくる様子はない。
それどころか、何故だか爽やかな良い匂いがふわっと背後から香ってくる。

一体これはどう言うことだ。
そう思い、ふと顔を上げてドアの窓に映る背後の人を盗み見る。
そこには、吊り革を握った背の高いスーツの男性が立っていて。見覚えのあるサラサラな紅白の髪に、思わず目を見開いてしまう。

う、嘘…一体いつから!?

衝撃のあまり窓に映るその姿をじっと眺めていれば、不意に窓越しにこちらを見た彼の瞳と視線が絡まる。
目が合うのと同時に、その恐ろしいほど美しい彼の顔が綻ぶものだから、まるで時が止まったかの様に茫然と立ち尽くしてしまう。

いや、いくらうちの社員が通勤で利用する線だと言っても、満員電車ですぐ背後に自分の上司が立っているなんて、一体誰が想像するだろうか。失礼なことに、私はずっと手元のスマホを眺めていて、彼の存在に微塵も気付きはしなかった。
恐らく、さっきのカーブで私が一つも重みを感じなかったのは、轟さんが寄り掛かる人の重みを全部受けてくれていたからだろう。それに気付けば、驚きや申し訳なさで心が一杯になってしまう。

フォオン、という音と共に向かいの線路の電車とすれ違えば、窓に映る轟さんの顔が見えなくなる。そこで漸くハッと我に帰った私は、慌てて後ろを振り返る。
そこには、綺麗な青色のワイシャツとしっかりと上まで締められたネクタイが視界いっぱいに広がっていて。間近で見ると分かる、意外としっかりとしたその胸板に、何だかやけにドキドキしてしまう。
お、落ち着け、私…。そう頭の中で唱えながら、徐々に視線を上げていけば、そこには穏やかな表情でこちらを見下ろす綺麗な轟さんの顔があって。
どくん、と大きく心臓が波打つ。


「と、轟さん…!おはようございます…っ!」


むさ苦しい満員電車などもろともしない、朝からキラキラと眩しい轟さんの姿に、頭の中が真っ白になる。やっとの思いで挨拶を口にすれば、少し困った様に眉を下げた轟さんが言葉を紡ぐ。


「ああ、おはよう、名字。………朝から悪りぃんだが、あと2駅だけこのまま我慢してくれ。」
「え、あ…はい…っ」


あと2駅で、会社の最寄駅に到着する。それは分かるが、私は一体何を我慢すれば良いのだろうか。轟さんが庇ってくれているお陰で、私は誰かに押されることも無いというのに。

そんな事を一人考えていた丁度その時だった。
再度急カーブに差し掛かった電車が、ぐらりと大きく揺れ動く。今度は私側ではなくて轟さん側に傾いた電車に、自然と身体が傾いてしまう。慌てて近くの吊革を掴もうとするが、手の届く範囲の吊革には全て誰かの手が掛かっていて。
不味い、そう思った時には既に、私の身体は轟さんの胸に抱き止められていた。


「お…大丈夫か?怪我とかねぇか?」
「あ、はい…というか、すみません!今退きます…っ」
「いや、持つとこねぇならこのまま俺に掴まってろ。暫くカーブばっかで危ねぇからな。」


そう言って、轟さんから離れようとする私の身体を逞しい片腕がぐいっと手繰り寄せる。その瞬間、ふわりと香ってくる柔軟剤の匂いが肺一杯に取り込まれ、ぶわっと顔が熱くなる。

ま、待って、これは一体どういう…!
掴まってろと言うか、寧ろ捕まっている気がしてならないこの状況に、思わずオタオタしてしまう。
ひたすらに混乱する頭をどうにかして落ち着かせようと試みるが、轟さんのしっかりとした胸板に引っ付いている頬からは、彼の体温がじわりと伝わってきて。とても落ち着いてなどいられない。
私は今、あの社内で専らイケメンと称される轟さんの腕に掻き抱かれているのだ。そんなことを考えてしまえば、私の中に残っていたほんの少しの冷静ささえ、薄く消えかかってしまう。

これは完全に事故であり、そして轟さんは単純に私の安全を気に掛けてくれているだけだ。そう分かっていても、心臓は今にも張り裂けそうなぐらい鼓動を大きく刻んでいて。

2駅先の会社まで、私の頬の熱が引くことはなかった。









通勤の一件により、激しく荒ぶっていた鼓動を何とかして沈めたのは、オフィスに到着してからだった。漸く馴染んできた新しいオフィスの自席に座り、パソコンを開く。ログインを済ませ、小さなアイコンの並ぶディスクトップが表示されれば、頭の中が自然と仕事モードに切り替わる。いつも通りメールチェックとスケジュール確認を終わらせて、昨日任された資料の作成に取り掛かった。

その後も、轟さんの付き添いで他部署の方と打ち合わせをしたり、来訪してきたベンダーに対応したりと、忙しない午前中のスケジュールを何とか懸命に熟していく。
一通りの要件が済み、自席に戻ると、視線は不意に隣の席へと向いてしまう。そこには、真剣な表情でパソコンに向き合う轟さんの横顔があって。相変わらずの美しさに、どくりと心臓が音を鳴らす。

数日前までは、まさか私がこの人と一緒に仕事をすることになるなんて微塵も想像していなかった。轟さんは、その容姿や能力から社内の誰もが知っている程の有名人で、正直、ずっと雲の上の人だと思っていた。私には無縁の、同じ会社にいる何か凄い人。そんな適当なレッテルを勝手に彼に貼り付けていた私が、今や彼の直属の部下になるなんて。本当に、世の中何が起きるか分からないものだ。

そうして彼と共に仕事を始めて早数日が経とうとしている訳だが、轟さんが噂以上に真面目で優しい方である事はすぐに理解できた。前の部署の上司であった爆豪さんも真面目で優しい人だったのだが、何というか、轟さんとは真逆な人だった。爆豪さんは一見優しくは見えないし、言い方も少し鋭いところがあるのだが、何一つ間違った事は言ってなくて。分かりにくいけど、掛けてくれる言葉全部に確かに爆豪さんの優しさがあった。
一方、轟さんは、それはもう驚くほど全面的に優しい。言葉は少しぶっきらぼうだが、いつも私を気に掛けて沢山優しい言葉をくれる。失敗しても、間違えても、「大丈夫だ、最初は俺もそんなんだった。」と笑ってフォローしてくれる、本当に良くできた人で。彼も爆豪さんと同じで、他人に愛想を振り撒くようなタイプでは無いけれど、だからこそ、いつも真っ直ぐに私の仕事を褒めてくれる彼の言葉が、素直に嬉しく思えてしまう。
それでいて、場面に応じて的確に色んなことを丁寧に教えてくれる轟さんは、きっと爆豪さんと同じ頭の切れる優秀な人なのだと何となく思う。

そんな類を見ない優秀な2人の元で経験を積める私は、相当恵まれているのだろう。それ故に、立派な2人に教わった私が使い物にならないようでは、2人の顔が立たない。貴重な時間を割いて私に色んなことを教えてくれた2人の為にも、もっともっと頑張って早く一人前にならなければ。
先日轟さんから頂いたボールペンをぎゅっと握り締めながら、椅子ごとくるりと轟さんの方を向く。


「…すみません、轟さん。今宜しいですか?」
「?ん、どうした?」
「あの、先程の打ち合わせの議事録を今お送りしたので、また後でご確認を…」
「ああ、それなら丁度いま確認が終わったところだ。簡潔に要点だけ纏められてて、すげぇ感心した。流石だな、ありがとな。」


そう言って目を細めて微笑む轟さんに、思わず唖然としてしまう。確認が終わったって、メールを送ってからまだ1分も経ってないのに、いくら何でも早すぎでは無いだろうか。だけど、轟さんはそんな冗談とか適当な事とかは絶対に口にしない人だ。多分、彼は本当にこの数十秒の間で私の議事録に目を通してくれたのだろう。それを当たり前の様にやってのける彼はやはり凄い人だなと、改めて思う。
そして、そんな凄い自分の仕事っぷりは棚に上げ、私の仕事をしっかりと褒めてくれる轟さんは、本当に何というか、狡い人だ。こんな眩しい微笑みのイケメンに真っ直ぐな言葉で褒められて、心が躍らない人間などいない。他部署にいる轟さんファンの友人が聞いたら、間違えなく代わってくれとごねるだろう。
迅る鼓動を抑え、平然を装いながら轟さんとの会話を続ける。


「不備がなくて、良かったです。…それと、別件もいいですか?」
「ああ、何か困ったことでもあったか?」
「その、少し…規定書の見直しの件で、用意していたデータと実直が合わないところがあって、どっちを採用すればいいのか判断ができなくて…」
「お、それは不味いな。」


そう言った轟さんは「ちょっと待っててくれ、」と自身のパソコンへと向き直る。そしてカチカチとマウスを何度か鳴らせば、再び私の方へと振り返る。


「今送ったサーバーに元データが入ってるから、どっちのデータが正しいか確認してくれるか?」
「はい、分かりました。ありがとうございます。」
「…それと名字、悪りぃが俺からも、もう一個頼んでもいいか?」
「はい…!勿論です。」


轟さんの役に立てる、そう考えると少し嬉しくなって頬が緩んでしまう。そんな私に轟さんは柔らかく微笑みながら自身のノートパソコンを私の机の端に置き、椅子ごと私のデスクへと近付いてくる。ぐっと近くなる轟さんとの距離感に、何だか少しドキドキしてしまう。こうして毎日のように仕事を教えて貰ったりしているのに、未だにこの距離感には慣れなくて。ふと、爆豪さんとも最初はこんな感じだっただろうかと考えるが、あまり上手く思い出せない。
途中、説明のために轟さんが少し身を乗り出せば、ふわりと今朝の匂いが香ってきて、思わず顔が熱くなる。
ダメだ、ちゃんと集中しないと…!
そう心の中で自分を制し、轟さんの説明をしっかり聞き入る。
一頻り説明を終え、「どうだ、できそうか?」と私の顔を伺う轟さんにしっかりと頷けば、「名字は移動してきたばっかなのに、本当に頼りになるな。」とまた緩く微笑んでくれて。爆豪さんからは決して聞けないであろうその一言に何の免疫もない私は、胸は高鳴るのに言葉が上手く出てこない。爆豪さんの「悪くねぇ」なら、すぐに「ありがとうございます。」と返事ができた筈なのに。

それぞれの自席に向き合った私達は、再び自分の仕事を再開する。仕事を早く熟せば熟すほど、この部署で私の出来ることが沢山増えていく。そして轟さんの役に立っている実感が湧いてきて、最近はそれが嬉しくて仕方がない。勿論、仕事の質に関しても、手抜きなんざ以ての外だと言っていた元上司の言葉は忘れない。

カタカタとキーボードを打ち続けていると、不意に此方へと近づいてくる人影が見える。チラリと視線を向けた先には、艶のある美しい黒髪を一つに纏めた、すらりとした綺麗な女性がいて。思わず、瞬きを繰り返してしまう。直ぐ側まで近づいて来るその女性に内心ドキドキしていれば、次の瞬間には「轟さん」と穏やかな声が放たれる。
何故だか私の胸がどくんと跳ね上がった。


「お、八百万か。どうした?」
「あの、明日の件で轟さんにご相談がありまして。今少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ。俺も丁度お前んとこ行こうと思ってたところだ。フリースペースでいいか?」
「ええ、勿論ですわ。」


ふわりと柔らかく微笑むその女性に、どくどくと胸が高鳴りを覚える。
凄く、凄く綺麗な人だ。
思わずハッと息を呑む私は、完全に彼女に見惚れていて。盗み見している視線が逸せなくなっていた。
そういえば、先程轟さんが呼んでいた『八百万』という名前には、聞き覚えがある。とても美人でスタイルも抜群な女性なのだと、前に同期の男性陣が口を揃えて言っていた。その時は何となく、そんな人がいるんだという程度に流していたのだが、こうして彼女を目の前にすると、噂になる訳を理解する。

どうやら轟さんは、これから彼女とフリースペースで打ち合わせをするらしい。聞き耳を立てている事がバレない様に、何とかしてパソコンへと視線を戻せば、隣の席から立ち上がった轟さんが「…その前に、少しだけいいか?」と八百万さんを引き止める。そして、こちらを振り向いた轟さんは「名字も、少し良いか?」と首を傾げる。いきなりの呼び掛けにドキッとしてしまった私は、少し裏返った声で返事をする。それに一瞬きょとんとした轟さんだが、すぐにふっと笑みを浮かべる。何だか無性に恥ずかしい。
仕切り直した轟さんは、八百万さんと私を交互に掌で指しながら、言葉を続けた。


「八百万、彼女がこの間言っていた名字だ。これから俺と一緒に仕事をすることになるから、色々と頼む。…それと名字、彼女は八百万だ。これから偶に仕事で関わると思うが、困ったら彼女に何でも相談してくれ。」
「まあ、貴女が名字さんですのね。初めまして、わたくし人事総務課の八百万百と申します。」
「は、初めまして、経理課より移動してきました名字名前と申します。」
「ええ、どうぞ宜しくお願い致しますわ。
名字さんは移動してきたばかりで色々と大変でしょうけれども、わたくしに出来ることなら喜んでお力添えさせて頂きますので、遠慮なく仰って下さいね。」
「ありがとうございます。こちらこそ、色々教えて頂きながらになるとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します…!」


慌てて席から立ち上がり、腰を曲げて挨拶をする。そんな私に花が綻ぶようにふわりと笑いかけてくれる彼女に、ああこの方はなんて物腰柔らかで優しい人なんだろうと、心がじわりと温かくなる。
それに加えて、丁寧な言葉遣いや洗練された美しい所作が、彼女の品位をこれでもかと言うほどに押し上げる。きっと…いや絶対に八百万さんは育ちが良い方だ。私のような平々凡々な人間とは、どう考えても全てが違い過ぎる。同期の男性陣が挙って憧れを抱くのにも、心底納得がいった。

あまり彼女の綺麗な顔ばかり見ているのも不躾な気がして、すぐ隣の轟さんへと視線をやれば、彼の形の良い唇が緩やかに弧を描いていて。その美しさに、ドクンと心臓が跳ね上がる。そうだった、この人も類い稀なる美人だった。こんなにも美しい2人が揃うなんて、このフロアは本当にどうかしている…そんな事をふと思った。

一通り八百万さんとの挨拶が済めば、その場に立ち上がった轟さんはノートパソコンを片手に取る。


「今から30分ぐらい外すけど、何かあったら遠慮なくチャットで連絡してくれ。」
「はい、分かりました。」


轟さんの指示に頷きながら返事をすれば、「じゃあ、また後でな。」と言って彼は八百万さんと2人、フリースペースへと去っていってしまう。
そんな2人の姿を、何となくチラリと横目で盗み見る。そこには、背が高くてスタイルのいい轟さんと八百万さんが並んで歩く姿があって。こうして後ろ姿を眺めているだけでも、とても絵になる2人の様子に視線が釘付けになってしまう。お互いに特別な存在感があって、並んで歩いても見劣りすることはない彼らは、誰がどう見てもお似合いだ。冴えない平凡な私が轟さんの隣を歩いているのとは、全くもって訳が違う。

それは、とてもとても素敵な光景で、心の底から素晴らしいと思っているのに。
何故だか胸にチクリと刺すような痛みを覚える。

いや、チクリって何だ。何でそんなことを感じるんだ。そんな事を考えながら、轟さんがくれたペンをぎゅっと握る。

どうしてか、不意に脳裏に浮かんでくるのは今朝の電車での出来事で。
あの時、あんなにドキドキしていた自分が、今は何となく恥ずかしく思えた。









「テメェは、またンなもんばっか食ってんのか。」


昼休憩に入り、複雑な心情などすっかり忘れきった私は、食堂で一人ひっそりと席に座る。すると、頭上からは聞き慣れた声が降ってきて、ハッとなって顔を上げる。そこには、私の手元にあるラーメン定食セットに顔を歪める男がいて。久しぶりに目にするその姿に、思わず心が舞い上がる。


「あ、爆豪さん…!お久しぶりです。」
「おう、」
「…もしかして今、私のラーメン定食セットを遠回しに女気がない昼食だって言いました?」
「別に遠回しでも何でもねぇわ、んな栄養価低そうな食いモンばっか食ってっとアホになんぞ。」


そう言って野菜と肉がバランス良く調理された定食プレートを目の前に置き、私の向かいの席に腰掛ける爆豪さん。確かに彼に定食セットと比べると、私のは栄養価が劣りそうだ。しかし、好きなものを食べる事は、心の健康に繋がるのだ。そんな事をいつか爆豪さんに弁論したら、ラーメン定食セットの健康への影響を論破され、ぐうの音も出なかったのを覚えている。その時、安易に彼と闘ってはならない事を私は学んだのだ。

いや、まあそんな事はどうだっていい。今は、こうして爆豪さんとの再会が果たせて、とにかく私は嬉しいのだ。部署移動前の最終日、運悪く出張で不在だった爆豪さんとは未だきちんとした挨拶ができていなかった。いつか話す機会を設けたいと思ってはいたが、早くもその機会が舞い込んでくるなんて。
そんな事を一人考えていれば、何かの異変に気がついたように爆豪さんは顔を上げ、そして面倒臭さそうな顔を浮かべ舌打ちをする。その様子に不思議に思い、彼の視線を辿ってみれば、そこには満面の笑みでこちらに向かって来る上鳴さんの姿があって。何となく、爆豪さんの言わんとすることが理解できた。


「チッ…言ってる側から、テメェの食生活の行く末が来たぞ。」
「行く末って……上鳴さん、お疲れ様です。」
「お疲れ、名前ちゃん!てか、なになに?もしかして2人で俺のこと噂してたの?照れるなー!」
「テメェがアホだっつー話してただけだわ」
「酷ぇ!…つーか爆豪、お前なに名前ちゃんと2人きりで飯食おうとしてんのさ!俺も誘えよ!」
「ア?ンで俺がテメェを一々誘わなきゃなんねぇんだ。」
「あ、切島と瀬呂だ!おーい、こっちこっち!」
「無視してんじゃねーぞ、クソが!」


爆豪さんに華麗なスルーを決め込んだ上鳴さんは、自身のラーメン定食を私の隣の席に置き、向こうの方にいる切島さん達へと手を振る。そんな上鳴さんにピキピキと青筋を立てる爆豪さんを見て、2人は相変わらずだなと笑いが込み上げる。「何笑っとんだ、アホ女」と向かいから物凄い顔で睨まれれば、もう限界だと、思わず吹き出して笑ってしまう。本当に、爆豪さんの周りはいつも愉快だ。

私が爆豪さんと仕事をしてまだ日が浅かった頃、実は私は少しだけ爆豪さんのことが怖かった。そんな私の前で、爆豪さんを散々弄り倒してくれたのは、他でも無い彼の同期である上鳴さん達だったのだ。それがきっかけで、私は少しずつ爆豪さんという人間を理解していった訳で。今では彼の何が怖かったのかも良くわからないぐらい、彼の本質を理解できている…と信じている。

上鳴さんの呼びかけに気付いた切島さん達が、此方へとやって来る。一人で寂しく食事をしていた私のテーブルは、いつの間にか賑やかな場所へと変貌する。


「そう言えば名前ちゃん、今月から部署変わったんだって?どう、新しい部署は?」


そう私へと問いかけてくれたのは、斜め前に座る瀬呂さんだった。そう言えば、移動してからはまだこの中の誰とも世間話をしていなかったことに気付く。


「はい、まだ慣れないことだらけですけど、部署の方は凄く優しいですし、とても丁寧に教えてくれるので、頑張れそうです。」


前の部署といい今の部署といい、本当に私は周りの方々に恵まれている。そう心の中で思いながら素直な気持ちを口にすると、瀬呂さんはニコリと人懐っこい笑みを浮かべる。


「そっか、上手くやってけそうで安心した。移動先は総務課だったっけ?」
「あ、はい。」
「つーことは、あれか、轟のところか!」
「あ、そうなんです、実は轟さんが今の私の直属の上司でして。」
「マジか…!?そりゃ優しくて丁寧ってのにも納得だな。な、かっちゃん。」
「ア?何が言いてぇんだテメェ…!」


何やら含みのある言葉で爆豪さんに話を振る上鳴さんは、何だかとても締まりのない顔をしていて。完全に揶揄われている爆豪さんは「アホ面晒してんじゃねぇぞクソが」と悪態を吐く。
そんな2人のやりとりを見つめながら、ふと爆豪さんと仕事をしていた日々を思い出す。確かに、今の部署は轟さんを始めとする皆んながとても親切で優しいけれど、決して前の部署がそうでなかった訳ではない。寧ろ、私がこんなにも今の部署で頑張れているのは、間違えなく前の部署でのご指導のお陰で。


「その、他の部署で仕事をして改めて思ったんですけど、やっぱり爆豪さんは本当に凄い人です。今の部署でも爆豪さんに教えてもらった通りに熟せば、大体何でも上手くいくというか…今日もそれで轟さんに褒められちゃいました。」


途中から何だか少し照れくさくなってきて、気持ちを誤魔化そうと爆豪さんに笑いかける。すると、目の前の爆豪さんは赤くて綺麗な瞳を大きく丸めていて。彼がそんなに驚くなんて、何か変な事を言ってしまったのだろうかと少しだけ焦ってしまう。
そんな私たちのやり取りを見ていた瀬呂さん達は、温かい笑みを浮かべながら再び爆豪さんをいじり始める。


「だって〜、かっちゃん。できる男は違うねぇ〜」
「うっせぇ、ンなもん当前だわ!誰が教え殺したと思っとんだ!」
「またまた、照れちゃって〜。自分の後輩ができる男轟に仕事褒めらんの、嬉しくねぇの?」
「ア?あんな舐めプにコイツが褒められたところで、1ミリも嬉しかねーわ。」


ふん、と鼻を鳴らしながら野菜炒めを頬張る爆豪さんに、「素直じゃないんだから、」と茶化す瀬呂さん。当たり前のように会話が進んでいく中で、私だけが『舐めプ』とは轟さんのあだ名なのかとギョッとする。仕事のできる轟さんが何故舐めプなのかも気になるが、それよりも、爆豪さんと轟さんがあだ名で呼び合うほどに仲がいい事がとにかく驚きで。


「轟さんって、爆豪さん達と親しいんですね…何だか意外です。」
「まあ同期だからね、俺ら。」
「えっ…そうなんですか?」
「あれ、爆豪名前ちゃんに話してなかったの?」
「ハッ、別に話す必要ねぇだろ。」
「いやいや大事でしょ、そこ。」


初対面の轟と話すネタがあった方が絶対良かったじゃん、と瀬呂さんが呆れたような顔をしていて。確かに事前にそのネタを仕入れていれば、初日の轟さんへの緊張は少しはマシになっていたかもしれない。しかし、まああの爆豪さんが必要ないと判断したのなら、本当に必要なかったのかもしれない。現に今は緊張も解れ、轟さんとは普通に会話ができているのだから。うん、そう思いたい。

「他には、そうだな…」と顎に手を当て何かを考え始めた切島さんは、思いついたように口を開く。


「そう言えば、名前ちゃんの隣の課にいる八百万って奴も俺らの同期だぜ。」
「え、八百万さんもそうなんですか。」
「そうそう。」


あの八百万さんも、轟さんや爆豪さん達の同期だったなんて。その年の採用は一体どうなっているのだろう。こんなにも凄い人達が挙って同年度入社なんて、吃驚どころの話ではない。

不意に、午前中に見た並んで歩く2人の後ろ姿を思い出す。
轟さんと八百万さんは、確かに仲が良さそうだった。それは同期だから気兼ねなく色々話せるとか、そういうのなのだろうか。それとも、もっと違う何かがあるのか。
そんな事を考えていると、何故だか胸の中がモヤモヤしてくる。
どうやら今日の私の胸はおかしいみたいだ。きっと今朝から色々あり過ぎて、疲れているのかもしれない。

それからも、爆豪さん達との他愛のない会話は昼休み中弾んだ。



昼食を食べ終え、食器のトレイを返却口へと返却する。いつものように階段を降りてオフィスに戻るが、私だけが爆豪さんや切島さん達とは違うフロアに戻らなければならなくて。
何となく足が止まりそうになる私に、背後から爆豪さんが声を掛ける。


「お前、また何か溜め込もうとしてんだろ。」
「え?」


振り返って彼の顔を覗き見ると、そこには真っ直ぐこちらを見詰める赤い瞳があって。まるで私の不安を射抜くようなその言葉に、戸惑ってしまう。


「別に詮索するつもりはねぇけど、テメェが辛くなる前にちゃんと吐き出しとけよ。…まあ、飲みにぐらいは行ってやらんこともねぇけど。」


そう言った爆豪さんは、そのまま私の隣を通り過ぎ1つ下のフロアへと降りていく。そんな彼の後ろ姿を、ただ目を丸めて見つめることしかできなくて。

何を不安に思っているのかなんて、私自身も理解できていないのに。
きっとこの人は、私よりも私の事を分かっているのだ。


「爆豪さん、ありがとうございます。」


彼に聞こえるか分からないぐらいの小さな声でそう告げると、見つめていた後ろ姿の右手が上がった。


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