花蔓が答えるは2



時刻は朝7時、昨日と全く同じワンピースを身に纏った私は、いつも通りの時間にベストジーニスト事務所へと到着する。私服がタイトなジーンズではない私は、いつもこの事務所では浮いている。しかし、だからと言ってまさか昨日私が着ていた私服を覚えている人なんていないだろう。そう確信しているのに、どうしてか心の中はソワソワしてしまう。

すれ違う同僚達に何でもない平然とした顔を浮かべながら「おはよう。」と挨拶し、真っ直ぐに更衣室へと向かう。そして、いつものようにヒーロースーツに着替え終われば、安堵のあまり溜息がこぼれた。
今の私の全資産と言っても過言ではない鞄をロッカーへと詰め込もうとしたその時、不意に今朝手渡された裸の鍵が脳裏によぎる。

『今日は何時に帰ってこれるか分からないからな。名字の方が早く帰ってきたら、家入れねぇだろ。』

そう言って当たり前のように渡されたのは、轟くんの家の合鍵で。それは恋人でもないただの友人の家の鍵であり、そしてNo.1イケメンヒーローの家の鍵なのだ。世の女性が喉から手が出るほど欲しいであろうそれを、私は無造作に鞄の内ポケットに入れている。よくよく考えてみると、それは本当にとんでもないことだ。こんな冴えないヒーローの私が、あの大人気ヒーローの家の鍵を……。ファンに知られれば、間違えなく背後から刺されるだろう。

今思い返してみれば、昨晩からの出来事はどれも本当に事実なのか疑いたくなるような事ばかりで。家が敵に壊されて、運良く居合わせた昔の片想いの相手の家にお邪魔し、加えてこうして自宅の合鍵まで渡されるなんて。そんな夢みたいな話が、果たしてあるだろうか。いや、もしかしたら全部夢だったのかもしれない。そう思って自身の頬をつねってみるが、普通に痛くて唖然とする。
どうやら、これは夢ではない様だ。

鞄の中から裸の鍵を取り出し、じっと見つめる。
この鍵を使って、私はまた今晩もあの家に帰ることになる。轟くんのいないあの部屋で、彼の私物に囲まれながら彼の帰りを待つなんて、そんなのまるで恋人同士みたいではないか。ぶわっと頬が熱くなる。
一体どうして今朝の私は、こんな大変なものを受け取ってしまったのだろうか。まるでそれが当たり前みたいな流れでサラリと丸め込まれてしまったが、これは明らかに普通ではない。

こんなの、ダメだ。
いくら彼が私のことを何とも思っていないとは言え、流石に彼の恋人に申し訳が無さすぎる。私なんかのせいで彼の大切な人が心を痛めることなんて、あってはならない。
だから、今晩こそはちゃんと出ていくことを彼に伝え、鍵を返さなければ。これ以上迷惑を掛けてはならない。

そう決心をして、ヒーロースーツのポケットへと轟くんの家の鍵を忍ばせた。







「…オイ、何キメェ顔で百面相しとんだ、アホ女。」

そんな言葉と共に突然私へと投げ付けられたのは、温泉マークの入った小包だった。自席でタブレットを打っていた私は、驚きながら慌てて顔を上げる。すると、そこには暫く見なかった同僚が眉を顰めながらこちらを見ていて。久しぶりのその顔につい嬉しくなって「おかえり、ダイナマイト」と口元を緩めていれば、ふんと鼻を鳴らすだけの返事が返ってくる。彼はどうやら相変わらずの様だ。
それにしても、物の渡し方はもう少しどうにかならいだろうか。そう思いながら投げつけられた小包を開けていくと、中には有名な温泉饅頭が入っていた。

「あ、これ凄く美味しいやつ…!嬉しい、ありがとう!」
「チッ、テメェあんだけ行く前にこの饅頭勧めてきやがったクセに、何白々しいことほざいとんだ。」
「あはは、だってまさか買ってきてくれるとは思ってなかったから。」

そう言って早速中身を取り出していると、一個寄越せやと無造作な手が伸びてくる。あれこれ私へのお土産じゃなかったのかな、なんて思いながらも、彼に続いて私も饅頭を頬張る。

「……んで、今度は何しょうもねぇことで悩んでやがる。」
「話す前からしょうもないことだって確定してる…っ!いや、でも今回のは流石の爆豪くんも聞いたらビビって言葉失うと思うよ。」
「ハッ、テメェの身に起きることぐらいでこの俺がビビるなんざ、天地がひっくり返ってもありえねぇわ。」
「それがね、今回のは真剣に天地ひっくり返るかも!」

実際に私の天地は昨晩からひっくり返りすぎて、もうどっちが上なのかすらわからない状況なのだ。そんな私の様子を鼻で笑う爆豪くんに、もしかしたらこの男は事実を告げても単純に笑い転げて「日頃の行いだわ」とか言い出すだけかもしれない。日頃の行いが良いのは絶対に私の方なのに。そんなことを考えながら、目の前で「何だはよ言えや」と私を煽る爆豪くんに、静かに告げる。

「昨晩さ、私の家、敵に壊されちゃったんだよね。」

どうしてか真剣な雰囲気を纏いきれず、冗談っぽい口調になってしまった。ああ、これでは馬鹿にされてしまう。まあ、もう慣れっこだから別に良いけど。
そんな小さな私の覚悟とは裏腹に、目の前の爆豪くんは何故か唖然とした顔でこちらを見ていて。あれ、私何か変なこと言ったかなと少し焦る。

「…オイ、今何つった?」
「え、だから、私いま家無いんだって。…ね、ビビった?」
「ア?別にビビってねーわ舐めんなよ。」
「それはそれで非情だけど…!」
「ハッ、言ってろや。」

何故だかいつもの感じではない爆豪くんに、少し調子が狂いそうになる。せっかく人が馬鹿にされる覚悟を決めたのに、この男は何なのだ。
器用に饅頭の包み紙を私の席のゴミ箱へと投げ捨て、そして遠慮なくおかわりへと手を伸ばす。どうやら饅頭はお気に召した様だ。

「で、テメェは昨日どっかに泊まってきた訳か。」
「あ…うん。」
「…何処に?」
「え、いや、まあその…友達の家、かな。」
「ンだよその微妙な反応は……絶対ェ怪しいとこ泊まってただろ。」
「あ、怪しくなんてないから…!極めて健全に何事もなく朝を迎えたから…!」
「その物言いが既に疾しんだわ。」
「そんな…っ、」

そう言って普段から悪い目付きを更に鋭くさせる爆豪くんは、本当にヒーローなのかこの人はと疑いたくなるぐらい恐ろしい。一体誰がこんな男をビルボードチャート上位にランクインさせると言うのか。まあ、ヒーロー活動においては誰よりも抜かりなく完璧な仕事をする男なのだが。
何年も一緒にいるはずなのに、怖すぎて変な汗が出てくる。そんな私などお構いなしの爆豪くんは、じりじりと私の方へと詰め寄ってくる。

「男の家、だろ。」
「ま、まあ…お友達の、ね。」
「…半分野郎の家か。」
「な、な、な、何で…ッ!?」
「テメェのその反応見てりゃ分かるわ、何年一緒にいると思っとんだアホ女。」
「うそ、ほんと、お願いだから誰にも言わないで、ショートファンに殺される…!!」
「言うかよンなどーでもいいコト。」

何のヒントもなくいきなり事実を言い当てられた私は、それはもう盛大なパニック状態になる。昔からこの男は頭の回転が早くて察しがいいのは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
どうでもいいと言いつつも、なぜか彼の顔は強張る一方で。もしかしたら、友人(?)である轟くんに漬け込み、迷惑を掛けたのが不味かったのかもしれない。そう思い、昨晩の経緯を簡単に爆豪くんに説明し、仕方がなかったことを必死に伝える。

すると、腕を組んだ爆豪くんは、聞いた事もないほど長い溜息を吐きながら言った。

「…たく、テメェはすぐ男にホイホイ付いて行きやがって、相変わらず危機感ねぇ女だな。」
「なんかその言い方だと、私がすごい尻軽女のように聞こえるのですが。」
「何か違うんか。」
「全部違うって…。大体、私は誰彼構わずついて行った訳じゃいから!紳士で優しい轟くんだから、大丈夫だと思った訳で…」
「ア?テメェはあの野郎の何処をどう見て紳士で優しいなんてほざいてやがる。」
「いや、何処をどう見てもそうでしょ。」

一体何を言っているのだ、爆豪くんは。轟くんほど誠実で優しい男性なんて、世の中探したって中々いない。そんなのは全国民の常識だ。それに実際、まあ少しばかり寝相が悪いところはあったが、彼の下心が垣間見える瞬間なんて1秒たりとも存在しなかった訳で。それどころか、お邪魔している間、彼はずっと私のことを気に掛けてくれていたのだ。私に色気がなく下心が湧かなかったという可能性は否めないが、それでも彼は今朝私を玄関まで見送ってくれるその瞬間まで、とても優しかった。
それを思い返した私は、爆豪くんへ否定の視線を向ける。すると「あの舐めプ野郎…」と何故か轟くんへの悪態が返ってくる。何でそうなるの。

そしてもう一つ饅頭を手に取った爆豪くんは、包み紙を開けながら私に問いかける。

「んで、ちゃっかり合鍵まで受け取って、今晩もあの野郎の家に帰るってか。」
「か、鍵返すために、今日は流石に帰らないといけないし、ね…。」

あはは、と乾いた笑みを放ちながら、ポケットに忍ばせておいた轟くんの家の鍵を服の上から握りしめる。すると、爆豪くんの口からはまたもや短い溜息が溢れ出る。

「…テメェが嫌なら、俺がその鍵アイツに返しに行ってやってもいい。」
「え?」
「その代わり、テメェは暫く俺の家で住み込み家政婦をする事になるがな。」

そんな思いもよらない爆豪くんの提案に理解が追いつかず、思わず固まってしまう。一体彼は何を言っているのか。それはまるで、今晩は轟くんの家ではなく自分の家に泊めてやると、そう言っているようだ。
まさか、私の轟くんへの申し訳なさを汲んで、気を遣ってくれているのだろうか。いや、この男に限ってそんなことなどあり得ない…とは言い切れないのが難しい所だ。いや、しかしこの聡い男が、暫くホテルに泊まれば良いはずの女を、態々リスクを侵してまで自宅に上げるだろうか。それこそあり得ない。
それなら、彼は単純に家政婦が欲しいのだろうか…。

「またまた〜。爆豪くん家、家政婦いらないでしょ。絶対綺麗だし、寧ろ何でも自分でやらないと気が済まないタイプなくせに。」

そんな完璧主義なこの男の家政婦なんて、絶対に私には務まらない。誰がどう考えても、そうだろ。
冗談を揶揄う様な口調で爆豪くんを笑ってやるが、何故か彼はいつものようにキレたり冗談を返してきたりはして来なくて。え、なにこれ、どういう状況…?!と内心盛大に焦り出す。

「…テメェはそれでいいんか。」

至って真剣なトーンで返ってきた爆豪くんの返事に、ドキリと胸が飛び跳ねる。
これは、誤魔化したりなどできない真剣な問いだと悟った私は、眉を下げながら答える。

「轟くんの彼女には申し訳ないから、今晩だけお邪魔して、その後はホテルで寝泊まりしようと思ってる。」
「……女いんのか、アイツ。」
「?…みたいだけど、爆豪くん知らないの?」
「ハァ?知らねンじゃねぇ、興味がねーだけだわ!!」
「嘘だ、何だかんだいって昔から轟くんと仲良しのくせに。」
「ア゛?誰と誰が仲良しだって?テメェ目腐ってんじゃねぇのか。」

そう言って私に軽くデコピンをする爆豪くん。何だかいつもの荒々しい言動の彼に戻ったようで、内心ほっと胸を撫で下ろす。

「ま、今晩もあの野郎が舐めプするのをせいぜい祈っとくこったな。」

そう言って最後の饅頭を鷲掴みにした爆豪くんは、じゃあなと手をヒラヒラさせながら去っていってしまった。
彼から貰ったお土産の饅頭は、彼が殆ど全てを一人で平らげてしまい、食べた後の包装紙だけが私の席のゴミ箱へと積もっていた。








そう、自分でもよく分かってる、この想いが決して叶うことなどないことぐらい。でも、一度好きだと自覚してしまうと、もう自分の意思ではどうすることもできないのだ。

家が倒壊した事をジーニストに話すと、彼は気を遣って定時退勤どころか時間給まで私に与えてくれた。そうして一足先に仕事をあがった私は、近くのショッピングモールへと足を運んだ。こうして普通の店が開いている時間に帰るのは本当に久々だ。必要最低限の服や化粧品などを買うついでに、スーパーに寄って晩御飯の買い出しも済ませておいた。きっと轟くんの彼女はとても料理が上手いはずで、私が作るものなんてどれも粗末に思えてしまうのだろうが。だけど、今日も2人で湯がいた蕎麦を食べるのなら、せめてものお礼として何か栄養となるものを作りたかった。

予定していた買い物を全て済ませた私は、再び慣れない高級マンションへと帰ってくる。ごくりと息を飲みながらエレガントなエントランスを通り抜け、そして例の合鍵を使って彼の部屋のドアを開ける。「お、お邪魔します…」と小声で呟き中へと入れば、人感センサーのライトが次々と廊下を照らしていく。しかし、中はしんと静まり返っていて。今朝まで私の靴と並んで置かれていた白いスニーカーは、今はどこにも置いていない。
どうやら、轟くんはまだ帰宅していないようだ。

家主の居ない家に上がるのは何だかとても悪い気がするが、仕方がない。買い物袋を握りしめ一先ずリビングへと向かえば、今朝まで轟くんが着ていたスウェットが無造作にソファに掛けられていて。それが目に留まった瞬間、不意に朝の布団での出来事が脳裏に浮かび、ぶわっと顔中が熱くなる。

お、落ち着け、私…。
朝のあれは事故であって、他意はないのだ。そう分かっていても、鮮明に思い出してしまう甘く爽やかな服の匂いや、ぎゅっと抱きしめられる感覚に、堪らなく胸がドキドキしてしまう。
そんなどうしようもない思考から逃げるように、慌ててキッチンへとやって来る。気を抜けば色々な事を考えてしまいそうになるため、一先ず手を動かそうと晩御飯の支度に取り掛かった。

今日も轟くんは、やはり日付が変わった頃に帰って来るのだろうか。スマホの時刻を眺めながらふとそんなことを考る。大人気ヒーローである彼は、その辺のヒーローなんかとは比べ物にならないほど多忙な毎日を過ごしていて。きっと今日も夜遅くまで働いて、物凄く疲れを溜めて帰ってくるのだろう。しかし、私がここに居る限り、彼はいつもの様に寛げない。ずっと私のことを気に掛けて、家で疲れを癒やすどころか逆に蓄積させてしまうはず。
本当に私は邪魔者以外の何でもなくて、だからこそ、明日にでもここを去らなければならないのだ。

簡単な料理を何品か作り終えれば、器に盛り付けてラップを掛ける。そして、空っぽの冷蔵庫の中へと料理を移動させようとした、丁度その時。玄関の方から、ガチャッと扉が開く音が聞こえてきて、思わずドキッと心臓が飛び跳ねる。

もうそんな時間になってしまったのかと慌ててスマホを確かめるが、時刻は21時30分を指していて。想像していた時間とさほど大差はない。と言うことは、彼が予想よりもだいぶ早く帰ってきたということ。
そうこうしているうちに、廊下を歩く足音はどんどん此方へと近付いてくる。当分彼は帰宅しないだろうと踏んでいた私は、全くもって心の準備が整っていないくて。あたふたと一人で慌てていれば、その間にリビングの扉が開いていく。

扉の向こうから現れたのは、私服に身を包んだ轟くんで。キッチンに立つ私の姿を見るや否や、緩やかな笑顔を浮かべてくれる。そんな彼の柔らかい表情に一瞬にして心を射抜かれた私は、相変わらず狡い人だと心の中で悪態をついた。

「お、おかえり、轟くん。」
「ただいま……すげぇ良い匂いだ。なんか作ってくれたのか?」
「う、うん…勝手にキッチン借りちゃった。」
「そんなの全然構わねぇよ、気にせず使ってくれ。」
「ありがとう。…その、あんまり人様に振舞えるような料理じゃないんだけど…。」
「いや、そんな事ねぇだろ。すげぇ美味そうだ。腹減ってたから嬉しいし、はやく食いてぇ。」

そう言って、カウンターに並ぶ料理を凄く嬉しそうに眺める轟くん。大した物ではないのに、本当に心から喜んでくれているのが何となく伝わってきて、何だかとても恥ずかしくなってしまう。
2人で手分けしてカウンターに置いてある料理をテーブルへと並べると、「料理がいっぱいで、なんか俺の家じゃねぇみてぇだ。」と冗談気に笑う轟くん。そこには普段大人気ヒーローとして世間を魅了する完璧な男の姿はなくて、代わりに、相手に気を許しきった隙だらけの男がここにいる。彼はいつもこうして無意識にも人の心を揺さぶって、虜にさせてしまう。本当に危険な人なのだ。

昨日と同じ様に向かい合わせの席に座り「いただきます」と手を合わせると、彼はお腹が空いていたという言葉通り、テーブルの上の料理を次々に口へと運んでいく。

「…旨ぇ。こんなに旨ぇ手料理食ったの、久々だ。」

そう嬉しそうに頬を緩ませる轟くんに、どくんと心臓が飛び跳ねる。ネットを見れば誰でも作れるような簡単な手料理を、こんなに喜んで食べてくれるなんて。その嘘偽りの無い彼の様子に、私の方が嬉しくなる。
何というか、こういう人だから、私は彼のことを好きにならずには居られないのだ。

それにしても、彼の恋人はあまり料理をしない人だったらしい。きっとお金持ちのご令嬢とかなのかもしれない。目の前には綺麗な箸使いで食事をする轟くんがいて、そういえば彼の家もかなりお金持ちであったことを思い出す。やっぱり彼は、彼に似て育ちの良い相手を恋人として選ぶのだろうか。一般家庭で育った平凡な私は、その土俵にすら立つことが許されていないのかもしれない。
もやもやとする胸の中が気持ち悪くて、それを紛らわせるように笑顔を浮かべる。

「口にあったみたいで本当に良かった。お世辞でも嬉しいよ。」
「お世辞じゃねぇ、本当に毎日食いてぇぐらいだ。」
「もう、大袈裟だなあ。」
「そんなことねぇ…多分思ってるうちの半分も、言葉にできてねぇぞ。」

そう言って不服そうに口を曲げる轟くん。そんな彼の反応が何だか子供っぽくて、つい笑ってしまう。いきなり笑い出した私に何が何だか分からない轟くんは、キョトンとした顔を浮かべていて。しかしそれも束の間、「なんか名字の楽しそうな顔、いいな。」なんて急に突拍子もないことを彼は言い出すものだから、私は口を開けたまま固まってしまう。
そんな私に「その変な顔もいいな。」なんて言いながら、今度は轟くんが笑っていた。

そんなこんなで食事を終えた私たちは、食器を片付けた後、何となく流れで2人並んでソファに座る。目の前には大きなテレビがあるのに、それを点けることなく何でもない会話を楽しむ。新しく新調したコスチュームの話や、近所のパン屋さんが美味しいという話、実家で飼い始めた猫が親父にだけ懐かない話など、何だか話題が尽きなくて。そういえば、昨日はこうしてゆっくり話をする時間は無かったなと思い返す。

ふと右隣を見れば、ソファに深く腰掛けて、入れたばかりの温かいお茶を啜る轟くんがいる。サラサラの赤い髪も、綺麗な碧色の瞳も、目元に残る火傷の跡も、何一つあの頃とは変わらない。それなのに、今はその全てが誰か他の人のものなのだと思うと、何だか胸が苦しくて仕方がない。
それにしても夕食が美味しかったと、本日何度目かの話題が持ち出されれば、彼の口から何気ない言葉が吐き出される。

「…毎日は大変だろうから、そんな我儘は言わねぇけど。ここにいる間、気が向いたらでいいからまた作ってくれねぇか。」

そう首を傾げる轟くんに、ぐっと言葉を詰まらせる。
それはつまり、次の家が決まるまで私が彼の家に滞在するという前提の話であって。本当は私はここにいてはいけないのに、まるでそんなことはないのだと甘く囁かれているような気持ちになる。
しかし、ここで折れる様なことがあってはダメだ。ちゃんと彼に話を切り出さなければならないと、ポケットに忍ばせておいた鍵をぎゅっと握りしめる。

「そ、その事なんだけどね。」
「?」
「やっぱり轟くんに悪いし、今晩で最後にしようと思うの。」

そう言ってポケットから取り出した鍵を、目の前のローテーブルの上に静かに置く。
彼は良くできた優しい人だから、きっと今朝みたいに私の身を案じて引き止めてくるかもしれない。しかし、それに乗じて彼に迷惑をかける訳にはいかない。
顔を上げ、意思のある瞳でしっかりと彼を見つめ返す。
すると、彼は一瞬だけ目を丸め、そして少しだけ寂しそうな顔を浮かべながら言った。

「…そうか。」

そんな今朝とは比べ物にならないほど呆気ない一言が返ってきて、思わず狼狽えてしまう。…今ので、納得してもらえたのだろうか。疑問と困惑が頭の中を渦巻く。

明日からはこの家ではなく、どこか別の場所で過ごす。誰かのために食事を作ることも、たわいも無い会話に心を躍らせることもない。1人の生活に戻るのだ。
それを求めていた筈なのに、心の中では、もっと轟くんと一緒に居たいなんて思う愚かな自分がいて。

こんなにも呆気なく家を出ることを認められるなんて、思っても見なかった。
引き止めてくれる期待をしていたなんて、私はなんて図々しい奴なんだ。

「…今までありがとう、本当に助かったよ。落ち着いたら、またお礼をさせて。」

ズキリと痛む胸を隠して、笑って見せる。
これで終わりだ、だからもう期待はするな。そう自分に言い聞かせていれば、隣から伸びてきた大きな手が、いきなり私の手首を優しく握る。

「名字が出て行くって決めたなら、無理には止めてねぇ。けど、俺はお前にここに居て欲しいと思ってる。」

突然そんなことを言い出す轟くんに、思わず目を見開く。すぐ目の前には、真っ直ぐ力強くこちらを見つめる瞳があって。まるで私を逃さんとばかりに、大きな手が私の手首を握っている。それら全ての行動が理解できず、一体どう言うことだ困惑する。

確かに今、彼は私にここに居てほしいと、そう言った。
そこに一体どんな意味があるのかなんて、私には到底見当もつかなくて。しかし、こんなに真剣な表情で告げられれば、誰だって勘違いの一つや二つしてしまいそうになる。

しかし、彼からの期待の言葉は、いつだって勘違いでしか無かったのだ。
今回だって、きっと同じ。
また私の痛い勘違いに終わるだけなのだ。

「あ、あの家のことなら轟くんのせいじゃ無いし、何も気負わないで頂けると…寧ろ、こっちこそ図々しくお邪魔してしまって、本当にごめんね。」

手首に絡まる大きな手を、そっと解く。
これでいい、これが正解なのだと自分に言い聞かせていれば、私の手から離れた轟くんの拳がぎゅっと握られる。
そして深く息を吐き出した彼は、静かに低く言い放つ。

「名字は、本気で俺がただそれだけの理由でお前をここに連れてきたと思ってるのか。」
「…え?」

今までとは明らかに様子の違う轟くんに、心臓がどくりと跳ね上がる。
一体どういうことなのだと頭が真っ白になる私に、轟くんはじわじわと近づいて来る。

「家が潰れたのが名字じゃなくて麗日とか八百万だったら、俺は多分近くのビジネスホテルまで送り届けただけだと思う。」

どくどくと、心臓が大きな音を立てる。
どうして彼はそんなことを言うのか。
どれだけ頑張って頭を回しても、何一つ理解は追いつかなくて。

「名字が思ってるほど、俺はお人好しじゃねぇ。本当の俺は名字の不幸に漬け込んで、自分の良いようにお前のこと言い包めてる最低な野郎なんだ。」

私の肩に手を置いて、耳元で囁く様にそう言う轟くん。心臓が破裂してしまいそうなほど激しく鼓動を打ち付ける。

どう言うことだ。
漬け込んだとか、言い包めたとか、そんなのまるで…
そこまで考えれば、不意に今日の爆豪くんの言葉が頭に過ぎる。

『ア?テメェはあの野郎の何処をどう見て紳士で優しいなんてほざいてやがる。』

爆豪くんが言っていたのは、つまりこういう事だったのか。今更になって、漸くその言葉の意味をじわじわと理解していく。

そんなの、気付くはずがない。
だってずっと、私の独りよがりだと思っていたのだ。どれだけ努力したって私は周りの女の子達より何もかもが劣っていて、だから振り向いて貰えるはずなんてないとばかり思っていたのに。

轟くんが私なんかを特別に想うなんて、どう考えてもあり得ないと、ずっと思っていたのに。

スッと私から身体を離した轟くんは、何だかとても悲しそうな顔をしていて。ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。

「…悪りぃ、迷惑だったよな。俺は今日はソファで寝るから、名字は安心して和室で寝てく…」
「ま、待って…!」

そう言ってソファから立ちあがろうとする轟くんの腕を咄嗟に掴む。そんな突然の私の行動に、轟くんは驚いた様に目を丸めていて。

もうどうなったっていい。例えこれが私の勘違いだったとしても、もう何でもいいのだ。あんなに切なげな顔を轟くんにさせるぐらいならと、学生の頃からずっと言えなかった言葉を口にする。

「迷惑なんかじゃない、だって私、ずっと轟くんのことが好きだったから。」

緊張で異常なまでに鼓動が早まる。どんどん顔が熱くなってきて、それを隠す様に下を向く。
言ってしまった、ついに言ってしまったのだ。あれだけ学生の頃ひた隠しにしてきた想いを、こんな形で伝えるなんて。
彼は今、一体どんな顔をしているのだろうか。凄く気になるのに、怖くて顔が上げられない。
ぎゅっと唇を噛み締めながら彼の言葉をひたすら待つが、中々返事が返ってこない。もしかしたら、私の思い違いだったのかも知れない。そんなことを考えれば、絶望で胸の奥がずんと重くなる感覚さえしてくる。

嫌な沈黙が暫く続けば、彼はぽろりと言葉を溢す。

「…嘘だろ、」
「う、嘘じゃない…私だって轟くんじゃなきゃ、こんな風に男の人の家に泊まったりしないよ。」

そう言いながらそっと顔を上げれば、そこには片手で口元を押さえながら目を丸めている轟くんがいて。盛大に動揺している様子だが、私を嫌う様な素振りはないことに、じわじわと嬉しさが胸の中で溢れ出る。

「…轟くんこそ、彼女が居るんじゃないの?」
「?…いねぇ、そんなこと言ったか、俺…?」
「言ったっていうか…その、あんまり家に帰ってないとか言う割には、客用の布団は偶に使うとか…その……」
「ああ…家に帰ってないのは、いつも事務所の仮眠室で寝泊まりしてるからだ。布団は、偶に上鳴とか瀬呂がウチに泊まりに来るから、その時に使ってただけだ。」

だから、彼女はいねぇ。名字以外とそうなりたいと思ったこともねぇ。
そんな言葉をサラリと吐き出す轟くんに、こんなの反則だと視線を逸らす。こんなに真剣な顔でそんなことを言われて、平然としていられる訳などない。

轟くんに彼女がいない事も、彼が私を好きだったということも、何となく理解ができた。でも、何だか全てが上手く進みすぎていて、逆に不安に駆られてしまう。
そんな私の気など知りもしない轟くんは、大きな手を私の頬にそっと添え、とても嬉しそうな笑みを浮かべて問う。

「なあ、それより抱きしめてもいいか?」

甘く囁く様なその声に、胸がきゅんと締め付けられる。本当にこれは現実なのか。どう考えても都合の良い夢としか思えないこの状況に、私の頭は真っ白になる一方で。
「ど、どうぞ…」と緊張が声に混じったまま返事をすれば、ゆっくりと彼の腕が私の背中へと回って来る。そして、手繰り寄せられるように力強く抱きしめられれば、ふわりといい匂いが鼻を掠めて、頭がくらくらしそうになる。

「すげぇ嬉しい。夢みてぇだ…ずっと好きだったんだ。」

そう言いながら、私の額や髪に愛おしそうに唇を落とす轟くん。そんな甘い行動を当たり前のようにやってのける彼に、どうしようもなくドキドキしてしまう。

まるで、もっとだと言わんばかりに腰に回された腕がぎゅっと私を更に抱きしめる。こんなにがっちりと抱きしめられてしまえば、私に逃げ場なんてどこにもなくて。この状況、何だか…

「なんか今朝と同じだな。」

私の心の呟きと重なる、轟くん言葉。
彼は今、一体何と言ったのだ。思わず唖然としてしまう。
今朝こうして抱き締められていた時は、彼はまだ眠っていたはず。なのに、どうして彼がそれを知っているのだ…。そこまで考えたところで、まさかと思って問いかける。

「………もしかして今朝のあれ、起きてたの?」
「お…、狸寝入りしてたのバレちまった。」

パッと顔を上げて轟くんを見れば、何だか態とらしく私から視線を逸らしていて。何か誤魔化すのかと思えば、素直に狸寝入りしていたことを白状する。本当にこの男は、あの時私の心臓がどれだけ悲鳴を上げたのか全然分かっていない様だ。
それどころか、「俺が起きた時には、もうああなってたんだ。でも離したくなかったから、ちょっとだけそのままでいたら、途中でお前が起きちまって焦った。」なんて今朝の出来事を嬉しそうに話してきて。そんな彼の様子に、咎める言葉すら出てこない。
もう、と少し不満気に唸ってやれば、まるで許してくれと言わんばかりに顔中にキスをされる。

「もう狸寝入りはしない。その代わり、今晩は抱きしめて寝てもいいか?」

そんな悪びれることのない素直な提案を、首を傾げながらするこの男は、本当に狡い。
こんなの誰が断れるというのか。

「お、起きる時にちゃんと離してくれるなら…!」

そう言って頷いてしまう私も私で。

結局、私は新しい家を探す事を辞めて、改めて轟くんの家で暮らすことになったのだった。



おわり




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