花蔓が答えるは1



深夜12時、仕事から解放され、やっとの思いで帰宅した私を待っていたのは、瓦礫と化した変わり果てた我が家だった。

疲れているのだろうか。
ここ3週間はまともな休みを碌に貰えなかったからか、どうやら幻覚まで見え始めたらしい。今日はちゃんと湯船を張って、連勤で溜まった疲れをしっかり取り除いてから寝よう。そしたらきっと、明日にはいつも通りの我が家が視界に映るはず。

胸いっぱいに吸い込んだ息を吐き出し、そして再びマンションの最上階の角部屋を見上げる。
だが、何故かその部屋だけが倒壊していて。

いやいやいや、ちょっと待って。
一体これはどう言うことだ。どうして私の部屋だけがあんなことになっているのか。

ふと辺りを見渡すと、マンションの周りにはパトカーが数台止まっていて、そして少し奥にはヒーローと思われる1人の男が警察にゴツい男を引き渡している。
まさかとは思うが、このゴツい男が敵で、ついさっきまで私のマンションで暴れていたのをヒーローに取り押さえられた、とかそういうオチだろうか。ものの見事に私の部屋だけが倒壊しているのは、この見覚えのないゴツい男が実は私のことを恨んでいたとか、そういう背景があったりするのだろうか。
この近辺でヒーロー活動をしている私を恨む敵なんて、心当たりがあり過ぎて逆に何もわからない。

いや、まあどういった経緯でこんな事なったかは、この際置いておいて。
一番の問題は、今晩私の帰る家がなくなってしまったと言うことだ。

驚きと困惑により開いた口が塞がらず、ただ呆気に取られるように倒壊した自宅を見上げる。
すると、突然後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

「…名字?」

ヒーロー名ではなく私の名字を呼ぶ声に、ハッとなって振り返る。するとそこには、ヒーロースーツに身を包んだ元同級生の姿があった。

「と、轟くん…!」

思いもよらない彼との再会に、先程まで放心状態だった脳が思考を復活させる。
しかしながら、どうして彼がここに…なんて言葉をこの状況で吐くほど、私は間の抜けた人間ではない。きっと彼が、いかにもパワー系個性ですと言わんばかりのあの敵男を捕縛したヒーローなのだろう。私の部屋に氷塊が残っているのがその証拠だ。

久しぶりの彼との再会を喜びたいところではあるが、今の私は歓喜に心を躍らせられるほどHPが残ってなくて。あはは、と薄ら笑いを浮かべていると、轟くんは心底驚いた様な顔をしてこちらを見る。

「まさかあの部屋、名字の家だったのか?」
「…その、まさかでして。」
「…悪りぃ、到着した時にはもうだいぶ壊れてたから、遠慮なく氷結ぶっ放しちまった。」
「いや、もう壊れてたならいいよ。それに轟くんのお陰で隣の部屋は大丈夫そうだし。」
「本当にすまない。」
「いいって。」

凄く申し訳なさそうに頬を掻く轟くん。彼が来た時には私の家は既にあんな感じだったのだから、何も謝る事はないのに。
それに、殆ど寝に帰っている様なあの家に、特に未練がある訳ではない。通帳とか印鑑とか大事なものは幾つかあるが、ただそれだけだ。しかも、それらも今すぐ掘り起こせる様な状態ではないだろう。

仕方がないから、今日は近くのネットカフェで泊まるしかないか。そんなことを考えている私に、彼は首を傾げながら言う。

「…もし良かったら、俺の家に泊まっていくか?」

ここから近いんだ、なんて言葉を足しながら、当たり前のように淡々とした表情でとんでもない提案をする目の前の男。
完全に意表を突かれた私は、思わず唖然としてしまう。

轟くんの家に、泊まる…私が!?
いやいや、それは流石にどうだろうか。確かに学生時代の3年間は、彼と同じ寮で衣食住を共にしたのだが、それとこれとは話が違うというか、何と言うか。
友達を家に泊めるような軽いノリで「どうだ?」と何食わぬ顔で尋ねてくる轟くんに、心のやましさなど微塵も感じない。だがいい年の女が男の家に寝泊まりするのは、果たしてどうなのか。
それに、何を隠そう彼は世の女性を虜にしてやまない大人気ヒーロー、ショートな訳で。私の様な女が彼の家に上がるなんて、そんな恐れ多い話はない。
もしも撮られて記事にされでもしたら、翌日には間違いなく私は世の女性によって干されるだろう。

しかし、目の前の男は眉を下げ、私への申し訳なさを全面に出している訳で。何だかとても断り辛い。

私も私で、学生時代ずっと片思いをしてきたこの男には、心底弱い訳で。
3週間の連勤も相まって、気付けば私は首を縦に振っていた。







悪りぃ、部屋散らかったままだ…最近、全然帰れてなかったから。
そんな前置きの一言と共に、轟くんの家へと通される。大人気ヒーローは、やはり住むところも格別だ。セキュリティのバッチリな高層マンションのかなり高い部屋へと連れてこられた私は、もはや借りてきた猫のような状態で。「お邪魔します、」と一声かけて、恐る恐る家の中へと上がらせてもらう。

玄関に立つとふわっと香ってくる、爽やかな匂い。轟くんの家に来たのだと意識してしまえば、途方もない程の緊張感に襲われる。
彼の家らしい飾り気の少ない廊下を進むと、リビングに辿り着く。そこには彼の言っていた通り、脱いだままのスエットやランニングウェアがソファや椅子に掛かっていて、何だか生活感を感じるその部屋の様子に、思わずドキドキしてしまう。

今日はもう疲れただろ、風呂入ってゆっくりしてくれ。
そう言って風呂の場所へと案内される。まさか、こんなにも躊躇うことなくお風呂に通されるなんて思ってもみなかったため、少しだけ焦ってしまう。
どうやら本当に彼は私のことをただの友人としか思っていない様だ。これっぽっちも女として見られていないその態度に、何だかとても虚しくなる。
…いや、そんなの当たり前だ。
私は一体何を勘違いしているのだ。彼は私を保護しただけで、そこに特別な気持ちなんて何も存在しない。

ここに来るまでにコンビニで買っておいたお泊まりセットを開封し、浴室へと失礼する。広くてお洒落なバスルームには、有名な銘柄のシャンプーや洗顔が綺麗に並んで置かれていて。大雑把なのに几帳面という彼の不思議な一面が垣間見え、何だか少し笑ってしまう。

そう言えば、さっき轟くんは『最近、全然帰れてない』と言っていたが、彼は普段どこで寝泊まりしているのだろうか。不意にそんなことを思う。
もしかしたら彼には恋人が居て、そこで普段は生活をしているのかもしれない。彼の容姿と性格なら、彼女が居ても全然おかしくはない。
もしそうだとしたら、私はとんでもなく悪いことをしてしまっている。轟くんは何も悪くはないのに、私の家が壊滅したことに何故か責任を感じていて、私はそれを利用するかのようにこんな所までついて来て…。
考えれば考えるほど、胸に何か突っかかっているような感覚に陥る。

今更何を考えたって、どうにもならない。ここまで来てしまったものは、仕方がないのだ。もう考えるのは辞めよう。ただでさえ連勤で頭が疲れ果てている上、家があんな事になってしまたのだ。もう何かに気をやれる余裕なんてどこにもない。
パシャリと自分の顔にお湯をかけ、考え事に浸ってしまいそうになる頭を冷ます。

すると、脱衣所の扉がコンコンとノックされる音が聞こえてくる。一体何事だとドキッと胸を跳ね上げていると、扉の向こうから「浴室か?…入るぞ。」なんて声が聞こえて来て、一気に頭が真っ白になる。
バスルームの曇りガラス越しに見える、轟くんの姿。あまりにも普通じゃないその光景に、ドクドクと心臓が大きな音を立てる。

「タオルと着替え、ここに置いておくから良かったら使ってくれ。…俺のやつで悪りぃ。」

そう外から聞こえて来た声に、混乱状態の私は一体何の話をしているのだと焦り始める。
タオルと着替えというのは、つまり、そのままの意味だろう…。そこまで考えれば、そう言えば何も考えずに風呂に入ってきてしまった事に気付く。
どうやら彼は私を気にかけ、態々タオルと着替えをそこまで持って来てくれたらしい。浴室で一人、とんでもなく空回りしていた自分が恥ずかしい。

すぐに去ってしまいそうな轟くんの影に、なんとも言えない小さな声で「あ、ありがとう…。」とお礼を言った。







脱衣所に置いてあったのはパーカーとハーフパンツで、本当に着てもいいものなのかと何度も躊躇いながら裾を通した。成人男性の平均よりも体の大きい轟くんのパーカーは予想以上に大きくて、ワンピースみたいになっている。ハーフパンツはウエストが全然合わず、これでもかと言うほどに腰の紐を絞って着た。

そんなこんなでリビングへと戻れば、そこにはソファに座りながらタブレットと真剣に睨めっこする轟くんがいて。きっと私のせいで彼は仕事を切り上げて帰ってきたのだと察すると、申し訳ない気持ちで一杯になる。
これ以上は彼の邪魔をしてはいけないと、気配を消して無言で扉の前に突っ立ってみるが、そんな私にすぐに気付いた轟くんは、タブレットを置きふらりとこちらにやって来る。

「…悪りぃ、服すげぇでかいな。」
「うんん、全然大丈夫だよ…!それよりこれ、本当にいいの?…って言ってももう着ちゃってるんだけど…。」
「ああ、全然問題ねぇ。名字が良ければ使ってくれ。」
「ありがとう。…その、ごめんね、急に泊めて貰ったうえにこんな事まで…。」
「気にすんな、それに元はと言えば俺のせいでお前の家があんななっちまったんだ、これぐらいさせてくれ。」

そう言って申し訳なさそうに眉を下げる轟くん。ここに来る道すがら、彼のせいではない事を何度も説明したのだが、どうやらまだ全然伝わっていない様だ。本当に申し訳なく思わなければならないのは、寧ろこちらの方なのに。
今回の件で轟くんがいかに悪くないかを再度弁論しようとする私に、彼は「そんなことより、」と急に話題を切り替える。

「仕事帰りだったんだろ?腹減ってねぇか?」
「あ、うん…、そう言えば夜は何も食べてなかったな…。」
「俺もだ。…あんま自炊しねぇから冷蔵庫は空っぽだが、蕎麦ならある……それでいいか?」
「も、勿論…、むしろ私頂いてもいいの?」
「当たり前だろ。ちょっとここに座って待っててくれ。」
「ま、待って!私がするよ!というか、させて!このまま何もしないなんて本当に申し訳なさすぎるから…!」

キッチンへと向かおうとする轟くんの腕を掴み、慌てて静止させる。お風呂や寝床のみならず、食事まで彼に準備させるなんて、そんな事はあってはならない。
「大丈夫だ、俺がする。」「ダメ、私がする!」「いや、名字は客だろ。」「いやいや、お世話になってるのにダメだよ!轟くんはお風呂でも入ってて!」なんて学生時代を思い出させるような小競り合いを繰り広げていれば、何だか急におかしくなって2人顔を見合わせ笑ってしまった。

結局、蕎麦を湯がく権利を彼から奪い取った私は、キッチンに立って準備をする。あんなに激しく蕎麦を作るのは自分だと言い張ってはみたのだが、私も自炊をする方ではない。だけど一人暮らしはそれなりに長いため、ある程度のことは普通にできる…と自負している。

彼が渋々リビングを去った後、それにしても、とキッチンの戸棚を見つめる。冷蔵庫が空っぽの割には、戸棚には蕎麦ばかりが並んでいる。最初は、相変わらず蕎麦が大好きなんだななんて思っていたが、色んな戸棚を開く度に蕎麦が陳列されていて、いや流石にこれはやりすぎだと轟くん栄養状態が心配になってきた。
まあきっと、普段は栄養の取れた美味しい手料理を彼女がご馳走してくれている筈なので、私が心配する必要なんてどこにも無いのだろうが。
そんなことを考えると、不意に胸の奥がチクリと痛む。

学生の頃は、よく寮で一緒に料理をしたし、隣同士並んでご飯を食べたりした。すごく懐かしい記憶だ。
だけど、きっと今は彼の隣には私の知らない美しい女性がいて、彼女と2人で毎日食事を共にしているのだろう。
そんなの彼の勝手なのに、何だか凄く胸が騒ついてしまう。

ずっと忘れていたはずの彼への恋心が、じわじわと胸の中に蘇る感覚がして。
思わず口元を手で覆う。

ダメだ、そんな想いを今更蘇らせて、一体どうするというのだ。
ただでさえ、私は彼に全く異性として見られていないのに。その上、彼には愛する恋人がいる様なのだ。そんな最初から勝ち目などないと分かっている戦に、自らの身を投じる必要なんて何処にもない。

勘違いだ、忘れろ……そう頭の中で何度も繰り返しながら、茹で上がった蕎麦を水で締める。
蕎麦を乗せる適当なお皿を探していると、ご丁寧にも蕎麦用のざるが棚の手前に仕舞われているのに気が付く。本当に彼は蕎麦しか食べていないのか。どの皿よりも上に置いている蕎麦ざるに、思わず笑ってしまいそうになる。

そんなこんなでテーブルに蕎麦を並べていると、丁度風呂を上がった轟くんがリビングへとやってくる。
濡れた髪をタオルでわさわさと拭き取るその姿は、あの頃よりも更に色気が増していて。心臓がどくり飛び跳ねる。

お、落ち着け、私。
そう自分を制しながら、蕎麦が丁度できたことを彼に伝えて、向かい合うようにテーブルに着く。

「……うめぇ。すげぇいい茹で加減だな…普段から蕎麦食うのか?」
「それは良かった。普段はそんなに食べないし、普通に袋に書いてある時間通りに茹でただけだよ?」
「そうか…俺はこんな風にいい具合に茹でれるようになるのに、何ヶ月か掛かったぞ。」
「…茹で時間、ちゃんと守ってた?」
「まあ…腹減りすぎて待てなかった日も、偶にあったかもしんねぇ。」

そんなことをボソリと言う轟くんに、思わず笑ってしまう。
この人は、昔から何でもできる凄い人なのに、偶にこうった抜けている可愛らしい一面を見せるのだ。一見しっかりしてそうに見えるのに、誰もが呆気に取られるほどの天然具合を見せる彼は、周りの人間の心を鷲掴みにして止まない。本当に人間たらしなのだ。

そんな周りに染まる事なく、いつも自分のペースで真っ直ぐに生きている彼のことが、ずっとずっと好きだった。
だけど、私に脈がないことなんて誰から見ても明らかで。
だから、勝手に想って、勝手に諦めた。

こうして2人で他愛もない会話をしていると、あの時必死に蓋をした想いが、不意に溢れ返ってしまいそうになる。
今はごく偶にチームアップで会うだけで、昔より遥かに遠い距離にいる。脈なんて当時よりも無い筈なのに、騒ぎ出す胸の高鳴りだけは、何も変わらず当時のままで。

「美味かった、ありがとな。」と綺麗に微笑む轟くんに、もう自分を誤魔化すことなど出来なくなった私は、今も変わらず彼が好きである事を自覚した。







食事の後片付けをしていると、時刻は夜中の2時に差し掛かっていて。スマホの時計を見た轟くんは、「そろそろ寝るか」と私に言う。
そうして通されたリビングの横の和室には、何故だか2人分の敷布団が隣同士に敷かれていて。当たり前のように片方の布団に腰を下ろす轟くんに、私は言葉を失ってしまう。

こ、こ、これは一体どういう状況なのだろうか。
こんなに広い家なのに、私たちは同じ部屋で、しかもこんな隣同士で共に一晩を過ごすのだろうか。いや、それは流石に不味くはないだろうか。私たちはとっくの昔に成人を迎えた男女であり、そして恋人同士ではないただの友達なのだ。

どうすればいいのかと一人混乱していると、何だか不思議そうに「どうした?」と首を傾げる轟くん。

どうしたもこうしたも、ない。
なんて事を叫びたいが、そういう訳にもいかず。轟くんが折角布団を敷いてくれたのに、ここで寝ないのも如何なものか。そう考え、諦め半分な気持ちで一先ず何も言わずにもう片方の布団の上へと座る。

私は今晩、ここで寝てしまうのか。
いや、というか本当に私はここで寝られるのだろうか。轟くんの家で、轟くんの服を着て、直ぐそばに轟くんが寝ているこの場所で、果たして安眠など訪れるのだろうか。
そんな事ばかりが、私の頭の中をぐるぐると巡っていて。

布団に座り、ひたすらに考え込んでしまった私に、轟くんは何やら心配そうに言い放つ。

「その布団、偶に使うからそこまで埃っぽくはねぇと思うけど…もし嫌だったらこっちと交換するから言ってくれ。」

こっちは普段俺が使ってるから、まだマシだと思う。なんて言葉をサラリと足す轟くん。
いやいや、そんな布団で眠りにつけば、良からぬ事が頭を巡って一睡もせずに朝を迎える未来しか見えない。
何だか彼に変な誤解をさせてしまったようで、慌てて「大丈夫、埃っぽくないよ!」とだけ伝えると、安心したように「そうか、なら良かった。」と返事が返ってくる。

誤解が解けてホッとしたところで、不意に、偶に使うのかこの布団…なんて事を考える。
きっと彼女が泊まるときに、使うのだろう。という事は、この隣同士に並べられた布団は、いつも彼女が泊まるときにしている対応で、彼はきっと何も考えずに同じことを私にしているのだ。
そんな結論を一人導き出してしまえば、先程までドキドキと弾んでいた胸の中が、ずんと重くなってしまう。

もう今更何を考えたって、どうしようもない。
ここは潔く布団を被り、明日が来るまで目を瞑って過ごすほかないのだ。そう考え、勢いで轟くんの横の布団に寝転がる。
それを確認した轟くんは、「電気消すな。」と一声掛けて、手元のスイッチをOFFにする。

真っ暗な部屋の中で、ごそごそと隣から布団を被る音が聞こえてくる。
隣に轟くんがいる。ここが2人きりの空間だと思うと、緊張で頭がパンクしてしまいそうになる。
ぎゅっと目を閉じ、ただひたすらに眠気を待つ私に、すぐ隣から低く穏やかな声がする。

「おやすみ、名字。」

どくどくと心臓が忙しなく音を立てていて、全然おやすみになどなれる状況ではなくて。
「おやすみ、轟くん…。」と返事をしたものの、暫く寝付くことはできなかった。







温かい。とても心地が良くて、いい匂いがする。
これは、一体何だろう。ふわふわとした感覚から、徐々に目が覚めていく。

そしてゆっくりと目を開くと、そこには視界いっぱいに黒色の部屋着が広がっていて。温かい何かが後頭部と腰にガッチリと回されている。徐々に目覚めていく頭は、今のこの状況が何かおかしいことに気付く。

え、うそ、なにこれ…一体どういうこと。
どうして私は、轟くんに抱きしめられているのだ。

何がどうなっているのか分からず、とにかく盛大にパニックに陥る。

脚に感じる敷布団の継ぎ目の感覚に、私は知らぬ間に轟くん側の布団との境界にきていることに気付く。と言うことは、きっと轟くんは自身の敷布団から落ちている。畳の上で横になって、寒さを凌ぐように私の身体に抱きついているのだ。

ど、ど、どうすれば、いいのだろうか。
このまま轟くんを起こして、離してもらうのが良いだろうか。いや、彼を起こしても逆に気まずくなる未来しか見えない。
しかし、彼の腕を退かそうにも、力が強くてびくともしない。本当に起きてないのか疑いたくなるほどの力で、彼は私を抱きしめているのだ。パワーSは伊達ではない。

本当に、どうしよう。
直ぐ側からは、轟くんの規則正しい寝息が聞こえてきて。息を吸うたびに、轟くんの匂いが肺いっぱいに取り込まれる。しっかりとした大きな体に包み込まれている感覚に、心臓がおかしなぐらい波打ち、どうにかなってしまいそうだ。

彼が起きるまで、もしかしたらずっとこのままかも知れない。そこまで私の心臓が持つとは考えられないが。
だが、彼の力の強さに完膚なきまでの敗北をきした私は、彼の腕から抜け出すことをもう半分諦めていて。長期戦になることを見越して、一先ず布団から出ている寒そうな彼の身体にそっと布団を被せてあげる。

すると、寒くなくなったのか、彼の腕の力が徐々に緩んでいくのを感じる。
思いもよらない彼の反応に驚きながら、とにかくこの機会を逃すまいと彼の腕からスルリと抜ける。

そのまま布団から抜け出し、立ち上がった私は、バクバクと破裂寸前の心臓を抑えながら、深く深く息を吐く。

危ないところだった。
このまま彼の目が覚めていたら、とんでもない朝を迎えていたことだろう。
起きたら枕が足元にあったんだ…なんて、彼の寝相が良くない事はそれとなく聞いていた。しかし、それを実際に体験する機会が訪れるなんて、思っても見なかった。

朝からかなりの体力を消費した私は、そのまま家を出る支度を始める。顔を洗い、昨日着ていたワンピースをそのまま身に纏っていく。
今日はジーニストにお願いして早く帰らさせてもらおう。きっと家が潰れて私物が全部瓦礫の下なのだと説明すれば、彼も分かってくれるはず。
それに、今日は暫く遠征に行っていたダイナマイトが帰ってくるのだ。彼の穴を埋めるため、ここ最近は目が回るほど多忙な日々を強いられていたが、それもきっと今日からは無くなる…はずだ。たぶん。

そういえば、轟くんは今日は何時ぐらいに家を出るのだろうか。
最後に、ここに泊めてくれたお礼を直接言いたいのだが、多忙な彼の貴重な睡眠時間を私如きが削っていい筈などなくて。

まだ起きていない筈の轟くんには申し訳ないが、置き手紙を残しておこう。そう思いながらリビングへ戻れば、そこには目を擦りながらソファに座る轟くんがいて。
彼は寝ているとばかり思っていた私は、思わず驚いてしまう。
そんな私に彼は「おはよう」とマイペースに挨拶をしてくれる。先ほどまでその力強い腕で私をガッチリと拘束し、途方もない気持ちにさせていた事なんて、きっと彼にとっては全く身に覚えのない事だろう。
しかし、そんな今朝の事実なんて口が裂けても言えない私は、ただ彼に「おはよう」とだけ返事をする。

「…もう出るのか?」
「うん。ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、普通に目が覚めただけだ。それよりこれ、持っていってくれ。」

そう言って差し出された轟くん右手に、何だろうと首を傾げながら手を差し出す。

「今日は何時に帰ってこれるか分からないからな。名字の方が早く帰ってきたら、家入れねぇだろ。」

そう言って私の掌に彼が乗せたのは、何も付いていない裸の鍵で。予想だにしなかったものを渡され、私は思わず唖然としてしまう。

これは、その、つまり、合鍵…なのだろう。
一体どこの合鍵なのか、なんてことを尋ねたくなるほど、私の頭は混乱していて。私が早く帰って来ても家に入れると言うのだから、それは間違えなくこの部屋の鍵なのだが。
それはそうと、どうして彼は、さも当たり前かのように私が今日もここに帰って来る話をしているのだろうか。
彼の言葉に、何だか色々と食い違っている気がしてならなくて。

「…今日も泊めてくれるの?」
「?…流石に今日1日で新しい家には移り住めねぇだろ?」

何言ってるんだと言わんばかりに首を傾げる轟くんに、いや、ちょっと待ってと内心盛大に焦り出す。
つまり彼は、私が新しい家を見つけるまでここに泊めてくれるつもりだったのだろうか。完全に今日からホテル暮らしになることを覚悟していた私にとって、全くもって寝耳に水だ。

それより彼女はいいのだろうか。
いくら人助けとは言え、知らない女がずっと恋人の家に上がり込んでいるのだ。絶対に良い筈などない。

「そんな、悪いよ…寝泊まりならホテルとか事務所の仮眠室とかでもできるし…。」
「いや、流石にそれは大変だろ。荷物もあるだろうし。それに、俺が名字の家を壊したようなもんだから、俺にできることがあれば何でもしたい。」

いや、だからどう考えたって私の家が潰れたのは轟くんの所為ではないのだ。彼が責任を感じる必要なんて微塵もない。しかし、一度手にしてしまった鍵を返そうにも、彼は全く受け取る様子がなくて。

髪に寝癖をつけながら、色の違う綺麗な瞳をただ真っ直ぐに向けてくる。
まるで私がその瞳に弱いことを最初から知っているかのような行動に狼狽え、何も言えなくなってしまう。

結局彼に押し負けてしまった私は、今晩も轟くんの家に帰ってくることになったのだった。



続く




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