不死の花たむけ



まるで浮遊していた魂が自分の身体を見つけたみたいに、感覚のない身体に意識が繋がっていく。
真っ暗な闇の中、ふと瞼を開いてみれば、そこにはぼんやりと小さな灯火が見えた。霞む視界に何度か目を擦ると、その灯火は次第にランタンの形をしていく。
それはいつも俺が起きる頃合いを見て彼女が部屋に置いてくれるものだった。

薄暗い屋敷の中、ランタンを片手に廊下を歩く。
するとどこからか食欲の唆るいい匂いが香ってきて、自然と歩く足が早まっていく。明かりの溢れるその部屋へと一歩踏み入れれば、広い部屋の真ん中にぽつりと置かれたテーブルと、その上には美味しそうな料理が綺麗に並んでいた。
華やかな料理の目の前には、いつもの席に腰を掛けて本を読む彼女がいて。不意に、その視線がこちらを向いた。
珍しい濃い色の瞳が、部屋の入り口付近で彼女を眺める俺の姿を捉える。るすと、その瞳は何だか嬉しそうにきゅっと細められた。

「おはよう、焦凍。今日はお寝坊さんだね?」
「おはよう、名前。…最近陽が落ちるのが遅くなってきたからか、なんかすげぇ眠ぃんだ。」
「確かに、もうすぐ夏だもんね。」

ぱたりと手元の本を閉じた彼女は窓の外へと目を向ける。すっかり日が落ちきっている今、窓の外は真っ暗闇で何も見えない。それでも何かをじっと見つめる様な彼女の視線に、どこか不安定なものを感じて思わず彼女の頭をそっと撫でた。

「飯、待たせちまって悪りぃ。お腹すいてるよな?」
「うんん、作る時に色々つまみ食いしたから平気だよ。」
「そうか。…今日のもすげぇ美味しそうだ。」

そう言って料理を眺めていれば「ふふ、このお肉はね、かっちゃんが今朝持ってきてくれたんだよ。」なんて嬉しそうに彼女は笑う。その表情はいつも彼女が見せるもので、先ほどまで不安で騒ついていた心が少しだけ和らいだ気がした。

「爆豪は相変わらず狩が得意だな」なんて会話を交わしながら、いつものように彼女と向かい合わせの席に座る。そして、彼女の国の文化である手を合わせて「いただきます」の詠唱を一緒に唱えると、2人で食事を食べ始めた。

最近人間達の間で流行っているのか、彼女はお箸という2本の棒を使って器用に料理を食べる。それがいつも不思議でつい見入ってしまうのだが、彼女は自分の箸使いは下手くそな方だからあまり見ないでと恥ずかしがる。とても下手には見えないその所作を目にする度に、人間は俺の知らない所で大きく進化しているのだなと思った。
その他にも、彼女は初めて聞くような人間の世界の話を沢山してくれる。馬のいない空飛ぶ馬車や食べ物を冷やす大きな箱、離れた人と話ができる板。そんな彼女の話はいつもどこか違う世界の話みたいで、もう200年近く森を出てない俺にとっては不思議が沢山詰まっていた。




彼女と出会ったのは、2年前の雨の日の夜だった。
雨の匂いに混じった美味しそうな血の匂いに誘われて表に出てみると、屋敷の門に寄りかかるように彼女は蹲って泣いていた。
その肩や背中には痛々しい傷が幾つもあり、そこから溢れる真っ赤な血に吸血鬼である俺の喉がごくりと鳴った。

据え膳、食わぬは何とやら…だ。

そんなことを一瞬思ってはみたものの、声を殺して泣く彼女の後ろ姿があまりにも切なく可哀想で、このまま殺してしまうのは非情に思えた。
そして気付けば俺は自分の羽織っていた外套で彼女を包み、屋敷の中へと持ち帰っていた。

虚な目をした彼女をそっと寝かせ、血や雨で濡れた身体を優しくタオルで拭いてやる。軽く500年は生きているが、人間の傷の手当てなどただの一度もしたことはなかった。だが、有り余る時間の中で読んだ本の中には人間の医術に関するものもあったため、それを思い出しながらとにかく一生懸命に彼女の傷を手当てした。

今でもよく覚えている、彼女のあの痛々しい傷口はどう見ても森の魔物に襲われたような傷ではなかった。
何か鋭利なもので斬りつけられたような綺麗な傷口は、間違えなく人間の武器によるものだと理解した。

その他にも彼女の服はぼろぼろで、手首や足首には重い鉄の枷が付いていた。
彼女は奴隷だったのだろうか。
そんなことを一瞬だけ思ってみたが、艶やかな髪に日に焼けていない綺麗な肌は、どうも長年粗末に扱われ続けた痕跡がなくて。奴隷と言うわけではなさそうだと考える。

そもそも魔獣の多く住まう危険なこの森で、彼女はどうやって森の最奥にあるこの屋敷まで辿り着いたのか。

彼女は一体何者だ。
考えれば考えるほど謎が深まる彼女の存在に、何百年かぶりに心が落ち着かない感覚を覚えた。

そんな中、うつらうつらする意識の彼女は苦しそうに眉を顰め、「助けて、助けて…っ」と何度も俺に懇願する。
本来であれば捕食者であるはずの俺にそんなお願いをするなんて随分と可笑しな話だが、きっと彼女は相手が誰だか分かっていない。
そして、そんな彼女のお願いに「ああ、助けてやるから、お前も早く良くなれよ。」と返す俺も、相当どうかしているなと自嘲した。

それから何日か、彼女は熱に魘された。自分のできる最善を尽くした俺はもうどうすればいいのか分からなくなり、森で散歩していた爆豪を捕まえて相談した。すると、この上なく怪訝な顔を浮かべた爆豪は「テメェ、ホイホイ人間なんか拾っとんじゃねぇわ、この舐めプが…!」と小言を溢しながらも、次の日には薬や食べ物を屋敷まで持って来てくれた。
あいつがこの森の誰よりも優しいことは、ここで1番長く生きるこの俺がよく知っている。

爆豪の支援の甲斐あって彼女の熱は徐々に下がり、数日後には何事もなかったかのように目を覚ました。
漸く彼女と話ができる、そう思った俺の胸は期待でいっぱいに膨らんでいた。
ベッドから上半身を起こした彼女に「気分はどうだ?」と問いかける。すると、ぱちりと開いた愛らしい瞳がこちらを静かに向く。

そして俺や屋敷の中をぐるりと一周見渡した彼女は、次の瞬間には、聞いたこともないような悍ましい悲鳴を上げた。

そんな予想だにしない彼女の反応に完全に意表を突かれた俺は、心臓が止まってしまうのではないかと思うほど盛大に驚いた。
不死身の吸血鬼の心臓はこんなことでは止まらないのに、それすら忘れてしまうぐらいの衝撃を受けたのは、俺の人生で唯一の経験だった。




「どうかしたの?」

「何かすごく楽しそうだね。」と目の前でサラダを頬張る彼女は不思議そうに俺の顔を覗き込む。その瞳には、もうあの時のように俺への恐れは微塵もない。

「ああ、名前がここに来た時のことを思い出してた。」
「!…も、もう、あの時のことは忘れてって言ってるでしょ…っ」
「無理だ、多分一生忘れらんねぇ。」
「焦凍の一生って、それ永遠ってことじゃん…!」

もう、と唸りながら少し赤らむ顔を手で隠す彼女は、何だかとても愛らしい。あれからもう2年は経とうとしているのに、未だに彼女はあの時のことを思い出して恥ずかしがる。その反応から、あれは彼女にとっても相当取り乱した事件だったことを理解した。

いつか彼女がその短い一生を終えるまで、きっと彼女はあの日のことを忘れたりはしないだろう。
しかし、その遥か先まで生き続ける俺は、彼女が生きた時間の何百倍もの未来まで、その思い出を忘れることなく繋ぎ続ける。

彼女がこの世を去った後も、俺は彼女のことを思い出しては一人ここで笑っているのだろう。

「そうだな、俺は死なねぇから。」

そう呟くように口にすれば、目の前にいる彼女の眉が少しだけ下がる。

「私も、焦凍と一緒に生きれたらいいのになぁ…」

まるで冗談を言うような口振りで彼女はそう呟く。しかしよく見ると、どこか遠くを見つめるようなその瞳は、まるで俺とそうなる事を本気で望んでいるかのように思えた。

「やめておいた方がいい。」

手に持っていたフォークをテーブルに置き、静かにそう口にする。
すると、彼女の少し驚いた視線が俺の方へと向けられる。

「そうやって吸血鬼になった奴は皆んな、数百年もしないうちに自分から太陽に焼かれて死んでいった。」

吸血鬼は、太陽の光を浴びなければ死なない不死身の生き物だ。
そんなこの世の全ての理に反した、まるで神から見放された異質の存在が吸血鬼という種族であり、永遠の命と引き換えにそんな存在で居続けることに何の得もありはしない。

「この身体でずっと生き続けるのは、そう楽なもんじゃねぇ。」

老いて死ぬからこそ、そこに生命の価値が見出せるのだ。
誰かの死を見送るだけの存在でしかない吸血鬼は、きっとこの世のどの生き物よりも悲しく哀れな存在で。
つまらない筈のここでの日々にこんなにも一喜一憂してくれる彼女が、そんな哀れな存在になるなんて、絶対に許されることではないと思った。

すると、そんな俺の話を聞いていた彼女は、どうしてかその美しい瞳を大きく丸めていて。少しだけ慌てた様子で尋ねてきた。

「…ちょっと待って、吸血鬼ってなれるものなの?」
「?…ああ。純血の吸血鬼の血を飲めば、人間は吸血鬼になることができるんだ。」
「純血の吸血鬼…?…あれ、でももうこの世に吸血鬼は焦凍しか残ってないんだよね?」
「ああ。」
「ということは、もう誰も吸血鬼にはなれないってこと…?」
「?なんでだ?」
「だって、純血の吸血鬼がいないと吸血鬼にはなれないんでしょ?」
「ああ、俺が純血の吸血鬼だ。」
「ああそっか、なるほど、それなら良かった………って、ぅえええッ?!」

手に持っていた箸を落とした彼女は、いきなり驚いたように声を上げた。
その声に驚いた俺も、思わず肩をピクリと跳ねてしまう。

一体何にそんなに驚いたのか。
何も分からないまま、とにかく何か言いたげに口をぱくぱくさせている彼女の顔をじっと見つめる。

「焦凍って、なんか本当は凄い人なんだね…」
「?…俺は人じゃねぇし、別に凄くもねぇぞ。普通だ。」

彼女の『凄い』の意味が理解できなくて首を傾げていれば、「…うんん、やっぱり焦凍は焦凍だった。」と彼女は可笑しそうに笑っていた。



その後は2人で食事の後片付けをして、いつもみたいに寛ぎながら彼女の話を聞いて過ごした。今日は東の湖に住む蛙族の蛙水と一緒に果物を取りに行ったのだとか、新しい野菜の種を屋敷の庭に埋めたのだとか、彼女は嬉しそうに今日あったことを口にした。そんな他愛も無い彼女の話を聞くのが、俺は何よりも好きだった。

長く生きすぎたせいか、何をするにもいつも感情が伴わなくなってしまった俺に、彼女は当たり前のように沢山の感情を伝えてくれる。
昔は確かに感じていた心が浮き沈みする感覚が、彼女といると蘇ってくるみたいで。だから俺は彼女とのこの時間に、ここ数百年感じていなかった『楽しみ』というものを感じていた。


そんな他愛も無い会話をしていれば、気付けば夜も更けていて。話の途中でうとうとと船を漕ぎだしていた彼女の瞼は、いつの間にか完全に閉じきっていた。

陽が落ちてからしか動けない俺とは違い、彼女は朝からずっと起きてその日を過ごす。
一緒に住んでいるとは言えど、実際に会って話ができるのは一日たった数時間しかない。
今日もその時間が終わってしまったのだと思うと、無性に寂しい気持ちが胸の中を支配する。

ソファで丸くなって眠る彼女の身体を横抱きにして、数時間前まで自分が寝ていたベットの上へと降ろしてやる。

「おやすみ、名前…」

優しく髪を撫でながら、ゆっくりと彼女の額に唇を当てる。
今夜もよく眠れますように、とか、明日も彼女が元気に過ごせますようにとか、そんなことを考える。

そうして彼女に触れている手をそっと離せば、胸の中には温かい何かがぶわっと広がっていく。

俺はこの感覚が何であるかを、薄々勘付いてしまっている。
でも、それは決して叶わぬもので、それを抱くというのがどれだけ愚かしいことであるかも十分理解できている。

誰かと一緒に生きていたいなんて、滅多なことを願うものではない。
そう分かっているけれど、今だけは彼女とのこの時間が永遠に続けばいいのにと、そう思ってしまう自分がいた。









それから数日後の夕方、不意にチクリと何かが指に刺さる感覚がして、目を覚ました。
少し離れたところにある窓からはオレンジ色の光が差していて、まだ起きる時間では無いことは確かだった。
再び目を閉じて眠ろうかとも思ったが、何だか手元に残る違和感が消えず、そのまま身体をベッドから起こす。

すると、どう言うことかベットの脇には身を隠すように身体を縮こめながらこちらを見つめる彼女の姿が見えて。
寝ぼけていた頭が一瞬のうちに覚醒する。

「お、おはよう、焦凍……その、今日は早いのね…」
「ああ、おはよう。」

あはは、と何かを誤魔化すような笑みを浮かべる彼女の利き手はぎゅっと握り締められていて。あまりにも不自然なその状態に、彼女が何かを隠し持っていることは明らかだった。

不意に思い出すのは、起きる前に感じたあのチクリとする感覚で。
ああ、そう言うことかと彼女の手に握られているものを理解すると、同時に小さな溜息が思わず口から溢れ出た。

「名前、縫針なんかじゃ俺の肌は傷つかないぞ。」
「そ、そうなの?!」

そう驚いた彼女は、もはや隠す事を諦めたのか躊躇うことなく握ったその手を開いてみせる。小さな手のひらには、予想通り短く細い縫針が一本だけ乗っていた。

どうして彼女がこんな怪し気なことをしていたのか。思い当たるのは、つい先日彼女に話したばかりの『吸血鬼になる方法』についてだった。

純血の吸血鬼の血を飲めば、吸血鬼になり永遠の命を手に入れることができる。
きっと彼女は針で刺した傷口から俺の血を飲み、吸血鬼になろうとしていたのだろう。

「…名前も、永遠の命が欲しいのか?」

ベッドの下にちょこんと座る彼女に静かに問いかける。
すると彼女はベッドに座る俺を見上げて、しっかりその首を縦に振った。

「うん、欲しいよ。」

思いの外力強く返ってたその答えに、逆にこちらがたじろいでしまう。
ああ、なんてことだ。彼女も他の人間達と同様に、この呪われた身体になることを自ら望むというのか。ショックで言葉に詰まってしまう俺に、彼女は言葉を続けていく。

「私、焦凍と同じ時間を生きたいの。
私一人だけどんどん年老いて、焦凍をここに残して死ぬなんて、そんなの絶対に嫌だ。」

真っ直ぐに俺を見つめる彼女の瞳は、いつにも増して真剣で。初めて耳にする彼女のその想いに、思わず目を見開き固まってしまう。

それはまるで、俺と共に永遠を生きていたいと、そう言っているみたいで。
トクン、と小さく心臓が跳ねる。

いや、多分それは都合のいい解釈に過ぎない。
もしかしたら彼女は、ここで一人で生きる俺をただ可哀想だと思っただけかもしれない。命を助けた恩を返したいから、優しい言葉を口にしているだけかもしれない。

事実がなんであったとしても、俺は彼女の想い応えることはできない。
彼女は神に愛され生まれてきた存在で、俺の様に老いもしなければ死にもしない、永遠の時に囚われ過ごす醜い存在には、決してなってはならないのだ。

「同情なら、しなくていい。誰かに先に逝かれることには慣れてるから。」

与えられた限りある命の時間を全うすることが、何よりも幸せな人生であるのだと、俺はよく知っているから。
誰よりも幸せであるべき優しい彼女が、俺の様になってはならない。

そんな俺の言葉に明から様に顔を歪めた彼女は、酷く悲しい声色で言葉を紡ぐ。

「そんな悲しいこと、言わないで。」

今にも泣き出しそうな顔をする彼女に、酷く胸が締め付けられる。

彼女がそんな顔をする必要が、一体どこにあると言うのだろうか。
一人孤独に生きる事は、そんなにも彼女にとって憐れなことなのか。

俺の気持ちを必要以上に汲み取って、こうして涙を零す彼女は誰よりも優しい。
だからこそ、きっと彼女に永遠の命は重すぎる。

「名前もそのうち人間の住む場所が恋しくなって、元いた所に戻りたくなる。」

何も無い森の奥でこんな俺と永遠を過ごすより、彼女は元いた人間の世界で人間らしくその生涯を遂げるべきなのだ。
ただひと時の感情で、終わりのない苦痛の時間と太陽に焼かれて死ぬ終わりなんて、選ぶものではない。
そんな彼女の姿など、見ていられる筈がない。

少し頭を冷ましたくなり、ベッドから身を起こし、そのまま寝室を後にする。
その去り際に、青ざめた顔をした彼女が「元いた、ところ…」と口にしたのに、俺は何一つとして気付かなかった。










その翌晩、起きた時には屋敷の中に違和感があった。

まず、いつも彼女が点けてくれているランタンが、今日は点いていなかった。
暗闇の中、廊下を歩いて食堂に向かうが、いつもみたいにいい匂いはしなかった。

まさか、本当に彼女は元いた場所に帰ってしまったのだろうか。そんな心の焦りを抑えながら、明かりのない部屋の中をじっと静かに眺めてみる。

彼女の、俺と一緒に生きたいと願う気持ちは、こんな一日で儚く消えゆくものだったのだろうか。
絶望に似た重く冷たい気持ちが一気に胸へと雪崩れ込む。

遅かれ早かれ、こんな日が来るということは十分理解できていた。寧ろ、俺にとっては好都合ではないのかと、自分をそっと問いただす。
このまま彼女との時間を重ねていけば、きっといつか何かの拍子にこの想いが溢れてしまうと思っていた。早々に彼女が俺の元を去ってくれたおかげで、その心配もなくなったのだ。

この酷く苦しい胸の痛みは、きっと時間が解決してくれる。
時間だけは余るほどあるから、問題ない。

くらくらとする頭を抱えながら、彼女の席へと腰を落とす。話が好きな彼女はいつも、起きている間はたくさん俺に話しかけてくれた。
彼女の声が消えたこの部屋は、こんなにも寂しい場所だったのか。
彼女が住む何百年も前からここに住んでるのに、初めて来る場所みたいに感じてしまう。

テーブルに顔を伏せていれば、不意に何かが擦れるようなキーッと高い音が聞こえて来る。
彼女だろうか。そう思い慌てて顔を上げて立ち上がるけど、そこには開いたままの窓が風に揺れているだけで。
力の入った身体は一気に脱力してしまう。

窓を開けたまま出ていくなんて、よっぽど早く去りたかったんだな。
そう思いながら、窓を閉めようと窓辺へ向かう。
すると窓越しには、いつも彼女が手入れをしていた庭の畑が目に留まる。

何だかそこは、いつもと様子が違う気がした。
吸血鬼の目は、暗闇でも大体のものはちゃんと見える。目を細め、ゆっくりと畑を見渡してみれば、そこは彼女が大切に育てていた野菜達が、沢山の足跡に踏み荒らされた跡があった。

これは、一体どういうことだ…っ!

憂いていた気持ちは一瞬にして消え去り、代わりに心が激しく焦り出す。先ほど閉めたばかりの窓を大きく開き、窓枠を蹴って目の前にある畑へと慌てて飛び出た。

着地した足元に散らばっているのは、どう見ても人間の足跡だった。
彼女のものとは違う大きくて重い男の足跡…それも複数人分が、遠慮なく彼女が手塩にかけて育てた野菜や苗を踏んでいて。
辺りを見渡していれば、夜風に乗ってほんの少しだけ、あの時嗅いだのと同じ彼女の血の匂いがした。

その瞬間に、一気に頭が真っ白になる。

不意に脳裏に浮かぶのは、あの雨の日に声を殺して泣いていた傷だらけの彼女の小さな背中で。
ふつふつと腹の底から湧き上がってくるこの感情は、生まれてこの方一度も感じたことのないものだった。



風の匂いに僅かに混じった彼女の血の匂いを辿ながら、夜の森を駆け疾る。
すると屋敷からだいぶ離れた獣道で、鎧を着た十数人の兵士達を見つけた。
列の真ん中には、何か大きな荷物のようなものを担ぐ兵士がいて。その肩に乗っているのが彼女であることは、考える間も無く理解した。

「名前…ッ」

兵士の持つ松明の火を全て消し去り、兵士の肩から彼女を素早く引き剥がす。しかし、彼女の足枷が兵士の持つ鎖に繋がれていて、思うように距離を確保することができなかった。

腕に抱いた彼女は意識がなくて、ぐったりとしていて。辛うじて浅く呼吸をしていることを確かめると、安堵のあまりホッと溜息が溢れでた。

「誰だ貴様ッ!…まさか貴様もこの魔女を…!」
「…魔女?」

松明に火を点け直した兵士たちは、次々と腰から抜いた刃物をこちらに向けてくる。そんな彼らから彼女を守る様に立てば、隊の長らしき男が言葉を続ける。

「この魔女は王国が管理しているものだ、誰にも渡さん…!」
「何言ってんだ。こいつは魔女なんかじゃねぇ、普通の人間だろ」

彼女が魔女である筈がない。本物の魔女は麗日のように魔法を使うが、彼女は魔法を使わない。それどころか、その身に魔力を微塵も感じない。
そんなことも分からない人間は、いつの時代も好き勝手に言いたい放題喚いている。

「ふん、何を言っている。こいつは王国の魔道士が召喚した別世界の生き物だ。決して人間などではない。」

穢らわしい、と顔を歪める兵士の男に、悍ましいほどの殺意が湧く。
しかしそれと同時に、彼女が何も語らなかったあの雨の日の事情が少しずつ見えてくる。

ああ、きっと彼女はこの世界に来てからずっと、人として扱われてこなかったのだ。
王都で酷い扱いを受けて、一人で沢山傷ついていたのだろう。
だからあの日、あんな傷を負ってまでして、コイツらから逃げ出そうと必死に足掻いていたのだ。
行く宛なんて無いはずなのに必死に走って、明らかに人ではない俺に「助けて」と何度も縋り付いたのだ。

それなのに俺は、彼女はまた元いたところに戻るなんて、酷い事を言ってしまった。
きっと彼女はあの時、嫌なことを思い出して一人で我慢していたに違いない。

「ごめんな、名前…」

後ろに庇っていた彼女の前に膝を突き、そしてその身体を力一杯に抱きしめる。

好きだ、愛してる。
自分ではもうどうにもならないくらい、名前のことが愛おしくて堪らない。

ゆっくりと腕の力を緩めて彼女の顔を覗き込む。目の前の兵士達にやられたのであろう傷が、彼女の身体には無数にあって。

名前…少しだけ俺に力を貸してくれ。
そう呟きながら、血の溢れる彼女の頬の傷口をそっと舌で舐めとった。

甘くて優しい味の彼女の血に、身体中に力が湧き上がる感覚を覚える。
生き物の血を啜った吸血鬼は、その血の量や相性に応じて力を得る。

その夜、俺は自分でも身に余るほどに大きな力を、彼女に貰った気がした。











意識のない彼女を抱えて屋敷に戻り、傷の手当をする。そこに広がっているのは、まるで2年前のあの日の光景そのものなのに、何かが全然違っている。

あの時はまだ、彼女にこんな想いを抱くなんて微塵も思っていなかった。
今感じているこの胸の痛みも、安堵も、焦りも、怒りも。全部全部、彼女が俺を変えたから感じることができているのだ。

血を流しすぎたからか、彼女の身体は少しだけ冷たくて。手当てが済んだ小さな身体をそっと毛布で包んでやる。

「本当は俺も、名前と一緒に生きたかった。」

ベッドの脇に腰を下ろし、瞼の開かない彼女の顔を眺めながら思ったままに言葉を紡ぐ。

「…こんな気持ちになったのは初めてだから、どうすればいいのか分からなかった。…結局、名前にあんなこと言っちまった。」

誰かの死には慣れてるとか、名前が元の場所に戻ってもいいとか。本当はそんなこと、心の底から思ってなんていなかった。でも、そんな強がったことでも言わなければ、自分の心が保てなかった。
本当は、永遠に俺と生きる事を望んでくれた彼女の言葉が嬉しくて堪らなかった。
でも、それは彼女を不幸にしてしまうと分かっているから、上手く言葉を選べなかった。

今更それを謝ったところで、彼女は許してくれるだろうか。
心が沈んでいく感覚に必死に耐えていると、不意に俺の指を何かが弱々しい力でそっと握った。

「うんん…私も、焦凍の気持ち、考えずにあんなことをして、本当にごめんなさい…。」

そんな少し掠れた小さな声が、静かな部屋に穏やかに響く。返って来るはずがないと思っていた彼女からの返事が耳に届き、思わず目を見開き驚いてしまう。
ゆっくりと瞼を開いた彼女は、今にも泣き出してしまいそうな顔で俺の顔を見上げていて。
心臓がぎゅっと掴まれるみたいに痛くなる。

「名前…っ」
「焦凍…私、帰って来れたの…?」
「ああ、そうだ。だからもう安心していい。…守ってやれなくて、怖い思いをさせて、ごめんな。」
「もう、なに言ってるの…焦凍はまた、私を助けてくれたでしょ。」

俺に触れる彼女の手を上からぎゅっと握り締めると、瞳に涙を溜めた彼女は「ありがとう、」と言いながらその目をきゅっと細めた。
そうではない。俺は、本当は彼女がこうなる前にちゃんと守ってあげなければならなかったのだ。そうでなければ、この吸血鬼の力は何のためにあるのか分かったものではない。
そんな後悔ばかりが頭の中に渦巻いていれば、不意に彼女はぽつりと言葉を放った。

「私も、ずっと焦凍といたい。」

それは、ここに来て最初に溢した俺の気持ちへの返事だった。
ハッとなって彼女の顔を見つめるが、どうしてかその表情は少しずつ苦しそうに歪んでいく。

「でもね…私ね、焦凍に隠してることがあるの…」

隠してること−−
その言葉を聞いて不意に浮かんできたのは、あの雨の日の傷だらけの彼女の姿と、さっき殺した兵士が言っていた言葉だった。

「…召喚された別世界の人間、ってやつか?」
「!…どうして、それを…っ」
「名前を連れ去った奴らがそう言ってた。」

俺がそう言えば、彼女はただでさえ血を失って血色が悪くなった顔を更に青くさせる。
俺から急に目を逸らし、ぎゅっと下唇を噛む様に、明らかに動揺していることが見受けられた。

「今まで騙していて、ごめんなさい…。
その、気持ち悪い、でしょ…」

いつも、どんな時も明るく笑っていた彼女が、一瞬にして酷く怯えるように震え始める。
別の世界で幸せに暮らしてきたのであろう彼女を無理やり召喚し、誰よりも優しくて温かい彼女の心をこんなになるまで傷付けるなんて。王都の人間達に、言葉にならないほどの怒りが込み上げる。

「名前のどこが気持ち悪りぃのか、俺にはこれっぽっちも理解できねぇ。」
「!…でも、王都の人達は皆んな私を気持ち悪いって…」
「それを言うなら吸血鬼の方が…俺の方が、人間にとってはずっと気持ち悪りぃ存在の筈だ。」
「そんなこと、ない…っ」

そう言って首を横に振る彼女は、冷たくて小さなその手でぎゅっと俺の手を握り返す。

「焦凍は優しい吸血鬼だよ…私のこと、助けてくれた…何も言わずにずっと側に置いてくれた…大事に、してくれた…っ」
「名前…」
「それがね、すごく嬉しかったの…この世界に来て初めて生きていたいって、思えた。」

『私、焦凍と同じ時間を生きたいの。』
あの時彼女が口にした言葉の意図が、今になって漸く確信に変わっていく。
その瞬間に、これまで彼女の抱いていた気持ちや想いが、心に染み渡るようにじわじわと熱く広がっていく。

心臓が、痛いぐらいに鼓動を刻む。
彼女を今すぐ掻き抱いてしまいたくなるのをぐっと堪える。

「私ね、焦凍のことが…」
「待て」

その表情から、その声色から、その瞳から。
彼女の次の言葉が分かってしまい、慌てて彼女の言葉を遮った。

ぴたりと言葉を止めた彼女は、不安気にその瞳を揺らしていて。
許されないと分かっていても、胸から溢れかえるこの想いに、もう蓋などできなかった。

「ダメだ。その先を言われたら…多分、もう俺はお前を離せなくなる。」

この永遠と続く呪いの様な日々の先に、彼女の幸せなんてない。
数百年も孤独に苦しみ続けたこの人生に、彼女を巻き込んで良いわけがないのだ。

そう理解しているのに、彼女を失いたくなくて、ずっと永遠に側にいて欲しいと思う自分もいて。
生まれて初めて抱くこの想いに頭の中がぐちゃぐちゃで、もはや何が正しい事なのかなんて分からない。

不意に、包帯だらけの彼女の手がゆっくりと俺の頬へと添えられる。
優しい手つきで頬をひと撫でした彼女は、ふわりと笑って俺に言った。

「離さないで、ずっと焦凍の側にいさせて」

それが彼女の望みであって、幸せな人生なのだと、そう言われている気がして。
これまで抑えていた気持ちが、一気に胸の中から込み上げてくる。

「好きだ、愛してる…ずっと一緒にいてくれ、名前」

彼女の冷たい手を握り締め、そっと顔を近づける。

初めて重ねた唇からは、ほんのりと俺の血の味がした。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -