波間にそっと優しく触れた



※プラスに掲載したお話に名前変換をつけてます。

 きりきりと弦の引かれる音が静寂の中に響き渡る。いつの間にか緊張感に包まれた空間は呼吸をすることすら許されないみたいで、ごくりと静かに息を呑んだ。
 ぴんっと伸びた背筋、真っ直ぐ的へと向けられた射抜く様な眼差し、そして真剣な横顔。どれ一つとっても言葉にできないほど美しいその姿に、煩い心音だけが耳の奥で鳴り響く。構えた矢の先で狙いを定める澄んだ瞳がここだと確信するように細められれば、その刹那、張り詰められた緊張が破断するかような乾いた音が響き渡った。
 彼の右頬を疾る風が、美しい白色の髪をふわりと攫う。そして次の瞬間にはタンッと的紙を破く音が聞こえてきて、慌てて視線を的へと移す。するとそこには、円の中心部に突き刺さる何本もの矢が存在した。

 彼が矢を射た直後には、おっとりとした溜息が幾つも耳に入ってくる。それは、さっきからずっと熱い視線で弓道場を覗き込む彼のファンの子達のものだ。
 容姿端麗で才色兼備、そんな言葉の似合う彼は、昔から男女問わず人気があった。当の本人はそれに全く気付いていない様子だったが、毎日部活の時間にはこうして弓道場の入口を女の子でいっぱいにする彼は誰がどう見ても人気者であった。
 一方、彼とは幼馴染という間柄である私はというと、何でもないただの普通の女子学生で。彼のように勉強や運動ができるわけでも無ければ、見た目が良いわけでも無い、自分で言うのも何だがパッとしない人間だった。そんな何の取り柄もない私を彼は倦厭することなく、ずっと側に置いてくれた。変わらず優しく笑いかけてくれた。だからきっと、こうして私が真っ逆さまに彼に恋に落ちてしまうのも、必然だった。
 しかし、私のような人間が彼に想いを抱くなど、あまりに無謀で愚かしいことだった。彼が本当は雲の上の存在なのだと知りたくなくて、自分も彼を慕う不特定多数と同じなのだと理解したくなくて、彼のファンの居る所にはなるべく行かないようにしていた。現実を突きつけられれば気後することなど目に見えていたし、そうなればこれまで通り彼の幼馴染でい続けられる自信がなかった。
 そんな中、彼からの事故の様な告白をきっかけに、私は彼の想いを知った。彼も私を好きだったなんて今でも信じられないが、彼がそんな冗談を言う人では無いことを私は十分理解していた。だから浮かれ切った心のままに、私は彼と恋人同士になったのだ。
 
 彼の手は休むことなく次の矢を取り的を射る。すると、その矢は吸い込まれるように的の中心部に当たっていく。それに一つも喜ぶ素振りを見せない彼は、きっと誰よりも高い所で闘っていて。胸がじんと熱くなる。次の矢に手を掛ける彼をじっと見つめていれば、不意に彼の視線がチラリとこちらに向けられる。色の違う美しい瞳が、真っ直ぐに私の姿を捉える。その瞬間に、ドクンと心臓が跳ね上がる。あっ…なんて呆気のない声が無意識に口から溢れれば、彼はすっと目を細めて優しい笑みを浮かべた。先ほどまでの真剣な表情とはまるで違うその顔に、完全に意表を突かれた私の思考は停止する。煩く騒ぎ立てる鼓動を何とか抑えようと胸の前で拳を握った。すぐ横では彼のファンの女の子達が「うそ…!ねぇ今の見た?轟くんこっち見て笑ったよね?」と騒いでいて、なんて罪な男なのだと心の中で悪態をついた。

 少し休憩を挟めば、彼は次に後輩の女の子に素引きの指導をし始めた。弓道部は他の運動部と比べると部員数が少なく、男女で部が分かれていない。それゆえ、彼を目当てに入部する女子生徒も少なくはないのだと、いつか隣の席の上鳴くんが言っていた。あの後輩の女の子はどうなのか、私にはよく分からない。しかし、焦凍くんと向かい合って指導を受ける彼女はどこか嬉しそうな表情を浮かべていて。何だか胸の中がモヤモヤした。歪な構えで弦を引く彼女の腕や手に触れる、焦凍くんの大きな手。恋人である私ですらまだ握ったことの無い彼の手が、彼女の手を握り正しい位置へと運んで行く。頬を赤らめながら頷く彼女は十中八九、彼を意識していると言えるだろう。しかし、彼は純粋に仲間の弓の上達を願ってやっている。そんな真剣な彼らに対してこんな気持ちを抱くなんて、どう考えても最低だ。このままではどんどん酷いことを考えてしまいそうで、少し頭を冷やそうと一人弓道場を後にした。

 弓道場のすぐ裏手にある水道場には、誰もいなかった。夕陽を避けるように木影に入り、胸に溜まったモヤモヤを溜息と一緒に吐き出した。
 不意に思い出すのは、弓を握る小さな手に触れる、大きくて綺麗な彼の手で。ずっと、触れてみたいと思っていた。恋人になって、いつかあの手に触れられる日がくるのだと心を躍らせていた。でも、彼との距離はたった数日では変わることはなかった。いつも通り隣に並んで歩いていても、指の一本も触れることはなくてもどかしくて。それなのに、恋人でもないあの後輩の女の子は当たり前のように彼に触れていた。
 私ばかりがそういうことを期待していて、勝手に妬いて、酷いことを考えて。本当に、情けない。いつから私はこんなに欲張りになったのだろう。温かい彼の手を一人想像しては、寂しくて堪らなくてぎゅっと拳を握り締める。
 すると、弓道場の方からこちらへと近づいて来る足音が聞こえて来て、ふと顔を上げる。そこには夕陽で袴を橙色に染めた彼が、肩で息をしながらこちらを見つめていた。

「こんな所にいたのか。」
「焦凍くんっ!?どうして…、」
「名前が中々戻って来ねぇから、休憩にして探しに来た。」

 そう言って私の元へと駆け寄った彼は、どこかホッとしたような表情をしていて。心配してくれていたのだと気付くと、一人でやさくれていたのが急に恥ずかしく思えてくる。慌てて誤魔化すような笑みを浮かべて「ごめんね、ちょっと気分転換してたの」と明るい口調で言ってみるが、何故か彼の表情はどんどん曇っていってしまう。

「何かあったのか…?」
「え?」
「すげぇ辛そうな顔、してる。」

 その言葉に、ハッとなって顔を伏せる。
 一体どうして、この男はこういう時だけ嫌に鋭くなるのだろうか。いつもは呆れてしまうほど人の気持ちに疎いくせに、触れて欲しくない時に限ってこんなに優しい声色で聞いてくる。
 膝を折って私の顔を覗き込む彼の瞳が穏やかで、色んな気持ちが胸から溢れそうになる。
 焦凍くんに触れたい、そう素直に言ってしまえば彼はどんな反応をするのだろう。急に何だと怪訝そうな顔をされるだろうか。そういうのは違うだろと断られたら、私は…。
 結局、誤魔化すような言葉しか頭に浮かんで来なくて戸惑っていれば、不意に少し高めの可愛らしい声が彼の名前を呼んだ。ドキリと跳ねた心臓のまま声がした方へと視線をやる。そこには、先ほどまで彼が素引きの指導をしていた後輩の女の子が立っていた。
 無意識のうちに片足が一歩後ろへ後ずさる。そんな私に彼女はほんの一瞬だけ目を向けるが、すぐに彼へと視線を戻し何ともない様子で言葉を続けた。

「あの、轟先輩。もしよければ今日、一緒に帰りませんか?」

 もっと上手になりたいので、帰り道もアドバイスをして欲しいです、なんて取って付けたような理由を並べる彼女に、心が酷く動揺する。
 焦凍くんは今日、彼女と帰ってしまうのだろうか。こんなに真っ直ぐに彼を慕う後輩と、私とはできない弓道の話をしながら帰るのだろうか。
 明らかに2人の邪魔になっている私は、この場にいてはいけない気がして。物音を立てないようにそっと立ち去ろうとする。
 しかし、その企みは急に伸びてきた彼の手によって阻まれる。

「わりぃ、彼女と帰るつもりだから、お前とは一緒に帰れねぇ。」

 一体何が起きているのか分からないまま、私の手をぎゅっと握る焦凍くんの手に意識がいく。
 彼の大きな右手は、想像よりほんの少しだけ冷たくて。ごつごつとした骨ばった手は、小さい頃によく繋いでいた手とは全く違う、男の人のものだった。
 どくどくと波打つ鼓動の音が煩くて、繋がれた左手にしか意識がいかない。目の前の後輩は慌ててその場を去っていくけど、そんな彼女に目もくれることなく焦凍くんは再び私の顔を覗き込む。

 徐々に近付いて来る、彼の端正な顔。
 息も触れそうな至近距離に彼の澄んだ眼差しがあって、どくどくと心臓が大きな音を立てる。私を見つめる彼の瞳はどこか熱っぽくて、頭の中が真っ白になってしまう。
 伏せられる彼の瞼からは、長い睫毛が生えていて。ゆっくりと重なる唇は温かくて、柔らかい。
 優しく触れた唇は、そっと静かに離れていく。そして今何が起きたのかを漸く理解した私の顔は、みるみるうちに熱くなる。

「い、今そういうタイミング、だった…?」
「わりぃ…その、名前が可愛かったから、ついしちまった…。」

 初めてだから色々考えてたのに、結局我慢できなかった。と少し照れながら真面目に白状する焦凍くん。その言葉に、触れたいと思っていたのは私だけでは無かったのだと理解すると、嬉しさが胸いっぱいに広がっていく。

「ねえ、どんなこと考えてたの?」
「絶対言わねぇ…言ったら笑うだろ。」
「笑わないよ、」
「もう笑ってる。」

 そう言って私の頬を両手で挟んだ焦凍くんは、不貞腐れるような表情を一転させ、愛おしくて仕方がないと言うような表情を浮かべる。

「なあ、名前…もう一回してもいいか?」

 そんな甘く痺れるような言葉に、私の心臓は一際大きな音を立てた。




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