その世界は恋をしらない



「焦凍くん…っ、」

誰もいない寮の廊下で突然、普段は呼ばれることのない自分の下の名前が聞こえてくる。
透き通った耳心地のよいその声には、どうにも身に覚えがない。一体誰なのだろうかと疑問を浮かべながらも、静かに背後を振り返る。

すると、そこには顔も名前も知らない女子が、何故か心配そうな表情を浮かべて俺の顔を見つめていた。









その日は丁度、夏のインターンシップの最終日だった。偶々インターン先でチームアップが一緒だった緑谷と、久々に帰る寮への帰路を心を弾ませながら歩いていると、災難なことに敵に出会してしまった。
路地から突然出てきたその小太りの男は、何やら怪しげな紫色のガスをいきなり自身の身体から放ち始めた。その行動に完全に意表をつかれた俺たちは、気付けばそのガスを全身に浴びてしまっていた。慌ててガスを払い除け、薄っすらと姿の見えた敵を氷で拘束する。すると、その場に滞留していた残りのガスもすぐに何事もなかったかのように消えていった。
一般人に怪我はなく、ガスを少しばかり吸ってしまった俺たちもまた、お互いに身体に異変を感じるところはなくて。ただ念のため、学校へと戻ったその足でリカバリーガールの元へ行き診察を受けたが、そこでも身体への心配は特になさそうだと言い渡された。

しかし、異常はそのすぐ直後に現れた。

どこからか緑谷の帰還を聞きつけたオールマイトが保健室へと入って来ると、緑谷は恩師である彼に向かって「こ、こんにちは…。」とよそよそしい会釈をし、他人行儀な素振りを見せたのだ。一瞬、緑谷が何を言っているのか理解できずに「オールマイトと喧嘩でもしたのか?」と尋ねると、緑谷は心底不思議そうな顔をして「オールマイト…って、誰のこと?」と返してきた。これには流石に当の本人であるオールマイトも驚愕しており、すぐにリカバリーガールの記憶に関する問診が始まった。
その結果、緑谷はあの人生の全てだと言っても過言ではないほど大ファンであり恩師だったオールマイトのことを、本当に全て忘れているのが分かった。

その問診は勿論、同じガスを浴びた俺にも同様に行われた。しかし、緑谷とは違い友人や家族の記憶を全てはっきりと覚えている俺は、本当に何かを忘れてしまっているかすら分からない状態だった。
何はともあれ敵の個性について不明確な点が多く、このままでは対処方法の見当すらつかないため、まずは相澤先生に現状を報告して警察に個性の詳細を確認して貰おうという流れで話が纏まった。
そして、今日はもう遅いからと言われた俺たちは、若干の不安を胸に抱きながら皆が待つ寮へと戻った。


オールマイトを忘れてしまった緑谷の話は、その日のうちに瞬く間に寮中へと広がっていった。
あのオールマイトオタクの緑谷が…と皆んなが唖然とする中で、「つーかお前、自分の部屋見たら吃驚するんじゃね?」と発言した上鳴達によって、緑谷は自室へと連れていかれる。自分の部屋の記憶が殆ど無いという緑谷は、扉を開けた先にある光景を見るや否や腰を抜かして驚いた。

そんな緑谷の様子に「個性って本当怖ぇーな、」と皆んなで騒然としていれば、不意に瀬呂が「んで、轟の方は一体何を忘れてんの?」と尋ねてくる。それに首を振りながら「いや、まだ分からねぇが、多分そんなに大したことじゃねぇと思う。」と軽く返事をした。

きっと俺も何かを忘れてしまっているのかもしれないが、忘れた当の本人は何を忘れているかなど分かるはずがなくて。
家族の記憶、クラスメイトの記憶、最近受けた授業の記憶…大切なことは何一つ忘れていないことに、自分は不幸中の幸いだったのではないかと少し思った。

スマホでメッセージアプリを開くまでは。


緑谷の部屋から自室に戻る道すがら、俺の名を口にして何も言わずに去っていった女子がいた。全く見たことのないその姿を不思議に思いながらも、まあ何でも良いかと思って足を進めた。今日は色々あって疲れていたから、とにかく早く部屋に戻って休みたかったのだ。
自室に戻り、座椅子に座って一息つけば、そのままポケットに入れていたスマホを手に取る。いくつか新着通知が来ているメッセージアプリを開いてみれば、トーク画面の一番上には『名字 名前』という見覚えのない名前が表示されていて、思わず言葉を無くしてしまう。

この人は、一体誰なんだ。

そう思いながら、恐る恐るトーク画面を開いてみると、そこには全く身に覚えのない会話が頻繁にやり取りされていて。その殆どが、本当に自分が打ち込んだのかと疑いたくなるような言葉の数々で、思わずぞっと肌が粟立ってしまう。

『早く名前に会いてぇ』
『今から部屋行ってもいいか?』
『さっき他のクラスの奴と一緒にいたよな。何話してたんだ?』

そんな身に覚えのない彼女とのメッセージを読み返していれば、不意に保健室での緑谷とオールマイトのやり取りが頭の中に甦る。

ああ、そうか。
間違えない、俺は今この人のことを忘れてしまっているのだ。

そして多分この『名字 名前』という人物は、さっき廊下で俺に話しかけてきた女子のことだ。

そこまで考えれば、あの時彼女が自分の名を口にしたことも、彼女の顔も名前も知らない自分も、全てがストンと腑に落ちた。

『焦凍くん…っ、』

あの時、振り返った先にいた背が低い彼女は、とても綺麗な瞳で俺のことを見上げていた。その瞳からは、俺のことを心底心配する気持ちと共に、何かを期待するような感情が僅かに見えて。初対面である筈なのに、そんな何だかよく分からない目をする彼女のことが、少しだけ嫌に思えてしまった。

疲れていたのも相まって、気がつけば俺は彼女を突き放すように「誰ですか?」と冷たく言葉を返していた。

それを聞いて目を大きく見開いた彼女は、次の瞬間にはとても悲しそうに顔を歪め、何も言わずに俺の前から立ち去った。

手元のスマホに表示されているメッセージアプリに目を向ける。
彼女は、俺の恋人だったのだろうか。
生まれてこの方、恋人なんて存在とは全く無縁だった俺には、彼女をどうすれば良かったのかなんて分からない。それに、言っては何だが今の俺にとって彼女は全くの他人であって、恋人らしいことがしたいなんて一つも思わなくて。
でも、彼女はきっとそうではない。次に会った時にまた恋人としての自分を求められるのではと思うと、ほんの少しだけ憂鬱な気持ちになってしまった。









翌日、インターンの補講授業で当たり前のように同じ教室の席に座る彼女の姿に、言葉にならない違和感を覚えた。誰にも気づかれないように、前方に座る彼女をそっと盗み見る。彼女は随分と物静かで大人しい性格らしく、休憩時間も自分から誰かに話に行くことはなく、ずっと一人で過ごしていた。偶に他の女子達に話しかけられれば、下を向いていた顔を上げて柔かい笑みを浮かべていて。彼女はこんな風に綺麗に笑うんだな、なんてことを不意に心の中で思う。

彼女はきっと、悪い人では無いのだろう。
いや寧ろ、凄く良い人なのだろうと直感的に理解する。

彼女のことが気にならないといえば、嘘になる。正直なことを言えば、今も静かに一人で過ごす彼女と話をしてみたいとは思うし、彼女のことをもっと知りたいとも思う。
でもきっと俺が話しかければ、彼女は色んな期待をする。彼女との記憶が一欠片もない俺は、その期待に応えられる自信がなくて。
気が付けば、彼女と話をするどころか、彼女のことを避ける様になっていた。

そうして何日かが過ぎていったが、その間、意外にも彼女から俺に話しかけてくることはなかった。
それだけではない。俺がこうなる以前は毎日のようにメッセージを送り合っていたというのに、今は彼女からのメッセージは一通も来なくて。
そんな彼女の反応に、どうしようもなく胸が騒ついた。

そもそも、俺と彼女は本当に恋人関係だったのだろうか。そんな思いがぐるぐると頭の中を渦巻くばかりで、だからある日それとなく緑谷に尋ねてみた。「俺と名字って、仲良いと思うか?」と。
すると、緑谷はどうしたの急にと少し驚きながらも、「特別仲が良いと思ったことはないけど…」なんて言葉を返してきて。顔には一つも出さなかったが、内心はこれでもかと言うほどに驚いていた。
緑谷は、どうやら俺と彼女の関係を知らないみたいだった。

確かに思い返しみれば、緑谷を含めたクラスメイトの反応にはいつも、俺と彼女の間に特別さがなかった。もし俺たちが恋人関係であることを皆が認知しているなら、記憶を忘れたあの日、誰もが真っ先に彼女のことを覚えているかを聞いてきた筈。それに、こんなに何日も会話のない俺たちを、きっと不審に思うはずなのだ。

俺と彼女は、本当はどういう関係だったのか。
残されたメッセージアプリの内容と、悲しそうな顔を最後に会話が途絶えた彼女と、何も知らない周りの人の反応と。
全てが可笑しなほどに繋がらない。
それを繋ぎ合わせる方法はただ2つ、俺が記憶を取り戻すか、彼女に俺たちの関係を尋ねるかのみ。

しかし、その両方をいつまでも出来ずにいれば、気づけば1週間が経っていた。

その頃、緑谷は徐々にオールマイトの記憶を取り戻し始めていたが、俺は相変わらず彼女を忘れたままだった。
本当に、記憶が甦る気配すらない。もしかしたら一生、俺は彼女のことを忘れたままなのかもしれない。そう思うと焦りや戸惑いで胸の中がいっぱいになって、何も手に付かない日も出てきてしまった。

そんなある日、寮の共有スペースで緑谷がある提案を持ちかけてきた。

「…夏祭り?」
「うん、今年も近所の神社で開かれるみたいだよ。」

「轟くんも、どうかな?」とスマホでサイトを見せながら緑谷は首を傾げた。夜にはどうやら花火が上がるらしく、スマホの画面には綺麗な花火の写真が写っていて。何故だか分からないが、無性に胸が騒ついてしまう。

「ああ、いいな。そういうの初めてだ。」
「ん?…去年もクラスの皆んなと行ったよね?」
「そうだったか?」

全く身に覚えのない去年の夏祭りに、俺も緑谷も目を丸めたまま固まってしまう。そう言えば、去年の今頃の記憶はかなり曖昧な気もしてくる。たった一年しか経っていないというのに、どうして何も思い出せないのか。顎に手を当て悩んでいれば、突然ハッとした表情を浮かべた緑谷が少し慌てた様子で言った。

「もしかして轟くん、あの敵の個性で記憶を消されちゃったのかな?」

去年の夏祭りの記憶が消えるなんて、すごいピンポイントな効果だ…。といつものようにブツブツと言い出した緑谷を横目に、少し考える。
きっとこれも、彼女のことを忘れているからなのだろかと。









夏祭りの当日、寮で待ち合わせをしていた緑谷と飯田達と共に近所の神社へとやってきた。
いつに無く人だかりのできたそこは、蒸し暑い熱気に包まれているにも関わらず、どこか胸を焦がした。出店が沢山並んでいて、提灯や屋台のライトでキラキラと辺りが輝いていて。初めて来たはずなのに、何故だかとても懐かしい気がしてしまう。
記憶が無いことを気遣ってか、緑谷や飯田は俺に色んなことを丁寧に教えてくれる。でも、やったことのない筈の金魚掬いも射的も、不思議と彼らの説明無しにどうやるのかが分かってしまう。きっと、前に動画とかで見たのかもしれない。

そんな中、偶然にも浴衣を着た麗日達と合流した。女子はどうやら全員でこの祭りに来ているみいだと考えていれば、不意に彼女の姿だけがどこにも無い事に気付いてしまう。
大人しい彼女は、きっとこういった騒ついた所はあまり好きじゃ無いのかもしれない。
そう自分の中で何となく思ってみるものの、何故だか腑に落ちない気持ちが胸に残って、モヤモヤとしてしまう。

だから、すぐ隣を歩く麗日に何となく尋ねてしまった。

「名字は、一緒じゃねぇんだな。」

ボソリと呟く様にそう口にすれば、彼女の話題が上がったのが不思議だったのか、麗日は少しだけ驚いた様に目を丸めて言った。

「うん、そうなんよ。なんか名前ちゃんは今日は別の用事があるみたいで…。」

残念そうに眉を下げる麗日に、「そうか。」とだけ返事をする。用事があるのならば、仕方がない。
それに、彼女がこの場に居たとしても言葉を交わせる自信がない。きっと彼女も目すら合わせてくれないだろう。当たり前だ、初日にあんな態度を取ってしまった俺のことを、彼女はよく思っていない筈なのだから。
それなのに、彼女がここに居ないことを何故か残念に思っている自分がいて。自分でもよく分からないこの気持ちに、戸惑いが隠せない。

皆が射的に夢中になっている最中、ふと直ぐそばにある木に貼り付けられたポスターの花火が目に入る。
するとその瞬間に、脳裏には断片的な映像がポツリポツリと浮かび上がる。

夜空いっぱいに咲く花火は、それはそれは綺麗だった。
でも、それすらも霞んでしまうぐらいに、隣で花火に夢中になっている彼女の横顔がとても美しかった。
そんな彼女が不意に俺の方へと目を向けると、穏やかな声色で静かに言った。

『来年も、一緒に来ようね。』

少し照れながら笑う彼女が愛おしくて堪らなくて、そっと彼女の肩を自分の方へと抱き寄せた。

思い出したのは、たったそれだけの記憶だった。
それでも俺は確かに彼女のことを愛していたのを思い出し、胸が苦しくて辛くなった。
よく分からないが愛おしくて大切な彼女の記憶が、そうでない今の俺の記憶と混在していて、頭の中がぐちゃぐちゃで。どうすれば良いのか、自分でもよく分からない。

混乱で頭がいっぱいになる中、ふと記憶の中で彼女が言っていた言葉を思い出す。
来年も一緒に、と言う事はつまり今年…いや、今日一緒に祭りに来ようという約束をしていた訳で。
何だかとても嫌な予感が頭によぎり、あれからずっと開かずにいたメッセージアプリの彼女とのトークを慌てて開く。

そして、メッセージのやり取りをずっと遡っていけば、そこには確かに書いてあった。
『お祭りの日は、17時に裏門の前で待ち合わせよう』『皆んなに気付かれないようにね。』と。

そのメッセージを見た途端、全身の血の気が失せる感覚に陥ってしまう。
彼女はきっと、別の用事で来れない訳ではない。俺と一緒にここに来る約束をしていたから、麗日達の誘いを断っただけなのだということに漸く気付く。

スマホに表示されている時刻を確認すると、もう19時を回ろうとしていて。
きっと彼女は、もう待ってなどいない。そもそも俺の記憶が戻っていないことを彼女は知っているはずで、態々待ち合わせになど来るはずがないのだ。

そう思っているのに、彼女が待ち合わせの場所に居ないことを確認するまでは、どうしても気持ちが落ち着かなくて。

「緑谷、飯田、悪りぃ…ちょっと用事思い出したから先に帰るな。」

射的がからっきしだと笑う緑谷達に突然そう告げると、「え、これから花火なのに?!」と驚いた様に目を丸める緑谷。「轟くん、夜道は暗いから気をつけて帰りたまえよ…!」と俺の身を按じてくれる飯田にしっかりと頷き、嫌に騒ぐ胸を抑えながら必死に裏門まで走った。


きっと彼女は、待ってなどいない。
記憶を忘れてしまった俺のことを待っても無駄であることを、彼女は良く分かっているはずなのだ。

それでも、彼女を大切に想う自分の記憶が、彼女を探せと焚きつける。
今年も一緒に来ようと1年も前から約束していたのに、彼女を置いて来てしまった自分が心底いただけなくて、ぐっと奥歯を噛み締める。

個性の氷を使いたくなる気持ちを抑え、校舎の裏手を駆け抜けるように必死に走る。
すると、もうすぐ裏門だというところで、街灯の下に一人ぽつりと佇む人影が見えた。

そんなまさか、と心臓がドクドクと音を立てる。

そこには綺麗な浴衣を身に纏った背の低い女性が一人、足元を見つめながら立っていて。
近付けば近付くほどに、その影は彼女の姿に見えてくる。

約束の時間は17時で、今は19時を少し過ぎている。と言うことは、彼女は2時間も前からずっと、ここで待っていたと言うのだろうか。他でもない記憶を忘れた俺のことを、こんなにも暗いところで一人でずっと、待っていたと言うのだろうか。

慌てて駆け寄ってきた足音が聞こえたのか、彼女がハッとした顔を浮かべながら、ゆっくりとこちらを振り返る。

涙で濡れた綺麗な瞳と目が合えば、胸が痛くて堪らなくなった。

「焦凍くん…?」

あの日のように俺の名前を呼んだ彼女は、何かを耐えるように唇をぎゅっと噛み締める。
ほんの一部の些細な記憶を取り戻しただけなのに、今は彼女の気持ちが痛いぐらいに理解できてしまう。

「名字、悪りぃ、その…遅くなっちまった。」

その言葉を聞いた彼女は少しだけ目を丸め、そしてまたいつものように下を向いてしまった。
きっと、俺の記憶が戻っていないことを察してしまったからだろう。

「うんん…、轟くんが来てくれただけでも、嬉しいから…。」

涙で濡れた顔を隠し、明るく振る舞おうとする彼女の様子に、胸がぎゅっと掴まれているみたいに痛くなる。
こういう時、記憶が無くなる前の俺は彼女にどう接していたのだろうか。今すぐにでもその涙を拭ってあげたいと思うのに、どうやってそれをすれば良いのかなんて一つも分からなくて。

「何でこんな時間になってもまだ、俺のことを待ってるんだよ。」

普通なら、来るかどうかも分からない相手のことを2時間も待ったりしないだろう。
そう静かに問い掛ければ、彼女は少しだけ寂しそうな顔をして答えた。

「焦凍くんと約束したから、」
「それは記憶が無くなる前の俺との約束で、名字は今の俺にそれを守る必要なんかねぇだろ。」

そんなものを守ったところで、意味などない。当の本人である俺が何も覚えていないのだから。そう思う度に、記憶を無くしてしまった愚かな自分に苛立ちが積もる。
すると、彼女はその言葉を別の意味で捉えたらしく、その身を縮めながら呟く様に小さく言った。

「ごめんなさい…その、記憶が戻れば、会いに来てくれるかも知れないと、思ったから…」

そんな今にも消えてしまうそうなほどか細い言葉に、俺は思わず言葉を失ってしまう。

彼女は、俺の記憶が戻るかもしれないと思って、ずっとここで待ってくれていたのだ。

きっとそれは今日だけではない。彼女はずっと今まで、俺の記憶が戻るのを何も言わずに一人で待ってくれていたのだ。
記憶を忘れた俺よりも、ただ一人忘れられてしまった彼女の方がずっと寂しくて不安だったに違いないのに。
それなのに、俺は彼女に記憶を忘れる前の自分を求められたくなくて、彼女に冷たく接してしまった。声を掛ける勇気がなくて、ずっと一人にしてしまった。
彼女はただ俺を気遣って、こうして黙って待ってくれていたというのに。

「でも、こういうの嫌だよね……これから気をつける…。」

そう言って、彼女は巾着を握る両手に力を込める。
違う、そうではないと言葉を発する前に、先に彼女の口が次の言葉を吐き出した。

「…じゃあ私はもう寮に戻るね。来てくれて、ありがとう。」

顔を上げて、今にも泣き出してしまいそうな顔で笑顔を作る彼女に、心臓が張り裂けてしまいそうな痛みに襲われる。
下駄を鳴らして反対を向き、そのまま立ち去ってしまおうとする彼女。
その小さくて頼りない手を、咄嗟に掴んで引き留める。

「おい、待て…っ!戻るって、なんでだ…名字はまだ祭りに行ってねぇんだろ…っ、」

来るかも分からない俺のためにこんなにも綺麗な浴衣まで着て、祭りに行かずに帰るなんて。そんなの、あんまりすぎる。
彼女は驚いた顔で振り返り、そして少し戸惑った様子で俺の顔を見上げていて。

「もし名字が嫌じゃなきゃ、今から一緒に行かねぇか…?最後の花火は、多分まだこれからだと思うから、」

誰が何と言おうとも、このまま彼女を一人にはさせたくなくて。彼女の手を握る掌に自然と力が篭る。
そんな俺に、彼女は悲しそうに眉を下げて首を横に振った。

「無理に私と一緒に居なくてもいいんだよ。ここで待ってたのも、私がしたくてしただけだから…」
「違う、無理なんかじゃねぇ。俺が名字と2人で行きたいんだ。」

不意に、大きな花火が咲いた後に微笑む彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

「去年一緒に見た花火、すげぇ綺麗だっただろ…っ!
名前と2人で、また見てぇんだ…っ!だから、」

そう口にした途端に、脳裏にはこれまでの彼女との思い出がじわじわと蘇ってくる。

俺はずっと、彼女のことが好きだった。
物静かで大人しいのに、笑った顔が人懐っこくて可愛くて。
他人思いで誰よりも優しいけれど、どこか危うい彼女のことが、ずっと前から好きだった。

だからあの日、わざと皆んなとはぐれて、内緒で2人きりで花火を見た。それで、そのまま勢いに任せて彼女に好きだと告白した。
恥ずかしそうに照れながら、彼女も同じ気持ちであることを伝えてくれた時は、嬉し過ぎてどうにかなってしまいそうだった。

絶対に大切にするのだと、ずっと側に居て悲しませたりはしないと、そう誓った筈なのに。
俺はこんなにも呆気なく彼女のことを忘れてしまって、彼女を一人きりにしてしまった。
記憶を忘れてしまっていたとはいえ、あんなにも冷たく彼女に接してしまった自分が腹立たしくて仕方がなくて。胸の中は激しい後悔の気持ちでいっぱいになる。

そんな俺の様子を見た彼女は、恐る恐る俺の下の名前を口にする。

「焦凍くん…?」

たったそれだけのことなのに、これまで感じたことのない程の愛おしい気持ちが込み上げて来て。
気付けば彼女の身体を、ぎゅっと力いっぱいに抱きしめていた。

「…名前のこと忘れちまうなんて、俺は本当に最低だ。」
「!」
「すげぇ可愛い浴衣まで着てくれた名前に、こんな顔させちまって…俺は何してんだろうな。」

綺麗に結われた髪をそっと撫でてながら、「ごめんな、」と何度も言葉を繰り返す。
そんな俺の腕の中で、名前はふるふると首を横に振る。

「いいの、そんなの気にしなくていい…。焦凍くんが戻って来てくれたなら、もう何でもいいの…っ」

そう言って、ゆっくりと俺の背に手を回した彼女は、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。少しだけ震える彼女の手は、ずっとこうしたかったのだと言うように力一杯に服を掴んでいて。
胸の中がぶわっと熱くなっていく。

「ごめんな…待っててくれて、ありがとう。」

彼女の寂しい思いを掻き消すように、真夏の蒸し暑さなど構うことなく腕に力を込めていく。
すると、腕の中で小さく頷いた名前は、髪が崩れることも気にせず俺の胸に頬や耳を擦り寄せてくる。まるでこれが嘘ではないのを確認するかのように俺の熱を確かめる彼女は、とても愛おしくて堪らなくて。ずっとこうして腕の中に閉じ込めてしまいたいと、思ってしまう。

一体どれぐらいの時間をこうして抱き合って過ごしたのかは、分からない。
でもそれなりに時間が経ってしまっていることは、何となく分かった。
甘えるように俺の身体にしがみつく彼女が可愛くて忘れていたが、もうすぐ花火が上がる時間で。名残惜しくも彼女を抱く腕をそっと緩めると、彼女もまた俺に回した腕をゆっくりと緩める。

「足辛くねぇか?俺の部屋からでも多分花火は見えると思うけど、どうする…?」
「…うんん平気、大丈夫だよ。」

そう言って首を振る彼女は「…それに、きっとこれが最後になるから。」と少し寂しそうな顔をしていて。
来年には俺も彼女も雄英を卒業してしまうため、この小さな地元のお祭りには容易く足を運べなくなる。だから彼女は、今年が最後だと言っているのだろう。
そんな彼女の手を取り、優しくそっと包み込む。

「卒業しても、一緒に来よう。来年も再来年もその先も、ずっと。」

例えどんなに遠くにいたとしても、どんなに多忙で大変でも、名前が望むのならば絶対に毎年ここに来ることを約束する。
だから、もうこれ以上名前が寂しい思いをする必要はないのだ。
もう2度と、彼女にそんな思いはさせたくないから。

俺の言葉に少し驚いたように目を丸めた名前は、嬉しそうに目を細めながら頷いた。


プロヒーローになっても、結婚して子供ができても、ヒーローを引退しても、ずっとこの小さな神社のお祭りを楽しむことになるのは、この頃の俺たちはまだ知らない。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -