余白をかじる



『今晩、久々に会いに行ってもいいか?』

そんな一通のメッセージが入ってきたのは、昼過ぎのこと。何気なくスマホを手に取りHNを眺めていたところに、何の前触れもなくその一文は送られてきた。
慌ててメッセージアプリを開くと、そこには『轟焦凍』の名前で未読のメッセージがあって。まさか、見間違いではと何度か瞬きをするが、視界の文字は何一つとして変わらない。ごくりと息を飲みながらメッセージを開けば、そこには短く用件だけを告げる一文が映し出される。
余計な言葉や絵文字のないシンプルな一言が、実に彼らしい。
無表情でそれを打つ彼の姿を想像してしまい、思わず口元が緩んでしまう。

もちろん、大丈夫だよ|
何も考えず、勢いのままにそうメッセージを打つが、途中でハッとなって文字を消す。
どうしても、今日は彼とは会えない事情があることに気付いてしまったからだ。

本当は、かなり久しぶりである彼に会いたい。会って、会えなかった時のことを沢山話したい。最後に目にした穏やかで甘い笑顔が愛しくて、優しく私を包み込む腕の温もりが恋しくて。少し思い出すだけで胸がどくどくと騒ぎ出す。
でも今日は会えない、会ってはいけないのだ。
文字を消したきり次に何を打てばいいのか分からない中指は、ただ画面の上で途方に暮れる。
今日も明日も非番な私は、本当はいつだって彼に会う事ができる。でも、そうではない。彼は別に私と会うためだけにこうして誘いのメッセージを送っている訳では無いのだから。

不意に視線を落とし、包帯だらけの自身の身体をじっと見つめる。
一昨日の敵との戦闘で、久しぶりに激しく怪我をしてしまった。所々骨が折れているらしく、医師からは1週間は絶対安静にするようにと言い渡された。もう傷口は殆ど塞がっていて、身体は動かせない程ではない。しかし身体中の至る所に痣や傷口が散らばっていて、見るに堪えないぐらい汚くて。
こんなの、全然大丈夫などではない。
スマホを握る手にぎゅっと力が入る。

私と轟くんは元同級生という関係であり、そして内緒だが、身体だけの関係でもあった。
いつからかなし崩しにそんな関係になってしまった私たちは、偶にだがこうして密かに会っては身体を重ねている。そこに愛なんてものは一つもなくて、あるのはお互いに溜まった欲を貪り合う時間だけ。それが終われば、何事もなかったかのようにただの友人に戻っていく。
そんな関係を、かれこれ何年も続けていた。

学生時代からの友人である私は彼にとって信頼も厚く、そして何より気軽に会える手頃な人間なのだろう。
そして私も、そんな彼を利用している。
彼の求める便利な女で居続け、彼に会うための口実を作っている、狡く呆れた女なのだ。

本当は、こんな関係になるずっと前から、私は彼のことが好きだった。
プロになってからは顔を合わせる機会が激減し、こんな叶わない想いなど忘れてしまおうと何度も何度も次を探した。しかし、大人気ヒーローショートの影は至る所に存在して、1年かけても上手く忘れることなどできなくて。そんな最中、私の気持ちを燻るように、彼は私の目の前に現れ、そして偶然が重なり身体の関係を持つようになったのだ。

彼は私に恋人のような甘い関係でいることを望んでいるわけではない。
そのことを知っているから、狡い私は彼への恋心を黙ったままで過ごしている。好きだと悟られないように平気な顔を貼り付けて、私から彼を求めるような言葉は絶対に口にしない。そうすれば、彼が私を不快に思うこともない筈で、少しでも長く彼の側に居続けられると、そう思っていた。

だけど、そうして何とか上手く繋いでいた彼との関係は、半年前に急に途絶えてしまった。
最初のうちは、彼は忙しい人だからと自分に言い聞かせ、彼から連絡が来るのを待っていた。しかし、一向に来る気配のない彼からの連絡に、もしかしたら最後に会ったあの日、私は気付かぬうちに彼の機嫌を損ねてしまっていたのではという不安に駆られた。だけど、その真意を確認したくても、私から彼に連絡することなんて出来なくて。

そうして途方に暮れている中、実に半年ぶりに彼からそのメッセージが送られて来たのだ。
もしかしたら、私は彼に嫌われていた訳では無かったのかもしれない。嬉しさと安堵で心が晴れていく一方で、どうしてこのタイミングなのだと思わずため息が溢れ出る。

こんな傷だらけで醜い身体を、果たして彼は抱いてくれるのだろうか。
ただでさえ私の身体は女性らしい魅力的なものとは程遠いのに、こんな傷や痣まであるなんて。一体誰がこんな酷い身体に欲情し、触れたいなんて思うだろう。
きっと彼も幻滅してしまうに違いない。

だけど、もしこのまま『今日はダメだ』と誘いを断ってしまったら、この先もっと彼は私を誘わなくなってしまうのではないだろうか。
私でなくてもいいと言って、彼は別の女性の元へと行ってしまうのではないだろうか。
そんな事は絶対に無いなんて、私には言い切れない。彼との関係を求める女性など、この世界にはごまんといる。その中には私が気後れするぐらい魅力的で素敵な女性が沢山いることぐらい、考えなくても分かることだ。

優しくて温かい彼の腕に抱かれたのはもう随分と前の記憶なのに、その感覚は今でも鮮明に思い出せる。
今もずっと恋しくて堪らないのに、それが誰か他の女性のものになるなんて、考えただけでも胸が張り裂けそうになる。

彼が私を好きになることなど、あり得ない。
そんなことはもう充分過ぎるほどに理解している。
それでも私は彼が好きで好きで、どうしようもないほどに溺れているのだ。

この身体中に巻かれている包帯を全部剥ぎ取って、寝室の明かりを消せば、傷だらけの醜い身体は誤魔化せるだろうか。そんな事をふと考える。
もう2度と誘って貰えなくなるぐらいなら、痛みだって我慢するし、多少傷口が開こうとも別に構わない。
そんな事で彼のことが繋ぎ止められるなら、私は喜んでそうする。

じっと腕に巻かれた包帯を見つめ、そして覚悟を決めるように大きく息を吐き出す。
よし、と小声で1人呟きながら、スマホの前で浮遊していた中指を再び動かし文字を打つ。
『大丈夫だよ、待ってるね。』というメッセージを送信すれば、すぐに『また後で連絡する。』といういつも通りの返事が返ってきた。

 







時刻は夜10時30分、『もうすぐ着く』というメッセージを受け取ってから5分も経たないうちに、家の呼び鈴が鳴った。どうやら彼は本当にもうすぐのところでそれを送ってきたみたいだ。帽子とマスクで顔を隠した明らかに不審なその男を、いつものように家の中へと招き入れる。すると、窮屈に感じていたのか、すぐに帽子とマスクを剥ぎ取った轟くんは、そのまま柔らかい笑みを私に向ける。

「久しぶりだな、名字。悪りぃな、ちょっと遅くなっちまった。」
「久しぶり。うんん、全然大丈夫だよ。」

久々に耳にする彼の低くて穏やかな声に、心臓がドクンと跳ねる。ああ、そこに轟くんがいる。そう思うだけで、どうしようもないほどの嬉しさが溢れてくる。
半年ぶりの彼は、なんだかとても懐かしく感じてしまう。前に見た時は夏の終わりで薄着だったが、今は春先で薄手のコートを身に纏っていて。本当に時間が空いてしまったのだと実感する。

靴を脱ぎ玄関へと上がった轟くんは、不意に私の髪に手を伸ばす。

「髪切ったんだな、似合ってる。」

そう言って、頬に掛かる髪を掬い、そっと耳に掛けてくれる。
少しだけ耳に触れた彼の右手は冷たいのに、どうしてか、触れられた場所がじわじわと熱を帯びていく。さも当たり前かのように行われたその一連の動作に、私の心臓はこれでもかという程大きく鼓動を打ちつける。

本当にこの男は、どうしていつもいつもこんなに大真面目な顔をして、ただの友人に対してこの距離感で接してくるのだ。絶対におかしい。前に葉隠さん達が飲み会で「轟くんって偶に凄く距離近くて、本当ドキドキしちゃうよね。」なんてことを言っていたが、全くもってその通りだ。
自覚は無いとはいえ、ただの友人の心をこんなに激しく揺さぶるくせに、好きになるなと言うなんて。本当に彼は、なんて残酷な男なのだろう。

そんな決して表に出すことのできない感情を、ひたすらに胸の中に押し込み続ける。そして、心の中を悟られないように、何ともない平気な顔を浮かべながら「ありがとう」と彼に微笑み返した。

そのままの流れで彼をリビングへと通したら、いつものように隣同士並んでソファに座り、他愛のない話を始める。最近入ったサイドキックの後輩が中々優秀なのだとか、任務で訪れた南の島で変な色の魚を食べたのだとか。会えなかった半年間、彼が一体どんなふうに過ごしていたのかを耳にする。その度に、空っぽになっていた心の器が少しずつ満たされていくような気がして、堪らない気持ちになる。
ただ、もしその器が彼の言葉によって隙間なく埋め尽くされたとしても、彼と心が通じ合う訳ではない。それに今日が終われば、またこの器は時間と共に干上がってしまうだろう。そう分かっていても、心の中を彼で一杯に満たしたいと思う気持ちを止めることはできなくて。
彼という名の泥濘に突っ込んだ足が動かず、身動きが取れなくなっていることぐらい、本当はもう随分と前から自分でも気づいた。

近況報告を兼ねた他愛のない会話に花を咲かせていれば、気付けば日付が変わる時間になっていて。「風呂、借りてもいいか?」と首を傾げた轟くんに、いつものようにバスタオルを手渡す。
そしてそのままバスルームへと消えていく轟くんの後ろ姿を眺めながら、1人ごくりと息を呑んだ。

彼が家に到着する前に、身体中の包帯やガーゼを全て外しておいた。背中や腰には縫い傷があるが、直接そこに触れなければ気づかれる事はないだろう。服の上から軽く傷に触れてみるが、やはりまだ少しだけ痛む。でも、我慢できないほどの痛みではない。
今晩さえ乗り切れれば。今晩さえ彼に気付かれずに過ごすことができれば、それで全てが上手くいく。どうやって乗り越えるのか詳細を頭の中で想像すると、段々と表情が強張ってしまう。こんな不自然な顔ではダメだと、両掌をパチンと頬へと打ちつける。普通に、いつも通りを装えばいい。不安に揺らぐ心を落ち着かせるように、大きく息を吐き出した。

そうしているうちに、バスルームの方からはゆっくりとこちらに向かってくる足音が聞こえてきて、思わず鼓動が早くなる。落ち着け、大丈夫、きっと上手くやれるから。そう自分に言い聞かせながら、再びリビングへと戻ってきた轟くんに自然な笑みを送ってやる。
首元のタオルで髪を拭く彼は、きっと私を待たせまいと急いでここに戻ってきてくれたのだろう。ソファからゆっくりと立ち上がった私の頬へと手を添えて「そろそろ寝るか。」と囁く轟くん。いつもの合図な筈なのに、おかしなぐらい心臓がドクンと跳ね上がる。
うん、と頷く私の肩をそっと抱いた轟くんは、手慣れた様子で私を寝室へと誘う。そして、もう何度も一緒に寝たベッドへと、私を優しく押し倒す。

上に被さり私を見下ろす轟くんの熱っぽい瞳に、身体中が熱くなる。今すぐにでも始まってしまいそうなその雰囲気に、早く明かりを消さないと、とベッドサイドのランプへと手を伸ばす。
しかし、何を思ったのか、轟くんの大きな手が私の手を捕まえて、ぎゅっと指を絡めてくる。

う、うそ、そんな…!
予期せぬ事態に明らかに動揺してしまう私だが、それに気付いていない轟くんは私の首筋に顔を埋め、そしてしっとりとした舌を這わせていく。熱い舌が這う感覚に、思わず全身がゾクゾクと震えてしまう。

そして同時に、服の上から私の身体を撫で始める轟くんに、不味い、本当にどうしようと私の心は盛大に焦り出す。早く明かりを消さないと、あの醜い肌が晒されてしまう。そんなことになれば、きっと彼は汚い私の身体に失望して、もう2度とこうして私に触れてくれなくなってしまうかもしれない。
そんなの、絶対に嫌だ。
轟くんに、見捨てられたくない。轟くんに、他の女性のところに行って欲しくない。
何とかして明かりを消そうと、空いてある反対側の手を伸ばす。するとその私の動きが気になったのか、轟くんは顔を上げて私をじっと見つめてくる。

「……なあ、名字」
「…な、なに?」
「お前、何か俺に隠してねぇか?」

その一言に、ドクンと心臓が飛び跳ねる。
驚きのあまり慌てて轟くんの目を見つめ返せば、そこには何かを探る様な鋭い瞳があって。背中からは、嫌な汗が噴き出てくる。

「ど、どうして?」

そう言って何ともない平気な顔を取り繕ってはみるものの、全然上手くできている気がしない。焦りと困惑で気が動転していて、自分が今どんな顔をしているのかすら分からない。
そんな私に、轟くんは何だか困った様に眉を下げて言う。

「気付いてないのか……名字、今すげぇ泣きそうな顔してるぞ。」

え、と思わず驚きの声が口からこぼれる。
うそだ、そんなとんでもない顔を、私は彼に晒してしまっていたなんて。一体何をしているんだ。かつてない程のその失態に、頭が真っ白になっていく。
そんな私の様子を伺うように、じっとこちらを見つめる轟くん。その鋭い視線は、今服の下に隠している醜い身体だけではなく、これまでずっとひた隠しにしてきた恋心までもを暴いてしまいそうで。思わず空いている手で口元を覆う。

「な、何でもないよ!別に、いつも通りだよ…」

そう言って今更ながら明るく振る舞ってはみるが、轟くんの顔はどんどん曇る一方で。心の焦りは更に加速していく。

「好きなやつでもできたのか?」
「え…?」
「それなら、もう何もしねぇから。」

そう口にした轟くんは、絡めていた指を解き、私からスッと身体を離す。
彼は今、一体何と言ったのだ。
その一瞬では理解できずに戸惑っていれば、「悪かった。」と謝罪の言葉が聞こえてくる。
待って、違う…そうじゃない。私が好きなのは、今も昔も轟くんだけで、他の誰かを好きになるなんてことは絶対に有り得ないのに。

「そ、そんな人なんて、いないよ…!」
「なら何でそんな顔してんだよ。…それに、今日はずっとソワソワしてるみてぇだったし、何かあるならハッキリ言ってくれねぇと分かんねぇ。」

そう眉を顰めて私を見下ろす轟くんに、心臓がバクバクと音を立てる。
私が上手く隠せなかったから、彼は私に不満を抱いてしまっているのだ。このままでは、本当に彼との関係が終わってしまう。関係が終わるどころか、友人としての信頼も失ってしまいそうな勢いだ。
でも、本当のことを言えば、きっと彼はもう2度と私に触れてはくれないだろう。

こんな筈ではなかったのに、一体どうすればいいのか。
不安と焦りに押し潰されそうになる心を抱えながら、彼へと言葉を紡いでいく。

「そ、その……本当に大した事じゃないから、」
「大した事じゃねぇなら、言えるだろ。」
「う……あのね、実は、その…今日はちょっと、傷が沢山あって…汚くて……」

嫌がられると分かっていると、自然と言葉が尻すぼみになってしまう。
私を見下ろす轟くんの視線が怖くて、つい目を逸らして俯いてしまう。そんな私のすぐ側からは、呟く様な小さな声が聞こえてくる。

「おい、嘘だろ……」

その言葉と共に、無造作な手が私の身体へ伸びてくる。そして少々荒い手つきで部屋着がたくし上げられれば、汚い身体が晒されて、思わず声をあげそうになる。

「何だよ、これ……何でもっと早く言わなかったんだ…!」

初めて耳にする、まるで怒鳴りつける様な彼のその口調に、思わず身体を縮こめる。
どうやら私が思っているよりずっと、この醜い身体は彼の気分を害してしまったらしい。こんな身体を見て萎えない筈がない。そう分かっていた筈なのに、私はなんて愚かな選択をしてしまったのだろうか。
溢れてしまいそうになる涙をグッと堪え、俯きながら彼に謝る。

「ごめん…でも暗くすれば見えないから、大丈夫だと思って…」
「大丈夫なわけねぇだろ、傷口開いたりしたらどうすんだ…!」

そう放たれた彼の一言に、一体どう言うことだと困惑する。
もし最中に傷口が開けば、彼のことを血で汚してしまうかも知れない。包帯も何も巻いていない剥き出しの傷口に触れてしまえば、簡単に汚れてしまう。そんなの、どう考えても不快に決まっている。彼が言いたいのは、きっとそう言うことなのだろう。
少し考えれば分かることなのに、どうして私はこんな愚かな選択をしてしまったのだろうか。繋ぎ止めたかったはずの轟くんからの信頼は、もう地に落ちてしまったに違いない。

そんな事を1人考えている最中、いきなり立ち上がった轟くんは「ちょっと待ってろ、」とだけ言い残しベッドルームを去ってしまう。
一体どうしたのだろうか。やはり見るに堪えない私の身体に、嫌気が差してしまったのだろうか。
その場に1人残された私の心は、どんどんか細くなっていく。

すると、程なくしてベッドルームの扉が開き、深刻そうな顔付きの轟くんが再び中へと入ってくる。彼の右手には見慣れた救急箱が抱えられていて、「勝手に悪りぃ、場所知ってたから拝借させて貰ったぞ。」と言って、起き上がった私と向かい合うように座り込む。

何がどうなっているのか、状況が上手く掴めないまま、彼は私の服を脱がしていく。そして、どういうことか手慣れた手つきで怪我のある場所に次々と処置を施していく。

「と、轟くん…これは一体……」
「お…動くな、テープがずれちまうだろ。」
「あ、うん、ごめん…」

そう言って、轟くんは私の腰にある縫い傷に丁寧にガーゼを貼っていく。何が起きているのかさっぱり分からない私は、彼の手慣れた手つきをじっと眺める。
何の言葉も交わすことなく、淡々とした様子で私の怪我を処置する轟くんは、最後に残った脹脛の打撲にそっと湿布を貼ると「これで全部か?他に痛むところはあるか?」と私に尋ねる。その問いかけに、私は首を横に振った。
それにホッと息を吐いた轟くんは、救急箱を片手に再び部屋を後にする。

そんな彼の姿を横目に、私は1人困惑する。
一体どうして彼は、私にこんなことをしたのだろう。綺麗に腕に巻かれた包帯をいくら眺めたって、彼の行動の意図は見えない。

この後、彼はこのまま私を抱くのだろうか。いや、それはきっとあり得ない。だって、あんな醜い怪我を見せられて、萎えないわけなどないのだから。
と言うことは、彼はこのまま自分の家へと帰ってしまうのだろうか。私と事に及べないのなら、彼がここに居座る理由などどこにもない。

久しぶりに会った彼と、本当はもっと一緒に居たかった。彼の温もりに、もっとちゃんと抱かれたかった。
きっともう、次なんてない。
私のせいで、そうなってしまったのだ。
考えれば考えるほど、胸の奥がズキズキと鈍く痛みだす。

そんな中、水の入ったグラスを持った轟くんが、寝室へと戻って来る。
そしてパチリと彼と目が合えば、消え入るような小さな声で言い放つ。

「せっかく来てくれたのに、ごめんね…」

そう言い切るのと同時に、ぎゅっと唇を噛み締める。何だか彼の顔が見れなくて、俯きながら今しがた彼が巻いてくれた腕の包帯をじっと見つめる。

すると、頭上からは少し長めの溜息が聴こえてきて。
ああ、やっぱり、私は彼をとても嫌な気分にさせてしまったのだ。それに気付けば、どんどん不安が押し寄せてきて、思わずぎゅっと拳を握りしめる。

「こんなことになるなら、ちゃんと名字に伝えておくべきだった。」

そう静かに言い放った轟くんは、ベッドのサイドテープへとグラスを置き、私の直ぐそばへと腰掛ける。
一体何を私に伝えると言うのか。
嫌な予感が胸を支配し、心臓が嫌なぐらいに騒ぎ出す。

「俺は別に、名字とずっとこんな関係を続けたいとは思ってねぇ。」

彼からはっきりと紡がれたその言葉に、一瞬のうちに頭が真っ白になる。
ああ、やっぱり、私は彼に捨てられるのだ。
ぶわっと目頭が熱くなっていく。

ちゃんと現実を受け入れなければと、溢れる感情を必死に抑える。そんな私の頬には、なぜか冷たい彼の右手が添えられる。

「こんな身体だけの関係じゃなくて、本当はずっと名字に恋人になって欲しかったんだ。」

そんな思いもよらない言葉が放たれ、思わず「え、」と声を溢しながら彼の顔を見上げる。
そこには、冗談などではない、真剣な表情の彼がしっかりと私の瞳を見つめていて。
驚きのあまり、何も言葉が出てこない。
そんな私をまっすぐに捉えたまま、彼は言葉を続けていく。

「ずっと名字のことが好きだった。でもフラれるって分かってたから、こういう関係で居続けた。
名字とこうして会うのは、別にセックスがしたかったからじゃねぇ。ただ一緒にいるための理由が欲しかっただけなんだ。」

そう静かに告げた彼の瞳には、真剣さの他に悲しさや切なさが滲んでいて。何故だか胸が熱くなる。
どういうこと、彼が私を好きだったなんて、そんな事実私は知らない。別に身体が目的じゃなかったなんて、こんなにずっと一緒にいたのに、微塵も気付かなかった。

一緒にいる理由が欲しくて、この関係を続けていた。
それがどういう事なのか、きっと私は誰よりもよく知っている。

「うそ、」
「こんな嘘、吐かねぇよ。」
「だって、私、ずっと轟くんのこと、好きで…同じ理由で、あなたに会ってた…。」

困惑して上手く纏まらないまま言葉を紡ぐ。
すると、彼の色の違う瞳はこれでもかと言うほどに見開かれる。

「なあ…今の、本当か?」
「こんな嘘、吐かないよ。」
「信じらんねぇ、嘘だろ…」

私の言葉に動揺を隠せない様子の轟くんは、自身の片手で顔を覆う。そんなこれまで一度も見たことのない轟くんの反応に、冗談ではなく本当に彼は私を好きなのだということを実感する。
押し寄せてくる胸の高鳴りに、何だか夢を見ているような気持ちにさえなる。

ぐっと何かを噛み締めながら顔から手を離した轟くんの耳は赤くて。私の側へと更に詰め寄った彼は、私の手にそっと自分の手を重ねる。

「なあ…抱きしめても、いいか…?」
「う、うん、勿論。」
「…怪我、痛かったら言ってくれ。」

何だかとても緊張している様子の彼に、こちらまでドキドキしてしまう。いつも身体を重ねる時は、余裕で満ち溢れているというのに。どうして今はこうなんだ。本当に、そういうのは狡過ぎる。

そっと伸びてきた轟くんの腕が、私の後頭部と背中に回ってくる。私の怪我を気遣ってか、包み込むように優しく抱きしめてくれる腕に、堪らなく愛おしさを感じてしまう。

「夢みてぇだ…こんなことなら、もっと早く言っておけば良かった。今まで大事にしてやれなくて、本当にごめん。」
「と、轟くんは悪くないよ…!それに大事にしてくれてたと思うし…私も、何も言わなかったから…」

そう言って、轟くんの腕の中で首を振る。
彼が悪いことなんて、何一つとしてない。身体の関係であることを利用したのはお互い様で、これまで確かに私の心は彼によって満たされていたのだ。寧ろこちらが感謝しないといけないぐらいだ。

彼に抱きしめられるのは初めてではないのに、何だか今は初めてそうされているように落ち着かない。彼の温もりを感じようと胸板へと頬を押し当てれば、後頭部にある彼の手が優しく頭を撫でてくれる。

「これからはもう隠し事はしねぇから、だから名字も怪我黙ってたりするのはやめてくれ。」

「さっきは本当に口から心臓が出るかと思った。」なんて冗談みたいな言葉が真剣な声色で聞こえてきて、多分彼は本気で言っているのだろうなと何となく理解する。「うん、ごめんね。どうしても轟くんと会いたかったから、」と頷きながら返事をすれば、少しだけ私を抱きしめる腕の力が強くなる。

「愛してる、ずっと大切にする。」

そんな恥ずかしくなってしまいそうな言葉を当たり前のように口にする彼に、何だかこちらが気恥ずかしくなってしまう。もう何年も身体を繋げてきたのに、ただ抱きしめて愛を囁かれるだけでこんなにも胸がドキドキしてしまうものなのか。
そんなことを考えながら、今日恋人として初めての夜を彼と共に過ごすのだった。




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