#3 稟性


あれから丁度、1週間が経った。
翌日の事務所での会話以降、轟くんが私にあの日の事を言ってくることは無かった。

今をときめく大人気ヒーローである彼は、相変わらず忙しない日々を送っている。ヒーロー活動の合間には、いつも雑誌やテレビ番組の取材に追われていて。一息つく様に事務所に帰ってくる彼とすれ違えば、足を止めて少しだけ世間話をする。
そんないつも通りの日々に戻り、少し…いや、だいぶホッとしている。

いくら彼が天然でそういう事に疎い人だと言っても、流石にあの夜、自分が誰かを抱いたことぐらいは気付いている筈だ。
翌日、事務所で妙に落ち着きがなかったのは、きっとそのせいだと思っている。

しかし今はそんな不自然な様子もなくなり、いつも通りのヒーローショートに戻っていて。相変わらず爽やかで容姿端麗な彼は、無自覚にも世の女性を夢中にさせている。

きっと彼はもう、あの日の出来事など過去にしてしまっているのだろう。
もちろん彼は真面目で誠実な人で、自身の責任を放棄する様な人では無い。しかし、あれから1週間経っても相手からは何の音沙汰もなく、しかも、その相手は自分の慕っている女性ではないのだ。そんな人間のことをいつまでも思い悩む必要なんて、一体どこにあるというのか。
少し変わった体験をしたのだと、後日笑い話になるだけだ。

つまり、私が相手だと名乗り出さえしなければ、好きでも無い私を抱いた後悔も、愛する誰かへの後めたさも、そこにはないのだ。

そう、これでいい。
これが自分と彼が幸せになれる最適解なのだ。
あの日、夜が明けたら何もかも無かったことにするのだと、そう決めたのだ。

それなのに、今も私だけがあの日のことに翻弄されているみたいで、胸がつっかえる様に苦しくなる。

あの優しく私を手繰り寄せる逞しい腕も、湿った肌の温もりも、首筋に掛かった熱い吐息も。ふとした瞬間に全部思い出して、どうしようもなくドキドキしてしまうのに。
彼は私に触れた事なんて何一つ覚えていなくて。
それがとてももどかしくて、堪らない。

もやもやがつっかえた胸をリセットさせるように、小さく溜息を吐く。
すると、その直ぐそばから、ひょっこりと1人の男が顔を覗かせる。

「先輩、これまた艶っぽい溜息なんかついちゃって〜。恋の悩みッスか?」

私の横のデスクに座り、気楽な口調で声を掛けてくるこの男はサイドキックの後輩であり、私がこの事務所に入って初めてOJTを受け持つ新人ヒーローだ。
彼は雄英を卒業して1年になるが、事務所の皆が期待する新人エースのような立ち位置で。本来なら彼の直属の先輩は私ではなく、同じエースである轟くんが適任なのだが、轟くんはヒーロー活動以外でも忙しい身。故に、誰からも特に人気のない暇を持て余した私に、後輩がつけられることになったのだ。

後輩からしてみても、一緒に行動する先輩が人気ヒーローのショートではなく、こんな冴えない私なんて、さぞ残念だっただろう。
最初はそう思っていたが、そんな素振りなど一切見せない能天気な彼に、何だか一人で悩んでいるのが馬鹿らしくなってきて。
今では何の引け目も感じる事なく、彼と接することができている。

そんな彼は、性格的には上鳴くんと近いものがある。
人懐っこくて空気の読める男なのだが、とにかく人との距離が近い。ぐいぐいと他人のパーソナルスペースへ侵入し、何食わぬ顔で心を荒らしてくるのだ。
そんな無茶苦茶な後輩に、轟くんのことを悟られないようにするのは大変で、いつも彼と話す時は無駄に気を張ってしまう。
あまり深く話すとボロが出てしまうかもしれない。いつものように軽く流して終わりにしようと、彼の方をチラリと見る。

「どうして貴方はいつもそうなるの…。」
「いや、だって最近の先輩すげぇ色っぽいし、そういう相手ができたのかな〜って…多分これ、俺だけじゃなくて皆んな思ってると思いますよ?」
「何それ… 皆んなって誰よ。どうせ私をダシにして他の後輩達と面白がりたいだけでしょ?」
「そんな、人聞き悪いッスよ!ホント先輩、いつも通り手厳しいっ!…まあそういう所も燃えるって言うか何というか…!」

何だか分からないことをブツブツと呟きながら拳を握る後輩に、思わず溜息を吐く。
きっと彼は軽い冗談のつもりで言ったのだろうが、何だか痛い処を指されたみたいで、とても居心地が悪い。
そういう色っぽいことをする相手が出来たわけではない。が、最近そう言うことをしたのも事実で。

彼には勿論、誰にも明かすつもりなどないあの日のことは、何としてでも隠し通さなければならない。

「先輩、久々に今晩どうッスか?色々と積もる話もあると思いますしね!勿論、俺のおごりで。」
「私は話なんてないんだけど。それに、明日は朝から出勤でしょ?」
「えー、この間は朝勤でも飲みに行ってたじゃないッスか。」

そんな鋭い後輩の一言に、思わず言葉を詰まらせる。この間と言うのは無論、例のあの日のことを指しているのだろう。

あの日ホテルから帰った後、一睡も出来ずに出勤した私の脳内には、ずっと轟くんの事が渦巻いていた。出勤早々から心身ともに疲れ果てている状態で、大量に放出さるアドレナリンを駆使して何とか朝から晩まで働いたのだ。
次に飲みに行ったら、絶対にあの日の事を思い出し、また一睡も出来ずに朝を迎える気がする。それだけは絶対に避けたい。私は誰かの命を預かるヒーローなのだ、そんな無責任な行為など言語道断だ。
それに、この男と一緒に飲みに行ったとして、もし少しでもボロが出てしまったら…そう考えただけでも、悍ましい。

しつこく誘ってくる後輩に、断固として行かない事を伝えていれば、不意に誰かがこちらへとやって来る気配を感じる。何か用事だろうか。もしかしたら、待機中にこんな会話をしている私達を咎めに来たのかもしれない。
気配の方へと振り返れば、同時に何かひんやりとしたものが私の首へと当たり、思わずピクリと身体が跳ねる。
そして、少し遅れて「お、」という間の抜けた声が聞こえて来る。

「悪りぃ。…名字、ここ焦げてるぞ。」
「と、轟くん…!?」

振り返り見上げた先には、青灰色の綺麗な瞳があって。
無意識のうちに、心臓がどくりと波打つ。 

いつの間にかこちらへと伸びていた轟くんの右手は、私の首元からそっと離れ、そして肩口に触れる。
その一連の動作に、今しがた首に触れたのが彼の手だったことを理解すれば、そこに一気に熱が湧き上がる。

ダメだ、平然でいないと…!
心の中で必死に取り繕おうとするが、冷たい手が触れる印象的な感覚に、どうしてもあの日の事を思い出してしまう。

火照った肌の上を、冷たくて心地の良い右手がゆっくりと這う。
たったそれだけなのに、身体は痺れるような感覚に犯されてしまうのを、私は知っている。

そんなとんでもない事を思い出してしまえば、益々何事もない振りなんて出来なくなって。意識しているのがバレない様に、咄嗟に彼から視線を外し、そして自分の肩を見る。
すると彼の言う通り、そこにはほんの少しだが黒く焦げている箇所があった。

「本当だ、全然気付かなかった…ありがとう、轟くん。」
「ああ、俺もよく焦げるからな。」
「…?轟くんのヒーロースーツ、かなり上級の耐火素材なのに、焦げるの?」
「普通に焦げるぞ、この色だとあんま目立たねぇけど。」

そう淡々と口にする彼は、左半身に焦げたところがないかを探し始める。確かに黒色の彼のヒーロースーツは生地が焦げているのか非常に分かりにくい。だが、彼の言う通り、よく見れは左の袖のあたりに入る白いラインが焦げている。
しかし、彼の高級素材のヒーロースーツは私の平凡なものとは違い、生地の傷みを一切感じさせない。まあ、そもそもフレイム系のヒーローではない私が、その高級な耐火素材のヒーロースーツを纏う必要など無いのだが。

そんな何でも無い会話で心を落ち着かせていれば、すぐ隣に座っていた後輩が、何やら怪しげにニヤついた表情を浮かべながらこちらにスマホを向けてくる。

「先輩、ショートさんのこの写真とか、すげー有名ですよ?」
「?…ッ!!」

そこに映し出されていたのは、恐らく激闘が繰り広げられた後であろう、左上半身の服が殆ど燃え、引き締まった身体が晒されているヒーローショートの画像だった。

何で今、本人が目の前にいるタイミングでそんなものを見せてくるのだ。
柄にもなく盛大に動揺する私を見て、面白そうに目を細めて笑う後輩。この男…後で絶対に締めてやる。
そんな事を考えながらも、頭の中は先程鎮めたばかりのあの日の轟くんでいっぱいになっていく。

焦げた服の間から見える腕も肩も胸も、確かに引き締まっていて美しい。
しかし、本物はもっと凄いのだ。
直視できないぐらい綺麗で勇ましくて、それでいて温かくて、所々に古い傷があって。
画像以上の彼を知ってしまっている私にとって、その揶揄いはタチが悪すぎる。

思わず画面から視線を逸らす私を見て、不思議そうに首を傾げる轟くんは、後輩のスマホ画面を覗き込む。

「………これ有名なのか?なんか服ボロボロで格好悪りぃな。」
「いや、分かってないッスね。ショートさんのこの剥き出しになった筋肉とか、すげぇ格好いいって大絶賛ッスよ。男でもこれは2度見しますよ。」
「…よく分かんねぇけど、悪い意味で有名な訳じゃねぇなら良いか。」
「本当、ショートさんは相変わらずッスね。」

あまり腑に落ちていない様子の轟くんに、彼の天然を相変わらずだと笑う後輩。

ああ、本当に轟くんが天然で良かった。
今の明から様な私の反応を見ても、疑っている様子などこれっぽっちもない。普通の人なら、きっと私に意識されているのではと疑うはずなのに。

どくどくと異常に波打つ鼓動は、もうどうしたって鎮まらない。自分の身体なのに、ここまで制御できないなんて、本当に嫌になる。

ショートが如何に世間で人気かを真剣に語る後輩の横では、「そういうものなのか?」と不思議そうに相槌を打つ轟くん。これは絶対理解できてないなと、何となく察する。

そんな雑談も程々に、気が付けば夕方のパトロールの時間に近付いていて。スマホの画面を見た轟くんは「お、もうこんな時間か。」と呟く。

「じゃあな、また後で。」

そう言って、轟くんは何食わぬ顔で私の頭にそっと手を触れ、そしてその場を去っていく。
その一瞬の出来事に、何が何だか分からないまま私の思考は停止する。

今、何したの?
普段、彼が私に触れることなど殆どない。さっきみたいに間違えて当たってしまう事や、救護のために触れる事はあるが、何も用事がない時に触れる事などしない。
なのに、今、私の頭を…。
考えれば考えるほど、心臓が大きく跳ね上がる。
それは、彼にとっては特に意味がない事なのかもしれないが、何だか特別な行為の様に思えて仕方がない。

落ち着け、彼は私ではない誰かを愛しているのだ。それは他でもない彼から聞いた事実。
勘違いして自惚れると、後で痛い目を見るだけだ。

そう頭では理解しているのに、勝手に弾む胸は治らない。

そんな私の横では「ショートさん、マジで目が笑ってねぇ…。」と小声でぼそりと呟く後輩。その意味が良く分からずに「何のこと?」と問えば、「何でもないッス。」なんて全く説明する気のない返事が返ってくる。

そして「先輩も罪な女ッスよね。」なんて訳のわからない言葉を付け足す後輩。一体この男は何なのだ。そんな事を思いながらも、夕方のパトロールに出発する為、静かにその場に立ち上がった。








「やるな、轟くん…!これは完全にアウトやろ…」

そんな声がすぐ隣から聞こえてきたのは、チームアップ任務の待機時間での事だった。
「轟くん」と言う単語に過剰なまでに反応してしまった私は、思わずそう呟いた彼女の方へと視線をやった。
そこには、何やら頬をほんのりと赤く染めた友人…お茶子ちゃんの顔があって。一体何事だと思い、彼女の視線の先にあるタブレット端末を覗いてみる。

するとそこには、下着姿の美しい女性の姿と、その上に覆い被さる男性の姿が映し出されていて。

それだけでも一瞬躊躇ってしまうほど衝撃的なのだが、しかし問題はそこではない。
下着姿の女性を押し倒すような形で被さっている男性は、あろうことか私のよく知る人物で。

一体これは何なのだ。
驚きのあまり声が出そうになるのを手で抑える。

そこに載っていたのは、同じ事務所の同僚であり、私の絶賛失恋中の相手である大人気ヒーロー、ショートの姿であった。

彼が下に組み敷いている女性は、私でも名前を知っている程有名な大人気モデル。
傷一つない艶やかな肌に女性らしい豊かな胸、そしてスラリと伸びた細い手足…。しかし、それでいて庇護欲を掻き立てられるようなあどけない表情を彼女は浮かべていて。女性の私がドキッとしてしまうほど、とても色っぽい。

そんな魅力的で美しい彼女を、いつもの真剣な眼差しで見つめるショート。
心臓がぎゅっと握られているみたいに痛くなる。

「お茶子ちゃん、これ…」
「あ、名前ちゃん…!いや、これは違うんよ、別にやましい奴とかそういうんとちゃうくて!」
「…何でお茶子ちゃんがそんなに焦ってるの、」
「え?あ…あはは、何でやろ。」

勢いよく手元のタブレットを懐に仕舞い込み、あははと誤魔化す様に苦しげな笑みを浮かべるお茶子ちゃん。何やら悪い隠し事をしているような彼女の反応に、何だか不安を感じてしまう。
そんな私の気持ちを察したのか、今度は慌ててタブレットの電源を入れ、画面を此方へと向けてくる。

再び映し出された下着姿の2人の姿に、何だか胸がズキリと痛くなる。

「女性用下着のプロモーションらしいよ。いや、もう女の子の下着とかどうでも良くなるぐらい、轟くんにしか目が行かん…」

そんな事を言いながら、赤くなった顔を覆うお茶子ちゃん。
そういう事なら隠さずに言ってくれれば良いのに。「そうなんだ。」と返事をしながらも、お茶子ちゃんの呟く通り、視線は上半身が晒された轟くんに釘付けになってしまう。

きめ細かく滑らかな彼の肌は、実物も写真通りに美しい。触れればとても温かくて、逞しくて。手繰り寄せられ、ぎゅっと抱きしめられれば、ぴたりと引っ付いた肌からは熱が伝わってくる。
そんな彼の腕の温かさも居心地よさも、何一つ褪せることなく思い出せてしまうのに。

画像の中の彼が見つめる彼女と私には、天と地ほどの差が存在する。

女性らしくて可愛い彼女と、身体中傷だらけで平々凡々な私。
どちらが彼の相手に相応しいかなんて、誰が見ても明らかで。私が彼の隣に立つなんて、どう考えてもあり得ない。
美しい2人を見れば見るほど、見窄らしい私には何の価値も無いのだと、そう言われているみたいで哀しくなる。

きっと彼が慕う誰かも、彼女の様に綺麗で美しい人なのだろう。
いや、もしかしたら彼女自身なのかも知れない。
もやもやとした何かが胸の奥でつっかえる。

「…お似合い、だね。」

そんな言葉が、気付けば口から溢れ出た。
そう、2人はお似合いなのだ。完璧で、ぴったりで、しっくりくる。私などがしゃしゃり出る幕など何処にもない程に。

そんな私を、何故かお茶子ちゃんはギョッとした顔で見つめていて。

「いやいや…!私は名前ちゃんみたいな子の方が、轟くんにはお似合いやと思うよ!」
「わ、私…?」
「うんうん、ほら、轟くんってイケメンだけど、ちょっと…てか、かなり天然やし…。名前ちゃんみたいに天然ごと受け止めてくれる人が隣におるのが、やっぱりいいんじゃないかな〜って。」
「そうかな…。でも轟くんはそういう可愛げのない子、タイプじゃないと思うよ。」

思いもよらないお茶子ちゃんのフォローに、つい苦笑してしまう。
お茶子ちゃんや同級生の皆んなから見ると、そうなのかもしれない。何にも囚われないのんびりとした彼の雰囲気が好きな私は、彼の隣が心地が良くて堪らなくて。何も話さない時間だって、居心地悪いと感じるとはない。
しかし、彼も同じであるとは限らない。
いや寧ろ、彼にとってはそうでは無いのだ。もし彼が私に居心地の良さを感じていたなら、私達はとうの昔に恋人同士になっている筈なのだから。

「そんなん分からんよ?実は結構タイプやったりして。」
「ないない、絶対にないよ。」
「あはは、そんなに否定せんくても!」

冗談気に揶揄ってくるお茶子ちゃんに、断固として首を横に振る。
大体、彼は他に好きな人がいるのだ。私の事をそういう風に思うなんて、あり得ない話だ。
少し前の私なら、もしかして、なんて期待をしたかも知れない。でも今はそんな期待なんてとてもじゃ無いが抱けない。

「でも、ほんとにこんな感じで轟くんに押し倒されたら、心臓止まってまうよね、」

再びタブレットを見つめながらそう呟くお茶子ちゃん。
実はついこの間、その轟くんに押し倒されたのだなんて、間違えても言える筈がなくて。
「そうだね。」と苦し気に相槌を打つのと同時に、出動を要請する連絡が私とお茶子ちゃんのスマホへと入ってきた。


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