#2 晦冥


その日の朝は、全てがいつもと違っていた。

まず、起きて1番最初に感じたのは、いつもの敷布団の心地では無いということ。
その次に感じたのは、激しい頭の痛み。

一体何がどうなっているんだ。
そんなことを内心呟きながら、昨日の記憶を振り返る。

昨晩は久しぶりに雄英時代の同級生と飲み会があった。いつもはその手の飲み会にあまり出席しない彼女が、今回は珍しく出席していて。無意識のうちに彼女を目で追っていたら、上鳴達に散々茶化された。

「なんだよ轟、お前まだ名字に告ってなかったのか…!?もうとっくの昔に引っ付いたとばかり思ってたぜ…!」
「お前、顔に似合わず奥手だよな。使わねぇならその顔オイラに譲れよ。」
「いや、顔は流石に譲れねぇだろ。取れねぇし。」
「な…っ、オイ誰か、いい加減コイツの天然治してやってくれよ。」

峰田や上鳴達とそんな会話をしている最中、向こうの方で緑谷や爆豪達と親しそうに飲んでいる彼女の姿が目に入る。

あいつ、あんな顔で笑うんだな。
不意にそんなことを考える。

彼女とは毎日の様に顔を合わせている。雄英卒業後に一緒にエンデヴァー事務所に入ってから、ずっとだ。
だから、同級生の中では俺が彼女と1番親しくて、彼女のことを1番よく知っていると思ってた。
それなのに、緑谷と爆豪と楽しそうにする彼女は、何だかあまり見た事のない笑顔を浮かべていて。
普通にショックだった。
やっぱ、1番近くに居るだけじゃ好きになんてなって貰えないのか。

いつもより綺麗に粧して、可愛い服を着た彼女。そんな珍しくお洒落をした彼女と一緒に居るのは、俺ではない他の野郎。
なあ、それ誰のためにしてきたんだ?
そんなこと、聞けるはずもなくて。
ただ手当たり次第に酒を煽る。

その後は、恐らく相当飲んだんだと思う。
瀬呂達に2軒目に連れ出され、そこでもかなり飲んだと思うが、何一つ覚えていない。緑谷が偶に心配そうに声を掛けてくれたのを、若干覚えているぐらいだ。

…と言うことは、酔って帰れなくなった俺を誰かがここに運んでくれたのか。
辺りを見渡せば、確かにここはホテルっぽい…と思ったが、至る所に置かれた如何わしい物に、普通のホテルでは無いことを直ぐに理解する。

いや、待てよ。
男だけで2次会をして、帰りに酔った相手を看病するためにラブホに行くだろうか。
そもそも男同士でラブホとか入れるのか。

というか、何で俺は今何も身に纏っていないんだ。

そこまで気付けば、全身の血の気が引くように一気に二日酔いが冷めていく。
これは、何だかとてもヤバいことをやらかしたのでは無いだろうか。ベッドから勢いよく起き上がれば、辺りには自分が昨日身にまとっていた服が無造作に散らばっていて。
そしてベッドのすぐ側のゴミ箱に、開封済みのゴムの袋が入っているのが目に留まる。

それは、最早動かぬ証拠で。
頭を鈍器で殴られたような、酷い衝撃を受ける。

いや、マジか。嘘だろ…。
昨晩の俺は、一体なんて事をやらかしてしまったんだ…!
相手は一体どこの誰なんだ。
今どこに居るんだ。

人生最初で最大のやらかしに、これ以上ないほど盛大に混乱する。

慌ててベッドから抜け出し、服を着て辺りを捜索する。が、相手と思わしき人物の姿はどこにも無い。
それどころか、捲れたシーツには血が付いていて、驚きのあまり目眩がしてくる。

昨晩俺はここで、無意識にも誰かの初めてを奪ってしまったのだろうか。
自分は仮にもヒーローであるというのに、果たしてこんなことが許されるというのだろうか。
覚えていないじゃ、到底済まされない。
だが、本当に何一つ覚えていないのだ。
ベッドに座り込み、頭を抱える。

何より、今誰もここに居ないということが本当に不味い。
同意の上であったとしても、こんなにも不誠実なことをしてしまったのだ。相手にきちんと謝罪をしなければならないのに。謝罪する相手の顔すら分からない。本当に記憶からごっそりと抜け落ちてしまっている。

部屋中を隈無く捜索してみるが、相手の手掛かりとなるようなものはどこにも無くて。さらに頭を抱える。

もし昨晩、その相手と同意の上で事に及んだとしたなら、今ここに相手の姿が無いのはおかしくないだろうか。せめて、何かメッセージなど残していく筈だ。
だけど、そんなものはどこにも無い。
部屋は特に荒らされた様子もないので、同意がなく無理やり行為に及んだという感じでもない。
いや、そう信じたい。

なら、どうして相手はここに居ないのだ。
何か気不味い事情があるのかも知れない。

そこまで考えて、ふと、まさか自分の知っている女性だったのではないだろうかと、考える。俺と意図せずそういう関係になってしまったのが気まずくて、逃げてしまったのかもしれない。可能性は低いが、考えられなくはない話だ。
もし相手が知人の女性であったとして、仮にそれが自分の意中の相手だったとしたなら…。

確かに、ずっと彼女に触れたいと思っていた。何度もそういうコトをする夢だって見た。
でも、それとこれとは訳が違う。
例えそこに彼女の合意があったとしても、不誠実で最低なことをしたという事実は変わらない。今まで築き上げてきた信用を失って、二度と共に時間を過ごせなくなったとしたら…。そんなことを考えただけで、全身の血の気が失せる。

言葉にできない程の不安と後悔、動揺が渦巻き、最早ため息すら出て来ない。
尋常ではない程大きな音を立てる心臓が、煩くてたまらない。

ふとスマホを見れば、時刻は朝10時30分を表示していて。
今日は昼から勤務で、早く家に帰って支度をしないと間に合わない。

心に大きな痼りが残ったまま、一先ず事故現場であるラブホを一人、後にした。







昼の12時、事務所には昼勤のサイドキックが次々と出勤してくる。
ホテルから帰宅後、ずっと朝のことに翻弄されながらも、どうにか無事に事務所へと出勤することができた。

平然を装いながら事務所の自分のデスクへと座れば、嫌に緊張した心が落ち着かずに思わず溜息を零す。ここに来る道すがら、ネットニュースをこれでもかと言うほど漁ったが、ヒーローショートに強姦された女性のニュースはどこにも無かった。
一先ず最も最悪な事態は免れた様だ。
だが、そんな事を素直に喜べる様な状況ではない。本当に焦りで気が狂いそうだ。

出勤して何度目かの溜息が溢れでた丁度その時、朝のパトロール組が事務所へと帰還してくる。確か今朝のパトロールの駅回りの担当は、彼女だった筈だ。不意にそんなことを思い出し、視線をパトロール組へと向ける。
そこには、今まさに事務所に到着したであろう彼女の姿があり、思わず心臓が跳ね上がる。

まさか、な。
もしも、万が一、昨晩の相手が彼女であったとしたら。この手で本物の彼女の肌に触れて、唇にキスをして、そして…。
そんな彼女との如何わしい事を簡単に想像できてしまうなんて、本当に最低だ。
それに、この街に一体何人の女性が居ると思っているのだ、相手が彼女である可能性なんて限りなくゼロに等しい。それなのに、もし相手が彼女だったなら…と変な期待を抱く自分がいる。
嫌われるような最低な事をしたと言うのに、そんな事を考えるなんて。本当にどうかしている。

パトロールから帰還した彼女は、自らのデスクを通り過ぎてバーニンの席へと向かう。そして、何やら複雑そうな眼差しで会話を始める。
バーニンは確か、昼から彼女の持ち場であった駅周りのパトロールを担当する予定だ。きっとパトロール中に何か気になる事があり、それを伝えているのだろう。

いつも些細なことにも気が付き、誰よりも細やかなサポートをする彼女は、この事務所にとって非常に貴重な逸材だ。視野も広く、一緒のチームになれば必ず背後を守ってくれる彼女は、警察や他のヒーロー事務所からのチームアップ要請が絶えない。彼女が居るのと居ないのとでは、任務の成功率や所要時間が圧倒的に違うのだ。

そんなヒーローや警察から絶大な人気を誇るの彼女だが、実は民衆の認知度はそれほど高くない。
大手事務所であるエンデヴァー事務所に所属するサイドキックは、大体派手なヒーローが多い。自分でいうのも何だが、フレイム系の個性を現場で使うと、かなりの印象を残す。
しかし、彼女の個性はフレイム系でなければ、見た目や音が目立つ様な個性ではない。強くて便利な個性を持っているが、少し分かりにくいのだ。
だから、彼女は周りのヒーローの影に隠れてしまいがちで。
いつもマスコミは彼女と共に闘った有名なヒーローを取り上げるが、無名の彼女には見向きもしない。
彼女も彼女で、そんな世間に不信を抱く訳でもなく、寧ろ、無名なことを楯に、自ら進んで隠密任務を受け持ったりしていて。

いつも周りのことをよく見ていて、それでいて周りの評価などまるで気にすることなく自分の正しいと思う事をする彼女。
昔から、彼女のそういうところを尊敬していた。
世間からの評価はないのに、一生懸命に人を救い続ける彼女の姿を見ていると、自分も頑張らなければと思えた。

そして同時に、自分だけはちゃんと彼女の活躍を見ているのだと、知っていて欲しいと思った。
自分だけは、真面目で頑張り屋な彼女の弱音や愚痴を吐き出せる場所で在りたかった。

好きなのだ。
それはもう、どうしようも無い程に。

だから、たとえ酔っていたとしても、彼女以外の女性に手を出してしまったなんて、とても信じられる話ではなかった。
別に、彼女とは恋人同士でも何でも無いのに、彼女を酷く裏切ってしまったみたいな気持ちで一杯になって。胸が張り裂けそうになる。

こんなとんでもない事をしてしまった俺を、一体彼女はどう思うだろうか。

ふと、彼女へと視線を戻せば、バーニンとの会話は終わったのか、自席へと戻りタブレットを打ち始める。
今のこの最悪な気持ちを抱えたまま、彼女と話をしたくはない。
それなのに、無性に彼女の声が聞きたくて、仕方がなくて。

気が付けば、直ぐ横の列に座る彼女の席まで足が動いていた。
真剣にタブレットと睨めっこをする彼女に、そっと声をかける。

「名字、」
「!…と、轟くん…?」

相当画面に集中していたのか、俺の声に盛大に驚いた彼女は勢いよくこちらを振り返る。
その瞬間にふわりと甘い香りが匂ってきて、嫌に張り詰めていた俺の心が少しだけ絆される。

「どうかしたの…?」

声を掛けたきり何も言わない俺に、首を傾げてこちらを覗き込む名字。
そんないつも通りに思える彼女だが、心なしか、その顔は少し疲れている様にも伺える。昨日は夜遅くまで飲んでいて、今日は朝から出勤なのだ。当然と言えば当然だ。
「ああ、別に大した事じゃねぇんだが、」と言いながら、自然な流れで彼女の横の席へと腰掛ける。

「昨日の夜、あの後名字も麗日達と2次会に行ったんだよな?」
「う、うん…。」

「そのあと、どっか行ったりしたのか?」

そんな当たり障りのない質問を口にしながら、覗き込む様に彼女の目を見る。

躊躇って、ほしい。
言葉を詰まらせ動揺してほしい。

彼女が相手である可能性なんて殆どないのに、往生際の悪い俺はこの期に及んでまだ彼女であることを期待している。

そんな愚かな俺の思惑通りに、話が進むはずなどなくて。

「うんん、その後はすぐに家に帰ったけど…どうかしたの?」

至って淡々とそう返事をする彼女に、心臓がぎゅっと握りつぶされるみたいに痛くなる。

ああ、やっぱり彼女ではなかったのだ。
別の女性を、抱いてしまったのだ。

言葉に表せないほどの後悔と不安に、心が空っぽになっていく。
もう最悪なんて気分ではない。
悪い夢なら、今直ぐにでも覚めてほしい。
誰か分からない女性を抱く前の、何も起こっていない時間に戻してほしい。
そんな事、いくら願ったって無駄だというのに。

「いや、そうだよな…名字は今日も朝勤だったしな。何か悪りぃ、変なこと聞いちまった。忘れてくれ。」

何ともない、まるでいつもの通りの様子を装うが、きっと上手くできていない気がする。
「うん?…わかった。」と首を傾げて返事をする彼女に、「邪魔したな、」と短く声を掛け、その場を後にした。








業務の合間の休憩時間、誰も休憩室に居ないことを確認して、利き手に握るスマホを見る。
割と頻繁に連絡を取っている友人の名前を、メッセージアプリの上の方から探し出す。そして、電話マークを親指でタップすれば、名前とアイコンが画面に大きく表示される。

忙しい奴だからな…出てくれるだろうか。
そんな緊張と不安の混ざった気持ちでコール音を聞いていれば、思いの外直ぐに応答が聴こえてくる。

「もしもし?」
『あれ、どうしたの轟くん、電話なんて珍しいね…!』

聞き慣れた声が紡ぐそんな第一声に、そんなに珍しいことなのだろうかと過去に電話した記憶を辿る。
いや、今はそんな事どうだっていいか。
思考をリセットしながら、少しばかり強張った声で言う。

「突然で悪りぃんだが、緑谷…今晩ちょっと話せねぇか。」
『…なんか深刻そうだね。今日は多分9時とかになっちゃうかも知れないけど、それでも大丈夫かな?』
「ああ、全然問題ねぇ。いつもの店でいいか?」
『うん。なるべく早く行ける様に調整してみるから、また連絡するね。』

そんなスムーズな会話に、やっぱり相談するならコイツだなと、内心かなりホッとする。
雄英時代から緑谷には、それはそれは沢山の相談をしてきた。相談していない事にまでズカズカと入り込んでくる緑谷は、本当にヒーローの本質「お節介」が根についていて。

俺が名字と上手くいくように、いつも一緒に悩んでくれた。
俺がどれだけ名字のことが好きかを知っているのは、緑谷しかいない。
だからそこ、緑谷に相談しなければと思った。








そして時刻は夜9時、緑谷は約束通りいつもの居酒屋へとやってきてくれた。早速いつも通り食事の注文をするが、アルコールは頼まない。それを不思議に思ったであろう緑谷は、首を傾げて聞いてくる。

「轟くん、飲まないの?」
「ああ、もう暫く酒は飲まないことにした。」

そんな急な俺の宣言に、緑谷は目をまん丸に丸めたまま「へ…?!」と素っ頓狂な声を上げた。これからもっと驚き戸惑う話をするというのに、こんな些細な事で驚いてくれるな。そう思いながらも、テーブルへと置かれた枝豆をつまみ、そして烏龍茶を煽る。

席に着いたばかりで何処か気持ちが落ち着かず、本題を切り出せる雰囲気ではなかったため、いつもの様に世間話をする。昨日の飲み会でも散々話をしたのに未だに話題が尽きないのは、お互い毎日忙しなくヒーロー活動をしているからで。HNに載っていた事件のことや、最近考案した技の話をしていれば、ソワソワしていた心が少しだけ落ち着いてくる。


「それで…聞いていいかな?今日の轟くん、だいぶ落ち込んでるみたいだけど…。」

そう言って本題を切り出してきたのは、緑谷の方だった。
俺から呼び出したのに、完全に緑谷に気を使わせてしまっている。
朝から酷く動揺しっぱなしだった俺の心は疲労と困憊で滅茶苦茶で、緑谷は恐らくそれを見透かしてしまったのであろう。

どこから話すべきか。あまり覚えていない記憶を辿りながらも、一連の出来事を一つずつ緑谷へと告げる。
こうして改めて口にすると、本当にとんでもない事をしてしまったのだという実感が湧いてくる。こんな他人事の様な失態を、まさか自分が犯してしまうなんて。本当に今でも信じられない。
しかも、肝心なことは何一つ覚えていないのだ。
誰か分からない女性と一夜を過ごし、しかもその人の初めてを奪っておきながら、謝る事もできないなんて。

もしこのまま名乗り出る者が現れず、何事もなかったかの様に時間が過ぎたとしても、これまで通りでいられる筈などない。
この事が痼となって、ずっと相手の事を気にしながら過ごす事になるだろう。

一通りの経緯を話し終えれば、緑谷は驚きや戸惑いで何とも言えない顔を浮かべていて。やっとの思いで口にした「それ…本当?」という言葉に、俺は深く頷く。
「そんな、あの轟くんに限って…でも、昨日はだいぶ酔ってたみたいだったし…。」と一人ぶつぶつと呟き始める緑谷の顔には、俺への偏見など一つもなくて。寧ろ、必死に俺のことを考えてくれているのが伝わってきて、何だか胸が熱くなる。

「ごめんね、轟くん。僕がちゃんと君を家まで送ってあげていたら、こんな事には…」
「緑谷のせいじゃねぇよ、元はと言えば俺が飲みすぎただけなんだ。お前は何も悪くねぇ。」
「でも…」

そう、あの夜、緑谷は最後まで俺のことを気にかけてくれていたのを、何となく覚えている。緑谷が悪い事なんて、何一つないのだ。
全部、俺の自業自得なのだから。

「もうやっちまったもんは仕方ねぇし…それより、今後の事なんだが…」
「そうだね、僕もその相手の女性を探すの協力するよ。」

皆まで告げずとも、緑谷は何をしたいか察してくれる。それはきっと、学生の頃からの付き合いだから、という訳ではない。緑谷自身が、他人のことをよく見て、気持ちを理解できる優しい人間だからだろう。

「ああ、ありがとな緑谷。」

烏龍茶のグラスを握り締め、込み上げて溢れそうになる気持ちをぐっと抑える。
噛み締めるように口にした俺の言葉に、緑谷は当たり前だと言わんばかりに、真っ直ぐな目をして頷いた。


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