#11 燦々


『ショートさん、名前さんが…ッ!』

そんな切羽詰まった声で俺に電話をしてきたのは、彼女が面倒を見ている後輩だった。



出動要請により彼女が去ったあの後、俺はやりきれない悶々とした気持ちを抱えたまま帰宅した。不意に頭に浮かんでくるのは、最後に見た大粒の涙を零す彼女の姿で。10年も隣で過ごしてきたのに、あんなにも激しく感情を曝す彼女の姿は初めて見た。思い返してみても、彼女はいつも穏やかに笑うばかりで、己の感情を誰かにぶつける姿など一度だって見たことがなかった。そんな彼女が、切なげに顔を歪めながら、震える声で俺に心の内を打ち明けたのだ。
全く想像もしていなかった言葉が彼女の口から告げられて、衝撃と困惑に駆られた俺は、結局何一つとして彼女に言葉を返せなかった。

彼女は、あんな最低なことをした俺を全く嫌っていなかった。 
寧ろ、彼女は俺に嫌われてしまったと思い込んで泣いていたのだ。
そんなこと、天地がひっくり返ろうとあり得る筈などないのに。俺がどれだけ彼女のことを愛おしく思っているのか、彼女には微塵も伝わっていなくて。
彼女はいつもあの穏やかな笑顔の裏で、ずっと自分のことを責め続けていたのだ。今更その事実に気付いてしまえば、どうしようもないほどに胸が苦しくなっていく。

一体どうしてこんなことになったのか。
どうして彼女はそこまで自分を責めているのか。

もしかして、あの日の俺は、彼女が自分を責めてしまうような事をしてしまったのではないだろうか。優しくて穏やかな彼女があんなにも自分を追い込むなんて、俺は一体何をしてしまったのだろう。
そんな事いくら必死に考えたって、何が事実かなんて分からない。あの日の全てを忘れ、未だに何一つ思い出すことこできない俺には、本当の事など何も分からないのだ。
どこまでも不甲斐ない自分が、腹立たしくて仕方がない。

もういい、これ以上考えたって泥沼化する一方だ。何であれ今俺がすべきことは、明日ちゃんと彼女に全てを話すことだ。あの日のことを謝って、そしてずっと好きだったのだと伝えるのだ。そこにどんな誤解があるのかは分からないが、俺が彼女のことを嫌いに思うことなど決してない。そんなに簡単に嫌いになるのなら、そもそもこんなに長い間彼女に片想いなどしていない。自分でもどうかしてると思うぐらい、俺は彼女にずっと溺れているのだから。

もし明日、彼女と話して誤解を全て解いたとしても、きっと元のような関係には戻れない。事務所で他愛もない会話を交わすことも、休日一緒に出かけること、もうないのだ。そんなのは当たり前だ、俺が彼女にした事は、本当に最低な事なのだから。
いつか彼女が自分を見てくれればなんて、身の程知らずな期待を抱いていた愚かな自分を切り捨てる。

長かった彼女への片想いが、終わりを迎える。

それは自業自得な行いの結果であると分かっているのに、胸が苦しくて堪らない。
彼女に愛されたかった自分が、行き場をなくして心の中をあてどなく彷徨い続ける。いくら消えろと訴えかけても、そいつはただ悲しそうに俯くだけで、どこにも行ってはくれやない。何年も彼女だけが好きだったのだ、そんなに直ぐに消えられる筈などない。いや、もしかしたら、そいつは一生俺の胸に居座り続けるつもりなのかも知れない。彼女以外の誰かを好きになったことがない俺は、彼女以外の誰かを想う方法なんて分からない。そもそも、彼女以外を好きになれるのかすらも、分からない。

薄暗いリビングで一人、ソファに寝転び額に腕を押し当てる。不意に脳裏に浮かぶのは、やはり顔を歪めて涙を流す彼女の姿で。それを思い出す度に、膨れ上がった夥しい後悔がぐるぐると頭の中に渦巻き続け、上手く処理が追いつかない。

ぎゅっと固く目を瞑り、全てが過ぎるのを待っていれば、突然ポケットに入れていた仕事用のスマホが鳴り始める。こんな時間に一体何事だとスマホのディスプレイを見れば、そこには彼女の後輩の名前が表示されていて。
今はとても誰かと電話をするような気分ではないが、もしかしたら誰かの命に関わる緊急の仕事かもしれないと、間髪入れずに電話ボタンをタップする。

すると、電話越しからはいつに無く焦った様子の後輩の声が聞こえてきて。彼の口から、思わぬ事態を告げられる。
その電話を受けた直後、居ても立っても居られなくなった俺は、気がつけば彼女が搬送された病院へと駆け付けていた。









「名字さんなら、今朝305号室に移られましたよ。」

いつものように集中治療室を訪れた俺に、偶にここで顔を合わせる看護師はそう言った。彼女がいる筈の集中治療室のベッドの上には誰もおらず、思わず最悪な想像をしてしまった俺は、その一言に盛大に胸を撫で下ろす。「そうでしたか…すみません、ありがとうございます。」と看護師にお礼を伝え、彼女が移った先の病室へと足を進めた。

彼女が大怪我を負った日…俺が彼女と最後に言葉を交わしたあの日から、丁度1週間が経った。彼女は未だに意識不明のまま、近くの大学病院に入院している。

あの日、彼女は個性を消す薬を打たれたにも関わらず、一般市民と怪我を負った他の事務所のサイドキックを庇い続けていたらしい。その後、遅れてエンデヴァーが到着すると、彼女はプツリと糸が切れるように倒れ込み、そのまま動かなくなったそうだ。
とうに限界を超えていたはずの彼女の身体は、どこもかしこもボロボロで。生きているのが不思議なぐらいだと医者が深刻そうに言っていた。

不意に、あの日現場に出向く前の彼女とのやりとりを思い出す。
あの時、多少強引にでも彼女と共に現場に出向いていたなら、こんな事にはならなかったのかも知れない。
あの時、彼女が去ってしまうその前に全ての誤解を解いていれば、彼女は心に余計なものを背負う事なく闘えたのかも知れない。

誰よりも彼女のことを大切に想っているはずなのに、どうしてこうも傷付けてしまってばかりいるのか。
本当に自分の不甲斐なさには嫌気がさす。

一般病棟にある305号室の扉をゆっくりと開ければ、そこにはいつも通りの姿勢で眠る彼女の姿があって。つい嫌な想像をしてしまった俺の心は、彼女の無事に安堵する。

「謝るのは、俺の方だったのに…名字は何も悪くないのにな。」

そんなことをいくら口にしたところで、深く眠ってしまった彼女には何一つとして届かない。
瞼を閉じて静かに眠る彼女は、今はとても遠い世界にいる様で、このままもう2度と目を開かないのではと不安になる。

俺は、まだ彼女に何も伝えられてはいないのに。
彼女が目を覚さなければ、どうすることもできやしない。

ガーゼの貼られた彼女の頬にそっと触れれば、手のひらには温かい体温が伝わってくる。
その温もりがやけに切なくて、ぐっと奥歯を噛み締めた。









真夜中、夜勤のサイドキック達が慌ただしく事務所内を行き交う中、ズカズカとこちらへとやって来るのは圧倒的な威圧感。もう慣れた感覚ではあるが、あまり心地の良いものとは思えない。ふとその根源へと視線をやれば、奴は何かとても言いたげな顔をしながら俺のすぐ側で足を止めた。

「ショート、お前は明日から暫く来なくていい。」

目が合えば、いきなりそんな事を言い出すエンデヴァーに思わず眉を顰めて言う。

「は?ふざけんな、どう言う意味だそれ。」
「どうもこうもない、そのままの意味だ。お前と名前は毎年有給の消化率がノルマに達しておらんのだ。これを機に、名前と共に溜まった有給を消化しろ。」
「…有給?さっきから何言ってんだ。ただでさ名字が居なくてでけぇ穴が空いてんだ、俺が休んでいいわけねぇだろ。」
「ふん、ボスである俺が休めと言っているのだ、それ以上の理由がどこある?それにあいつとお前の穴埋めなど、この俺一人で十分事足りるわ。」

いつものようにその無駄にごつい腕を組みながら、そう口にするエンデヴァーに、全く理解が追いつかない。
自分で言うのも何だが、この事務所にとって俺と彼女はかなり大きな主戦力であり、いくらエンデヴァーでもその穴を簡単に補えるとは思えない。しかし、この男がそれを分かっていない筈などない。
ならば、一体何のために態々そんな事を言い出したのか。意図の見えないエンデヴァーの言葉に、苛立ちだけが溜まっていく。

中々首を縦に振らない俺に「いいか、ショート!分かったなら返事をしろ…!」と段々と熱くなるエンデヴァー。それに、はい分かりました、なんて返事を簡単に口にできる訳もなく、そのままエンデヴァーの横を通り過ぎる。「無視をするな、ショートォォ…!」という声が背後から聞こえてくるが、気にせずに休憩室へと足を運んだ。

流石に10連勤の2徹は身体に堪える。気を緩めれば、直ぐに頭がぼーっとしてしまいそうになる。身体が休息を求めているのだろうが、そんなことは言ってはいられない。気を引き締めようと、ぐっと拳を握り締めれば、休憩室の扉から見知った男がひょこりと顔を出す。

「ショートさん、お疲れ様っス。」
「お。お疲れ…珍しいな、お前が夜勤なの。」
「そうなんスよ、何か今週は夜勤のサイドキックが足りてないみたいで…。それよりいいんスか、ボスのこと放っておいて。さっきからずっとショートォォって叫んでますよ。」
「ああ、別にいい、いつものことだ。」

後輩の言葉に、さっきまでの奴とのやり取りを思い出し、思わず溜息が溢れでる。アイツは一体、何なんだ。いきなり纏まった有給を取れなんて、本当にどうかしている。
そんな事を考えながら手元にある缶コーヒーをじっと眺めていれば、甘そうな飲み物を買った後輩が隣に座ってくる。

「ボスは多分、ショートさんがここのところ名前さんの穴埋めで働き詰めになってるから、休んで欲しいんスよ。」

不服そうな俺の顔を見て何かを察したのか、突然そんな事を言い出す後輩。まだ何も言ってはいないのに、俺の考えを射抜く様なその言葉に、相変わらず鋭い奴だなと苦笑する。

ここ最近、俺が働き詰めになっているのは事実だ。だが、ヒーローをしていればこんな風に働き詰めになる事は偶にある。その度にいつも自分で何とかしてしてきたのだ。今回も何とかなる筈で、態々休みなんて取る必要はない。

それに彼女の仕事の穴埋めは、どうしても俺がやらなければならない。俺がやらなければ、目覚めた彼女に合わせる顔などどこにもないのだ。

「俺があいつを病院に送ったようなもんだ、俺が休んで良いわけねぇだろ。」

そう呟く様に口にすれば、直ぐそばで後輩は驚くように目を見開き、こちらを振り向く。

「そ、それは考えすぎっスよ…名前さんを現場に送ったのはうちのオペレーターですし、名前さんは一般市民と他のヒーローを庇ってあんなことに…、」
「違う、そういう事じねぇ…あの日、あいつが現場に行く直前まで俺はあいつと会ってたんだ。…そこですげぇ嫌な勘違いをさせたまま、あいつを一人で現場に向かわせちまった。」

溢れる涙を乱暴に袖で拭う彼女に、謝ることも誤解を解くこともできなかった。彼女が一人で現場へと去って行く姿が今でも鮮明に思い浮かび、酷く胸を締め付ける。本当に情けない、最低な事をしてしまったのだ。行き場のないこの気持ちをどうにかしたくて、思わず手に力が入れば、握っていたコーヒーの缶がベコリと音を立てて凹む。

そんな俺の様子を見た後輩は、それ以上あの日のことを言うことは無くて。落ち着いた声色で「そうだったんスね…。」とだけ返してきた。

そして、そのままの声のトーンで話を続ける。

「でもショートさん、そんなに朝から晩まで働き詰めなのに、仕事の合間に毎日名前さんのお見舞いに行ってるスよね。ボスもサイドキックも皆んな、知ってますよ。」

そう口にした後輩に少し驚き、思わず目をやってしまう。
毎日、纏まった休憩時間に彼女の見舞いに行っている事は、誰にも伝えてはいなかった。絶対に俺だとバレないように変装までしてこっそり彼女の元へと通っていたのだが、どうやら皆んな知っていた様だ。
だが、それを身内に知られたところで、一体何だと言うのか。そんな視線を送ってやれば、逆に意志のある力強い眼差しが後輩から返される。

「俺が名前さんなら、例え喧嘩していたとしても、起きた時には親友のショートさんに側にいて欲しいし、何なら起きた瞬間に謝ってくれたら、喧嘩の内容が何であれ普通に許しちゃうっスよ。でも起きた時にこんなクタクタなショートさんが居たら、心配で全然安心できないっス。」

そう言った後輩は、まるでそのくたびれた顔をどうにかしろと言うように、自身の顔をムスッとさせて俺を見る。その酷い顔真似に、今の俺はそんな顔をしているのかと、少し唖然としてしまう。

だが、しかし、どんなに俺が元気な顔で居ようとも、きっとこの男が言うような許される未来などは訪れない。

「俺はもう、名字にとって親友でも何でもねぇ…起きた時にそばに居て欲しい人間なんかじゃねぇんだ。」
「…なら何でショートさんは毎日名前さんのところに通ってんスか?」

そんな後輩からの問いかけに、思わず言葉を詰まらせる。
きっと彼女は目を覚ましてすぐに俺と会ったって、何も嬉しくなどない筈なのに。なのに俺は、今日こそは彼女が目覚めているかも知れないと、当たり前のように彼女の元へと通っていた。

彼女がまた自分を責めることのない様に、起きてすぐに事実を伝えなければと思っていた。
彼女が何を思ってあんなに沢山悩んだのかを知りたくて、一日でも早く彼女と話がしたいと思っていた。

「…俺は、名字が起きたらすぐに謝って、本当の事を伝えたかった…、起きてすぐに伝えなけりゃ、またあいつは自分のこと責める気がして、だから…」

頭に浮かぶ思いを一つ一つ口にしてみるが、気持ちが上手く言葉に纏まりきらず、不恰好な台詞になってしまう。全くもって情けない。だが、そんな俺を目の前の後輩は呆れ笑う事もなく、真剣な眼差しを向け頷く。

「それなら、ショートさんのやるべきことは名前さんの仕事の穴埋めじゃないっスよね。」

その後輩の言葉に、思わずハッとなって目を見開く。
俺が本当にすべきなのは、一人病室で眠る彼女の側にいて、彼女の目が覚めた時に、何よりも早く彼女に事実を伝えて安心させてやることなのかも知れない。

そこまで考え、再び後輩の顔を見れば、俺の様子に何かを察したのか、彼はいつもの様に冗談気な顔を浮かべて言う。

「ショートさんの有給申請、俺からボスに出しておきますよ!」

「だから、早く行ってあげてください。」と言って目の前でグーサインを作る後輩に、強く背中を押された気持ちになる。この男は、本当にどこまでもお節介で良いやつだ。見た目も雰囲気も全然違うが、似たようなお節介で頼もしい友人の姿が不意に頭に思い浮かぶ。
「ついでに仕事の穴埋めもしときますから!戻って来る頃にはNo. 1イケメンヒーローの席は残ってないと思ってくださいよ。」なんて調子よく笑う男に、「ああ、そんなのいくらでもくれてやるよ。」と返事をして、彼女の元へと駆け付けた。










「雄英1年の時に、初めて声をかけてくれたのは隣の席の名字だった。」

それはごく普通の、何でもないただの挨拶と世間話だったが、彼女は覚えているだろうか。
あの頃、周りが何一つ見えていなかった俺に、彼女だけはそうやって友達の様に接してくれた。どんなに素っ気ない返事をしたって、彼女は俺に暖かく笑い続けてくれていたのだ。

「職場体験先が一緒だって知った時は、すげぇ嬉しかった。でも仮免に落ちて名字だけが親父の事務所にインターンに行っちまった時は、一緒じゃねぇのが凄く嫌だった。」

体育祭で親父が彼女を気に入った事がきっかけなのは腑に落ちなかったが、彼女と一緒に親父の元へ職場体験に行けたのは嬉しかった。
だけど、一緒に居られるはずだったインターンは、仮免試験に落ちた俺は参加できなくて。俺の居ないところで彼女が傷を負っているのが、どうしようも無く不安で堪らなかった。

「はっきりとは言えねぇけど、多分この時にはもう俺はお前のことを好きだったんだと思う。」

そう言って、目の前で眠り続ける彼女の顔を盗み見る。
あの時と何一つ変わらない彼女の姿が、今も愛おしくて堪らなくて。溢れかえってしまいそうな気持ちを落ち着ける様に、彼女の左手を優しくそっと握りしめる。

「あれから敵連合とかOFAとか燈矢兄のこととか、とにかく雄英では色々あったけど、名字と一緒だったから、俺はいつも真っ直ぐ前を向けてたんだ。」

本当に目まぐるしい程に色んな出来事が俺たちを襲って、心も身体もボロボロになるまで傷付いた。だけどその度に、彼女は俺に寄り添って「きっと大丈夫」だと笑ってくれた。
その言葉に、その微笑みに、あの頃の俺は一体どれだけ救われたことだろう。

「プロになっても同じ事務所で毎日話して、名字と変わらず一緒に過ごせるのが、すげぇ嬉しかった。このまま一緒に居たら、いつか俺のことを見てくれるんじゃないかって、思ってた。」

ずっとずっと、名字のことが好きだったんだ。
だから、少しでもいいから名字にも俺のことを好きになって欲しかった。

それなのに、結局俺はこうして彼女を酷く傷つけてしまったのだ。

「なあ、名字はあの日、どんな思いで俺に抱かれたんだ…?」

きっと沢山混乱して、怖くて気持ち悪くて、ずっと辛かったに違いない。
それなのに、彼女はそんな素振りなんて俺には一つも見せなかった。それどころか、最後に会ったあの日、彼女は俺に許してくれと言ってきたのだ。

「何であの時、俺に謝ったんだ…?
何で酷いことをした俺の側に、ずっと居続けてくれたんだ?」

次の日も、その次の日だって、彼女は変わらず俺に笑い掛けてくれていた。こんな最低な俺を忌み嫌う訳でも無く、それどころか彼女はずっと自分のことを責めていて。どうしてそんな事になっているのか、俺には全く分からなかった。

「名字のことが、知りたいんだ。嫌いなら嫌いだって、言ってくれればいい。一人で背負って、我慢して、何も言わないのはもう無しにしよう。俺も全部、お前に言う。好きだって、愛してるっ言うから、だから…」

そろそろ、起きてくれないか。

込み上げる感情が抑えきれず、彼女の左手を握る手に力が籠る。温かい傷だらけの小さな左手を額に当てて、早く彼女が目覚め、元気になるようにと願い続ける。

そんな最中、換気のために少し開けておいた窓の隙間から、勢いよく風が吹き込んでくる。部屋の色と同化した真っ白いカーテンが、ゆらゆらと宙を舞っていて。風が吹き込まないように、窓を閉めようとその場を立ちあがった、その時だった。

「わたしも…轟くんが、好き。」

突然、そんな耳馴染みのある小さな声が聞こえてきて、思わず身体をピタリと止める。

まさか、そんな…幻聴か?
いや、どう考えても幻聴だ、落ち着け。
有給を取り始めてもう5日は経つのに、まだ俺はこんな幻聴が聞こえる程に疲れているのだろうか。こんなことでは、目が覚めた名字を安心させてやる事なんてできやしない。
そう思いながら彼女の顔を覗き見れば、そこには綺麗な色の瞳がこちらを見つめていて。

心臓がこれでもかと言うほどに跳ね上がる。

「名字…ッ?!」

慌てて彼女の側へと身を乗り出せば、彼女は自身の左手をゆっくりとこちらへ伸ばしてきて。慎重に丁寧に、伸ばされてきた愛しい手を両手で包む。

ああ、彼女が目を覚ましたのだ。
胸の奥底から込み上げて来る歓喜に、思わず涙腺が緩んでしまいそうになるのを堪える。
十数日ぶりに開かれた彼女の瞳は、やけに懐かして胸を焦がす。両手で小さな手を握りしめれば、彼女はガーゼに包まれた頬を少しだけ緩めて言った。

「わたしね、ずっと轟くんが好きだったの。…だからあの日、飲み会で轟くんが誰かに片想いをしていることを知って、ショックだった…。」

ゆっくりと小さな声で語り出した彼女の言葉に、思わず耳を疑ってしまう。
彼女が俺を好きだったって…いや、待て。そんなはずはない、これは何かの冗談なのか。そんな事を一瞬考えるが、今のこの雰囲気からして冗談である訳もなく、頭の中がひたすら混乱に陥る。
あの日の飲み会で、確かに俺は上鳴達と片想いが実らない話をしていたが、それは何を隠そう彼女のことだ。彼女がショックに思う必要なんて何処にも無かった筈なのに。

「…飲み会の帰り道、酔ってふらふらだった轟くんを拾って、ベッドに押し倒された時には、私でいいのかなってちょっと期待してたの。」

彼女の口から明かされていくあの日の出来事に、思わずごくりと息を呑む。
やはり俺は、彼女をあのラブホで押し倒してしまっていたのだ。だけど、それを語る彼女の表情には恐怖や憎悪の感情はなく、何故だか申し訳なさそうに眉を下げて笑っていて。

「轟くんはね、とっても優しく丁寧に私のことを抱いてくれた。…でもね、いつもみたいに名前で呼んでって言われて、誰のことを考えてるのかなって…すごく悲しくなった。」
「そんな事を、俺は言ったのか…」
「うん。」

彼女の言葉に、酷い衝撃を受ける。
それはまるで、俺が彼女ではない誰かを思い浮かべながら、彼女の身体に触れていたみたいではないか。
彼女以外の誰かを望んだことは、これまで一度だって無かったのに。あの日の俺は一体なんて事を彼女に言ったのだと、どうしようもない焦りと怒りが込み上げる。

「私はね、私のことを誰か分かってない轟くんを利用したの。好きで好きでどうしようもなくて、もう二度とこんな風には触れてもらえないって、思ったから。
私が全部黙ってたら、誰を抱いたか分かってない轟くんは私を軽蔑しないし、いつも通りの距離で居られると思った。それに、轟くんは何の後ろめたさもなく好きな人と一緒に居られると、そう思ったの。」

彼女の口から明かされる事実に胸が熱くなり、思わず彼女の手を握る力が強くなる。

だから、彼女は俺に謝ったのか。
だから、彼女はずっと事実を黙っていたのか。
だから、彼女は自分を責めていたのか。

分からなかった彼女の言動の全てが繋がり、すとんと胸に落ちていく。
俺が好きなのはずっと前から彼女だけで、それを彼女に伝えていれば、きっとこんな事にはならなかった。そんな後悔が胸の中に残るものの、今は兎に角、彼女がこんなにも俺を想ってくれていることが嬉しくて堪らなくて。彼女が愛おしすぎて、どうにかなってしまいそうだ。

一通り話し終えた彼女は俺の方を向き直り、そして何とも言えない不安そうな顔をしながら首を傾げて俺に問う。

「これが私の全部だよ…どう、軽蔑した?」

その問いかけに、俺は透かさず首を横に振る。

「軽蔑する訳ねぇだろ…。寧ろ、もっと好きになった。好き過ぎて、頭がおかしくなっちまいそうだ。」

そう言って彼女に優しく微笑み掛ければ、彼女は少し驚いたように目を見開き、そして安心したように笑ってみせる。
ああ、なんて幸せなのだろうか。
彼女に嫌われることを散々覚悟していたというのに、まさか彼女が俺を想ってくれていたなんて。これは本当に現実なのか、何度も疑いたくなってしまう。

敵の攻撃により短くなってしまった彼女の髪を、そっと撫でる。柔らかくて手触りのいいその感覚を指に感じながら、彼女にそっと尋ねてみる。

「なあ…いつから俺の声、聞こえてたんだ?」
「…3日ぐらい前かな…?さっきまで体が動かなくて、目も開けられなかった。」

そんなにも前から、聞こえていたのか。
だから彼女は起きるや否や、俺に全てを話してくれたのか。ここ5日間、眠る彼女にずっと俺の気持ちを語り続けた。それを聞いていたから、彼女はこうして自身の全てを語ってくれたのだと納得する。

「毎日ずっと轟くんが私に謝ってて、しかも好きだって言ってくれてて…何の夢なのかなって思ってた。」
「夢じゃねぇぞ。毎日謝ってたし、毎日好きだって言ってた。10年も言えずにいたのにな。」
「10年も前から…お互い、好き同士だったんだね。」

なんか変なの、私たち。
そう言って可笑しそうに笑う名字に、本当だなと笑い返す。
そして、きっと不可解に思っているであろうあの日の俺の言葉について、今思ったことを彼女に付け足す。

「あの日の…名前で呼んでってやつだが、悪りぃが俺はあの時のことを何も覚えてないんだ…でも多分、その時の俺はちゃんと相手が名字だって分かっていたと思う。」
「どうしてそう思うの?」
「ずっと、名字が俺のことをヒーローネームで呼んでくれるの、好きだったんだ。なんか名前で呼ばれてるみたいで、嬉しかった。」
「…!」
「いつも夢に出てくる名字は大抵俺のことを名前で呼んでくれてたから、その時もそう思ったんだと思う。」

このことは彼女にだけは絶対に秘密にしておこうと思っていたが、もうどうだっていい。彼女に勘違いをされ続けるのであれば、ここで全て曝け出してした方がいいに決まっている。

「こんなこと考えてたなんて、気持ち悪いと思ったか?」

彼女が軽蔑してしまったのなら、それは仕方がないことだ。同僚にこんな事を思われていたなんて、普通に気持ち悪いだろう。
そんなことを考えながら彼女の反応を窺えば、彼女はゆっくりと首を振り、そして穏やかな声色で答えた。

「うんん、そんなことない。寧ろ、もっと好きになった。」

そう言って悪戯げに笑う彼女に、心臓がドクンと跳ね上がる。これまで感じた事ないほどの嬉しさがぶわっと胸に広がって、心が全然追いつかない。
おかしい、本当にこれは何か都合の良い夢ではないのだろうか…そんなことすら思ってしまう。

「なあ、頬、触れても良いか?」
「触れてくれるの?」
「名字が嫌じゃないなら、」
「嫌なわけ、ないよ。」

緩く笑ってみせる彼女の頬へと、そっと手を伸ばす。手を添え、ガーゼの上から優しく親指で頬を撫でると、彼女は何だか恥ずかしそうに俺から視線を逸らす。
何だそれ、可愛い過ぎるだろ。
彼女の反応一つ一つに胸を打たれてしまう俺は、きっと彼女が想像しているよりずっと彼女のことを想っていて。

「キスしても、いいか?」

そう静かに問いかける俺に、彼女は小さく頷く。

「うん。ずっと覚えててくれるなら、何度でもして。」

彼女にとっては、きっと初めてではない俺との口付け。
また忘れるなんてことは、絶対にない。

「2度と忘れたりしない。」

これからは、絶対に彼女のことを傷付けない。
そう心に誓いながら、ゆっくりと彼女の唇に自分のそれを重ねた。




Evanescent 本編 END


=
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -