#10 瑕瑾


彼女のことをいつから好きだったのかと聞かれると、はっきりとこの瞬間だと答える事はできない。これと言って特別な出来事があった訳でなければ、初めて出会った瞬間に盲目的に恋に落ちた訳でもない。
きっかけと呼べるような事は、何一つなかった。
ただ、いつも当たり前のように隣で穏やかに笑っている彼女に、俺の心は緩やかに惹かれていったのだと思う。
そうして音もなく静かに侵蝕された俺の心は、もう彼女を知らなかったあの頃には戻れなくなっていた。


遡ること雄英入学当初、親父への憎しみで頭がいっぱいだった俺は周りなんて碌に見ていなかった。誰とも親しくする気はなくて、クラスの奴等にいつも冷たく接していた。勿論、彼女だって例外ではない。隣の席で、事あるごとに柔らかい笑顔を浮かべて話し掛けてくれたのに、俺はいつもそれを無碍にしてばかりで。兎に角、今考えると本当に最低でどうしようもない奴だった。
しかし、そんな俺の冷たい態度など全く気にする様子のない彼女は、いつも人懐っこい笑顔を浮かべていて。俺がどんなに適当な返事をしたって、不思議なぐらい話を膨らませてくれる。俺の知らない話題でも、彼女は俺の表情を見ながら所々噛み砕いて話してくれたりと、本当によくできた優しい人だった。そんな彼女の何気ない言葉や笑顔だけが、何故かいつも胸に残る感じがして。何だこれおかしいなと、いつもいつも思っていた。

それを恋だと自覚したのは、彼女がエンデヴァーの元へとインターンへ行っている最中だった。
職場体験ではずっと彼女と一緒に行動をしていたが、仮免に落ちた俺は彼女と共にインターンに参加することはできなくて。インターン期間中、殆ど不在となってしまった右隣にやけに寂しさを感じていた。偶に授業に参加する彼女は、知らぬ間にその白くて綺麗な肌に沢山の生傷を作っていて。その姿を隣の席から盗み見る度に、胸がどうしようもなく騒ついた。彼女は仮免を取得してヒーロー活動を行っているのだ、傷の一つや二つは当たり前のこと。それなのに、もし俺が一緒にインターンに行けていたなら、この傷も少しは減っていただろうか…なんてことを考えてしまう。

そして、そんなある時、ふと自身の思考の違和感に気付く。
どうして俺は、こんなにもいつもいつも彼女のことばかり考えているのだろうか、と。

彼女の穏やかで優しい声も、緩い笑顔も、偶に見せる真剣な表情も。ほんの少し思い出すだけで、色々な気持ちが一気に溢れ、忽ち胸をいっぱいにする。四六時中こんなにも誰かのことを頭に思い浮かべているなんて、どうかしている。いつから俺はこんな事になってしまったんだ。
溜息を吐きながら、このよく分からない気持ちをどうにかしたくて、ネットで色々検索した。
その結果、これはどうやら恋煩いというものであり、基本的に治す方法は無いということを知ったのだった。

俺は彼女に恋をしている。
それを自覚してから、何年もの月日を彼女と共に過ごしてきた。雄英を卒業してエンデヴァー事務所で本格的にプロ活動を始めた後も、学生の頃と変わらぬ距離感で彼女との時間を重ねていった。
彼女は今も変わらずあの美しい笑顔を俺に向けてくれていて。それを目に入れる度に、まるで魔法にでも掛かったかのように、忙しさに疲れきった心や身体が一瞬にして癒される。そして同時にこれでもかと言うほど心臓が高鳴り、好きだと思う気持ちが溢れてくる。じゃあまたね、と彼女が去って行けば、切ない痛みが胸をチクリと刺激する。

俺がこんなことになるのは、昔からずっと彼女にだけ。
本当に好きで好きで、堪らないのだ。
この底の見えない深い気持ちは、時折り自分でも酷く恐ろしく思えてくる。なのに、その一欠片も彼女に伝えることができない俺は、本当にただの意気地無しだ。

いつか彼女も、俺のことを少しでも意識してくれる日が来ればいいのにと、そう静かに思っていた。







再び瞼を閉じ眠ってしまった彼女は、もう起きる様子はどこにもない。先程まで彼女を苦しめていた身体の熱はどうやら全て治まったみたいで、苦しそうに息づく姿は今はない。
彼女はもう大丈夫、だから俺がここにいる理由なんてどこにもない。寧ろ、そっとしておくべきだと言うのに、何故だか身体が1ミリたりとも動かなくて。

たった今彼女が口にした言葉が、ぐるぐると頭の中を渦巻く。

『また、忘れてしまうの…?』
『轟くんは、全部忘れてなかったことにできるけど、…あの日のことだって、わたしは、わたしだけがずっと…っ』

忘れるって、一体何を。
あの日のことって、一体なんだ。

そんなの、答えは一つしかない。
何で彼女が、俺が忘れてしまったあの日のことを知っているんだ。
何でよりによって、彼女なのか。

身体中の力が抜けて、へたりと椅子に座り込む。ドクドクと心臓が酷く荒い鼓動を刻み、全身からは嫌な汗が噴き出てくる。

嘘だ、これは何かの間違いだ。
だってあの夜、酔って抱いてしまった相手が彼女だっただなんて、そんなのあるはずがない。そう自分を落ち着かせようと必死になるが、こんな状況で正気を保つことなどできなくて。額に手を当て、ぐしゃりと前髪を握り潰す。

不意に、いつかの後輩の言葉を思い出す。

『…じゃあ何で名前さんは心ここに在らずな時があるんスかね。』
『う〜ん………あ!あれッスよ、先月名前さんが朝勤なのに飲みに行っていた、あの珍しい日からっス!』

まさか彼女なはずは無いだろうと、その時俺は後輩の言葉を然程深くは捉えなかった。だが、それがどういうことだったのか、今になって理解する。
あの日以降、俺の前では何ともなかった筈の彼女は、本当は酷く動揺していたのだ。ずっと俺に無理やり身体を重ねられたことを、気に病んでいたに違いない。

しかし、それならどうして、さっき彼女は熱に魘されながら俺の名前を口にしたのだろう。
どうして、あんなにも愛おしい誰かを求めるような表情で、俺の名前を何度も何度も呼んだのか。

初めて彼女にそう呼ばれたはずなのに、俺はその甘く愛おしい響きをどこか知っている気がしてならなくて。胸が熱くて堪らなかった。
あの夜も、彼女はそうやって俺のことを呼んでくれていたのだろうか。さっきみたいにお互い名前で呼び合いながら身体を重ねたのなら、それはきっと同意の上での行為だったに違いない。

そう思いたいのに、俺から名前を呼ばれる度に、なぜか彼女はとても切なく泣きそうな顔をしていて。

いくら鈍い俺だって、そんな顔を見たら察する。
あの夜、彼女と自分は想い合って事に及んだ訳ではないということぐらい。

目の前で静かに眠る、彼女の顔を覗き見る。
あの頃よりも大人になって、ずっと綺麗になった彼女だが、寝顔はどこか幼くて。彼女の全部が、愛おしくて堪らない。大切で尊くて、ずっと側で守りたかった。
それなのに、俺はそんな彼女を酷く傷付けてしまった。償うことのできないぐらい、最低な事をしてしまったのだ。自分が何をしたのか考えるだけで、胸が抉られるように苦しくなって、まともに呼吸すらできない。

酔っ払った好きでもないただの同僚に初めてを奪われ、しかもそのことを何一つ覚えてないソイツと職場で毎日顔を合わさなければならないなんて、最悪以外の何でも無い。きっと彼女は俺と顔を合わせる度にあの日のことを思い出し、不快に思っていたのだろう。
今思えば、隣町から一緒に帰ったあの時も、ショッピングモールでドレスを選んだあの時も、パーティ会場の個室で羽織を掛け直したあの時だって、本当は彼女はずっと不快で仕方がなかったのかもしれない。

『これぐらい全然平気だよ。私、ヒーローだし怪我も慣れてるし…それに、この歳で生娘って訳でもないし。』

そう言って無理やり笑顔を貼り付ける彼女の肩は小刻みに震えていた。それは、あの不躾な男の行為に対する震えだとその時は何も疑わなかった。だが今考えると、あの男に迫られた後、自身の初めてを無理やり奪った俺に触れられ、怖いと感じたのかもしれない。ただ彼女を安心させたくて伸ばした手は、きっとあの男のものと同じで、穢らわしいものとしか思われていなかったのだ。

そしてまた俺は、苦しむ彼女を救わんとばかりにその肌に触れてしまった。熱にうなされ意識を朦朧とさせる彼女が抵抗などできる訳がないのに、自分は許されているのだと愚かな勘違いをして、また最低な行いを繰り返してしまったのだ。
あの日のことを知らなかったとは言え、自分を無理やり抱いた男に再び身体を弄られるなんて、こんな最低なことがあるだろうか。
あの夜のことを何一つ覚えていない俺に、「今日のことは全部忘れてくれ」なんて言われて、彼女はどんな気持ちになったのだろう。

何年もかけて大事に積み重ねてきた彼女との信頼を、こんな最低な形で失うことになるなんて、一体誰が想像すると言うのだろうか。何よりも大切に守ってきたそれは、呆気のないほど一瞬で砕け散り、掌からこぼれ落ちていく。
もう何もかも、元通りには戻らない。
全てを失ったような感覚に、思わず身体が震え出した。









その後のことはあまり良く覚えてないが、気が付けば自宅のソファで蹲っていた。ひどい頭痛と動悸に見舞われながらもポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。履歴の中から目的の名前を見つければ、迷う事なく電話マークをタップした。
現No.1ヒーローであり多忙を極めるこの男が、そう簡単に電話に出られる訳がない…。あまり期待せずに耳元で鳴る呼び出し音を聞き流していれば、意外なことに1コール目でその音は中断される。

『もしもし、轟くん?』
「…緑谷、こんな時間に悪りぃ…今大丈夫か?」
『うん、大丈夫だよ。…どうかしたの?』
「ああ……その…俺、もうどうすりゃいいのか、何も分からなくなっちまって……。」
『へ…!?えっと……ちょ、ちょっと待って…!君、今自宅にいるの?』
「…ああ。」
『と、取り敢えず今すぐ行くから…!ほんの少しだけ、そこで待ってて!』

電話越しには慌てた緑谷の声が聞こえてくる。まだ驚く様な事は何も言ってはいない筈ないのに、どうしてそんな反応をするのだろうか。まさかこの電話越しの短い会話の中で、俺の心中を大体察してしまったとでも言うのか。緑谷は偶にそういうところがあるから、否定はできない。俺の事なのに、俺すら気付かなかった感情を言い当てられた事なんて、数回どころの話ではない。

予想よりも遥かに早く通話は終わり、スマホをその辺に転がし自身もソファに身を投げる。
色々考えすぎて、もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。嫌な出来事全てを何処かに投げ捨てることができたとしたら、どれだけ良いだろうか。たった一つの過ちのせいで、今まで大切にしてきた彼女との10年間が、酷く心を苦しめる。
もう何もかも終わりなんだ。10年かけて漸くここまで積み重ねてきたというのに、こんなにも呆気なく終わってしまうなんて。
瞼を閉じ、目元を手で覆う。
間接照明しか点いていないリビングは、いつにも増して薄暗くて。気持ちは更に沈んでいく。

そうやって正気の抜けた抜け殻のような時間を過ごしていれば、エントランスの呼び鈴が鳴る。嘘だろ、あれからまだ10分も経ってないぞと驚きながらも、解錠して彼の訪問を受け入れる。

「轟くん…っ」

玄関の扉を開ければ、肩で大きく呼吸をする緑谷が心配そうに俺の名前を呼んだ。
こんなに息を切らすなんて、一体どれだけ急いで来てくれたんだと、思わず胸が熱くなる。「入ってくれ、」と彼を中へと招き入れ、ひとまず何か飲み物を用意する。

「緑谷……本当に悪りぃ、」
「僕のことはいいんだ、それより…」

そう言いながら首を振る緑谷は、どこか心配そうな表情でこちらを見ていて。ソファに座っているというのに寛ぐ感じは全くなく、彼の背筋は伸ばされたままだ。
そんな真剣な緑谷の様子に、今日あったことを伝えなければと言葉を探す。しかし、とっ散らかった頭をいくら回しても、上手い言葉が見つからない。自分から緑谷に頼っておきながら、本当に情けない。そんな俺を急かす事なく、緑谷は優しい瞳でただじっと待っていてくれる。
漸く口から出てきた言葉は、何もかもが不足した短い一言だった。

「名字、だったんだ……。」

その一言を放った瞬間、酷い罪悪感に心の中が支配される。
早く言葉を付け足さないと、それだけでは何の話をしているのかさっぱり分からない。そう自分でも分かっているのに、ズキズキと痛む胸に言葉なんて浮かんでこない。何とかしないとと思っていれば、隣から付け足すような言葉が放たれる。

「例のあの相手のこと、だよね…?」

驚く様子もなく、ごく自然に紡がれたその一言に、ハッとなって顔を上げる。
するとそこには、何故かとても申し訳なさそうな表情を浮かべた緑谷がいて。どういうことだと戸惑うものの、次の瞬間には「まさか」となって彼の瞳を見る。

「…緑谷は知ってたのか?」
「ご、ごめん…実は少し前から。」

そう言って視線を下げる緑谷。驚きのあまり言葉を失う俺に、緑谷は続けて言葉を紡いでいく。

「名字さん、轟くんには絶対に言わないで欲しいって…その、だからと言って君のことを裏切って良い筈はないんだけど……君に協力するって言っておいて、本当にごめん。」

そう言って深々と頭を下げる緑谷。
色々と理解が追いつかないが、とにかく思ったのは、緑谷がここまで頭を下げ俺に謝る理由なんてどこにもないということ。これは元々俺が撒いた種であって、それを緑谷は真摯になって協力してくれていただけなのだ。それに、緑谷は多分…いや絶対に名字の気持ちを汲み取って、彼女の心を守れるやり方を選んでくれたのだと思う。大切なのは俺の気持ちなどではなくて、彼女の気持ちの方なのだ。そんな彼を責める理由なんて、一体どこにあるというのか。

「辞めてくれ緑谷、謝らないでくれ。お前はただ名字を守ろうとしてくれてただけなんだろ…?」

俺がそう尋ねれば、緑谷は顔を上げずにその場で小さく頷いた。それなら、寧ろ謝罪をするべきなのは俺の方だ。こうして嫌な感じに自分と彼女との間に立たせてしまったのだから。

本当に俺は、大切な人を傷付けてばかりの最低な人間だ。
いくら深くため息を吐き出したって、膨れ上がった自己嫌悪感は中々抑えられるものではない。

「…俺、あいつのこと、ずっと好きだったんだ。」

膝の上でぎゅっと拳を握り締め、ゆっくりと心の内を言葉に紡ぐ。

「なのに、俺はあいつに取り返しのつかねぇ最低なことをしちまった……それだけじゃねぇ、何も覚えてないのをいいことに、今日まであいつの前で平気な顔して過ごしてた。」

あの日から今日に至るまでの数ヶ月、何も覚えていない俺は彼女を見かける度に声をかけて、些細な会話を楽しんだ。その時、彼女が一体どういう思いで俺と接していたのかを、今更になって想像する。

「名字は絶対に俺のこと、最悪な奴だって軽蔑してる。」

握り締める拳に、更に力が篭る。
ずっと、彼女だけが好きだった。例え望みが薄くたって、時間を重ねて少しでも俺のことを好きになって欲しかった。
それなのに、あの日から俺に向けられていたのは全く逆の、嫌悪の感情だったのだ。無責任に身体を重ねたくせに何もかもを忘れた俺を、軽蔑しないわけなどない。
彼女との関係は、もう2度と修復できないところまで堕ちてしまった。謝罪をするだけでは、きっともうどうにもならない。

ぐっと噛み締めた唇からは血の味がする。胸がずっと苦しくて、肺いっぱいに酸素を取り込むが、痛みは一向に治らない。
そんな俺を隣で見つめる緑谷は、酷く悲しそうな目をして言った。

「轟くん、よく聞いて。君も彼女も、何だかお互いのことを沢山誤解しているみたいだ…やっぱり僕は、君たちはもっとよく話し合うべきだと思う。」
「またそれか、今更何を話し合えって言うんだ…ッ、あいつはもう俺の顔すら見たくねえって思ってる筈なのに…!」
「なら聞くけど、どうして彼女はずっと君にあの日のことを黙ってたんだと思う?」

そんな突然の緑谷の問いかけに、咄嗟に答えが思い浮かばず言葉を詰まらせる。しかし、そんな俺の回答を待つ事なく、緑谷は更に質問を重ねていく。

「どうして彼女はあの日以降も、轟くんと普通に会話したり、ショッピングに行ったりしたと思う?どうして僕に、轟くんには黙っていて欲しいって言ったと思う?」

次々と口にされる問いかけに、必死に思考を巡らせるものの、何一つ答えなんて出てこない。
分からない、彼女がどうしてあの日の朝、俺に黙って姿を消したのか。どうして何も言わずに今まで普通に過ごしてきたのか。どうして今日、あんな愛おしそうな表情で俺の名を口にしたのか。

彼女が何を思ってそうしたのか、俺には全く分からない。
本当は理解できないことが沢山あるのを知っていた。でも、これ以上悲惨な事実に傷付きたくなくて、分かることだけを必死に繋げて結論付けた。
緑谷はそこをしっかり話せと、そう言ってくれているのだろう。

「僕が彼女と話した内容を今ここで君に伝えることはできないけど、でも一つだけ僕から言えるとすれば、それは君も彼女ももっとお互いの気持ちを直接知って理解すべきだと思うよ。」

戸惑う俺を安心させるかのように、緑谷は穏やかな声色でそう告げる。それはまるで、お互いのことを知れば何か良いことが待っているとでも言うような口振りで。そんな言葉を鵜呑みにするのは危険であると分かっていても、弱りきった心はそれに縋り付きたくなってしまう。

本当は、どうすべきなのかなんて最初から分かっていた。
だけど、そこに待ち構えている事実を知るのが怖くて、目を逸らし続けてきただけなのだ。

「名字に、謝りたい。謝って、ずっと好きだったって伝えたい。…名字が何を考えてるのか、全部知りたい。」
「うん、そうだね。なら君は今ここで凹んでいる場合じゃない筈だ。」
「…名字は、こんな俺と話をしてくれるだろうか。」
「絶対にしてくれるよ。大丈夫。だから君もちゃんと彼女の思いを受け止めてあげて。」

そう言って、緑谷はとても強く真っ直ぐな瞳を俺に向ける。大丈夫、平気だからと訴えかける心強い視線に、あんなにぐちゃぐちゃに乱れていた心が落ち着きを取り戻す。本当に、緑谷はどうしていつも絶対に揺るがない筈の人の心を突き動かしてしまうのか。そして、突き動かされると分かっていながら、どうして自分はいつも緑谷に頼ってしまうのか。
後者に関しては、本当は心のどこかで彼に背中を押して貰いたいと願う自分がいのだろうと、今更ながら思った。







「名字、この後いいか?」

日勤の業務を終え、自席で帰宅の準備をする彼女を呼び止める。今日はまだ一言も彼女と言葉を交わせておらず、これがその最初の一言目となった。昨日の今日で明らかに一変してしまったお互いの雰囲気に、胸が騒つき仕方がない。
俺の声に振り向く彼女は、いつものような笑顔を見せない。ただ気まずそうな表情を浮かべながら、こくりと首を縦に振った。


私服に着替え、裏口から事務所を出た俺たちは、2人並んで無言で歩く。10年間も共にいて、こんなに微妙な空気になった事などこれまで一度だってなかった。話すことが思いつかない時は、彼女がいつも何か話題を出してくれる。そんな彼女が今は何も話さず黙っていて、これがいかに異常な状態であるかを物語る。

すっかり日が暮れた夜の街を、2人で歩く。
日中は人通りの耐えないこの通りは、夜になると途端に寂しく静まり返る。夜は引ったくりが増える道だとバーニンが言っていたから、パトロールがてら帰り道にここを通る事が偶にあった。
だけどあの日からは、必ずこの道を通って帰るようになった。もしかしたら、再びその人に会えるかも知れないと、そう思ったからだ。
とある細道の前で、そっと足を止めて立ち止まる。すると、すぐ側を歩いていた彼女も同じように足を止める。一体なぜこんな所で立ち止まるのだと言いたげな視線を感じながら、ゆっくりと彼女の方へと向き直る。

どくどくと心臓が大きな音を立てる中、覚悟を決めて彼女に告げる。

「…この辺りだったんじゃねぇのか?」
「?」
「あの日、名字が酔った俺を拾ってくれたのは。」

皆まで言わず、その一言だけを口にする。
すると、彼女の綺麗な色の瞳が一瞬、大きく見開かれる。

「…何の、こと…?」

そう口では言いつつも、徐々に強張っていく彼女の表情に、明らかに動揺している様子が窺える。
いくらしらばっくれたって、彼女もこの場所には身に覚えがある筈なのだ。なぜなら、すぐそこの細道を入った先には、例のラブホがあるのだから。

「名字だったんだろ、あの日俺が酔って襲っちまった相手は。」

知らぬフリを突き通そうとする彼女に、はっきとした口調でそう告げる。すると、ピクリと肩を揺らした彼女は、視線を不自然に泳がせる。行き場の定まらないその瞳には、困惑や不安の色が滲み出ていて。何かを告げようと開かれる唇は、心なしか震えている。

「なんで、それを…」

何とかして絞り出されたその一言は、とても彼女の声とは思えないほど弱りきった悲しい声で。
あの日俺がしたことは、こんなにも彼女を追い込んでしまっていたのだと思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。

「…あんま憶えてねぇかもしんねぇけど、昨日名字が気を失う前に言ってたんだ…あの日のこと、また忘れるのかって。」

そう昨日のことを彼女に告げれば、まるで身に覚えのない事を驚くように、口元に手を当てて唖然とする。やはり、彼女は昨日のことをあまりよく覚えてない様だ。
それでも俺は、あの時の、あまりにも悲しげな彼女の表情をどうしても忘れることなどできなくて。あれが彼女の本心なのだと思うと、胸が張り裂けそうになる。
あんな気持ちを、彼女は今も必死に隠しているのだろうか。
そう思いながら、彼女にそっと問いかける。

「…どうしてあの日のこと、何も言わずに黙ってたんだ?」

そう静かに尋ねた俺に、彼女はぐしゃりと顔を歪ませる。
その表情に、息ができなくなるほど胸が苦しくなっていく。

そんな顔をするぐらい嫌だったのなら、あの日の朝すぐにでも俺を責めれば良かったのだ。
償えとか、もう目の前に現れるなとか、きっと言いたいことは沢山あった筈なのに。
それなのに、どうして何も言ってくれなかったのか。どうして今までひた隠しにして過ごしてきたのか。

何も分からない彼女の事が知りたくて、震える小さな唇をただじっと眺め続ける。
すると、彼女はその線の細い身体を縮こませながら、嫌がるように首を振った。

「不快、だったよね…ごめん。」

そう彼女からポツリと紡がれた言葉に、思わず耳を疑ってしまう。

彼女はいま、一体何と言ったのだ。
不快だったって、誰が誰に対して?
なんで「ごめん」なんて、謝った?

状況が飲み込めず、ただ唖然としてしまう俺の目の前で、彼女は肩を震わせ俯いていく。

「本当に、ごめんなさい…その、もう2度とこんなこと、しないから…、轟くんの不快に思うこと、絶対にしないから、だから…っ」

そう訴える彼女の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れていて。初めて目にする彼女の涙に、頭が真っ白になっていく。

一体これは、どういうことだ。
どうして彼女が、こんなに必死に謝っているんだ。
どうして彼女は、俺を不快にしたと思っているんだ。
どうして彼女は、こんなに自分を責めているんだ。
まるで話が読めなくて、慌てて彼女の顔を覗き込む。

「おい、さっきから一体何を言って…」

そう言いながら覗き込んだ視線の先には、涙で濡れた愛しい瞳が、酷く切なげに俺を見つめていて。
なぜか言葉の続きを失ってしまう。
そんな俺に、彼女は消えいるような小さな声で言う。

「……お願い、嫌いにならないで……っ」

まるで必死に縋り付く様なその言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。

「何でそんなこと、名字が言うんだよ…」

自分でも呆れるほどに、情けない声が溢れでる。

あの日のことを謝るのだって、2度としないからと許しを乞うのだって、全部俺が彼女に言うべき台詞なのに。
どうして彼女がそれを口にするのだ。
一体どんな誤解をすれば、こんな事になるのだろうか。
緑谷が言っていた、よく話し合えというのは、こう言う事だったのか。どうしてしつこく彼がそれを薦めてきたのか、今になって痛いほどに理解する。

話し合わないと、俺がどう思っているのかを彼女にちゃんと伝えなければ。
俯く彼女の両肩を掴み、そうじゃないのだと首を振る。

「違うんだ、俺はずっと名字に謝−−−」

ピリリリリ……

必死な俺の言葉と被さるように、どこからかともなく鳴り響く着信音。その音にハッとなった彼女は、慌てて鞄から仕事用のスマホを取り出す。同じスマホを持たされている俺は、この音が緊急要請の呼び出し音であることを知っていて。こちらの様子を伺うようにチラリと俺を見る彼女に、勿論出てくれと頷く。

「はい、……そうです、今はその通りに………分かりました、直ぐに向かいます。」

瞳に溜まる涙を袖で無理やり拭き取った彼女は、いつもの落ち着いた声色で電話の相手と話をする。
そして、数秒間の通話を終えた彼女は、どこか申し訳なさげに眉を下げてこちらを見る。

「…敵か、なら俺も行く。」
「うんん、私1人で大丈夫…。」

そう言い切った彼女の瞳は、まるで「お願いだから、来ないで…。」と訴えかけている様で。
どうしても強引に付いて行くなんて真似はできなかった。

「ごめんなさい」と小声で呟き、俺の横を通り過ぎる彼女は、そのまま大通りを駆け抜けて行く。その後ろ姿を、俺はただ黙って見つめることしかできなかった。


その後、彼女は一時的に個性を消される薬を打たれ、生死を彷徨うほどの重傷を負った状態で発見されることになる。


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