#7 所懐


「名前は今、幸せか?」

そう一言だけ呟いた彼は、いつも通り綺麗な瞳で真っ直ぐこちらを見つめていた。
何となく点けているテレビの音も、ほんのりと香る淹れたてのココアの匂いも、ソファの右隣に座る彼の姿勢も、何もかもがいつも通りで。

だから私はその言葉も、いつもの様に放たれる彼の唐突な言葉に過ぎないのだと、勝手に思い込んでいた。

その頃の私は、彼と過ごす幸せな時間が当たり前のようになっていて。愚かなことに、彼もまた自分と同じ気持ちでいるのだと信じきっていた。
彼が一体何を思ってそう口にしたのか、その言葉の意図を本当はちゃんと深く考えなければならなかったのに。
彼の瞳の奥で揺らいでいた筈の不満に、私は微塵も気付くことはできなかった。

隣で私の返事を静かに待つ焦凍くん。
彼の胸にはきっと、色んな思いが渦巻いていた筈なのに、私はそれを何一つとして掬うことなくて。何も考えずに、ただ冗談っぽく流すような軽い言葉を彼に返した。
それに彼は「そうか」と一言だけ呟いて、それ以上は何も言うことはなかった。

もしもあの時、私がもっと別の返事をしていたなら、彼は押し殺した本当の気持ちを一つでも私に伝えてくれただろうか。
今幸せに思っているのはお前だけだと。
愛し合っていると思っているのはお前だけだと。
一人で幸せに浸りきっていた愚かな私に、それを気付かせてくれただろうか。
そしたら、私は彼のことをもっと大切にできていたのだろうか。

そんなことをいくら思ったところで、現実は何も変わりはしないのに。

最期の最後まで何も言わずに、好きでもない私のことを大切にしようと努力してくれた、優しい焦凍くん。
彼がくれたあの穏やかな笑みも、誰かに嫉妬するような言葉も、寂しさを埋めるように抱き締めてくれた腕も。
本当は全部、彼の心なんてもうどこにもなかったのに。
どうして私は、そんなことにも気付かず過ごしていたのだろう。

「俺はもうお前のこと、好きじゃねぇ。」

その言葉に膝から崩れ落ちたのは、その瞬間まで彼に愛されていると思い込んでいたからで。心がボロボロと音を立てて崩れ落ちるような感覚に襲われて、頭の中がどんどん真っ白になっていく。

彼とこんな終わりを迎えるなんて、ただの一度も想像したことがなかった私は、去ってしまうその背中に縋りつくことすら思い付かなくて。
徐々に遠のいていく足音を、ただ聞いていることしかできなかった。


そこからは、いつも一緒。
足元から暗闇に落ちるような感覚に恐ろしさを感じて、飛び起きる。どくどく、と心臓が痛いぐらいに鼓動を打っていて、全身からは冷や汗がぶわっと噴き出てきて気持ちが悪い。
明かりの消えた暗い部屋の中で一人、震える身体を抱きしめながら、何度も何度も夢と現実の境目を確認する。

それはもう何年も前の記憶なのに、未だにその夢で目覚めてしまう私の日々は、あの日から何一つとして変わらない。何年もかけてその現実を飲み込んできた筈なのに、まるで心はそれを受け入れられないとでもいうかの様に夜な夜な夢で魘される。いつもあの崩れ落ちるような感覚で目が覚める度に、心の弱い自分が情け無くて堪らなくなる。

一度こうして起きてしまうと、再び眠りにつくのは難しくて。鳴り止まない心臓の音に、何かを飲んで落ち着こうとベッドの枠に手をつき立ち上がる。

するとその時、ガチャ…と玄関の扉が開く音がした。
思いもよらないその音に、ドクンと心臓が跳ねる。が、すぐにそれが彼の帰宅の音だと理解する。

夕方過ぎに来た彼からのメッセージには、今晩決行される作戦に参加することになったから、帰宅が遅くなると示されていた。ベッドの上に転がるスマホに視線をやると、時刻は朝の4時を示していて。こんな時間になるまで頑張っていたのだと思うと、ヒーローという職業の大変さを改めて思い知る。
きっと彼は相当疲れて帰って来ているに違いない。そんな彼に何か私ができることはと考えていると、ふと夜寝る前に作り置いていた夕飯のことを思い出す。
焦凍くんのお腹が空いているかは分からないけど、一応準備だけはしておこう。そう考え、スマホを片手にリビングへと出た。

スマホの明かりを頼りに電気を付けると、丁度洗面所で手洗いを終えた焦凍くんがリビングへと入って来た。
急に明るくなった部屋が眩しくて目を細めていると、そんな私とは裏腹に彼は驚いたように目を見開いていた。

「おかえりなさい、焦凍くん。」
「お…ただいま、名前。………悪りぃ、その、起こしちまったか?」
「うんん、そんなことないよ。ちょっと前に、何となく目が覚めたの。」
「そうか。」

私が口にした回答にホッとしたような表現を見せる焦凍くんは、やはり少し疲れたような顔をしていて。もしかしたら、一度寝てから食事にした方が良いのかもしれない、そう思い、キッチンへ向かおうとしていた足を一旦止めた。

「お腹、空いてる…?ご飯は一応あるけど、明日の朝とかの方がいいかな…?」

そう言って、上着を脱いでいる焦凍くんの顔色を伺う様に視線を上げる。すると、彼は疲れを浮かべていた表情を一転させ、嬉しそうに頬を緩めた。

「晩飯、俺の分も作ってくれてたんだな。…なら今食ってもいいか…?」
「うん、もちろんだよ。」
「ありがとう、すげぇ嬉しい…。実は夕方ぐらいからずっと腹が減ってたけど、買いに行く時間がなくて何も食えなくて…今腹ペコで死にそうなんだ。」
「こ、こんな時間まで何も食べずに頑張ってたの…?大変だったね、すぐに用意するから座って待ってて。」
「いや、俺も手伝う。」
「うんん、焦凍くんはゆっくりしてて。」

そう言って、テーブルの方を指し示す。
彼がいつになく疲れたような顔をしていたのは、きっと空腹の所為でもあったのだろう。そう心の中で納得しながら、一刻も早く食事を準備しなければとキッチンへと移動する。
脱いだ上着を適当にソファに掛けた焦凍くんは、促されるままにテーブルの前までやって来る。しかし、そこで立ち尽くしたまま一向に座る気配はなくて。シチューが入った鍋を火を掛けながら、どうしたのだろうかと彼の顔を見つめてみる。すると、彼は心の中で何かを決めたように「よし」と小さく呟き、キッチンに立つ私の元へとやって来た。

「それなら俺は名前のココアを作りながら待ってるな。」

突然のその言葉に意表を突かれた私は、驚きのあまり「えっ?」という声を口から溢してしまう。
そんな私を横目に、焦凍くんは手慣れた手つきで電子ポットに水を入れていく。

「身体が温まったら、ゆっくり眠れると思うから。」

そう言ってポットの電源を入れる焦凍くんに、思わず目を見開き固まってしまう。

それはまるで、こんな時間に目が覚めてしまった私のことを気遣ってくれているかのような言葉で。
本当に労わるべきなのは、こんなに遅くまで働いていた彼の方である筈なのに。自分が休むことなど一切考ずに、私がゆっくり休めるようにと願う彼の好意に、じんと胸の奥が熱くなる。

ああ、どうして焦凍くんはいつもこんなにも優しいのだろう。
彼がこういう人だから、私は生まれて初めて誰かを愛しいと思えたのだ。
彼がこういう人だから、嫌われていると分かっていてもずっと忘れる事ができなかったのだ。
不意に脳裏に浮かぶのは、一緒に過ごしたあの頃の、ずっと私に優しかった焦凍くんの記憶で。愛おしいその一つ一つが頭の中を巡っては、今はもう使えなくなった右目と右足が何が現実であるかを突きつける。
彼が今も昔のように優しいのは、つまり、そういう事なのだ。

メインディッシュのチキンが乗った皿を、電子レンジに入れる。すると、隣でポットを眺めていた焦凍くんの手が、不意にこちらに伸びてくる。

「寝癖、ついてるぞ。」

そう言って、彼の右手がさらりと私の髪へと触れた。
大きくて優しい手が、ゆっくりと私の髪をさらい耳へと掛ける。その手付きがやけに懐かしく思えて、ぎゅっと胸が締め付けられる。

彼の触れた耳元がじわりと熱を帯びていく。
そっと静かに離れていく彼の手に、切なさすら感じてしまう。

「あ、ありがとう…っ」

私の中に残ったほんの僅かな冷静さが、至って自然な反応を演じてみせた。
それに当たり前のように彼は頬を緩めるから、余計に心臓が跳ね上がる。

落ち着け、彼のこの行為には何の意味もないのだ。少し昔のように触れられただけで、勘違いしてはならない。
あの日、他でもない彼自身が、私を好きではないと言ったのだから。

そんなことを考えている間に、チンッ、と電子レンジが調理完了の合図を鳴らす。温まった皿を取り出しテーブルに並べていると、すぐ側からはココアの甘い匂いが漂ってくる。

食事の準備が整う頃に、彼は得意げな様子でココアの入ったマグカップを私の席に置いた。


お腹が空いていたという宣言通り、彼は私がココア一杯を飲み切る間にぺろりと食事を平らげた。そして、後片付けこそはと言い出した彼をお風呂へと送ったのは、今から十数分前の話で。その間に食器の後片付けを済ませ、ソファに掛かった彼の上着を片付けていると、シャワーを終えた焦凍くんが丁度リビングへと戻ってきた。
髪をタオルで拭きながら、キッチンの水切りラックの上に並んだ食器を横目に見た彼は、何だか申し訳なさそうに「悪りぃ…後片付けしてくれて、ありがとな。」と呟く。私は彼の家政婦なのだ、雇われているからにはそれをするのは当然で、彼が態々謝ったりお礼を言う必要はない。首を横に振りながら当前のことだと訴えていると、不意に前々から疑問に思っていたことが頭に過ぎる。

「そう言えば…あのね、焦凍くん、」

そう言葉を切り出してはみるが、ふと、こんな時間に疲れているはずの彼に態々話すべきことだろうかと思ってしまう。
やっぱり、また今度にしよう。そう思って引き下がろうと決心するが、どうやらもう遅いみたいだ。目の前では焦凍くんが「ん、どうした?」と首を傾げながら次の言葉を待っていて。
きっと今すぐにでも眠りたいと思っている筈なのに、私のことを一つも鬱陶しがる様子のない彼の優しい眼差しに、胸がぎゅっと圧迫される。

「えっと…もし、焦凍くんが嫌じゃなかったら、だけど…私、お弁当を作ることもできるよ…?」

それは、ここで家政婦として働き始めてからずっと思っていたことだった。忙しさ故に昼食を抜いてしまったり、ゼリーや菓子パンなどで済ませてしまう事のある彼に、自分ができることは何かとずっと考えていた。
栄養士でも何でもない私が弁当を作ったところで、彼の健康を保証できる訳ではないけれど。でもきっと、ゼリーや菓子パンよりもマシなものは作れる筈で。

どうかな…と彼の顔を覗き込んでみるけれど、そこにはどういことか目を見開き固まった彼の顔があって。
その表情に、余計な事を言ってしまったのだと気付き、慌てて謝罪の言葉を探す。

「ご、ごめんなさい…っ、その、やっぱり嫌だよね…」
「!嫌じゃねぇっ!嫌じゃなくて、寧ろその逆で…」

突然声を張り上げて否定する焦凍くんに、思わず肩が跳ねてしまう。無意識のうちに落ちてしまった視線は上げられず、彼が今どんな表情をしているのかは分からなくて。
下を向いたままでいると、先ほどの張り上げられた声とは違う、ぼそりと呟くような声が聞こえて来る。

「悪りぃ、その…想像したら、すげぇ嬉しくて、」

小さい声だが確かに耳に届いたその言葉に、ハッとなって顔を上げる。すると、視線の先の焦凍くんはどうしてか口元をぎゅっと手の平で抑えていて。

あれから随分と時間が経ってしまったとはいえ、ずっと彼の側にいた私には分かってしまった。
それが、彼が照れている時によくする仕草であるということを。

一体彼がどんな事を想像したのか、私には分からない。
分からないけど、一先ず彼に嫌がられていないう事実だけで、もう何でも良いかと思えてしまった。

「本当にいいのか?」
「うん…その、味の保証はできないけど…。」

少しずつ尻すぼみになる私の言葉に、焦凍くんはふっと穏やかに目を細める。

「それなら絶対美味いから、何の心配もいらねぇな。」

そう言って、彼は不安など一切ない表情で嬉しそうに笑ってみせた。









それから、その日のうちに最寄駅の雑貨屋でお弁当箱を購入した私は、次の日から彼にお弁当を作り始めた。
朝家を出る前にお弁当を手渡すと、それを大層嬉しそうに受け取った焦凍くんは、とても丁寧に自身のリュックに仕舞っていて。まるで宝物を取り扱うみたいな彼の行動が可笑しくて、つい笑ってしまったのは内緒である。

そして、その日から彼は帰宅後に空っぽになったお弁当箱を出すと、「ありがとう、今日のもすげぇ美味かった。」という言葉と共に中身の感想を伝えてくれた。特にあのおかずが好きだったとか、ウインナーがタコだったとか、そんなことを一つ一つ嬉しそうに伝えてくれる焦凍くんに、お弁当はちゃんと彼の役に立っているのだと安堵した。
そして同時に、これからも彼の期待に応え続けることができれば、役立たずだと言って捨てられることは無いかもしれないと、そう思った。

今度はちゃんと慎重に、何も見落とさないようにしなければ。そう心の中で呟きながら、ぎゅっと拳を握り締める。
それが、取り返しのつかない過去を背負った私ができる精一杯のことだった。


そんなお弁当作りを始めてから数日が経った頃。流石に家政婦の仕事一本では借金を全て返すことはできないので、少しでも多くのお金を得ようと何社か面接を受け始めた。名門高校である雄英のヒーロー科を卒業していることもあり、書類選考は心良い返事を頂くことが多かった。しかし一方で、目や足が不自由である上、ディスクワークの経験が乏しい私に面接で難色を示す企業も沢山あった。

元ヒーローで、身体が不自由。
普通の人のようにはいかないことは、最初から分かっていた。
それでも、できない事を浮き彫りにされ、心底哀れむような視線を向けられるのは、思ったよりも辛かった。

そんな中、私に内定をくれた会社がたった一社だけ存在した。それは前の職場でもお世話になっていた、サポートアイテムの製作会社だった。面接では、役員の方の一人がジーニストさんととても懇意にされているという話があり、今回私が採用された理由が何となく分かってしまった。
最後の最後まで、私は彼に恩を返しきれなかった。それなのに、彼の存在は今もなお私のことを支え続けてくれていて。
本当に私は、どうしてこうも恵まれているのだろうか。穏やかで優しいジーニストさんの眼差しを思い出せば、目頭がじんと熱くなった。

彼の顔に泥を塗らないように、とにかく来月からは頑張らなければ。
そう心の中で呟き、気合を入れた。




「焦凍くん、ちょっといいかな…?」

風呂から上がり、ソファに腰掛けながらニュースを見る焦凍くんの背中に、そっと声を掛けた。私の声を聞くや否や、彼はその綺麗な紅白の髪をサラリと揺らしながらこちらを振り向いた。
「どうしたんだ?」と首を傾げる焦凍くんは、すぐ隣にるクッションを端へと避け私の座る場所を空けてくれる。せっかく寛いでいる彼の隣に座ってしまうのはどうかと思ったものの、こちらをじっと見つめる彼に促されるまま隣にそっと腰を下ろした。

「あのね、私…仕事が決まったの。来月から働こうと思ってるんだけど、いいかな…?」

隣から注がれる真剣な眼差しに若干の緊張を覚えながらも、彼へと告げる。
すると、突然のことに少し驚いた様子の焦凍くんは、色の違う美しい瞳を大きく見開いた。

「…そう、か。そうだよな、ずっとここに居るのも退屈だしな。…身体は大丈夫なのか?」
「あの、そうじゃなくて…私、焦凍くんにちゃんと全部お金を返したいから…。仕事はオフィスで座ってするみたいだから、大丈夫だよ。」
「そうか、それなら良いんだが…。お金のことは、何も気にしなくていい。だから、絶対に無理だけはしないでくれ。」

そう口にする焦凍くんは、心底心配そうな表情で私のことを見つめていて。きっと、彼の中では私はまだまだ怪我人なのだろう。しかし、そんな事をいつまでも言ってはいられない。私のこの目も足も、今以上に良くなることなど絶対に無いのだから。

「うん…ありがとう、焦凍くん。」

私は大丈夫なのだ、そう彼が信じて安心できるようにと平気そうな笑顔を作る。
そんな私に、焦凍くんは何だか少し困ったような顔を浮かべていた。

「新しい仕事はヒーロー関係なのか?」
「うん、ヒーロー用のコスチュームとかサポートアイテムを作ってる会社だよ。」
「そうか…職場はここから近いのか?」
「そうだね、電車で3駅のところだから、近いと思う。」
「3駅か、近いな。」

そうか…と何かを考えるように顎に手を当てた焦凍くんは、次の瞬間には何故だかホッとした顔を浮かべていて。その意図が分からず首を傾げていると、彼はそれを察したように言葉を付け足した。

「いや、良かったと思って。3駅ぐらいなら朝は名前のこと、車で送って行けそうだから。」

そんな予想だにしない言葉をさらりと口にする焦凍くんに、思わず唖然としてしまう。
朝、私を車で送る…と、彼は今確かにそう言った。
それはつまり、彼は私のことを毎朝職場まで送ってくれると、そう言っているのだろうか。

「ま、待って…っ!そんな、態々送ってくれなくても、電車で行くから平気だよ…っ!?」
「いや、朝は満員電車だから座れねぇし、人混みの中で目が見えねぇのは危険だろ。」
「で、でも…!それぐらい平気だよっ、」

確かに彼の言う通り、朝は満員電車になるだろう。でもそれもたったの3駅の話で、足に負担が掛かるほどでもない。それに、人混みだってちゃんと気を付ければ大丈夫な筈だ。一々彼の手を煩わせるようなことではない。
そう、私は大丈夫なのだ。そうやっていくら訴えようとも、焦凍くんは全然首を縦には振らなくて。

「俺が平気じゃねぇんだ…だから、送らせて欲しい。」

そう言って、彼はソファの上にある私の手に、自らの手をそっと重ねる。
まるで不安で堪らないのだと言うようなその視線に、何故だか急に悪いことをしているような気持ちになってしまう。

「……私の身体、きっと焦凍くんが思ってるよりも全然酷くないよ。」

もうあの時みたいに、松葉杖を落としたまま立ち上がれなくなる私じゃない。右目が見えないことに慣れずに人とぶつかる私じゃないのだ。
だから、焦凍くんがそんなに心配する必要なんてどこにもない。そもそも私は、彼にそんなことを思って貰えるような人間ではないのだから。

大丈夫だと何度も口にする私に、焦凍くんの表情は少しずつ歪んでいく。

「…そう言って、名前はいつも一人で無理をするんだ。」

そう言い放った彼の声色はとても寂しそうで、悲しくて。重ねられた大きな手が、ぎゅっと私の手を握る。

私は、そんなに無理をしているように見えただろうか。彼の言葉を聞いて、少し驚いてしまう。
私が本当に無理だと思ったのはたった一回、病院で立ち上がることができなくなったあの時だけで。それ以外は、何も無理だとは思わなかった。
身体も心も、ずっと痛みがあるのが普通で、それが激しくなったとしても我慢すればいつか慣れる。だから別に、態々誰かに助けてもらうほどの無理ではないのだと、そう思っていた。

だけどきっと、焦凍くんは私と同じ基準で『無理』を線引きしていない。真っ直ぐこちらを見つめる彼の瞳に、何となくそう理解してしまった。

「俺も、無理な時は無理だって言う。
だから名前も、少しは俺に甘えて欲しい。」

まるで心の底からそれを願っているような彼の表情に、思わず首を横に振る。

「そんなことない、私は焦凍くんに甘えてばかりだよ…」

借金を肩代わりして貰ったことだって、ここに住ませて貰っていることだって、全部そうだ。
彼の優しい言葉に甘えて、私は無理なんて一つもない生活を貰っていて。これ以上、一体何を甘えろと言うのだろうか。
しかし、彼はどうやら同じ考えではない様で。

「そんなの全然甘えたうちに入ってねぇ。」

だから、もっと盛大に甘えてくれ。
そう訴えかける彼の瞳はどこまでも真っ直ぐに私を捕らえていて。何年経ってもそれに弱い私の心は、ダメだと分かっている筈なのにぐらりと揺らされてしまうのだ。

「その、じゃあ朝だけ…絶対に焦凍くんが無理しない範囲で、お願いします…」

結局、躊躇いながらそんな言葉を口にした私に、焦凍くんは頬を緩めて「ああ」と満足そうに頷いた。

それから、2人並んで私のスマホを覗きながら、会社の場所やその近くにどんなお店があるのかを地図アプリで散策した。
するとその途中、不意に喉から何かが押し上げられる様な違和感を感じて、思わず口元に手を当てる。耐えきれずに出てきたのは、乾いた咳だった。咽せる様に出てきた咳をぐっと堪えるように噛み締めると、すぐにそれは何事もなかったかのように治まった。
ホッと胸を撫で下ろし、そのまま視線を上げると、隣には心配そうに眉を下げる焦凍くんの顔が見えた。

「大丈夫か…?風邪、ひいたのか?」
「うんん、ごめんね…ちょっと咽せちゃっただけだよ、」
「そうか。」

それなら良いんだが…と呟いた焦凍くんは、「ちょっと待ってろ。」とだけ言って、その場から立ち上がる。そして何やら少し早足で彼の自室へと入っていくと、数分後には片脇に毛布を抱えて戻ってきた。

「これ、夜とか寒かったら使ってくれ。」

最近、ちょっと寒くなってきたからな。そう言って私へと差し出された毛布は、随分と懐かしい色をしていて。受け取った手のひらに感じた手触りも、記憶に残ったままだった。

「ありがとう。」

そう言って受け取った毛布に包まれながら眠った夜は、不思議と嫌な夢は見なかった。











銀色のレバーを下ろし、肌を打ち付ける温かいお湯を止める。髪に含んだ水をぎゅっと両手で絞れば、ポタポタと水滴が風呂場の床に落ちていった。
不意に目の前の鏡へと目をやると、そこに映る見慣れた姿と視線が合う。
どう見ても平凡な顔立ちに、平凡な色の髪と瞳。そしてそこに加わった平凡ではない目元の傷痕が、心なしか全てを台無しにしているような気がした。
ヒーローを辞めてから顕著に落ちてしまっている筋肉は、私を見たこともない丸みのある身体に変えていく。そんな頼りのない身体には、薄くなりきらない古傷が幾つもあって。締まりのない身体に不釣り合いな傷痕は、何だかとても醜く思えた。

誰に見せる訳でもないが、魅力のカケラも無い今の自分の姿が堪らなく恥ずかしくなって、思わず鏡から目を逸らす。素早くバスタオルで身体を包み、そして寝巻きを見に纏うと、何だか少し不安が和らぐ感覚がした。

髪を乾かし、そのままリビングへと戻ると、ふとソファの肘掛けに赤と白の髪が散らばっているのが見えた。
不思議に思いソファへと近づいてみると、そこにはクッションに頭を預けて瞳を閉じる焦凍くんの姿があった。

どうやら彼は、私が風呂に入っている間に寝落ちてしまったみたいだ。
最近は少し忙しそうに夜遅くまで働いていたのだ、きっと疲れが溜まっていたのだろう。

狭いソファの上で、その大きな身体を縮こませて眠るその体勢はあまり身体に良いとは思わない。しかし、気持ちよさそうに眠る彼を起こすことも忍びない。
本当は彼を寝床まで運んであげられれば良いのだが、今の私にはそれすらきっと厳しいだろう。

少し悩んだ末に、フロアランプ以外の明かりを消して、昨日彼から貰ったばかりの毛布をその大きな身体にそっと掛けてあげた。
肩や脚が極力出ないようにと毛布を整えていると、乱れた部屋着の隙間からは白いガーゼの様なものが見えて、ハッとなって手が止まる。

怪我を、したのだろうか。
一体いつしたのだろうか。こんな体勢で寝ても、痛くないのだろうか。

そんな心配や不安が一気に頭の中に溢れてくる。
そんなの、ただの家政婦である私に言う必要などないことだ。それに、ヒーローをしていると怪我をするのは日常茶飯事のことで、だから私が一々そんなことを知る必要はない。
そう分かっているのに、どうしても胸が不安で一杯になってしまう。
私はもう彼の恋人でも何でもなくて、そんなことを思うのは完全にお門違いだというのに。

不意に、焦凍くんは気持ちよさそうな寝顔を崩し、苦しそうにぐっと額に皺を寄せる。それに、やはり傷が傷んだとかもしれないと慌ててしまう。
やはり、少し無茶をしてでも彼を布団に運ぶべきかも知れない。そう思って、彼の部屋に畳まれている布団を敷きに行こう立ち上がった、その時だった。

温かい何かに、パシリと手首を掴まれる感覚がした。
思わず視線を手首へと下げると、そこには毛布から伸びた彼の手が私の手首を捕まえていて。起こしてしまったのだろうかと焦りながら、静かに「焦凍くん?」と尋ねてみる。

彼の目は、少しだけ開いている。
どこを見るでもない虚な瞳をそのままに、彼は小さく掠れた声でそっと口にした。

「名前…どこに行くんだ……側にいてくれ」

その言葉に、盛大に慌てていた思考が一気に停止してしまう。

今彼は、一体何と言ったのだ。
側にいてくれって、それは、どういう…。

ゆっくりとその場にしゃがみ込むと、彼は身体を起こす気配もなく私のことを見つめていて。
ああ、きっと彼はまだ起きていないのだ。
完全に寝ぼけた頭でそれを言ったのだと理解すると、少しだけ何かを期待してしまっていた心が沈む感覚を覚えた。

彼に握られたままの手首からは、少しずつ彼の熱が伝わってくる。温かくて、愛おしくて、でも無性に切なくてもどかしくて。
彼の言葉通りどこへも行けなくなってしまった私は一人、どうすれば良いのか分からず彼の手の力が緩むのを待つ。

すると、彼は私の手首を握ったまま、ポツリポツリと言葉を紡いでいく。

「嫌な夢を、見た…名前にすげぇ酷いことしちまう夢だ…」

その言葉に、思わず「えっ、」という呆気のない音が口から溢れ出てしまった。
本当は嫌いなはずの私にこんなにも優しく接してくれる彼が、一体どんな酷いことをしたというのか。
無性にその夢の詳細が気になってしまうが、それを聞くのはどうなのだろうかと口を噤む。

すると彼は、その如何にも寝ぼけたままの声で言葉を続けた。

「俺のせいだ……俺のせいで名前はずっと一人で苦しんで、幸せじゃなくなっちまったんだ、」

私を掴む彼の手に、ぎゅっと力が篭る。
しかし、それすらも十分に感じられないぐらい頭の中が真っ白になって、息をすることすらも忘れてしまう。

なんで、一体どうしてそんな夢を見ているの…。

それはまるで、あの日私を捨てたことを後悔しているような言葉で。
何度も夢で見た、苦しそうに顔を歪める彼の姿が不意に頭の中に浮かび上がる。

私のことが嫌いだから、我慢できなくなったから、捨てたのに。
自業自得に借金をして、知らないところで勝手に身体の自由を失った私に、そんなことを思うなんて。
彼はどこまで優しい人なのだろうか。

きっと本当は、私は彼を頼ってはいけなかったのだ。
再開したあの時、どんなに無茶でも必死に誤魔化して、ちゃんと幸せだと笑っていなければならなかったのだ。
私に別れを告げた彼の選択は間違えていなかったと、そう思わせなければならなかったのに。
散々彼の同情を煽って、全く負うべきではない責任を彼に感じさせていたなんて。

ぐっと唇を噛み締めて、込み上げる気持ちを必死に押さえつける。

「焦凍くんはそんなこと、しないよ。」

私を一人にして苦しめたのも、私を不幸せにしたのも、全部全部私ひとりの所為であって、焦凍くんは何も悪くない。
寧ろ私の方が、こうして未だに彼の優しさに縋りつき、彼を不幸にさせてしまっている。

「だから、大丈夫。」

大丈夫だから、もうこれ以上私なんかのために自分を責めたりしないで。
私なんかのために、自分を犠牲にしないで。

無意識のうちに溢れ出ていた涙は、私の手を握る彼の手にぽとりぽとりと落ちていった。



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