#6 撞着


温かくて柔らかい感覚に、引き込まれる様に眠りに落ちたのは昨晩のこと。夕方に届いたばかりのベットからは真新しいマットレスの匂いがして、何だか少し落ち着かなくて。ドキドキと高鳴る鼓動を忘れようと瞼を閉じたが、どうもその直ぐ後からの記憶がない。きっと知らぬうちに溜まっていた疲労が、気を抜いた途端に一気に襲ってきたのだろう。
こんなにも柔らかくて心地の良い寝床で寝たのは随分と久しぶりで、畳の硬さを感じることなく起き上がる感覚が何とも不思議に思えてしまう。

ベッドの枠に手をついて、右足に負担をかけない様にゆっくりと立ち上がる。畳で寝ていた昨日までとはまるで違い痛みも気怠さも感じない身体に、本当に自分のものなのかを疑いたくなってしまう。

時刻は朝の5時半。
こんなにも早い時間に目が覚めてしまうのはきっと、つい先月までこの時間にロードワークに出ていたからだろう。
自室の扉を開けて、リビングへとやってくる。薄暗い部屋の中には誰の影も見当たらない。きっとまだ焦凍くんは寝ているのだろう。彼を起こさない様にと、忍足でゆっくりとキッチンの方へと向かう。
昨日見た感じでは、ここで自炊が行われている痕跡は一つも見受けられなかった。つまり、朝食になりそうなものがこの家にある可能性は低いと言うことだ。それを確かめるように冷蔵庫や戸棚を開けてみるが、ぽつりと並ぶインスタント食品以外は驚くほどに何もない。その光景に少し唖然としつつも、流石に家政婦が朝食にインスタントラーメンを出すわけにもいかないと、覚悟を決めて戸棚を閉める。そしてそのまま忍足で自室に戻り、外へ出掛ける支度をした。

一頻り準備が整い、洗面所で顔を洗いながら、そう言えば焦凍くんはいつも何時に家を出るのだろうと考える。ここから近くのコンビニまでは5分も歩けば着く筈だけど、その間に彼が家を出てしまっては元も子もない。それに2日目から仕事を怠る家政婦なんて、早々に捨てられてしまうに決まっている。
柔らかいタオルで顔の水気を適当に拭き取り、寝癖のついた髪を解かすことなく適当に一つに纏める。玄関の小物入れに入れてあるスペアの鍵を手に取って、足早に彼の家を後にした。


彼が和食派であることを知ったのは、まだ私達が雄英に通っていた頃のことだ。当時、寮の夕食で出た魚を綺麗にほぐしている彼のことが気になって、声をかけたことがあった。それはまだ、私たちがお互いを意識し合う前の話で。それまで何の接点も無かった私からの突然の問いかけに、彼は少し驚いた顔で私を見た。しかし、他の女の子達のように楽しく会話をする術を持たない私は「突然、ごめんなさい。」と小さくなって彼に謝ることしかできなくて。手元の食事に視線を落としていく私に、彼は少し慌てながら「いや、いいんだ。名字が話しかけてくれるのは初めてだから、何か嬉しくなっちまった。」と僅かに口元を緩めて笑ってくれた。それから彼は実家ではよく和食を食べていたことや、お姉さんが作る料理が美味しいことを少しずつ話してくれた。今思えばこの会話をきっかけに、私はもっと彼のことを知たいと思い始めたのだろう。

そんな遠い昔の、まだ見ぬ未来への希望に満ち溢れていた頃の記憶が不意に頭の中に蘇る。
あの頃の私は、何も知らない愚か者だった。自分の手の中にある全てが当たり前の存在で、そばに居てくれる人の温かさや、幸せな時間の尊さに気付くことなく過ごしていた。
そして、その全てをこうして呆気なく失った私は、今になって漸くその存在の有り難みに気付く訳だが、もう何もかもが遅過ぎて。空っぽになった自分の掌を見つめながら、何一つちゃんと大切にしてこなかった過去の自分に後悔だけが渦巻いていく。

もしも今、あの日に戻れたとしたならば、きっと私は魚を食べる焦凍くんに声を掛けたりしないだろう。
そうすれば、きっと次の日の朝に彼から教室まで一緒に行こうと誘われる事だって無かった筈。手を握って「好きだ」と打ち明けてくれた雨の日の夜も、宿題中に初めてキスをしてくれた冬の日のことも、全部無かったことになるけれど。それでも、今の空っぽの私を繰り返すだけだと言うのなら、彼とは最初から関わらない方が良いに決まっているのだから。

そう頭では考えているのに、胸は今にも張り裂けてしまいそうなほど痛くて痛くて堪らなくて。
彼との記憶を一つ一つ思い出す度に目頭が熱くなってしまい、ぎゅっと拳を握りしめて耐える。

全く、私は朝から何を考えているのか。そんなもしもの話をいくら想像したところで、現実は何も変わりやしないのに。

もうこんな生産性のない話はやめにしよう。そう自分に言い聞かせながら、久しぶりのコンビニへと一歩足を踏み入れた。

あれから5年も経っているからか、売り場の配置は少しだけ記憶とは異なっていて。辺りを見渡しながら、目的のお惣菜コーナーの方へと脚を運ぶ。
綺麗に陳列されたお惣菜の中で、最初に目についた焼き魚に自然と手が伸びていく。しかし、不意に視界に入った価格プレートにハッとなって手が止まる。
「これ、買い出しとかに使ってくれ。」と昨日彼から渡されたお金は、ちゃんと鞄の中に入っている。だけど、こんなにも軽い気持ちで買ってしまっても良いのだろうかと、無意識のうちに考え込んでしまう。それはきっと、これまでの切り詰めた生活が身に染み付いているからで。普通の人の感覚がどんなものなのかが、全然分からなくなっている。

私の分は、別になくてもいい。どうせいつも朝食は食べていなかったのだから。
でも、彼はこれから仕事に行って、多くの人を助けるのだ。つい先日まで同業者だった私はその過酷さを知っていて、だからこそ彼には好きな物を好きなだけ食べて欲しくて。
それに、そもそもこれは彼のお金であって、私が渋るものではない。
そう思いながら、彼の好きそうな魚や煮物のお惣菜を1つずつカゴに入れ、彼が好んで食べていた具のおにぎりを何個か選んでレジへと向かった。


買い物も無事に終わり、コンビニを出た私の目には眩い朝日が入り込む。もしかしたら、もう彼が家を出る時間が近づいているかもしれない。そう考えれば、家に向かう足が自然と早くなっていく。相変わらず調子の悪い足からは、じんじんと響くような痛みがする。しかし、このぐらいの痛みであれば大丈夫だと、構わず足を前へと進めた。


家の前まで辿り着き、鍵を取り出そうと鞄の中を探る。指先に冷たくて固い感覚が触れれば、あった…と頭の中で呟きながら鍵を取り出す。そして、そのままそれを鍵穴へと沈めようとした、丁度その時だった。

鍵を差し込もうとしたドアノブが、突然目の前から遠ざかっていって。
えっと戸惑いながら、勢いよく開いたドアの中を覗くように顔を上げる。

すると、そこには寝癖をそのままにしたスエット姿の彼が血相を変えた様子で立っていて。一体何事だと、目を見開き固まってしまう。
そんな私を目にするや否やこちらに近づいて来た彼は、どういうことか勢いのままに私の身体を力一杯に抱きしめた。

「名前…っ、」

彼の突然のその行動に、何がどうなっているのかわからない私は、驚きのあまり手に持っていたコンビニ袋をその場にバサリと落としてしまう。
そんな些細な音など気にする様子もない彼は、抱きしめる腕の力をさらに強めていく。

「し、焦凍くん…?ど、どうしたの…っ?」

少し苦しいぐらいに抱きしめられる腕の中で、彼へと慌てて問いかける。
布団を出てからそこまで時間が経ってないのか、スエットの表面がまだ僅かに温かくて。一瞬、寝ぼけているのかとも思ったが、抱きしめられる少し前に見えた彼の表情からそれは無さそうだと考える。

すると、彼はその腕の力を緩めることなく、小さくぼつりと言葉を放った。

「出て行っちまったのかと、思った…」

寝起きの少し掠れた彼の声には、どこか焦りや戸惑いのようなものが滲み出ていて。
心臓が、どくんと大きな音を立てる。

心配、してくれたのだろうか。
私がいなくなって、焦ってくれたのだろうか。

まるでもう何処にも逃さないと言わんばかりに私を強く抱きしめる大きな腕に、そんなありもしない勝手な期待が、つい頭の中を過ってしまう。

違う、絶対にそんなことはあり得ない。
彼にとって私は可哀想な怪我人で、借金を肩代わりしているから逃げられては困るだけで…。

しかし、それならどうして彼はこんなにも弱りきった声で私の名を呼んだのか。
どうしてこんなにも力強く私のことを抱きしめるのか。

何も分からない彼の意図に、心は盛大に困惑する。

「その、何も言わずにごめんなさい…。朝食を買いに、近くのコンビニまで行ってただけで…、」

決してこの家から出て行った訳ではないし、お金を返さないまま逃げた訳でもない。何とかして誤解を解かなければと、焦り戸惑う頭を回して必死に言葉を探し出す。

すると、それを聞いた焦凍くんはハッとなって抱きしめる腕の力を緩める。ゆっくりと離れていく彼の腕に、漸く彼の顔が見える位置まで身体が離れていく。
見上げた先にある彼の瞳は、どこか申し訳なさそうに足元へと視線を落としていて。伏せられた色の違う長い睫毛は美しいのに、何故かとても儚い危うさを感じてしまう。

「そうか…こっちこそ悪りぃ。早とちりしちまったみてぇだ。」

そう言って、私の足元に落ちていたコンビニの袋を拾い上げる焦凍くんは、少しだけ安堵したような顔を浮かべていて。そこにはもう、血相を変えた表情などは何処にも存在しなかった。

「…うんん、私こそごめんなさい。」

そう言って首を振れば、焦凍くんは「いや、名前は何も悪くねぇよ」と言いながら、私の背に手を当て家の中へ入るように促した。
そのまま家の中へと入れば、至る所のドアが開いたままになっていて。彼が私を探してくれていたのだと察すると、浅はかな考えで外に出てしまった自分の行いを後悔した。

お互いに何も言わずにリビングへと戻って来れば、不意に彼が拾ってくれたコンビニ袋が目に留まる。

「あの、焦凍くん…っ」

そう声を掛ければ、振り返った焦凍くんは首を傾げながら「ん、どうした?」と優しい眼差しを向けてきて。少しだけ、心臓がドクリと音を立てる。

「その、朝ごはんを買ってきたんだけど…これから食べたりする、かな…?」

そう尋ねると、彼はきょとんとした顔で瞬きをする。

「俺の分も、買ってきて来れたのか?」
「うん…、コンビニのご飯で良ければ、だけど…。」

そう言って彼が持ってくれているコンビニの袋を受け取り、袋の中身が見えるように口を開く。蕎麦以外にあまり好き嫌いのない彼が好んでよく食べていたおにぎりやおかずは、きっとどれもハズレでは無い筈。それでも、今はどれも気分では無いかもしれない。少しドキドキしながら、手元の袋から視線を上げて彼の顔を覗き見ると、驚いていた彼の表情は一瞬のうちに綻んだ。

「すげぇ嬉しい。ありがとうな。」

目を細めて綺麗に微笑む嘘偽りの無いその表情に、胸の中がじわりと温かくなっていく。
どうやら、ちゃんと彼の役に立てたみたいだ。それが何だか少しだけ嬉しくて、喜ぶ心が顔に出ないようにコンビニの袋を握り締める。

「うん…っ。おかず温めるから、ちょっとだけ待ってて。」

そう言って、彼を待たすまいと慌ててキッチンの方へ向かい、煮物や魚をお皿に盛り付けレンジにかける。一人分のお箸と飲み物をテーブルの上へと用意すると、席に座った焦凍くんは不思議そうに首を傾げる。

「名前は一緒に食べねぇのか?」

その言葉に、逆にえっと声を出して驚いてしまう。

「う、うん。私は後で頂くから、焦凍くんは好きなだけ食べて。」

そう言って温め終わったおかずをテーブルの上に置けば、焦凍くんは少しだけ寂しそうな顔をしながら「…そうか。」とだけ呟く。
そして、テーブルの上に並べていたおにぎりを何個か選ぶと、私の分だと言って袋に仕舞った。

「名前、これ…魚も煮物も一個ずつしかねぇみてぇだ。」

全部半分に割るか、と呟いた焦凍くんは煮物の中にあるスナップエンドウを難しそうに見つめていて。違う、そうではないのだと慌てて手を振り否定する。

「こ、これは全部、焦凍くんの分だから…!割らずに食べて…っ」
「?なら、名前はおにぎりだけになっちまうだろ?」
「うん、私はおにぎりだけで十分だから…」

ヒーローをしていた頃だって、朝ごはんなど碌に口にしていなかったのだ。おにぎりがあるだけでも、私にとっては十分過ぎるぐらいだ。
しかし、目の前の焦凍くんはあまり腑に落ちていないような表情を浮かべていて。どうしてそんな顔をするのだろうかと考えてみるが、すぐにああ、そうか…と彼の表情の理由を理解する。

朝食を抜くことは、この5年間の生活の中では当たり前になっていた。だけど、彼は朝食をしっかり食べていた頃の私しか知らないのだ。
今の私にとっては十二分にあるこのおにぎりは、昔の私にとっては少し物足りないぐらいで。だから彼は、これだけで本当に良いのか疑っているのだ。

この5年間で、私は自分が思っているよりずっと沢山変わってしまったのかもしれない。
ほんのひと時だったかも知れないが、それでも彼が愛しいと思ってくれた私が変わってしまったみたいで、何とも言えない気持ちになる。

そんな自分を誤魔化すように無理やり笑みを浮かべれば、焦凍くんは少しだけ困ったように眉を下げ、首の後ろに手を当てながら言った。

「そうだよな…流石に動かねぇと腹も減らねぇよな。全然分かってやれてなくて、悪りぃ。
…それに、その…昼は名前と食えねぇから、朝だけでも一緒に食えればって思っただけなんだ…。気にしないでくれ。」

徐々に尻すぼみになっていく彼の言葉は、聞き間違いではないかと疑いたくなるような内容で。
悪いのは全て、この5年の間で変わってしまった私の方で、彼に非なんてないというのに。
それなのに、どうして彼はそんな顔で私に謝るのだろうか。

それに、まるで私と共に食事がしたいとでも言うような口振りに、思わず茫然としてしまう。
私はただの彼の家政婦で、可哀想な怪我人で、嫌いな相手で。そんな私と食事がしたいなんて、彼は本気で思っているのだろうか。

「い、一緒に食べても、いいの…?」

そう恐る恐る訪ねてみると、彼は少し驚いたように目を見開く。

「当たり前だろ。寧ろ、俺は名前と一緒に食いてぇ。」

躊躇うことなく真っ直ぐに返されたその言葉に、彼が本気で言っているのだと理解する。

私と一緒に、食べたいなんて。
一体どうしてそんなことを彼は口にするのだろう。
一人の食事は味気ないのか、それとも話をする相手が欲しいのか…。
色々と理由を考えてみるが、彼の考えは何一つとして分からなくて。そんな戸惑いを頭の中に残したまま焦凍くんの向かいの席の椅子を引けば、彼は嬉しそうに目を細めた。




朝食を食べ終え、身支度を済ませた焦凍くんを玄関まで見送るために、椅子から慌てて立ち上がる。そんな私に「座ったままでいいぞ。」と言ってくれる彼の言葉に首を振り、玄関まで彼の後ろを着いて行った。

「じゃあ、行ってくるな。」
「うん、いってらっしゃい…気をつけてね。」

ふっと目を細めて微笑む彼は、顎へと下げていたマスクを上へと引き上げる。黒い帽子を深く被り直せば、玄関を開けるのとは逆の手で小さく手を振ってくれる。
そんな見覚えのある光景に思わず胸が跳ね上がるが、何も気付かない振りをしながら、パタリと閉じていく扉をじっと静かに見つめていた。











家政婦というのは、一般的にはどんな仕事を指すのだろうか。そんな疑問を抱えた私がネットでこれでもかというほど検索したのは、まだ記憶に新しい。普通であれば家政婦紹介所を介して家政婦や雇い主を見つける流れらしいが、私たちの間にはそんな仲介業者は入っていない。故に、仕事の対応範囲や毎月支払われる金額などが少し曖昧になっている。それはお互いにとって1番大切なことであるため、最初にきちんと決めておくべきだが「名前ができることを、少しずつしてくれればいい。」と言い張る彼に、細かいことを決めかねているのが現状だ。
とは言え、足を駆使するような家事などないため、私にできない仕事はない。しかし、何故か私の怪我を必要以上に心配している彼は、私に無理をするなと告げるばかりで。その度に、あまり信用されていないのだということを思い知る。
例えこんな姿であろうと私はちゃんと彼の役に立てる筈で、それを伝えるためにこれまでには無いほど一生懸命に家事をした。
彼が求める仕事を全てこなせば、いつか彼も信用してくれるようになる筈で。そうすれば、きっと少しでも長くここに置いてもらえるだろと、淡い期待を抱いていた。

ただ、どれだけ丁寧に家事をこなしたとしても、それだけで丸1日が潰れる筈もなくて。余った時間を弄んでしまうのは勿体なくて、少しでもお金を稼げればと求人サイトを開いてみる。
家政婦の仕事の支障にならない程度で、お金が適度に稼げる仕事を探してみるが、条件に合う仕事は中々見つからない。そうして色々悩むうちに、いつの間にか日が落ちてしまっていた。

『今から帰る』というメッセージがスマホ画面に表示され、もうこんな時間なのかと我に帰る。慌ててキッチンへと足を運び、仕込みだけしてあった料理を少しずつ仕上げていく。

彼が帰宅する前に何とか夕食の準備を全て終えてホッとする。
そして、ふとテーブルに並んだ料理を眺めていると、その全てが昔彼が特に好きだと言ってくれた料理ばかりであることに気付き、思わず声を出して驚いてしまう。

なんで、こんな真似をしてしまったのか。
こんなことをしたって、あの頃には戻れないのに。

食事の後に甘えるように背後から抱き締めてきて、美味しかったと伝えてくれる彼の言葉が嬉しくて、温かくて、幸せだった。
不意に蘇る昔の記憶に感情が溢れ返ってしまいそうで、ぐっと奥歯を噛んで抑え込む。

彼は、こんな明らさまに過去を思い出させる料理を見て、気分を害してしまわないだろうか。すっかり忘れた筈だった5年前の気持ちを思い出し、私を煙たく思ったりしないだろうか。
そんなことを考えれば、箸置きの上に箸を置く手が少しだけ震えてしまう。

今から作り直す時間など無いことは分かっているのに、本当にこのままでいいのか、不安で堪らなくなってしまう。

すると、玄関の方からはガチャッと鍵の開く音が聞こえてきて。
弾かれる様に顔を上げた私は、どうすることもできないテーブルから視線を外し、そのまま玄関の方へと向かった。

「お、おかえりなさい、焦凍くん。」

玄関には、今朝出て行った時と同じ服装を身に纏った焦凍くんがいて。私の声にパッと顔を上げた焦凍くんは、ふっと優しく微笑んでくれる。

「ああ。ただいま、名前。」

どこか聞き馴染みのあるそに言葉に、自然と胸が締め付けられる。
この玄関で、私たちは数えきれないくらい何度もこのやりとりをしてきて、こうしてただいまと言って微笑む彼を何度も見てきた筈なのに。
立場が変わるだけで、ここまで気持ちが変わるなんて、一体誰が思うと言うのか。
あの頃の様に抱きしめ合っておかえりのキスを交わし合うことはなくて。ぎこちない笑顔を浮かべながら、2人でリビングへと歩き出した。

「晩飯、作ってくれたんだな。」

すげぇ美味そうな匂いがする。
そんな何気ない彼の台詞に、テーブルの上に並んだあの料理を思い出し、どくんと心臓が跳ねる。
「た、大したものじゃないけど…。」と小さく呟きながらリビングへと入れば、彼の視線は真っ直ぐにテーブルの上へと注がれる。

「…これ、」

そう小さく言葉を漏らした焦凍くんの目は大きく見開かれていて。心臓が嫌な音を響かせる。
ああ、やっぱり余計なことをしてしまったのだ。そう確信すると、今すぐどこかに逃げ出したい気持ちになってしまう。

そっと口元を片手で押さえた焦凍くんの、次に放つ言葉が怖くて。
咄嗟に謝罪の言葉を口にしようとしたその時、ボソリと呟く様に彼が言葉を放った。

「…俺も今日、名前がこれ作ってくれてるんじゃねぇかって思いながら帰って来たんだ。」

そんな思いもしない言葉が彼の口から聞こえてきて、ハッとなって顔を上げる。
すると一瞬だけ、口元を覆う彼の手の隙間から微かに上がる口角が見えて。思わず目を見開き驚いてしまう。
もしかして、彼はこの料理をあまり不快に感じていないのかも知れない…そんな考えが、少しずつ頭に浮かんでくる。

「俺が食べたいと思うものを、名前はいつも何も言わなくても作ってくれるよな。」

そう言って、どこか過去を懐かしむような目でテーブルに並んだ料理を見つめる焦凍くんに、どこか胸が騒ついてしまう。

まだ付き合っていた頃に、本当に偶にだったけど、私が何となく作った料理を彼は『今日ずっと食いてぇと思ってたんだ』と言って喜んでくれる日があった。それが何だか彼と同じことを考えていたみたいで、とても嬉しかったのを思い出す。

私には、焦凍くんが毎日何が食べたいかなんて分からない。当たり前だ、そんな個性がある訳でもないのだから。
でも、食べたいものが何であるかを一生懸命に考えて、その通りの味になるよう頑張って作ることはできる。
もしも彼がそれを望むというのなら、いくらでも喜んでそうしてみせるだろう。
私のそういう所に、まだ望みがあるというのなら。
ほんの少しでも、彼が私を嫌いに思う気持ちが抑えられるのなら。
私はきっと、藁にも縋る思いでそれをし続けるだろう。

しかし、そんなことを彼に直接言える筈もなくて。「偶々だよ」なんて曖昧な返事をすることしかできなかった。


「そうだ。これ、帰りに買ってきたんだ。晩飯の後、2人で食べよう。」

そう言って焦凍くんが差し出してきたのは、有名な銘柄のロゴの入った紙袋で。普段テレビを見ない私でも、この中に何が入っているのかぐらい直ぐに想像ができた。

「これって、シュガーマンの…!」
「お、名前は知ってたんだな。」

そう言って紙袋の中の箱を取り出して開封する焦凍くん。2人で覗き込むようにそっと中身を確認すると、そこには可愛らしい形をしたケーキが2つ、隣り合って並んでいて。思わず胸が高鳴ってしまう。

「わあ…可愛い…。これ、数量限定だし結構並ばないと買えないやつ、だよね…?」
「ああ、らしいな。でも砂藤に頼んだら、何とかなった。」

きっとそれは簡単なことでは無い筈なのに、あまりにも淡々と口にする焦凍くんに何だかおかしくなって笑ってしまう。そんな私を隣で見つめる焦凍くんも、どこかホッとした様子で口元を緩めて笑っていて。
その彼の表情に、このケーキは彼が私に気を遣って用意してくれたものだということに気づいてしまう。

よく考えてみると、普段甘い食べ物を好んで食べない彼が、砂藤くんに頼んでまで人気のケーキを態々持ち帰るなんて、おかしい話で。
ただの家政婦でしかない私にこんなに気を遣ってくれる焦凍くんの優しさに、どうしてか無性に泣きたい気持ちになってしまった。










食事中は絶え間なく料理が美味しいことを伝えてくれる焦凍くんに何だか少し恥ずかしくなりつつも、今日あったことなどをお互いに少しずつ話して過ごした。相変わらず彼の中で私は未だに怪我人扱いで、事あるごとに「足は辛くなかったか?」「危ねぇから、高いところの掃除はしなくていい。」など心配そうに告げてきて。彼の信頼を得るに足らない現状に少し焦りを感じながらも、大丈夫だと力強く返事をした。


「手伝う。」

食べ終わった食器をカウンターへと運んでくれた焦凍くんは、そう言った。
シンクで食器を洗っていた私は、すぐ隣で布巾を手に取ろうとする彼のことを慌てて引き留める。

「だ、大丈夫だよ。焦凍くんはソファで休んでて、」
「…やっぱ邪魔か、」
「じゃ、邪魔なんてことはないけど…っ」
「ならやってもいいか?」

この間、実家で母さんの皿拭き手伝ったばっかだから、多分心配いらねぇぞ。なんて誰も心配していないことを大丈夫だと言い張る焦凍くんに、そうではないのだと心の中で叫んでしまう。私は彼からお金を貰って皿洗いをしている訳で、雇い主である彼にそれを手伝って貰うなんて、どう考えてもおかしな話だ。
しかし、そんな私の思いも伝わっておらず、いつの間にか当たり前のように隣に立ち淡々と皿を拭き始めた焦凍くん。もはや何も言えなくなってしまった私は、どこかぎこちなくて愛おしい彼の手元を盗み見ながら皿洗いを続けた。

途中、ポケットの中にあるスマホが鳴り出した彼は「悪りぃ、ちょっと外すな。」と言ってその場を離れてしまう。
きっと夜勤のサイドキックからの電話だろうと何となく考えていれば、丁度洗い終わった一枚の皿が手元を滑って落下する。

「っ!」

高く響く音と同時に、足元には割れた皿の破片が勢いよく飛び散っていく。
その光景を目にすれば、サッと全身の血の気が引いていく感覚に襲われる。

ああ、なんて事をしてしまったのだ。
どうしよう、どうしよう…。
動揺のあまり、一瞬のうちに頭が真っ白になってしまう。慌ててその場にしゃがみ込み、割れてしまった皿の破片を必死に手で掻き集める。

完全に、気を抜いてしまっていた。
彼に嫌われなかったことに、安心しきってしまっていた。
不器用で要領の悪い私が、気を抜いていい筈などないというのに。どうして私はいつもこうなるまで何も学ばないのだろう。

こんなことすら十分にできないのかと、呆れられてしまうだろうか。
役に立たないのならここに居るなと、言われてしまうだろうか。

きっとまたあの時みたいに突然に、もう要らないと言って捨てられるのだ。そう思うと、心が酷く苦しくなってまともに息すらできなくて。
震えてしまい上手く力の入らない手が、掴んでいた破片を落としてしまう。慌てて拾い上げようと伸ばした手を、背後から伸びてきた大きな手によって掴まれる。

「名前、」

その声色は、とても低いもので。
恐ろしくなって、無意識のうちにぎゅっと瞼を強く閉じる。

「ごめんなさいっ、…その、もう2度と、しないから…っ、」

こんな失敗、もう絶対にしないから。
お願いだから、また私を捨てないで。

いつか追い出されると分かった上でここに来たのに、捨てないでと縋るなんてどう考えても可笑しいことだ。
そう思っているのに、あの色のない地獄のような日々が恐ろしくて、全く冷静ではない私の頭は彼に縋ろうとしてしまう。

私を掴む彼の右手が冷たくて、手の震えが止まらない。
何も考えられない私は、ただ「ごめんなさい」と口にすることしかできなくて。

そんな私の手首を、彼はぎゅっと握りしめる。

「大丈夫だから、少し落ち着け…、」

そんな、先程とは打って変わった穏やかな声が突然すぐ側から聞こえて来る。
手首を握っているのとは反対側の腕でそっと肩を抱き寄せられれば、じんわりと温かいぬくもりが背中から伝わってくる。

「指、血が出てるな…、」

その声に、ゆっくりと瞼を開いてみると、指や掌の至る所から赤い血が滲み出ていて。あまりにも醜いその光景に、慌てて傷口を隠すように掌をぎゅっと握れば、「おい握るな、破片が入り込んだら大変だろ。」と言って無理やり拳を開かされる。

「お皿、弁償する…」
「そんなこと、別にしなくていい。」
「でも、これは私が…っ」
「皿なら俺もよく割っちまうから、もう何も気にするな。もしこの皿を名前が料理に使いたいなら、次の休日にでも一緒に買いに行こう。」

だから、名前が心配するようなことは何もねぇ。全部、大丈夫だから。
そう言って私を宥めるように優しく肩を撫でてくれる焦凍くんに、怯えておかしくなっていた心が徐々に我に返っていく。

彼は、私を怒ってはいなくて。
呆れてもいなければ、役立たずだと切り捨てようとも思っていない。
何も咎めることなどなく、ただ無条件に私を許すと言っていて。

「どうして…」

一体何が嬉しくて、そんな事を言うのだろう。
一体何を期待して、鈍臭くて何もできない私のことを、まだ側に置いてくれるというのだろうか。

何も見えない彼の意図に、戸惑う気持ちを隠せなくて。
甲斐甲斐しく私の傷口を丁寧に処置していく焦凍くんに、それ以上は何も言葉をかけれずにいた。



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