#5 黎明


個性が人体へ影響を及ぼし発症される病気は、この世の中にはごまんとある。その中でも、未だに要因の解明や対処方法の特定が進んでいない病気は数多く存在する。
私の母も、そういった病に罹っていた。

治療法の分からない病に対し、できる事などたかがしれている。それでも、少しでも効果の見込める手立てが見つかればと、大掛かりな設備を用いた治療から気休めとしか思えない風説まで、藁にも縋る思いで試した。
テレビの中のオールマイト、学生時代の緑谷くん達。私の目の前には、どんなに絶望的な状況でも奇跡を起こせる人達が沢山いた。だから、私にもきっとそれは訪れる筈だと、当時の私は本気で信じていた。

しかし、病気の発症から半年も待たずに、母の命は静かにその燈を消してしまった。
たった一人の家族であった母を亡くしたのは、焦凍くんに別れを告げられてから丁度半年後のことだった。

母は死ぬ前によく、私にこう言っていた。
『生きて、あなたを大切に想ってくれる人と幸せになって』と。

病床に伏してもなお私の事ばかりを気に掛けてくれる母に、私は最後の最後まで彼に捨てられてしまった事実を口にすることができなかった。
それだけではない。高額な治療費を支払い母の延命を試みていることも、日々積もっていく借金を返済するために身を削りながら働いていることも、何一つとして母には打ち明けられなかった。

だから、病室で静かに母の手をとり、私は最後まで笑顔で母に嘘を吐き続けた。
『大丈夫、焦凍くんがきっと幸せにしてくれるよ。』と。

そんな未来など、どこにもありはしないというのに。
こんなにも弱りきった母を前に、自分の娘が不甲斐なくて彼に振られてしまった事実など、伝えられるはずがなくて。

『焦凍くんなら、名前を幸せにしてくれるから安心ね。』と嬉しそうに笑う母に、胸が苦しくて仕方がなかった。
気を緩めれば泣き崩れてしまいそうで、必死に感情を誤魔化しながら笑っていた。

こんなにも最低な嘘を重ね続ける私に、神様が奇跡を起こしてくれるなんて、最初から有りもしない話だったのだ。

天国で事実を知った母はきっと、私のことを怒っているに違いない。
本当の私は、誰からも愛されてなどいない、ただ借金を返すだけの空っぽの人間だったのだから。

不出来な娘で、ごめんなさい。
そんな言葉を呟く度に、襲い掛かる孤独と罪悪感に心がじわじわと蝕まれていった。











また明日もここに来る。
その言葉だけを残して、焦凍くんは私の家を後にした。
彼が去った途端にしんと静まり返った家の中を、何となく眺めてみる。剥き出しになった蛍光灯が照らす薄暗い部屋の中には、何も無い。それはいつも通りで当たり前の光景なのに、どうしてか急に寂しく思えて仕方がない。

先程まで彼に抱き締められていた腕の温もりがまだ身体中に残っていて、ふとした瞬間に胸がぎゅっと締め付けられる。優しく包み込まれるような感覚に、大切にされていた頃の記憶が溢れてきては、違う、私は決して愛されている訳ではないのだと、一人首を横に振る。

本当に、これで良かったのだろうか。
今度はちゃんと、上手くやれるだろうか。

物音ひとつしない孤独な空間は、そんな心に渦巻く小さな不安をここぞとばかりに増長させる。直ぐそこまで迫って来ている何か恐ろしいものに今にも飲み込まれてしまいそうで、ぎゅっと自分の肩を抱きしめその場にそっとしゃがみ込む。
私のできる範囲でいいのだと、私のペースでいいのだと、彼はとても優しい口調でそう言ってくれていた。それなのに、私はもうその言葉を信じられなくなっている。
お金を全額返すことも、彼に嫌われないように過ごすことも、完璧にできる自信がまるでない。

5年前だって、そうだった。
私はあんなにずっと彼と時間を重ねてきたのに、彼の口から「もう好きではない」と言われるまでは、嫌われている事にすら気付かなかった。
そんな自分本位で最低な人間の性格は、そう簡単には変わらない。私はまた、知らぬ間に焦凍くんを傷付けてしまうかも知れない。多額の借金を彼に全て返すまで、また彼に嫌われ続けるのだと思うと怖くて堪らない。

ふと、いつか病室で母に言った言葉が蘇る。
『大丈夫、焦凍くんがきっと幸せにしてくれるよ。』
笑いながらそう語る自分の姿を想像すると、ぞくぞくと鳥肌が立ってしまう。誰よりも優しい彼のことを散々追い詰め、あんな悲痛な言葉を吐かせた私が、よくもそんな言葉を口にできたものだ。

考えれば考えるほど、今更なって自分の選択が誤っていたとしか思えなくて。
もし明日彼が再びここに現れたのなら、やっぱり無理だと全て断ってしまおう。そして、二度と彼が私を可哀想だなんて思えないよう、酷い罵声を浴びせながら失礼な態度で追い返してしまえばいい。
私はもう絶対に、彼を不幸にしてはいけないのだから。

彼へ放つ酷い言葉を頭に思い浮かべるたびに、信じられないほど胸が痛くて苦しくなっていく。
肌寒く冷え込む気温も相まって、その日は中々寝付けなかった。




ところがその翌日の昼頃、宣言通り再びうちへとやって来た焦凍くんは、何食わぬ顔でとんでもない第一声を言い放った。

「貸金業者に事情を伝えて、名前の借金を全額返済してきた。」

深く被った帽子を脱ぎながら、手に持った封筒から一枚の紙切れを取り出す焦凍くん。何もかもがあまりにも唐突過ぎて理解が追いつかないまま、目の前に突き出された返済証明に目を向ける。
そこには、確かに私が借金をしている貸金業者が発行した、私の借金残額を全て返済したという文字が記載されていた。

「えっ……いや、ちょっと待って…っ!そんなこと、一体どうやって…っ、」
「昨日名前の家に置いてあった返済明細をちょっと貸してもらったから、それで。」
「そ、それでって…そんな………じゃあ焦凍くんは、まさか本当に私の借金を全部…っ」
「ああ、だから名前はこの先何の心配もしなくていいんだ。」

そう言ってふっと優しく微笑んだ焦凍くんは、私の手をぎゅっと握る。その手はとても温かくて力強くて、もう大丈夫なのだと言われている気がしてならなくて。胸の奥からぶわっと何かが溢れ出す。

ここ4年半、ずっと毎日お金の事だけを考えて過ごして来た。毎年増え続ける利子に溜息を吐きながら、これ以上ない程に切り詰めた生活を送る日々。死ぬまで必死に働いて、この惨めな暮らしに骨を埋めるものなのだと、そう覚悟を決めていた。明るくて温かい普通の家に住むことも、無理せず普通に働いてお金を稼ぐことも、私にはもう無縁の生活だと思っていたのに。

昨日の彼の言葉は、全て本気だったのだ。
簡単に出せるはずのない大金をこんなにもあっさりと出してしまうほど、彼は本気で私のことを救おうとしてくれている。
それなのに、私は何てみっともないことを考えていたのだろうか。こんなにも真剣に私のことを考えてくれていた彼に浴びせる罵声を、一晩中探していたなんて。
本当に私は、どこまで愚かで救いようのない人間なのだろうか。

徐々に熱くなっていく目頭に、視界は徐々に潤んでいく。全身の力が抜けるように膝から崩れていく私を、焦凍くんは腰に手を回して支えてくれる。

「返すから…お金、ちゃんと全部、焦凍くんに返すから…っ」

ぽろぽろと頬を伝う涙が床に落ちていく。
そんな私を、焦凍くんはそっと腕の中へと抱き寄せてくれる。

「大丈夫だ。無理せずに、返せるだけ返してくれたらそれでいい。」

すぐ側から聞こえてくる穏やかな声に、どうしようもなく胸の中が熱くなる。
返せるだけ返せばいいなんて、そんなことが許されるような金額では無いことぐらい、彼にも分かるはずなのに。どうしてそんな優しい言葉が口にできるのか。
それに、これは私が母との時間に縋るために使ったお金であって、彼は一つも関係ない。私はこの身を売り捌いてでも、ちゃんと彼にお金を全て返さなければならないのだ。

「…ありがとう、ごめんなさいっ、ありがとう…っ」

胸に中に次々と溢れてくるのは、疲れ切った5年間の生活とここ数日の絶望的な記憶で。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのか分からずに、ただ感謝と謝罪を繰り返す。
そんな私の背中を、焦凍くんは大きな手でゆっくりと優しく撫でてくれる。

「いいんだ。全部、俺がしたくてやっただけだから。」

寧ろ、俺を頼ってくれてありがとうな。
そんな言葉が降ってきて、胸が張り裂けそうになってしまう。

ああ、どうしてこの人は、いつもこうなのだろうか。
今の私にはもう何も残っていなくて、彼に返せるものなど一つもないのに。こんな事をしたって何にもならないことぐらい、すぐに理解できる筈だというのに。
それなのに、どうして彼はこんなにも優しく私を包み込んでくれるのか。

彼の考えていることが、何一つ分からない。
それのに、温かくて優しいこの腕の中は酷く心地が良くて、このまま彼に頼って良いのだとすら思えてしまう。


しばらく黙って私を抱きしめてくれた焦凍くんに、もう大丈夫だとその胸を押してやる。それに気付いた焦凍くんが腕を緩めるのと同時に、手の甲で乱暴に涙を拭いながら彼に「ありがとう、」とお礼を言う。それをどんな意味で受け取ったのかは分からないが、彼は少しだけ目を細めながら「ああ、これぐらいお安い御用だ。」と言って笑って見せた。

その後は、ひたすらに彼の家へと移る準備をした。準備といっても元々必要最低限の物しか持っていない私がまとめる荷物など知れている。手早くまとめられた、まるでこれから1週間の出張に出るかような荷物を前に、焦凍くんは「それだけでいいのか?」と首を傾げる。これが全てだと頷き返せば、「そうか。」と納得したように私の荷物を両手でひょいと掬い上げ、外へと運び出そうとする。そんな最中、何かを思い出したかのように「お、」と小さく声を漏らす彼に、思わず視線を向ける。

「…そう言えば、名前のベッドも昨日頼んでおいたんだ。今日の午後にはうちに届くと思う。」

名前の好きな柔らかめのベッドにしといたから、今晩はぐっすり眠れるな。
そう言って目を細めて微笑む焦凍くんに、少しだけ目を見開き驚いてしまう。

私が柔らかめのベッドが好きだなんて、どうしてそんなどうでも良い事を彼は覚えているのだろう。
遠い昔に、そんな話を一度か二度しただけなのに、それを当たり前のように口にする焦凍くんに、思わず唖然としてしまう。
しかし、どうしてそれを覚えているの…?なんて言葉を口にできずにいる私は、静かにお礼を告げることしかできなかった。











アパートのすぐ目の前に停めていた車に荷物を詰め込んだ焦凍くんは、そのまま助手席へと私を乗せてくれる。見たことの無い初めて乗る車なのに、何だか少しだけ焦凍くんの家の匂いが混じっていて、不思議な感覚を覚えてしまう。
すぐに運転席へと乗り込んだ焦凍くんは、シートベルトを掛けながら私の顔を覗き込む。その視線と目が合えば、次の瞬間にはふわりと柔らかく微笑んでくれる。思っても見なかったその微笑みに何だか少し恥ずかしくなって、目を逸らしながら慌てて自身の肩にシートベルトを掛けた。

平日昼間の国道は、そこまで交通量が多いわけでは無い。次々と変わっていく窓の外の景色を横目に、静まり返った車内で一人考え事に耽っていく。
焦凍くんは、今日は元々休日だったのだろうか。それとも、このために態々休みを取ってくれたのだろうか。彼はその完璧な容姿を持ちながらも実力派として名を馳せる大人気ヒーローであり、それ故に簡単に休みを取れるような人ではない。それはついこの間まで同業者であった私がよく知っている。ならば、今日は偶々彼の休日だったということだろうか。いや、昨日まで張り込み任務を行なっていたのに今日が休日なんて、どう考えても不自然過ぎる。それなら、彼は一体どうやってこの時間を作ってくれたと言うのだろうか。

そんなことを悩むぐらいなら、すぐ隣にいる彼に直接聞いてしまえばいい。そう思うのに、どうしてか不思議なほどに言葉が何も浮かんでこない。下手なことを口にして、自惚れるなと冷たく杭を刺されることを想像すると、怖くて何も言えなくなる。
そうやって口を噤んでいれば、車内にはただ静かな時間だけが流れていく。

しかし、沈黙というのは何も一人が口を閉ざすだけで生まれるものではない。
一緒にいる彼もまた、自身の口を閉ざしたまま何も話そうとはしていないのだと、不意に気付いてしまう。

話すことが無くなるほど、お互いの事を理解し合っているわけではない。
話しをしたくないと思うほど、お互いの事が気にならないわけではない。
もしかしたら彼も私と同じで、聞いていいのかが分からずに、黙っていることが沢山あるのかも知れない。しかし、この5年間でお互いの間に開いた溝は計り知れないほどに深く、今更どうやってそれを埋めればいいのかなんて見当もつかない。

しかし、このまま何も言わずに黙っているのが、果たして本当に正しい事なのか。
今後もこの沈黙をお互いに貫き通すことが、彼と上手く付き合うということなのだろうか。
いや、きっとそうではない。私は兎も角、彼に何かを我慢させるようなことは、この先絶対にあってはならない。それは5年前のあの日、突然別れを突きつけられた時に痛いほど学んだのだ。

彼が知りたいことは、何だろうか。
私がまだ彼に話していないことは、何だろうか。
昨日の記憶を蘇らせながら、彼の思考を必死に探る。

車が赤信号で停車する。
それと同時に、私はふと思い付いた言葉をぽつりぽつりと口にする。

「…あの借金はね、お母さんの治療費だったの。」

突然隣で語り始めた私に、焦凍くんはハッとした顔で私の方へと視線をやる。その反応に、彼がこの話に興味があることはすぐに分かった。
しかし、完全に見切り発車で語り始めたため、早速次の言葉に詰まってしまう。慌てて言葉を考え込む間、少しの沈黙が2人の間に流れてしまう。

そんな沈黙を先に破ったのは、何だか腑に落ちたような顔を浮かべた焦凍くんの方だった。

「そうだったのか…だから、あんな金額の借金を…。」
「うん…」

こんなに大切なことを今更彼に明かすなんて、何だかとても変な気分だ。
本当なら彼は真っ先に、どうして借金をしたのかを私に聞くべきなのに。そんな理由は一切聞かず、ただお金を用意すると言ってくれて、本当にお金を出してくれた。
そんなことができる人間が、果たして他にいるだろうか。

今の彼の反応を見る限り、借金の理由を知りたくなかった訳ではなさそうで。彼はきっと私に気を使い、敢えて何も聞かずにいてくれたのだと気付けば、胸が一杯で張り裂けそうになる。

「…治療費だったってことは、その、お母さんは…」
「うん、4年半前に亡くなっちゃった。」

心配そうに眉を顰める焦凍くんに、大丈夫だと伝えるように少し明るめの声で返事をする。
しかし、どうしてか隣から盗み見る彼の表情は益々曇る一方で。そんな予想外の彼の反応に内心慌てていれば、一言だけ静かに彼の口から言葉が溢れ出る。

「悪かった。」

その一言に、弾かれるように顔を上げて焦凍くんを見つめる。
車を走らせるため前を見つめたままの青い瞳は、何故かとても悲しい色を帯びていて。

「…どうして焦凍くんが謝るの。」

思わず口から出てしまったその問いかけに、焦凍くんは何だか少しだけバツの悪い顔を浮かべる。それが一体何を意味するのか、私には分からない。分からないけど、彼がそんな顔をする必要がない事ぐらいは、私には分かる。
私の問いかけに言葉を詰まらせてしまった焦凍くんに、できる限りの明るい声で言葉を続ける。

「もう4年半も前のことだから、今は平気だよ。何も気にしないで。」

そう言って咄嗟に笑みを浮かべれば、彼の口は何かを言いたげに少し開き、そしてすぐに閉ざされる。
一体何を言われてしまうのだろうと一瞬ドキリと跳ねた胸は、事なきを得たかのように鎮まる。

そして暫くして、ハンドルを緩やかに切った焦凍くんはボソリと呟くように言った。

「名前のお母さんが作ってくれる天ぷら蕎麦、いつもすげぇ美味かった。」

そんな何気ない呟きに、頭の中には遠い昔の記憶が色鮮やかに蘇る。
母の病が発症するずっと前、私は何度か焦凍くんを実家に連れて来たことがあった。母に焦凍くんを紹介して以来、彼のことを痛く気に入った母は、いつも彼が遊びに来る度に彼を目一杯に甘やかすのだと張り切っていた。

「そうやって焦凍くんがお母さんのこと褒めるから、焦凍くんがうちに来た日はいつも天ぷら蕎麦しか出なかったけどね。」

いつかの帰り道に、名前の実家はいつも天ぷら蕎麦でいいな、なんてことを真面目に言ってきた彼に、思わず笑ってしまったのを思い出す。すると、彼も同じことを思い出したのか「名前の家は、本当に毎日天ぷら蕎麦じゃなかったんだよな。」なんて疑問が飛んでくる。
彼は、本当に相変わらずの様だ。そう思うと、何だか可笑しくなって笑ってしまう。すると彼もまた、先ほどまで強張らせていた表情を緩め、穏やかに笑っていて。

こんなにも自然に2人で笑い合ったのは一体いつ振りなのだろう。
彼が私を要らないと言ったあの日から、任務で会っても笑い合うことなど一度だってなかったのに。
一瞬頭に過るのは、あの頃彼に向けられていた冷たい表情で。緩み切っていた顔は、無意識のうちに強張っていく。

そんな話をしていると、いつの間にか車はマンションの駐車場へと到着していた。









「ここって…」

車から降り、地下駐車場からマンションの中へと入った時、それがどこであるのかを理解した。
見覚えのあるホールに、聞き馴染みのあるエレベーターの到着音が鳴り響く。そのまま開いたエレベーターへと乗り込んでいく焦凍くんの後ろをついていくと、彼は予想通り最上階のボタンを押した。

「…ああ、まだここに住んでるんだ。」

私の言いたかったことを察した焦凍くんは、そう返事をする。
あの頃何度も2人で一緒に乗ったエレベーターは、酷く懐かしい感覚を思い出させた。

彼の職場であるエンデヴァー事務所から決して近いわけではないこのマンションは、彼が一人暮らしを始める際に選んだ最初のマンションだった。同時期にジーニスト事務所への就職が決まった私と少しでも近くに住みたいと言って、2つの事務所の間ぐらいにあるこのマンションを選んでくれたのだ。
プロになったばかりのヒーローの給料でも十分に住めるこのマンションは、今やビルボードチャートに名を刻む大人気ヒーローが住むには少しばかり質素で普通のマンションで。
今の彼には不釣り合いな気がしてならない。

そんなにこのマンションが気に入っているのだろうか、それとも忙し過ぎて引っ越しをする時間がないのか。そんな疑問を抱きながら、目的階へと到着したエレベーターを出る彼の後ろを着いていく。

見慣れた1番奥の部屋へと辿り着けば、焦凍くんは手元にある鍵を使ってドアを開き、私を中へと招き入れた。
玄関へと一歩足を踏み入れれば、懐かしい爽やかな匂いが肺いっぱいに取り込まれる。
視界に映り込む下駄箱の上の小物から玄関に敷かれたマットの柄まで、そこには見覚えのある物で溢れていて、自然と胸が焦がれてしまう。どれ一つとっても懐かしい思い出が沢山詰まっていて、つい色々な気持ちに浸ってしまいそうになるけれど、今の私はあの頃とは事情が違うのだ。昔の様な気持ちのままではいけないと、揺れる心に何重にも施錠を施し「お邪魔します。」と気を引き締めた一言を放つ。
そんな私の様子に少し困った顔を浮かべながら、焦凍くんはリビングへと案内してくれた。

「部屋、散らかってて悪りぃ。」

そんな言葉と共にリビングへと足を踏み入れた私は、視界に映るその光景に思わずはっと息を呑んだ。

一番最初に視界に映り込んだテーブルも、その次に見えたテレビもソファーもラグも、そして部屋の隅にある観葉植物ですら、全て見覚えのある物がよく見知った位置に並んでいて。驚くほどに記憶通りのその部屋に、逆に唖然としてしまう。

あれから、もう5年も経っているのに。
こんなことが、果たしてあり得るのだろうか。
まるで時が止まってしまっているかのようなその部屋を、目を丸めながら再びぐるりと見渡してみる。
ソファに無造作に掛けられた脱ぎっぱなしのランニングウェアは、見慣れない物だ。それにキッチンに掛かっているタオルも、初めてみる色の物で。少しずつ細かく変わっているところはあるが、大枠は何一つとして変わらない。
そんな私のよく知るままのこの部屋に、右目の見えない今の私がここにいる。
それが何だかとても異様で、異質なのに、どこか酷く懐かしくて。自分の中に渦巻く感情がよく分からずに戸惑いながら、脱ぎ捨てられた彼のジャージを手にとり小さく笑ってみせる。

「…早速私の仕事があって、よかった。」

そう呟いた私に、荷物を隣の空き部屋へと運んでくれた焦凍くんは心配そうな顔で言う。

「今日は別に何もしなくてもいいんだぞ?疲れてるだろうし、それに昨日捻った足もまだ辛ぇだろ。」

無理せずに、できる時にできる事をしてくれればそれでいいんだ。
そう優しく言い聞かせるように告げる焦凍くんに、私は首を横に振る。

「疲れてないよ。それに足も全然痛くないし平気だから、大丈夫だよ。」

どんなに甘いことを言われたとしても、私はもう何もせずにここに居座れるような立場ではないのだ。雇い主である焦凍くんの役に立たなければ、私はここにいる意味を失ってしまう。疲れたとか足が痛いなんて理由で働かないなんて、そんなことが許される筈などないのだ。

「そうか…もし少しでも辛ぇと思ったら、遠慮なく休んでくれていいからな。名前の頑張り屋なところはすげぇ尊敬するけど、ここではそういうのじゃなくていい。」

もっと気を楽にしてくれていいのだと言うように、焦凍くんはそっと肩に手を添えてくれる。

「ありがとう、焦凍くん。」

そう小さくお礼を言いつつ、これから簡単に片付けや掃除をする意思を彼へと告げた。

掃除用具や日常生活で使用する物は全部前と同じ場所に仕舞ってある、そう説明した上で焦凍くんは家中を丁寧に案内してくれた。
引き出しの物の仕舞い方や昔お勧めした香りの柔軟剤など、未だに至る所に私の痕跡があって、思わずドキッとなってしまう。彼はとても大雑把な性格で、使えれば何でもいいという考えで物を買うタイプなのに、5年もこのままの状態で使い続けてくれたのだと思うと、何だか胸が張り裂けそうになる。

…いや、違う。きっとそれは本当はあまり喜べることではないのだ。
なぜなら、5年も何も変えずに過ごせると言うことは、何を見ても私の存在を思い返すことなど微塵も無いと言うことなのだ。どんなに些細な物でも彼との思い出が蘇ってしまう私とは違い、きっと彼は最初からそこに思い出など無かったかのように過ごせてしまうのだろう。
全く真逆の解釈で思い上がりそうになっていた心が、冷静さを取り戻す。

そもそも彼は私のことが好きではないから、切り捨てたのだ。今ここに私がいることが一体どれだけ彼を不快にさせているのか、私はちゃんと理解しておかなければならない。
少し優しくされたからと言って、自惚れてはいけない。彼は私を心底憐れんでいるだけに過ぎないのだから。図に乗れば、きっとまた彼に捨てられてしまうに違いない。
完璧な家政婦でいなければ、いつか用済みとなってしまう。そんな事を考えれば、無意識のうちに掃除をする手に力が篭ってしまっていた。


掃除も洗濯も一通り終えた私は再びリビングへと戻って来る。するとそこには、ソファに浅く腰を掛けた焦凍くんが、何やら難しそうな顔をしながらタブレットを覗いていた。いくら休日とは言え、多忙を極める彼の穴はそう簡単には埋められない。きっと溜まった仕事や緊急案件の対応に追われているのだろうと思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

少しでも彼の邪魔をしないようにと、気配を消してそっと部屋の端で佇んでみる。
紅白のサラサラな髪に、日に焼けていない逞しい首、そしてシャツの上からでも分かるぐらいしっかりとした肩。背後から静かに眺める彼の姿は、まるであの頃のままなのに、その隣に堂々と座る私の姿は今はない。
当たり前だ、今の私はそこに座る価値すらないのだから。

そんな事を考えていると、不意に焦凍くんがこちらを振り返る。

「ん、どうした?…何でそんなところに突っ立ってるんだ?」

そう言って不思議そうに首を傾げる焦凍くん。
早くも彼の仕事の邪魔をしてしまったと思い、内心盛大に慌ててしまう。

「え、えっと、その…焦凍くんの邪魔にならないように…」

部屋の隅で気配を消して立っていたのだ。それをどう当たり障りなく表現すれば良いのか分からず、言葉に詰まってしまう。
そんな私を、ぐっと眉を顰めた焦凍くんが見つめてきて、思わず頭が真っ白になってしまう。

「ご、ごめんなさい。その、不快だったのなら隣の部屋にいるから、必要な時に声をかけてくれると…」
「そうじゃねぇ。」

焦凍くんが用意してくれた何もない空き部屋へ逃げ込もうとした私の腕を、ソファから立ち上がった焦凍の手がパシリと掴む。その瞬間に、怖くなった身体がビクリと跳ねて固まってしまう。
次に何を言われるのか、足元を見つめながら心臓を震わせる私に、彼は優しく諭す様に言う。

「俺に気なんて使わなくてもいい。ここはもう名前の家でもあるんだ、名前が好きなように過ごしてくれればそれでいい。」

そんな思いもしない言葉が聞こえてきて、ハッとなって顔を上げる。
そこには、何だかとても悲しい表情を浮かべた彼の顔があって。どうしてか、胸が抉られるみたいに痛くなる。

どうしてそんな顔をしているの?
何がそんなに悲しいの?
そんなこと、今の私が聞けるはずもなくて。

気を使わせてしまっているのは、完全に私の方だ。
その事実に気付いてしまえば、どうしようもない焦りが胸の中を支配する。

「ありがとう…じゃあ、その…ちょっとだけ座らせて貰うね…」

そう戸惑いながら口にすれば、少しだけほっとした顔で頷いた焦凍くんは、私の手をソファへと引いてくれる。

「…ココアでも飲むか?注いでくるから少し座って待っててくれ。」
「!…ま、待って、そんなの自分で…っ」
「いや、名前は掃除も洗濯もしてくれただろ。」

だから座って待っててくれと言って、焦凍くんはそのままキッチンへと去ってしまう。そんなことを私の雇い主である彼にしてもらうなんて、あり得ない。寧ろそれは私の仕事だと言うのに、一度ああやって言い切った焦凍くんは中々曲がらないことを私は知っていて。
「すげぇ久々に作るから、あんまり上手くできねぇかも知んねぇ。」なんて声がカウンターから聞こえてくれば、ココアの袋の封を切る焦凍くんと視線が合う。

彼は甘い飲み物を好まないのに、どうしてそれがこの家に置いてあるのか。
それが聞けない私は、ただ焦凍くんが注いでくれる久しぶりの甘いココアを、奥歯を噛み締めながら一口一口飲み込むことしかできなかった。



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