#4 涵養


繁華街の裏通りでタクシーを拾い、行き先に自宅の住所を口にする。運転手の了承と共にゆっくりと走り出したタクシーの座席にそっと背を預ける。すぐ右側の座席には焦凍くんが座っていて、右腕が偶に彼の衣服と擦れてもどかしい。
今から私は、彼と2人であの家に戻るのだ。そう思うと胸の奥がずんと重くなってしまう。少しでも気を晴らそうと窓の外に映る景色へと目を向ける。しかし、ギラギラとした明るいネオンのライトばかりが視界に入り、何だかとても落ち着かない。再び暗い車内へと視線を移せば、不意に隣に座る焦凍くんと視線が絡み合う。
ネオンの光を浴びては時折り不思議な色を放つ彼の瞳は、言葉にできない程に美しい。つい見惚れてしまいそうになるのを何とかして振り払うが、じっと静かにこちらを見つめてくる瞳に、心臓はどくどくと煩い音を立て始める。

何か話すべきなのだろうか。
そう考えてはみるものの、言葉は何も浮かんで来ない。それに、とてもじゃないが今は世間話に花を咲かせられるような気分ではなくて。
そんな私の心情を汲み取ってなのか、彼もただ私のことを見つめるだけで何も話し掛けては来ない。久々の彼との間の沈黙に、不思議と居心地の悪さは感じなかった。

そんな音もない見つめ合いを始めてから、一体どれだけの時間が経ったのだろう。先に視線を逸らしたのは、私の方からだった。
彼からすっと視線を外し、再び窓の外の明るい景色を見つめる。
するとその瞬間、シートの上に無造作に置いてあった私の右手に、何か温かいものが重ねられる感覚がして、思わず目を見開き固まってしまう。

右目が見えていないため、自身の右側で一体何が起こっているのか確認できない。
しかし、いくら目が見えていなくとも、彼の左手が私の右手を握っている事ぐらいはすぐに分かった。

当たり前だ、あの頃何度も繋いだ愛しいこの手の感覚を、私が忘れるわけなど無いのだから。

彼のその手の感覚を意識すればするほど、右手は熱を帯びていく。
急にどうしたのだとか、何のためにそんなことをするのだとか、彼への疑問は沢山頭に浮かんでくるのに、何一つとして口にすることはできなくて。
無言のまま、早まる鼓動の音だけが頭の中に鳴り響く。

もしも今、この握られている右手を引っくり返して指を絡ませたとしたら、彼は一体どんな反応をするのだろう。
5年前みたいに優しく手を握り返してくれるのだろうか。それとも、調子に乗るなと跳ね除けられてしまうだろうか。
例えどっちの反応だったとしても、今の私には関係ない。彼の手を握り返せる立場ではなくなった私に、そんな事などできるはずも無いのだから。

きっと彼は、私がまた逃げ出さないように、こうして手を拘束しているだけなのだ。決して私に好意がある訳ではないし、好きでやっている訳でもない。
そんなことは十分過ぎるほど理解しているはずなのに、温かくて優しい左手に馬鹿みたいに期待してしまう自分がいて。本当に、なんて愚かなのだと呆れてしまう。

重ねられた彼の手に態と気付かない振りをしながら、徐々に住宅街へと変わりゆく外の景色を静かに眺め続けていた。









入り組んだ住宅街の道を数分ほど走ったところで、タクシーは目的地へと到着した。運転手がメーターを確定する動作と共に、右手からはすっと温もりが離れていく。その感覚が何だかとても切なくて、思わず拳を握り締める。
そんな私のことなど知りもしない焦凍くんは、速やかに運転手へとお金を支払うと「ちょっと待ってろ」という言葉を残して先にタクシーを降りていく。パタリとドアが閉められれば、何だか言い表せない気持ちが胸一杯に広がって、まだ温もりの残る右手を反対の手でぎゅっと握る。
すると、程なくして私の方の扉から伸びてきた腕が、当たり前のように私の身体を抱き上げる。それはとても優しく丁寧な手つきで、胸の中を渦巻いていた何かが少しずつ消えていくような感覚を覚える。

そんな私をしっかりと腕に抱きながら、「ここか?」と言って焦凍くんが視線を向けたのは、私の家の向かいにある集合住宅だった。それはそうだ、彼の記憶の中の私は、まだこういう普通の家に住んでいたのだから。何だか惨めな気持ちになりつつも、首を横に振りながら「こっちだよ。」と向かい側に建っている今にも倒壊しそうなボロアパートを指差す。
きっと彼は、これまで一度もこういう家に上がった経験などないのだろう。彼の生きる世界とは全くかけ離れたその建物を、ただ物珍しそうに眺める焦凍くん。そんな彼の視線に、何とも言えない気持ちになってしまう。
こんな見窄らしい家に住んでいるなんて誰にも知られたくなくて、ずっと黙って過ごしていた。しかし、私の事情を全て知ってしまった彼に隠すのも今更だ。そう頭では割り切っていても、胸の中は何一つとして落ち着かない。

「名前の家は何階なんだ?」
「2階の、1番奥の部屋だよ。」
「わかった。」

そう言って頷いた焦凍くんは、2階へと繋がる錆びついた階段を私を抱えながら登っていく。一段一段と階段を上がる度に、薄い鉄板を踏みつけるような安っぽい音が辺りに響き渡る。錆だらけの階段もそれを踏み鳴らす音も、何もかもが彼には似合わなさ過ぎて、私はとんでもない場所に彼を連れてきてしまったのだと自覚する。
彼は、こんな場所にいるべきではない。早く借金のことを断って、彼を此処から帰してあげなければ。きっと今この瞬間も彼は不快に思っているに違いないのだから。そんなことを頭の中で考えていると、不意に眉を顰めた焦凍くんがこちらを見つめているのに気付き、心臓がドキリと跳ね上がる。

「…こんな急な階段を、名前はいつも松葉杖で上がってたのか?」

そんな思いもしない問い掛けが突然彼から降ってきて、一体何のことだと慌ててしまう。
確かに、ここの階段は普通の階段と比べて少し高さがある。彼はそれが不快だったのだろうか。でも私が松葉杖でここを登るのは当たり前で、別におかしな事など何もない。それにもう5年近く登っているこの階段を、今更特別に高いなんて思わない。

「慣れれば、大した事ないよ。」

そう返した私に、目の前の焦凍くんはあまり腑に落ちていなさそうな顔を浮かべていて。何か不味いことを言ってしまったのだろうかと、不安で堪らなくなってしまう。

そんなぎこちない会話を交わしている間に、目的地である2階の1番奥の部屋まで辿り着く。鍵を開けるから下ろして欲しいと焦凍くんに伝えると、彼は渋々と言った様子で私をそっと腕から下ろした。
彼が様子を伺う中、鞄から取り出した鍵を鍵穴に刺してドアノブを捻る。キーッと独特な音を鳴らしながらドアが開けば、今にも何かが出てきそうな真っ暗で不気味な家の中が晒される。直ぐに玄関の明かりを点けて「どうぞ」と彼を中へと招き入れると、「お邪魔します。」と律儀に一声をかけた焦凍くんは狭い玄関を上がっていく。

この家に自分以外の誰かが上がるのは初めてのことで、何だかとても緊張する。
目につくところは小まめに掃除をしているけれど、年季に入った壁や床は日焼けや色落ちが激しくて、どこもかしこもガタガタだ。そんな明らかに普通ではない家の中を、焦凍くんは少しだけ目を見開きながら眺めていて。きっとこんなに酷い所に連れられてくるなんて、想像すらしていなかったのだろう。また一つ、彼の記憶の中にある私が惨めな姿に塗り替えられていく気がして、胸がずんと重くなる。
そんな彼を横目に見ながら、建て付けの悪い扉を開けて奥の居間へと案内する。
ここへ引っ越して来る時に、元々持っていた家具や荷物の多くを売り払ってしまったため、部屋には必要最低限のものしかない。ソファやベッドも無ければ、テレビもエアコンもない。部屋にあるものと言えば、引っ越しの時に唯一持ってきたローテーブルと、任務でも使っている寝袋だけ。

そんな何もないボロボロの家の中に、見目麗しくて眩しい姿の彼がいる。こんなにも似合わない組み合わせが他にあるだろうかと思えるほど、焦凍くんはこの部屋に馴染めていなくて。益々申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ごめんね、その、汚いし、おもてなしとかできる家じゃなくて…」
「そんなことねぇ。それに突然押し掛けたのは俺の方なんだ、気を遣ってくれなくてもいい。」
「そういう訳にはいかないよ…お茶淹れるから、そこに座ってて。」
「いや、俺が淹れるから名前の方こそ座って休んでろ。」
「そんな、焦凍くんはお客さんなんだからお茶ぐらい淹れさせてよ。」
「なら、一緒に淹れよう。」

そう言って、焦凍くんはキッチンに立った私の側に並んで立つ。薄暗い電気の下、お茶を注ぐための指示を待つように私を見つめる焦凍くんは、きっと大人しく座って待っててくれはしない。何だか申し訳ない気持ちになりつつも「…じゃあ、お湯沸かしてくれる?」と頼んでみると、彼は嬉しそうに頬を緩めながら「分かった。」と頷いた。
そんな彼を横目に、普段は使っていないマグカップを棚から出して綺麗に洗う。すると、ガスコンロの火を調整し終えた焦凍くんは、家の中を見渡しながら静かに呟くように言った。

「…足悪りぃのに、ずっとこんな所で生活してたのか。」

それは、つい先ほど外の階段で話したのと同じような話題で。ふと彼の方へと振り向けば、そこにはせっかくの端正な顔を苦しそうに歪める姿があって。心臓がドクンと嫌な音を立てる。
この家が彼にとってあまりに酷くて不快なことは、ここに招き入れた時の反応で十分理解できていた。きっと彼は、そんな場所に足を怪我した女が一人で住んでいることが、哀れでならないのだろう。
例えそれが自分の嫌いな相手だったとしても、そんな風に同情を抱いてしまう彼は、本当によくできた優しい人で。そんな彼の優しさをこうして食い尽くすような真似しかできない私は、本当は同情する価値すらない最低な人間だ。

「ずっとって、足を怪我してからまだ2週間ぐらいしか住んでないよ。」

こんな私に同情なんて必要ないし、そもそも私は平気で大丈夫なのだ。そう訴えかけるように無理やり笑ってみせてやる。
すると、そんな私に一瞬だけ何か言いたげな様子を見せた焦凍くんだが、開きかけたその口は何故か言葉を紡ぐことなく閉じてしまう。

続かない会話も、お互いのことを探り合うような視線も、何だかとても不安定でもどかしい。
しかし、だからと言って胸の内をはっきりと伝えられるほど、今の私と彼の距離は近くはなくて。
手元にある茶っ葉の入った缶を見つめながら、焦凍くんが今何を考えているのか、何を言いかけて辞めたのかを必死になって考える。考えるけど、本人ではない私には何が正解だったのかなど分かるはずもなくて。

そのまま手に持った茶っ葉の缶の蓋を開ける。すると、右肘に何かが当たる感覚がして思わず視線を右に向ける。同時に、すぐ下からは何かの割れるような音が聞こえてきて、慌てて視線を下へと落とせば、そこにはついさっき台の上へと並べておいたマグカップが一つ、床へと転がり落ちていて。
ああ、やってしまった。慌てて床へとしゃがみ込むが、右足の傷口がズキリと鈍い痛みを訴え、思わず顔を歪めてしまう。

「名前ッ、大丈夫か!?怪我は?」

そう言って慌てて私の横にしゃがみ、こちらを覗き込む焦凍くん。目の前で割れているマグカップには目もくれずに、彼はただ心配そうに私の顔を見つめていて。そんな彼の反応に、少しだけ戸惑ってしまう。

「へ、平気だよ。ごめんね、吃驚させちゃって。」

そう言って、何でもないと笑みを浮かべてみものの、心配そうにこちらを見つめる焦凍くんの表情は一向に晴れる気配はなくて。
この期に及んでまだ私は、彼の同情を引くようなことするなんて。床に散らばる取っ手の割れたマグカップを慌てて拾い集めようと手を伸ばす。
しかし、そんな私の手は突然目の前から現れた大きな手によって阻まれる。

「片付けは俺がするから、大丈夫だ。」

そう言って、彼はそのまま割れたマグカップを丁寧に一つ一つ拾い上げる。これは私の不注意が起こした結果であって、それを彼が片付ける理由なんてどこにもない。そう思い、目の前で破片を拾い集める彼の手を止めようとした、その時だった。
不意に、割れたマグカップの絵柄を見つめながら、少しだけ目を見開く焦凍くんが視界に留まる。一体どうしたのだろうかと彼の手元へ視線を移すと、そこにはよく見知った絵柄の破片が手に握られていて、思わず言葉を失ってしまう。

ああ、よりによって、どうしてこのマグカップなのだろう。何も考えずにそれを棚から出してしまった数分前の自分を、どうしようもなく責め立てたい気持ちに陥ってしまう。

それはまだ私たちが学生だった頃、お揃いだと言って買ったマグカップだった。
偶々雑貨屋さんで見かけ、色合いが私と焦凍くんっぽいという理由で買った、お揃いのマグカップ。気恥ずかしくて寮の共有スペースには置かなかったけれど、お互いの部屋で何かを飲むときはいつも当たり前のように使っていた。雄英を卒業した後も、寒い日はいつも焦凍くんがこのマグカップに温かいココアを注いでくれて。

そんな、いろんな思い出が詰まったマグカップが、今私の目の前で無様なまでに砕けていて。何だか胸がチクリと痛む。

まだこんなものを持っていたのかと、焦凍くんは呆れてしまったのだろうか。
それとも、まるで私たちの関係の様に一瞬にして砕け散ったマグカップに、清々した気持ちになっているのだろうか。
何も語らないままの焦凍くんの本心が、私には何も見えなくて。彼の手によって床に集められたマグカップの破片を見つめていれば、彼もまた此方をじっと見つめていることに気がつく。

「…右目、見えてねぇのか。」

静かに呟かれたその一言に、思わず目を見開いてしまう。
ああ、そうだ。もう全て話した気でいたけれど、確かに右目のことは伝えてなかった。
目の前には、悲しそうに眉を下げながら此方を見つめる焦凍くんがいて。気付かぬうちに伸びてきていた彼の左手が私の右頬に添えられると、驚きのあまり思わず肩が跳ねてしまう。

「っ、うん…でも左目は普通に見えるから平気だよ。」
「平気って、今マグカップ割ったばっかの奴が言うセリフじゃねぇだろ、それ。」

そう言って、私の目元に残ってしまった傷痕を、焦凍くんはそっと親指でなぞる。ゆっくりと優しく撫でてくれる指も手も、私の右目には何一つとして映らない。
その代わり、残された左目に映る彼の表情があまりにも心憂いもので、胸がぎゅっと締め付けられる。

違う、勘違いするな。彼はただ、足に怪我を負った片目の見えない人間を可哀想だと思ってるだけ。私のことなど、本当はどうだっていいと思っているに違いなくて。

でも、それならどうしてそんな、とても大切なものを失ってしまったかの様な悲しい顔をしているのか。
この足も目も、彼が要らないと言って捨てた私の一部に違いなくて。今更私のどこが欠けようと、それを彼が悲しむ理由なんてどこにもありはしないのに。

切なげに此方を覗く青色と灰色の瞳は、この薄暗く古びた家でも美しくて。確かにそれは今目の前にある筈なのに、何だかとても遠くのもののように感じてしまう。

「…ってことはあの時も、ぶつかって来た男のこと、何も見えてなかったんだな。」

そう静かに口にする焦凍くんに、病院で再会した日のことを思い出し、少し俯いてしまう。
あの時も、そうだ。何もない道ですら私は満足に歩くことができなくて、彼の手を煩わせてしまった。そして今も、私はこうして彼の手を煩わせてしまっている。
元々器用ではない上に、足も右目も十分に使えない私は、当たり前のことすら満足にはこなせない。
そんな私の借金を、彼は肩代わりしようとしているのだ。それが一体どういうことを意味するのか、彼は気付いているのだろうか。

「…そうだよ、私は右目も見えないし、足もこんなんだから普通の仕事もまともにできない。」
「…名前?」
「…もう分かったでしょ?焦凍くんが借金を肩代わりしたって、私にちゃんと全部返せるかなんて分からないんだよ…っ!」

そんなまともにお金を稼げるかも分からない私のために、彼がわざわざ自身の身を削る必要などある筈がない。ましてや、彼は私のことを嫌っていて、もう関わりたくないと思っている筈なのに。たった一時の同情で、大金と引き換えに長年の不快感を買うなんて、どう考えても可笑し過ぎる。そんなの困っている人を助けるだとか、そういう次元の話ではない。

私のことなんて、もう放っておけばいい。
でないと、私はまた焦凍くんを不幸にするだけの存在になってしまう。
胸を抉られるような痛みに耐えながら、右頬に添えられている彼の手を乱暴に引き剥がそうとするけれど、逆に手首を掴み返されてしまう。どうにかしてその手を振り解こうと試みるが、しっかりと握られている手はびくともしない。
一体何がしたいのだと彼を鋭く睨め付けるが、そんな私に返ってくるのは、ただ真っ直ぐに此方を見つめる瞳だけで。

「なあ、一緒に住まねぇか。」

そんな言葉が、何の前触れもなく静かに彼の口から紡がれて、思わず目を見開き固まってしまう。

一体これはどういうことか。
彼は急に何の話をしているのだ。
何一つとして理解できない彼の言葉に、ただ呆気に取られることしかできなくて。

「何、言ってるの…、」

正気の抜けた情けない声が、口から溢れ出てしまう。
そんな私に、彼は至って真剣な顔つきで言葉を付け足していく。

「俺の家なら駅から5分も歩かねぇし、エレベータだってある。風呂とかトイレに手すりもあるし、ベッドが置ける部屋だって1室余ってる。」
「ちょっと待って、言ってる意味が分からないよ…!何で私が焦凍くんと一緒に住むの?そんなのおかしいでしょ…、」

ただでさえ借金を肩代わりするなんてとんでもない事を言っているのに。もう恋人でも何でもない私が、どうして彼と一緒に住むなんてことができるのだ。
そんなことをして、彼に一体何の徳があると言うのだ。

あり得ない、どう考えたっておかしい。そう訴えかける様に視線を彼へと送るけど、返ってくるのはただただ真剣な強い意志のある瞳だけで。どうやら彼は、引き下がる様子はない様だ。

そんなに今の私は、可哀想に見えたのだろうか。この生活は、惨めに見えただろうか。
しかし、どんなに可哀想で惨めでも、これは私が招いた結末なのだ。彼に縋って良い筈などない。

「同情なんてしないでよ…借金だって自業自得だし、それに私は一生この身体なんだよ…?軽い気持ちで助けようとか思ってると後悔するのは焦凍くんの方だから…っ、」

そう、彼はいつか絶対に私に手を差し伸べたことを後悔する。
思うように働けない私にお金を貸すことも、一生不自由な体になった私を家に上げることも、彼にとっては何一つとして良いことなどないのだ。
そうやって彼の幸せを潰してまで、私は自分のことを守りたいとは思わない。彼が不幸になるぐらいなら、見知らぬ誰かに抱かれながら、ボロボロの家で切り詰めた生活をする方が断然いい。

だから、もう私を助けようとしないで。可哀想だという一時の感情で手を差し伸べないで。
押し潰されてしまいそうな心臓が酷く痛くて、ぐっと下唇を噛み締めながら俯く。
すると、不意に冷たい右手がそっと私の頬へと触れる。

「…軽い気持ちなんかでこんなこと言わねぇ。それに後悔なんかするわけねぇだろ。寧ろここで何もしない方が、俺は一生後悔する。」

そう言った焦凍くんは、両手で優しく私の頬を包みながら、そっと私のおでこに自分の額を合わせる。まるで心の底から私のことを救いたいのだと、自分の手を取ってほしいのだと、そう言っているみたいで、悍ましいほどの気持ちが一気に胸の中を込み上げる。
じわじわと熱くなる目頭に、ポロポロと頬を伝う滴が座り込んだ床を濡らしていく。

ああ、どうして彼はいつもこうなのだ。
本当にどうかしている。私のことなんか、放っておけばいいのに。

「訳わかんない、頭おかしい。馬鹿だよ、焦凍くん…っ」
「ああ、俺は馬鹿だよ。」

そう言って、焦凍くんは頬に添えた手を離し、そして私の身体をそっと優しく抱きしめる。
温かくて懐かしい匂いのする彼の腕は、5年経っても何一つとして変わらない。大切に愛されていた過去の記憶が脳裏に浮かべば、胸が苦しくて張り裂けそうになってしまう。

もしも今、彼の背中に腕を回し、逞しい胸へと頬を埋めて泣いてみたなら、昔みたいに彼に大切にしてもらえるのだろうか。
そんな愚かな思考が不意に頭の中を駆け巡り、思わずひゅっと喉を鳴らす。

ああ、この期に及んでどうして私はまだそんなことを思えるのか。
彼が私を大切に思うことなんて、2度とあるはずが無いのに。
また愛されたいと思うなんて、どれだけ身の程を弁えない人間なのだ。

彼の背中へ回すことのできない腕は、縋る先を探すように自身の裾を力強く握り締める。
そんな私の後頭部を、彼は何も言わずに優しく撫でてくれていて。

そして、何かを思いついたかのように、焦凍くんは再び言葉を紡ぎ出す。

「…なあ、それなら家政婦として名前を雇うってのはどうだ?住み込みで。」

突然さらりと吐き出されたそのとんでもない提案に、一体何の話だと再び困惑してしまう。
しかし、自身の腕の中で盛大に戸惑う私のことなど気に留める様子のない焦凍くんは、そのまま話を続けていく。

「名前も知っての通り、俺は料理とか全然できねぇし、時間がなくていつも洗濯物とかも溜まってる。掃除もたまにしかできてねぇ。…どうだ、俺には家政婦が必要だろ。」

そう自信満々に自身の家事能力の低さを語る焦凍くん。彼は性格上、話を盛るとかそういう事ができる人ではない。きっと本当にそんな生活を送っているのだと思うと、困惑に加えて心配までもが浮上する。
そんな彼に何も言い返せずにいると、腕の力を緩めた焦凍くんは、私の顔を覗き込みながら言う。

「勿論、名前のできる範囲でいい。昼間は他の仕事に行くなら、晩飯は惣菜でも出前でも何でもいい。お金だって名前のペースでゆっくり返してくれたら、それでいいんだ。」

晩御飯に惣菜や出前を頼む人間のどこが家政婦だと言うのだろうか。それにお金だって、ゆっくり返していたら働ける年齢などとっくに終わってしまう。
いくら世間知らずな彼だって、自分の言っていることが滅茶苦茶だという事ぐらい分かっているはずだ。
それなのに、どうしてそこまでして私を救おうとしてくれるのか。
彼の考えていることが何一つとして理解できなくて、ぎゅっと拳を握り締め、首を横に振り続ける。

「できない…、わたし、また焦凍くんのこと不幸にしちゃう…」

不意に脳裏に浮かんで来るのは、5年前のあの日の、冷めきった瞳で私を見下ろす焦凍くんの姿で。
お金の話だけではない。再び私が彼の生活に混じり込めば、きっとまた同じことが起きてしまう。優しい彼を疲れさせ、失望させてしまうに違いないのだ。
ほんの少し思い出すだけでも、息もできないほどに胸は苦しくなっていく。襲い掛かる胸の痛みに耐えきれず噛み締めた下唇からは、鉄の味が滲んでいて。

そんな私を見て少しだけ目を見開いた焦凍くんは、次の瞬間にはぐしゃりと顔を歪ませる。

「いつ名前が俺を不幸にしたんだよ。」

それはまるで悲痛を訴えるような声色で、心臓が抉られるような痛みを覚える。

そんなの、いつもだ。
出会ってからずっと、私の言葉や行動が数えきれないほど彼を不幸にしてきた。それに私が気付いていないと、彼は本気で思っているのだろうか。

決して首を縦には振らない私に、焦凍くんは酷く優しい声色で言葉を紡ぐ。

「やっぱ無理だと思ったら、いつでも辞めてくれていい。だから、お願いだ。」

俺に、名前を救わせてくれ。
まるでそう続くかのような彼の言葉に、胸の奥がじわりと熱くなっていく。

どうして彼が、それをお願いだなんて言うのだ。
お願いして救いを乞うべきなのは、明らかに私の方だと言うのに。

ここでちゃんと断らなければ、私はまた同じことを繰り返す。
そう分かっているのに、私をぎゅっと抱きしめる彼の腕が温かくて、どうしようも無く縋り付きたくなってしまう。

「…ひとつだけ、約束して。」
「約束…?」
「うん…、もし私が少しでも邪魔だと思ったら、絶対に同情せずに私のこと追い出して。」

もう2度と、私は彼の幸せを蝕みたくはない。
何より彼が大切で、今でも呆れてしまうほどに私は彼を心の底から愛しているのだ。

「分かった、約束する。名前が邪魔になったら、な。」

しっかりと頷いた焦凍くんは、真剣な表情でそう私に答える。
彼はこんな私にすら同情してしまうほど優しい人ではあるが、同時に、約束を守らないような不誠実な人ではない。きっとこの約束をちゃんと守ってくれる筈で、それは近い将来、また私は彼に捨てられる事を意味している。

それを分かっていながらも、私は差し伸べられた優しいその手に卑しく縋りつく選択を選んでしまっていた。



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