#3 嗄声


足を前へと進める度に、右脚にある傷口がズキズキと痛みを訴える。だけど、そんなの今はどうだっていい。
暗くて狭い裏路地は表通りほど綺麗に舗装がされていなくて、履き慣れないミュールの心地の悪さも相まって、何度も地面に足を取られそうになってしまう。
それでも今は、誰の目にも触れない場所へと逃げたくて、必死に足を動かし続ける。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私は一体、どこで何を間違えてしまったのか。

そんなことをいくら考えたところで、何も答えなんて出てこない。きっとこれまで選択してきた全てが積み重なって、この悪夢に繋がってしまったのだろう。

彼の腕を振り払ったあの店から、たった数メートルしか走ってない。それなのに、酷い息苦しさを感じて思わず胸を押さえつける。

このまま誰の目にも触れない場所へと逃げたとして、それから一体どうするというのだろう。
静かな路地裏に一人で蹲り、この最悪な現実を嗚咽を吐きながら必死に飲み込むのだろうか。そうして心が何も感じなくなったなら、立ち上がってまたあの店に戻るのだろうか。そこではしたない格好をさせられて、誰か知らない男の人に一晩中身体を弄らて過ごすのだろうか。
分かっている、私にはそれ以外の選択肢など残されていない。それなのに、どうしてか先程一瞬だけ目にした青灰色の美しい瞳が、脳裏にちらついて離れない。

彼はあの綺麗な瞳の奥で、一体何を思ったのだろう。
まさかこんな所で働いているなんてと私のことを軽蔑し、随分と安い女を大切にしていものだと過去の自分を嘲笑したのだろうか。きっと穢らわしい女に手を差し伸べてしまったと、数日前のことを後悔したに違いない。

こんな事になるのなら、私は最初から彼と関わるべきでは無かったのだ。
彼が大切にすべき人間は他にもいた筈なのに、私を想う彼の優しさにこれ見よがしにつけ込んで、彼の経歴に泥を塗った。私のことをあんなにも大切にしてくれた彼に、よくこんな酷い仕打ちができたものだ。私は本当に最低な人間だ。

最初から関わらなければ、良かったのだ。
好きになんてならなければ、良かったのだ。

そうやって頭では考えているのに、心の奥底では彼との日々が大切で、嫌われたくないと思ってしまう。本当に私はどこまで愚かで浅ましい存在なんだろう。

背後からは、少しずつこちらに迫り来る足音が聞こえてくる。早く逃げなければと必死に足を動かすけれど、その距離が遠のいていくことはない。当たり前だ、向こうは現役のプロヒーローで、こちらは足に致命傷を負った落ちこぼれなのだから。
どくどくと早まる心臓の音に、眩暈すら覚え始める。
嫌だ、こっちに来ないで。
そう願ったところで、足音が止まる事はない。

すると、不意に足場の悪い地面にヒールが嵌まり、体勢が崩れてしまう。まずい…と慌てて踏ん張ろうと足を出すと、ミュールから脱げてしまった右足が裸足のまま捻った状態で地面に着地する。
何とも表現し難い音が右足から全身へと駆け巡り、そして次の瞬間には激しい痛みに襲われて、そのまま地面に転倒する。

荒くて硬いアスファルトの上を受け身も取れずに転げ落ちる。剥き出しになった腕や足が地面と擦れてヒリヒリするけど、今はそれすらも些細なことに思えてしまう。
血まみれの手をつき上半身を起こそうとすると、不意にボロボロに擦れた汚い服が目に止まる。
何かあった時のためにと残しておいた数少ない綺麗な洋服だったけど、もうどう見ても使い物にはならない。捻った足が痛くて痛くて堪らないのに、頭を支配するのは洋服を買うお金のことばかりで。本当に私はどれだけ呆れた人間なのだと、溜息が溢れ出そうになる。

背後から慌てて追ってくる足音に、再び走り出さなければと足掻くものの、上手く身体が起こせなくて。焦り戸惑う心の中は、みるみるうちに絶望に染まっていく。

振り返った先では、一体どんな視線が私に向けられているのだろうか。ほんの少し想像しただけで怖くて怖くて堪らなくて。ぐっと下唇を噛み締め、両腕を擦りながら身体を何とか前へと引き摺る。
そんな前進しているのかも分からない私の元に彼が追いつくのには、そう時間は掛からない。

「名前っ、大丈夫か…!?」

そう言ってその場にしゃがみ込んだ焦凍くんは、地面を這う私の身体を何の躊躇いもなく抱き上げて、自らの膝の上へと下ろす。ふわりと浮いた身体が、次の瞬間には優しく抱き止められていて、理解の追いつかない私の頭は真っ白になってしまう。

しっかりと私を横抱きにする温かい腕は、数日前に会った時と何一つとして変わらない。
それなのに、次に降ってくるであろう蔑みの言葉に、酷く怯える自分がいる。
あの日、彼に切り捨てられた時だってそうだったのだ。何の前触れもなく突然突き立てられる刃物の恐ろしさを、私は既に知っている。
あの日の事を思い出すだけで、胸が押し潰されるような痛みに襲われ苦しくなる。再びそれが訪れるのだと思うと、怖くて視線が上げられない。ぎゅっと握り締めた手の傷に爪が食い込むけれども、それすらまともな痛みを感じない。

そんな明らかに身構え硬直する私の肩を、焦凍くんの手がそっと撫でる。それはまるで、落ち着け、大丈夫だと言われているみたいで、頭が酷く困惑する。
力の入り切ったままの私の手を優しく掬った焦凍くんは、傷口を確かめるように少しずつ手首の角度を変える。

「…酷い擦り傷だな、いま消毒するからちょっとだけ我慢してくれ、」

そう言って、彼は自分のヒーロースーツの腰にかかった容器を開けて、手慣れた手つきで私の傷口を処置していく。彼が一体何をしているのか理解できない私は、黙ったまま傷口が処置されるその光景を見つめ続ける。

こんな怪我など、別に放っておけばいい。
それよりも、どうして逃げたんだとか、何であの店に入ろうとしていたんだとか、聞きたいことは沢山ある筈なのに。
こうして何も聞いてこないのは、最悪な私の話などもはや聞くに耐えないからだろうか。

消毒液が染みる傷口に思わず手に力が入る。すると、それを慰めるように彼の親指が私の手をゆっくり撫でる。
そんな昔を思い出させる彼の優しさが恐ろしくて、思わず手当中の手を引っ込める。

「やめて、もういいから…」

もうこれ以上、私に何もしないで欲しい。
彼が私にこんな事をする理由なんて、どこにもない。言いたいことがあるのなら、それだけ言って早くここから立ち去ればいいのに。どうせ後から酷く突き放すのだから、優しくするだけ無駄だ。
そう思い、首を振って焦凍くんを拒絶するけれど、どういうことか彼は引き下がる気配を見せない。

「ダメだ、ちゃんと応急処置しとかねぇと、」
「こんなの放っておけば治るよ、」
「バイ菌が入ってたら、綺麗に治らねぇかも知んねぇだろ。」
「そんなの、どうだっていい…」

今更私の古傷が増えたところで、一体何だと言うのだ。もう既に身体中縫い傷だらけで、綺麗に守る身体ではない。それに、これから知らない誰かに弄ばれる身体なんて、別に綺麗に保ちたいとも思わない。

彼を拒絶する言葉を吐くたびに、喉の奥が震えてしまう。本当に、なんて惨めで情けないのだろう。
こんな救う価値もない私に、彼が貴重な時間を割くのは間違えている。早くここから立ち去らなければと思っていれば、ふと鞄の中に入れておいた封筒のことを思い出す。
次に会ったときに返すべきか、そう少し考えたけど、次に会う約束などできる訳もない。肩に掛けた鞄から封筒を取り出し、そのまま彼へと突き出す。

「これ、返す…。タクシー代で使ってしまった分は、その、来月までにはちゃんと準備するから…」

それは先日、病院から自宅へと帰る際に彼が払ったタクシー代のお釣りで。いつ彼と出会しても返せるようにと、常に外出用の鞄に入れていた。
大した金額でもないというのに全額を揃えて返せないなんて、とても惨めで恥ずかしい。でも、だからと言って代わりに返せるものすらも、今の私にはないのだ。

差し出された封筒を何となく受け取った焦凍くんだが、私の言葉に何が入っているのか理解すると、そのまま封筒を私の方へと突き返す。

「別に返さなくてもいい。というか、返して貰うつもりなんてなかった。」
「そんなのダメだよ…っ!私、こんなの貰っても、何も焦凍くんに返せない…」
「ああ、何も返さなくてもいい。あの日名前が無事に帰れたんなら、俺はそれだけで十分だから。」

だから、それはもういい。
そんな酷く穏やかな声が返ってきて、心臓がドクンと音を立てる。

何で、どうしてそんな私を気に掛けるような事を言うの。
どうしてそんなにも優しい声で私に話しかけるの。

彼が一体何を考えているのか全く理解できなくて、恐る恐る顔を上げて彼の顔を覗き見る。
するとそこには、私を軽蔑するような冷たい視線などどこにも無くて。
代わりに、私のことを心底大切に思っているような、とても温かくて優しい瞳が私のことを見つめていて、胸の中がこれでもかと言うほどぐちゃぐちゃにかき乱される。

意味がわからない、一体どうして彼はそんな瞳で私のことを見つめているの。

何一つとして理解できない彼の思考に頭の中は混乱していて、返す言葉が思いつかない。
すると、彼は何かを確かめる様に私の顔を覗き込み、穏やかな口調のまま言葉を紡ぐ。

「…さっきのあの風俗店、人身売買の疑惑があるらしいんだ。」

突然、そんな予想だにしない言葉が彼の口から紡がれて、思わず目を見開き固まってしまう。
人身売買の、疑惑…?
そんな私の反応を見て、何だか困った様に眉を下げた焦凍くんは、そのまま話を続ける。

「その様子だと、名前は囮捜査とかじゃなくて別の用事であの店に入ろうとしてたんだな。」

まるで確認するかのように放たれたその焦凍くんの一言に、ハッとなって手で口元を覆う。
ああ、まさか、そんな偶然があるだろうか。
焦凍くんの言葉に全てが繋がてしまった私は、思わず言葉を失ってしまう。

私が仕事を探しに訪れたあの店は、実は彼の捜査対象だったなんて。
彼は私があの店に訪れたのを調査の為だと勘違いして、私があの店で自分の身体を売ろうとしているなんて一つも思っていなかったのだ。
ああ、なんてことだ。自分で墓穴を掘ってしまった気がしてならなくて、思わず焦凍くんから視線を逸らす。

「…その、捜査の邪魔してごめんなさい。」
「いや、気にしなくていい。今日はもう切り上げようとしてたところだったから。」
「そっか…。」
「ああ。…それより、捜査じゃねぇなら何で名前はあの店に入ろうとしてたんだ。」

整った眉を顰めて険しい表情を浮かべる焦凍くん。そんな彼の反応に、無意識のうちに身体が震えそうになる。

女性が風俗店に足を運ぶ理由なんて、そんなの一つしかない。彼は何年もヒーローをしていて、しかもこんな場所で張り込み調査をするぐらいなのだ、それぐらいは分かっている筈なのに。

私の口から、言わせたいのか。
お金を稼ぐために、あの店に入ろうとしたことを。
お金のためなら誰彼構わず平気で身体を開ける、不潔で醜い女であることを。

彼がその綺麗な顔を歪めながら、悍ましいほど冷たい視線で私を見下す姿が目に浮かび、ぞわりと背筋が凍り付く。
どうしようもなく怖くなって、思わず彼の腕をパンッと払い除ける。

「別に、何だって良いでしょう…っ」

動揺のあまり咄嗟に口から溢れたのは、彼を突き放すような言葉で。ああ、完全にやってしまった。なんて恩知らずで最低なことを…。そんな後悔ばかりが胸の中に込み上げる。

今ので嫌気がさしたなら、早くここから去って欲しい…そう思いながら俯いていれば、どういうことか今しがた払い除けた筈の彼の手が、私の手を再びぎゅっと握り締める。

「良い訳ねぇだろ…店で掴んだ名前の手、震えてた。」

その言葉に、思わず目を見開いてしまう。

なんで、どうしてそんなことを知っているの。
彼が私に触れていた時間などほんの僅かでしかなくて、しかも私はそれを出来る限り隠していたというのに。
それなのに、一体どうして。

握られている手が温かくて、まるでゆっくりと心を抱き締められているような気持ちになる。
気を緩めれば、直ぐそこまで込み上げている感情が溢れ出しそうで、怖くて身体が強張っていく。

「だから何なの…っ、私がどこで自分の身体を売ろうと、そんなの私の勝手でしょう…っ!もうこれ以上私に関わらないでよ…っ!」

どうせ事実を言ったところで、また酷く突き放されて終わるのだ。
そう思いながら焦凍くんの手を振り解こうと試みるが、ぎゅっと握り締められた手は、まるで決して離さないと言わんばかりに私の手から離れない。

もうやめて、これ以上優しい言動で私の心を掻き乱さないで。
蔑むつもりがないのなら、私のことなど捨て置いて、もう2度と思い出さないで。
そう訴えかけるように焦凍くんを睨め付けると、どうしてか彼は酷く悲しそうな顔を浮かべていて。

「ごめんな。」

そう、静かに一言だけ呟いた。

一体、どういうことなのか。
突然彼の口から溢れ出た謝罪の意味が分からずに、思わず言葉を詰まらせる。

そんな私に、彼はゆっくりとその真意を口にする。

「…この間、病院であった時から名前が何かを思い詰めてるのに気付いてた。でも何もしてやれなかった…こんなに自分を追い詰めるまで悩んでたなら、あの時ちゃんと話を聞いて、名前のこと助けるべきだった。」

悔しそうに顔を歪めながらそう告げる焦凍くんに、思わず目を見開き動揺する。

焦凍くんと病院で再会したあの日、私は自分の失ったものが上手く飲み込めなくて、心が壊れそうだった。
でも、そんなことは一つも彼には言っていない。崩れた身体を彼に起こして貰った時だって、何事もない平気なふりが出来ていた筈なのに。

焦凍くんは、そんな私の辛くて苦しい胸の内に気付いてくれていたというのか。
助けようと、手を差し伸べてくれようとしていたというのか。

そんなのあり得ない、だって彼は私のことを嫌っていて、だからあの時私は捨てられたというのに。
私を助けたいなんて、本当は思うはずがないのだ。

「…別に、助けてもらうほど困ってない、」
「困ってねぇなら、なんでそんな泣いてんだよ。」

そう言って、焦凍くんはゆっくりと私の頬へと手を添える。そこは、いつの間にか溢れ出ていた涙によって濡れていて。目尻からこぼれ落ちそうな涙を、彼の親指がそっと払う。
その手つきがあまりにも優しくて、余計に視界が滲んでいく。

「話したくねぇなら、別に無理に話さなくてもいい。でも、俺は名前が辛い思いをしているのを黙って見過ごす事はできねぇ。」

そう言った彼の瞳はどこまでも真っ直ぐで、今度こそは私を守りたいのだと、そう言っているみたいで、胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。
焦凍くんは、きっと私がこの瞳に弱いことを知っている。知っていて、敢えてこうして見つめてくる、本当に狡い人なのだ。
これが彼の施策なのだと分かっていても、それを無視できるほど私は彼への恋心を捨て切れていなくて。
これまで誰にも言わずに溜め込んでいたものを、慣れない言葉で一つ一つ口にしていく。

「…怪我をして、ヒーロー活動ができなくなったの。でも借金があって、朝も夜も働かないと返せなくて…だから、あの店で働こうと思ってた…ただ、それだけ。」

改めて言葉にしてみると、どうしようもなく惨めな気持ちが込み上げる。そんな私の言葉を、焦凍くんは丁寧に相槌を挟みながら真剣に聞いてくれていて。相槌を打つ度に、どこか少しずつその表情を曇らせる焦凍くんに、心がどんどん不安になっしまう。

こんな事を彼に話したところで、どうにもならない事は分かっている。ただ同情を煽るだけの不幸振った女みたいで、何だか居心地が悪くて仕方がない。
そうか、なら仕方が無いな頑張れよとだけ言ってくれれば、それでいい。彼ができる事などせいぜいそれぐらいなのだから。
全て話し切った私に、焦凍くんは何だか複雑そうな表情を浮かべながら言う。

「借金が、あるのか。」
「うん…。だから、これ以上私とは関わらない方が、」
「あといくら残ってるんだ?」

まるで私の言葉を掻き消すように、重ねられる焦凍くんの言葉。思いもよらない彼からの問い掛けに、思わず「え…?」と呆気のない声が出てしまう。
そんな私に、焦凍くんは「ん?」と不思議そうに首を傾げる。

「そ、そんなこと聞いて、どうするの?」
「俺ができることを考える。」
「焦凍くんにできることなんて何も無いよ…っ」
「そんな凄い額なのか?」
「額の問題じゃないけど、」

なら言ってくれ、と言わんばかりに私の答えを待つ彼の瞳はどこまでも真剣で、とても「じゃあ頑張れよ」と終わる様な雰囲気には見えない。
でも、だからと言って、焦凍くんにできる事など何もない。金額を聞いたところでどうにもならない筈なのに。
私のことを真っ直ぐに見つめる焦凍くんの瞳は、本当に狡くて堪らない。

「3000万円、残ってる。」

そう渋々金額を伝えると、焦凍くんはどこか複雑そうな顔を和らげて「そうか、」と軽い返事をする。

「3000万だな、分かった。」
「えっ、待って…、分かったって、どういうこと?」
「?…3000万、必要なんだろ?」
「そ、そうだけど、」
「それぐらいなら、今の俺の貯金で何とかなりそうだ。」
「なッ!?何言ってるの、そんなの何とかする訳ないでしょ…っ!焦凍くんのお金なのに…!」
「ああ、でも気にしなくていい。別に使う予定もねぇから。」

いや、そうじゃない。使う予定があるかと無いとか、そういう問題ではないのだ。
そんなの気にせず使える訳がないのに、この男はどうしてそんなとんでも無いことを、こんなにもあっけらかんと言い張ってしまうのか。
どう考えたって、おかしい。

それに、これは私が不甲斐ないがために抱えてしまった借金で、彼は全く関係ない。それなのに、どうしてこんなにも当たり前のように大金を差し出すことができると言うのか。
相手が家族や恋人であれば、まだ納得がいく。しかし、私と彼はそんな関係ではない。恋人で無ければ友達にも満たない関係なのに。

こんな一時期の同情で、いつ返せるかも分からない私の借金を肩代わりして、後悔するのは焦凍くんだ。

「やめてよ…お願いだから、もう放っておいて…」
「んなこと、できる訳ねぇだろ。」

そんなはっきりと紡がれた言葉と共に向けられたのは、強い意志を持った瞳で。
ああ、彼は本当に私の借金を返してしまうつもりなのだ。揺るぎのない彼の眼差しに、困惑と動揺が隠せなくて、ただ首を横に振ることしかできない。

「とにかく、家まで送る。話はそれからだ。」

そう言って、焦凍くんは私を横抱きにしたまま立ち上がる。ふわりと身体が浮き上がる慣れない感覚に、思わず焦凍くんの胸にしがみつくと、彼の腕にはより一層力が篭る。

待って、彼はこのまま私を家まで送るつもりなのだろうか。こんな恥ずかしい状態で大通りなど、出歩けるわけがない。一瞬頭に過ぎったとんでもない光景に、歩けるから降ろしてくれと彼へと訴えかけるが、「足、痛むんだろ。無理するな。」と一蹴りされてしまう。
こうなってしまった彼をどうにかできる術など、私は持ち合わせてはいない。

せめてもの思いを込めて、出来るだけ裏路地を通って欲しいとお願いすると、焦凍くんは少しだけ安心したように「分かった」と言って頷いた。



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