#1 白雨


例えば、ちょっとした痛みを断続的に感じていたとしよう。
最初に痛みが襲ってきた時、人は慣れないその痛みにまずは驚きを覚えるだろう。
しかし、その痛みが暫く続くと、驚きは徐々に薄れていき、やがて痛みの方に意識が向く。
それはどんな痛みなのか、何で痛むのか、どうすれば治るのか。
そうやって痛みについて散々考え、自分ではどうすることもできないものだと悟った瞬間、人はその痛みを「仕方がないこと」だと諦める。そして、早々に痛みに慣れる努力をする。

やがて、その痛みを「当たり前」だと定義した身体は、それを痛いと感じなくなる。

そうなることで、きっと大事な何かを失ってしまっているのだろうが、それに気付くことはない。
ひたすらに目を逸らし続け、痛みを感じなくなった身体を喜び明日を生きる。それが最も賢明なのだと、きっと心のどこかで理解しているからだろう。


そうやって、幸せな日々から転落したあの日から、辛いことは全て呑み込み生きてきた。
どんなに激しい痛みだって、呑み込んでしまえばどれも同じだ。

だから今回の痛みも、いつもと同じようにすればいい。

そう思い、握りしめた傷だらけの拳は、酷く惨めなものだった。




Flare




「術後の経過も良好ですね。これぐらいであれば日常生活に支障はないと思うので、明日にでも退院できるでしょう。」

身体中の包帯を外し、一つ一つ傷口を確認した医者は、そう言った。
大きな縫い傷のある自分の右足をぼんやりと眺めながら、医者の言葉に素直に頷く。ここ2週間、ほぼ寝たきりの状態で過ごしたからか、この身体で日常生活を送る光景が全く想像できない。そんな私の気持ちを別の意味で汲み取ったのか、医者はカルテを書くペンを止め、こちらへと向き直る。

「右目と右足のことは残念ですが、あまり気を落とさずに。足は痛みや動かしにくさが暫く続くかも知れませんが、無理をせず安静になさって下さい。」

そう言って眉尻を下げる医者は、まるで「仕方がないことだから、諦めて事実を受け入れろ」と言っている様で。空っぽの胸の中に、その言葉だけが酷く嫌に反響する。

余計なことは考えず、ただありのままの事実を全て受け入れれば、辛いことは何もない。そんなこと、言われなくとも分かっている。実際に私はそうやって何度も痛みや苦しみを呑み込んできたのだ。どうやって事実を受け入れるのかなんて、もう十分過ぎるほどに理解している。
それなのに、どうしてか今はそれを呑み込むことを戸惑っていて。

あの日からずっと、そうだ。私の大切にしてきたものは、いつの間にか指の隙間を抜け落ち消えて行く。そうして何もかもを失ってきた私が唯一持っていたのが、この身体だったのに。それすらも、こうして呆気なく失ってしまった。まるで一縷の糸が千切れたみたいに、胸の中は虚無感や喪失感でいっぱいで。心が一つも追いつかない。

だからと言って、他にできる事など何もない。
私には、それを受け入れる選択肢しか残されていないのだ。

「では、お大事に。」

そう言って、医者は私の病室から去っていく。
それと同時に直ぐ隣に控えていた看護師が、私の身体に包帯を巻き直す。「少し早いですけど、退院おめでとうございます。」と微笑む彼女は、いつも私の世話をしてくれていた女性で。大した会話も交わしてないのに、何だか寂しげな表情を浮かべる彼女に、ああこの人はとても優しい人だったのだと今更ながら気付く。
最後に退院の手続き書類をそっと私に手渡して、彼女もまた静かに病室から去っていった。









荷物の入った鞄を肩に掛け、松葉杖をつきながら一歩一歩と前へ進む。トン、トン、と松葉杖をつく独特の音が真っ白な廊下に鳴り響いた。
つい2週間ほど前に私が搬送されたこの病院は、この辺で最も大きい大学病院だ。かなり広い施設ではあるが、職業柄、私はこの病院に何度かお世話になっているため、今更道に迷うことはない。

病院の正面玄関への道筋を、慣れない松葉杖をつきながらゆっくりと進んでいく。平日の朝だからだろうか、いつもは患者で溢れかえる待合室も今は数人しか座っていない。そんな寂しい待合室を横目に足を進めていると、不意に肩に掛けていた鞄がズレ落ち、ストンと床に落ちてしまう。

ああ、やってしまった。
床に落ちた鞄を拾い上げようと、立ったまま足下へと手を伸ばす。しかし、脚にある傷口の皮膚が伸びていく感覚を覚え、思わず伸ばした手を引っ込める。ここで傷口が開いて退院が先送りになるなんて、どう考えても馬鹿げている。
仕方ないと膝を折り鞄を拾い上げようとすると、手に巻かれた包帯越しに滑った松葉杖がカタンと床に倒れてしまう。

ああ、私は一体何をしているのだろう。
床に転がる鞄と松葉杖をただぼんやりと眺めながら、脱力する身体をその場にへたりと座り込ませる。

こんなことでは、これから一体どうして生きて行くのか、先が思いやられる一方だ。
もうあの頃とは、何もかもが違うのだ。
頼れる家族も、力になってくれる恋人も、今はもう何処にもいない。裕福な生活も、相談できる友人ですら、全て過去のものになってしまった。
今の私に残っているのは、母の延命のために積み重ねた多額の借金だけで。しかし、それを返す手立ても、こうして右目の失明と右足の怪我により失ってしまった。
全ては不甲斐ない自分が招いた結末だというのに、どうしてこんなにも感傷に浸っているのだろうか。全く呆れてものも言えない。

5年前のあの日から、私は少しずつ緩やかに自分の大事なものを失い続けてきた。それは悪夢の様な日々だった。大切なものが離れて行く度に、身の震え上がるほどの喪失感を何度も呑み込み、必死にもがきながら生きてきたのだ。
そしてたった一つ、最後に残っていたヒーローという職を失った私は、文字通り全てを失くしてしまった訳で。次に失うものを想像すると、全身に粟立つ感覚すら覚える。

床にぴたりとついた脚は、みるみるうちに冷たくなっていく。
しっかりしろと自分に言い聞かせてみるが、視界はじわりと滲んでいく一方で。

こんなところで一人蹲っていても、誰も手を差し伸べてはくれない。そんなこと、これまで十分すぎるほど学んできたというのに。
もう立ち上がれる気がしなくて。

どうしようもない程に押し寄せる虚無感に、心が酷く蝕まれる。
このまま消えてしまいたいとすら思えてしまう自分が、本当に嫌いだ。
最期の母との約束を思い出せ、私はしっかり生きるのだと、そう心に誓った筈だろう。

床に手をつき、何とかして身体を起こそうと力を入れる。

すると、不意に床に転がる松葉杖へと伸びてくる大きな手が、視界に映る。
ゆっくりと立てられる松葉杖をじっと見つめていれば、目の前から声が掛けられる。

「大丈夫ですか?」

それは低く穏やかで、どこか耳馴染みのある優しい声。
弾かれる様に顔を上げれば、そこにはこちらを心配そうに覗き込む、色の違う瞳があって。
他人のとは違うその美しくて懐かしい色合いに、頭の中が真っ白になった私は、思わず目を見開き固まってしまう。

「あ、」
「お、」

視線が絡み合えば、そんな間の抜けた声がお互いの口から溢れでる。

嘘だ、こんなことがあり得るのだろうか。
そう思い何度も瞬きを繰り返すが、視界は何も変わらない。目の前には深く帽子を被った男が、私と同じように目を見開き驚いている。

青灰色のその透き通った瞳も、帽子から少しはみ出る紅白の髪も、左目元に残る火傷の跡も、全てがあの頃のまま、そこにある。
そう思うと、どくどくと心臓が大きな音を立て始める。

「名前」

形の良い唇が、酷く優しい声色で私の名を口にする。
ヒーロー名ではない下の名前をこうして呼ばれるのは、きっと5年ぶりだろう。
昔と何も変わらない、優しく大切に呼ばれる名前に、胸の中がじわりと熱くなっていく。

焦凍くん、だ。
焦凍くんが、今私の目の前にいる。
そう思うだけで、胸が張り裂けそうに苦しくなる。

5年前のあの日から、こうして目を合わせてくれた事など一度だってなかった。
すっかり赤の他人へと戻ってしまった彼に、再び名前を呼ばれる日などこないとばかり思っていた。

もう2度と彼に愛される事は無いのだと、たくさんの時間をかけて呑み込んだのに。
今目の前にいる彼は、どういうことか、まるで恋人だった頃の様な優しい顔をしていて。一体何が起きているのか、全く理解が追いつかない。

不意に伸びてきた彼の右手が、優しく丁寧に私の左頬をさらう。
まるで壊れ物を扱うかのようなその手つきに、蓋をしていたはずのあの頃の記憶が蘇る。

『名前、好きだ。愛してる。』
『ずっと、こうして一緒にいような。』

そう言って何度も私のことを抱き止めてくれたのは、遠い昔の筈なのに。
それなのに、彼に愛されていた日々は何一つ霞むことなく簡単に思い出せてしまう。

きっと私は、今でも彼を愛しているのだ。

それを意識した途端、今にも溢れかえってしまいそうな彼への気持ちに、ぎゅっと拳を握り締める。
私と彼は、もう5年も前にその関係を終わらせたのだ。それなのに、未だにそんなことを想うなんて、本当にどうかしている。自分でも引くほどの未練がましい思いが込み上げ、思わず呆れ笑いが溢れそうになる。

そんな私の考えなど一つも知らない彼は、私の目尻に溜まった涙をすっと親指で払ってくれる。優しくて丁寧なその手つきは、何もかもがあの頃のままで。心は焦りと戸惑いでいっぱいになる。

どうしてそんな優しい手で私に触れるの。
どうしてそんな優しい目で私を見るの。

私のことなんて、もう何とも思っていないくせに。全部全部、自分から終わらせておいて、今更どうしてそんなことをするの。
まるで大切なものを扱うかのような彼の行動一つ一つに、馬鹿な私は期待で胸を揺らしてしまう。

どくどくと鼓動を打ち付ける、心臓が痛い。
真っ直ぐにこちらを見つめる綺麗な瞳に、今にも吸い込まれてしまいそうで、無闇に目が逸らせなくて。

果てしない時間が流れた気がするけれど、きっと実際はほんの僅かな時間でしかないのだろう。
彼の手はすっとと私の頬から離れていき、そのまま私の肩へと回される。

「…立てるか?」

すぐ側から降ってくる、私を心底心配するような優しい声に、胸が張り裂けそうになる。
彼の手が触れている肩が、じわりと熱を持ち始める。

さっきまでの私は、どうしたって立ち上がれる気がしなかった。
それなのに今、こうして彼に少し肩を支えられただけで、無性に立ち上がりたくなってしまう。

彼の言葉にしっかりと頷き、平気だと笑って見せる。

「大丈夫、立てるよ。ごめんね、手煩わせちゃって…」
「何言ってんだ、これぐらい気にすんな。」

そう言うと、焦凍くんはそっと私の肩を抱き寄せて、そして力強く引き上げてくれる。一瞬にしてふわりと持ち上がっていく身体に、全く身構えていなかった私は少しあたふたしてしまう。

暖かくて安心感のあるその腕は、苦しいほどに懐かしくて。つい身体を預けたくなってしまうけど、今の私にそれは許されてはいない。当たり前だ、彼はもう私の恋人でも何でも無いのだから。
怪我の軽い左足を踏ん張らせ何とか身体を支えると、彼はすぐに私の右腕へと松葉杖を充てがってくれる。

そうして何とか元の姿勢に戻った私は、ほっと安堵のため息を溢す。

「ありがとう、焦凍くん。」
「ああ、こんなのお安い御用だ。それより名前が何ともねぇみたいで安心した。」

そう言ってこちらに微笑みかける焦凍くんに、心臓がどくん、と音を立てる。

心配、してくれたのだろうか。
いや、まさか。きっとそれは、何の意味も持たないお世辞の様な言葉だろう。そう分かっていても、私はまだ彼に心配して貰えるような存在だったのかも知れないと、酷く喜びを感じてしまう。

足元に落ちている私の鞄を拾い上げてくれた焦凍くんは、少し首を傾げながら言葉を続けた。

「…今日、退院日だったのか?」

それはまるで、私が入院していたことを知っていたかのような口振りで。どうしてそれを、と一瞬思ってはみるが、こんな大怪我なのに荷物を抱えた今の自分の姿を思い出し、彼がそう思い至ったのに納得する。

「…うん、もう怪我も殆ど治ったから、家に帰っていいって。」
「そうか、良かったな。荷物もあって大変だろ、タクシー乗り場まで送って行く。」

そう言って、荷物をそのまま自分の肩へと掛けた焦凍くんは、エントランスの方へと身体を向ける。そんな思いもよらない彼の好意に驚いた私は、慌てて彼を引き止める。

「い、いいよ、すぐそこだから…」
「さっきみたいに荷物落ちたら、拾うの大変だろ。」
「でも、そんな…焦凍くんは、ここには何か用事で来たんでしょう…?」
「ああ、でも俺のはもう終わったから、大丈夫だ。」

だから、行こう。と首を傾ける焦凍くんに、これはまずいと内心かなり混乱する。

脚を怪我した人間が家に帰ると言っていれば、それは誰だってタクシーを使って帰ることを想定する。
しかし、私の場合はそうではない。本当に惨めな話、今の私にはタクシーを使って帰れるほどの経済的余裕がないのだ。
ここから家まで徒歩で帰ると、おおよそ2時間ぐらいは要する。松葉杖だと3時間以上は掛かってしまうが、それでも徒歩で帰るほかない。
しかし、そんな恥ずかしい現実など、彼に馬鹿正直に言えるはずもなくて。

「じゃ、じゃあエントランスまでお願いしてもいい?」
「?…タクシーで帰らないのか?」
「う、うん…その、家引っ越したから、歩いて帰れるの…、」

そんな咄嗟の嘘が口からポロリと溢れ出てきて、自分でも少し驚いてしまう。
確かに、焦凍くんもよく通っていたあのマンションには、今はもう住んでいない。それは違えることのない事実だ。きっと引っ越した先が家賃数千円のボロアパートだなんて、彼は想像すらしないだろう。

あははと誤魔化し笑いを浮かべていれば、彼の綺麗な瞳が真っ直ぐに私を射抜く。

「なら、家まで送る。」

そんな言葉がさも当たり前のように放たれて、思わず言葉を詰まらせる。

家まで送るって、そんな、まさか。本気で言っているのだろうか。
彼は私の恋人でもなければ、付き添い人でも何でもない。それどころか、仕事で会っても目すら合わせたくない私のことを、態々家まで送るなんて。どう考えても、普通じゃない。
彼の意図がわからずに、どう答えるべきか一人混乱していると、不意に肩に掛けた私の鞄をぎゅっと握る彼の手が視界に入る。

違う、彼は別に私を家まで送りたいと思っている訳ではない。
ただ怪我をした人を、放っておけないだけなのだ。

そのことに気づけば、これまでの彼の優しい言動が、すとんと胸に落ちていく。
同時に、浮き足立った愚かな心が、ずんと重くなっていく。
本当に、私はなんて馬鹿なのだろう。
あの時、あんなに呆気なく捨てられたというのに、性懲りもせずまた彼に期待を抱くなんて。
こんなんだから、彼に愛想を尽かされるのだ。

ぎゅっと松葉杖を握り締め、精一杯に笑って見せる。

「そんな、悪いよ。…本当にすぐそこだから、気にしないで。」

そんな嘘を重ねる度に、何だか胸の奥が苦しくなる。でも、それ以外に上手い断り方が思い付かない。
それに本当は、私はこうして彼に助けて貰っても良い人間などではない。自分のミスで怪我をして、勝手にこんな身体になったのだ。完全に自業自得で、哀れに思って貰える所など何一つない。

私のことは、もう放っておいて。
そう心の中で何度も呟いていれば、何だか困ったように眉尻を下げた焦凍くんは、悲しそうな表情を浮かべて頷く。

「そうか…分かった。じゃあエントランスまで送る。」

意外にもあっさりと引き下がった彼の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
それと同時に、やっぱり私と居るのは嫌だったのだと、心がすっと冷たくなる。
そんな気持ちを悟られないように、できる限りの笑顔を浮かべて「ありがとう。」とお礼を言えば、焦凍くんは僅かに口角を上げて微笑んでくれた。

エントランスまでの道のりを、2人並んで歩き出す。
松葉杖をつきながら歩く私が焦らないよう、彼は少し遅めに歩幅を合わせてくれる。そういうさり気無く優しいところが、昔からずっと好きだった。
でもきっと、隣を歩くのはこれが最後になるだろう。彼との唯一の繋がりであったヒーローという職を、私はもう手放してしまったのだから。

エントランスの前まで来たところで「ここでいいよ。」と言って焦凍くんを止める。すると彼は自身の肩に掛かる鞄を取り、そして私の肩へと掛け直してくれる。

「じゃあね、焦凍くん。さっきは本当にありがとう。」
「ああ、別にいい。それより気を付けて帰れよ。」
「うん、焦凍くんもね。」

そう言って軽く片手を振れば、焦凍くんも同じように振り返してくれる。何だか5年前に戻った気がするその光景に、途方もない感情が込み上げる。

焦凍くんに背を向け、松葉杖をつきながら一歩一歩前へと進む。背後がやけに気になるけれど、決して振り返るなと自分に強く言い聞かせる。

これ以上、彼と関わってはいけない。
こんな一時的な感情で、私は自分を見失ってはならないのだ。

多額の借金を背負った私と一緒にいれば、いつか迷惑を掛けてしまうかも知れない。そう思い、仲の良かった友人ですら側に置かないようにしてきた。
私はただ死ぬまで必死に働いて、溜まった借金を返すだけ。それは母との時間に縋る為に、自ら招いた結末だ。誰かの憐れみなどを貰える立場ではない。

呑み込め。しんどい事は全部呑み込んでしまえば、何も辛くなくなるのだから。
ぐっと奥歯を噛み締めながら、余計なことは考えないよう必死に自宅への帰路を歩いた。









松葉杖を握る傷だらけの右手が、徐々に悲鳴を上げていく。骨折している指に力が入らず、折れてない指への負担が大きくなっているからだろう。しかし、まだ歩き始めて30分しか経っていない。こんな事では、いつ家に辿り着くのか分かったものではない。
休憩するなら、せめてもう30分歩いてからだ。そう心に決めながら、痛む右手を握り直す。

人通りの多い大通りの歩道を、できる限りの速さで進んでいく。歩く人達の邪魔にならないように、何とかして周りの人と速さを揃える。

そんな中、突然何かにぶつかる様な音と共に、右肩に激しい衝撃を感じる。

右目が見えず、自身の右側で一体何が起きたのかが分からないまま、衝撃によって身体が投げ出されそうになる。
不味い、このままでは受け身が取れない。
そう悟った私は、アスファルトに身を打たれる覚悟をする。

しかし、想像していた鈍い痛みはいつまで経っても訪れない。
不思議に思い、そっと目を開けてみると、そこには見覚えのあるシャツが視界いっぱいに広がって。私の身体を包み込むように、逞しい腕がぎゅっと身体に回されている。

これは一体、どういうことだ。
混乱で頭が真っ白になっていると、頭上からは優しい声が降り注ぐ。

「大丈夫か?」

その聞き覚えのある穏やかな声に恐る恐る顔を上げると、目の前では紅白の前髪がサラリと揺れていて。
まさかと思っていた光景が視界にはっきりと映し出され、思わず唖然としてしまう。

「どうして…」

なんで、一体どうして彼がここに居るのだ。
全く理解できないこの状況に、頭の中がこれでもかと言うほどに混乱する。

そんな私に、彼は何だか申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。

「悪りぃ…やっぱ心配だったから、つけてきた。」

つけてきたって…いやいや、待って。どういうこと。
病院で手を振り合ってから、既に30分は経っているのに。彼は、あれからずっと私の後ろを歩いていたとでも言うのだろうか。心配だったからと言って、赤の他人である私に普通そこまでするだろうか。
そして、それに一つも気付かなかった私は、先日までプロヒーローだと名乗っていたのが恥ずかしい。

さっきからずっと色々な事が起こり過ぎて、何一つとして理解できる気がしない。
最早考えることを諦めた私は、「そっか…」と気の抜けた返事をすることしかできなくて。

そんな彼とのやり取りの最中、右側からは「どこ見て歩いてンだ、ああ?」なんて怒鳴り声が聞こえて来る。声のした方へと左目を向けると、そこには不機嫌そうな大柄の男がこちらを睨んで立っていた。
それを見て、ああ私はこの男とぶつかったのか、と漸く状況を理解する。
明らかに面倒な状況に、一先ず適当に謝ってやり過ごそうと考えていると、不意に私を見詰めていた焦凍くんの視線が男へと向けられる。

「今のは、明らかにお前から当たってきたんだろ。」

先程まで私に掛けてくれていた言葉とは全く違う、凍てつく様な冷たい声が聞こえてきて、思わず私が身を縮こめてしまう。

お、怒っているのだろうか…。
いや、でもどうして彼が怒るのだろうか。目の前の男の苛立ちは、明らかに私へ向いていた筈なのに。
チラリと焦凍くんの顔を盗み見ると、彼は背筋が一瞬にして凍ってしまいそうな冷たい視線で男をじっと睨んでいて。
そんな彼の態度に言葉を失ってしまったのは、どうやら私だけではない様だ。
先程までの威勢はどこへ行ったのやら、私を睨んでいた目の前の男は焦凍くんから顔を逸らし、チッと舌打ちだけを残してその場を去っていった。

そんな男の呆気のない後ろ姿をただ何となく眺めていれば、不意に焦凍くんから問い掛けられる。

「…家まで、まだ掛かるのか?」

先程とは打って変わった優しい声色に、再び焦凍くんに視線を戻す。
そこにはとても心配そうに私を見つめる瞳があって。
すぐそこだと言った私の嘘を信じている彼に、申し訳ない気持ちで一杯になる。

「もうちょっと、歩くかな…、」
「なら、危ねぇからタクシー使え。」
「い、いい、大丈夫だから…っ!」
「大丈夫なんかじゃねぇだろ。」

そう強く言い切った焦凍くんに、何も言い返せなくなってしまう。
きっと彼は私…いや、目の前にいる怪我人の身を案じてくれているのだろう。だけど、私には自分の身を案じるために出せるお金などどこにもなくて。
それを一体どう伝えれば良いのか、必死に考えてはみるが、何一つとして思いつかない。

そうこうしている間に、焦凍くんは利き手を上げて通り掛かったタクシーを捕まえてしまう。
どうしよう、私はそれには乗れないのに。そう戸惑っていると、何やらタクシーの運転手と話を始める焦凍くん。そして話が終わったのか、こちらに戻った焦凍くんは私の松葉杖をぎゅっと掴む。

「松葉杖、こっちに。」
「え、」

渡せという事なのだろうか。
手を松葉杖から離せば、松葉杖に腕を通した焦凍くんは、そのまま私の腰へと手を回す。ひょいと急に持ち上げられた身体に、何が起きているのか訳も分からず戸惑っていれば、彼は私をタクシーの後部座席へと降ろしてくれる。
半ば強制的にタクシーへと詰め込まれ動揺する私に、焦凍くんは松葉杖を差し出しながら言う。

「多分さっきので足りると思うけど、もし足りなかったら俺に請求してもらうよう頼んだから、降りる時は何もしなくていい。」

一体何を、なんて事は聞かなくても分かる。それは私がずっと危惧していたことで、話を聞く限り、どうしてか彼はそれを何の躊躇いもなく自分のお金で解決してしまったらしい。
そんな馬鹿なと焦りなら、慌てて焦凍くんの腕を掴んで引き止める。

「待って、そんなのダメだよ…っ」
「いいから。じゃあまたな、名前。」

そう言って焦凍くんは自らの掌を私の手に添え、そっと上から解いてくる。
そんなの、どう考えたって良いわけがない。私はそのお金を、必死に頑張らなければ返せないのに。

捕まえたこの腕を、決して離すわけにはいかないのに。ここまで酷使し過ぎた掌には、殆ど力が入らない。

パタリと閉まったタクシーの扉越しに、焦凍くんは微笑みながら手を振っていて。
もう全てが手遅れなのだと悟った私は、渋々タクシーの運転手へと住所を伝えた。




ボロアパートの目の前まで到着すると、運転手からはお釣りだと言って2万5千円を渡された。彼に返して欲しいと頼んでみても、それは困ると突き返されて、結局そのお金を受け取ってしまったのだ。

何とかして、お金を彼に返さなければ。
その手立てを必死に考えながら、ボロアパートの階段を松葉杖をつきなぎら上がる。
直接会いに行って、お礼を言って返すのが筋だと思うが、彼はきっと忙しい身で会えるかどうかも分からない。
いや、その前にタクシー代に使ってしまった5千円を、まずは何とかして準備しなければならない。

無意識のうちに、口からはため息が溢れ出る。
不意に脳裏に浮かんでくるのは、あの日私のことを切り捨てた、焦凍くんの冷たい眼差しで。

『もう、終わりにしよう』

彼がそう言ったあの日から、私の人生は何もかもがおかしくなった。
幸福を素直に喜んでいた日々が恐ろしいと思えるほど、深い闇に堕ちてしまった私は、もう2度と皆の元へと這い上がれる日は来ないのだろう。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -