常盤薺にくちづけを


「お皿、こちらで大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう、名前ちゃん。」

泡の付いたスポンジを片手に、彼によく似た美しい女性は優しく微笑みかけてくれる。そのよく見知った笑みが、何だかとても愛おしくて、胸の中がほんのりと熱くなるような感覚がした。

キッチンのすぐ側にある食器棚の扉を開き、同じ大きさの食器の山に新たにお皿を重ねていく。洗いたての綺麗なお皿は、その山のてっぺんでキラリと輝いていて。まるで、また近々使われるであろうその時を心待ちにしているかの様だった。

「今日のお料理、全部とっても美味しかったです。」
「まあ、お口にあったみたいで嬉しいわ。ありがとう。」

再びシンクへと戻れば、洗われるのを待っているお皿が幾つも目に留まる。それに、つい先ほどまで食べていた料理がどれも美味しかったのを思い出す。

あんなにも素敵な料理の感想なのだ、もっと相応しい表現はたくさんあった筈なのに。しかし、口から溢れ出たのは、そんな何でもない普通の言葉だけだった。
そんな私の拙い言葉にも、隣に立つ彼女はまるで花が咲くみたいに、嬉しそうに微笑んでくれる。

ああ、この人は、本当によくできた優しい人だ。
だから焦凍くんは、彼の母ルビのことが大好きなのだと、改めて理解した。

傷一つない綺麗な白い手が、泡だらけのお皿を水で濯いでいく。手慣れた丁寧なその手つきは、どうしてか無性に懐かしい気持ちを胸の中に呼び起こす。すぐ側の水切りラックには、洗い終わった皿が何枚も掛けられていて。手触りの良い布巾を再び手に取って、お皿の水気を拭き取り始めた。

「……そういえば、あの人、今日はずっと煩かったでしょう。ごめんなさいね。」

お皿を拭く手はそのままに、隣に立つ彼女の顔をちらりと盗み見てみる。するとそこには、想像よりもずっと穏やかで柔らかな横顔があった。

あの人とは、きっと炎司さんのことだろう。

確かに、今日はいつもよりほんの少しだけ彼の言葉に熱が籠っているように感じた。ただ、それは、半年ぶりに再会した彼の息子への熱い思いが、漏れ出てしまっているのだと思っていた。しかし、実際はどうやらそうではない様だ。

「あの人ね、名前ちゃんに『おとうさん』って呼ばれるの、とっても嬉しかったみたいよ。」

冬美もお嫁に行っちゃって、今はもうこの家であの人のことそう呼ぶ娘はいないから。
そう続けた冷さんの言葉に、思わず目を見開いた。

確かに今日、この家に来て最初の挨拶をする時に、炎司さんから「お…おとうさんと、そう呼んでくれても構わないのだぞ。」という言葉を頂いた。それが何だかとても嬉しくて、私もつい遠慮なく彼のことを『おとうさん』と呼んでしまっていたのが、まさかそんな風に思われていたなんて。何一つとして、気付きはしなかった。
可笑しそうにくすくすと笑う冷さんの横では、何だか気に食わなさそうにむっとした表情を浮かべる焦凍くんがいて。ああ、こんなにも素晴らしい情景がこれからの日常になるなんて、一体どれほど贅沢なのだろう、と。私はただ、そう胸を熱くすることで精一杯で。父も母ももうこの世に居ない私には、この空間がとても愛おしくて、尊くて、かけがえのないものに思えてならなかったのだ。

「もし名前ちゃんが嫌じゃ無かったら、またあの人のことそう呼んであげてくれないかしら…?」

きっと、今日みたいにとても喜ぶ筈だから、ね。
そう言って穏やかな瞳をこちらに向ける冷さんに、目一杯に首を縦に振って頷いた。

「わ、私でよければ、もちろん喜んで…っ」

胸が張り裂けてしまいそうなほどに、嬉しかった。
何もない空っぽな私が、彼らから貰ってばかりいる厄介な私が、そこに居てもいいのだと、そう言われているような気持ちになった。

焦凍くんの実家である轟家には、それはもう本当に返しきれない程のたくさんの恩がある。それに対して彼らは、偶に夕食を食べに来てくれればそれでいいのだと、優しい言葉を掛けてくれているけれど。そんな事では、到底返せるものではないことを、私は身を持って理解している。
だからこそこれから先、何を、どうやって返していけばいいのかを、ずっとずっと考えていた。
何も持たない空っぽの私に、一体何ができるのかを、ずっとずっと悩んでいた。

でも、この家に来て、彼らと一緒の時間を過ごして、改めて思い知った。
炎司さん達が私に望んでいるものは、そんな難しく考えた末に出た答えなどではなくて。
もっともっと単純で、何も持たない私にも十分返せるような、当たり前のものであったのだ。

「あ、あの…っ!」

どくどくと、心臓が煩いぐらいに鳴っている。
私の声に振り返った美しいグレーの瞳が、ふわりと優しく私のことを包み込んだ。

「もし良ければ、その……冷さんのことも『おかあさん』って呼んでも、いいですか…?」

ぎゅっ、と布巾を握り締める手に力が籠る。
言葉を言い切るのと同時に、本当にこんなことを言ってしまっても良かったのだろうかと、不安が心を揺るがした。
私の言葉を聞いた彼女は、少しだけ驚いた様に目を見開いていて。
やがて、その美しい瞳を優しく細めながら言った。

「ええ、勿論よ。だって私はもう貴女の母親だもの。」

その温かくて穏やかな微笑みに。はっきりと聞こえてくる意志の強い言葉に。涙腺も心もゆるり、ゆるりと解かれてしまいそうになる。

嬉しくて、嬉しくて、堪らなくて。
それなのに、可笑しいぐらいに続く言葉が何も頭に浮かんでこない。
必死に歯を食いしばって、滲む視界をどうにかしようとするけれど。
何をしたって結局どうにもならないことぐらい、自分でもよく分かっていた。

そんな私に、彼女はたじろぐことはなくて。
ただ側にいて、優しく微笑んでくれていた。



「───焦凍はね、あの人に似て少し頑固で強引なところもあるけれど、でも本当に名前ちゃんのことを誰よりも大切に想ってるのよ。」

不意に形の良い唇からゆっくりと語られたのは、彼という存在を奥深くまで理解した言葉だった。何か続きのある筈のその言葉に、身構えるようにごくり、と静かに息を呑む。
すると、そんなつもりでは無かったのだという様に、彼女は少し笑いながら「焦凍ったら名前ちゃんのことになると、急に口数が増えたりするのよ。」と言葉を付け足す。何となく、そんな焦凍くんの姿が目に浮かんできた私は、吊られて一緒に笑ってしまった。

そんな、身構えることをすっかり辞めた私の両手を、洗い物をひと段落させた彼女の両手が優しく包む。冷たいその手は、こんなに細くてか弱いのに、どこか焦凍の右手を思い出させた。

「……だからね、これからもあの子のこと、どうか宜しくお願いね。」

どうかこの先も一緒に生きて、彼のことを幸せにしてあげてほしいのだ、と。そう真っ直ぐに訴えかける彼女の瞳には、僅かに後悔の色が垣間見えた。

彼は、随分と長い間、母と会えない時間を過ごしたのだと言っていた。全てを乗り越えた今、その空白を埋めるように、彼は彼女との時間を大切に過ごしているけれど。
過去は、消える訳ではないのだ。あの頃ああしていたら、なんて後悔が襲ってくるのは、ごく当たり前のことで。

彼女はきっと、彼を幸せにできなかった過去を今でもとても悔いていて。
だからこそ、これから先誰よりも幸せになって欲しいと思っているのだと、切ないほどに理解する。

そんな重要な大役を、彼女は当たり前のように私へと授けてくれる。
まるで、彼を幸せにできるのは私だけだと言うかのような、一才の曇りのない眼差しに、とても信頼されていることを実感する。

私が彼女と過ごした時間なんて、ほんの僅かに過ぎないのに。こんなにもあっさり心を許して貰えているのはきっと、焦凍くんが私のことを家族にとても丁寧に伝えてくれているからだろう。

気を緩めれば、また涙が溢れてしまいそうで。
ぎゅっと唇を結びながら、彼女の言葉に何度も何度も頷いて返事をした。


すると、その最中にキッチンの扉が開く音がして、無意識に視線が音の方へと逸れてしまう。そこには、食器が乗ったお盆を片手に扉を開く焦凍くんの姿があった。

「お母さん、皿はこれで最後だ………おっ、名前?」

突然の彼の登場に少し唖然としていると、こちらを見た焦凍くんとパチリと視線が合ってしまう。
目元に涙を溜める私に、一瞬ぎょっとした表情を浮かべた焦凍くんは、慌ててこちらに近寄ってくれる。だけど、きっとそれが悲しみによる涙ではないことを、直ぐに理解したのだろう。お盆を調理台に置いた焦凍くんは、そのまま優しく微笑んで、そっと頭を撫でてくれた。

「身体、辛くねぇか?ココア淹れるから、ここに座っててくれ。」

そう言って、すぐ側にあるテーブルの椅子を引いた彼は、そのまま私をそこへと座らせる。身体は全然平気で、まだ私もお手伝いがしたいのだという視線を向けるが、彼には届いてない様だ。
「お母さんも、これは俺が洗うから名前と一緒に座っててくれ。」と言って、私の隣の椅子を引く焦凍くんに、何だか外堀を埋められている気がした。
俺の淹れるココアをいつも名前が褒めてくれんだ、と楽しそうに言い張る彼は、こうして見ると何だかとても末っ子で、愛らしくて。
張り切ってお湯を沸かす彼の後ろ姿を見つめながら、冷さんと二人顔を見合わせ、笑い合った。










ふう、と深く息を吐けば、幸せが身体中を巡るようなほんわかとした気持ちになった。

彼の実家は、何度来ても見慣れることのない大豪邸だった。
久々にお借りしたお風呂場も、その前にある脱衣所ですら、それはそれは広くて立派で。流石、No. 1ヒーローのご自宅だと呆気に取られながらも、CMで見たことのある高価なドライヤーで髪を乾かし、広い廊下を歩きながら彼の部屋への順路を辿った。

手すりに手をつきながら、階段を一段一段登っていく。今日はいつもより右足の調子が良いから、難なく登りきれそうだ。
そんなことを考えていると、突然スパッと襖の開く音が2階の方から聞こえてきて、思わずびくりと肩が震わせる。慌てる様な足音がこちらに向かって来る様子に、道を開けなければと階段の片側に身を寄せた。

しかし、階段の上から降ってきたのは慌てた誰かの姿ではなくて。
「名前、」と私を呼ぶ、聞き慣れた低い声だった。

「階段は一人じゃ危ねぇから、風呂上がったら呼んでくれって言っただろ…っ、」
「あっ…焦凍くん……ご、ごめんなさい。その、でも大丈夫だよ、これくらい一人でも……」
「名前は大丈夫でも、俺が全然大丈夫じゃねぇんだ。」

そう言って私の側まで駆け降りてきた焦凍くんは、ぎゅっと力一杯に私の身体を抱き締めた。まるで心の底から安堵するような吐息が聞こえてくれば、彼がいかに私を心配してくれていたのかが伝わってきて。平気だと意気込んで彼の好意を無碍にしようとしていた自分に、少しの後悔が渦巻いた。

その後は、彼に身体を横抱きにされながら2階にある彼の部屋まで一緒に向かった。途中の廊下で降ろしてなんて言える雰囲気ではなかったから、部屋に着くまではずっと彼にしがみついたままだった。それに胸の不安が拭えたのか、部屋に着く頃には、彼の心配そうな曇り顔はすっかりさっぱり晴れていた。



「焦凍くんのお部屋だ…。」

一方足を踏み入れたそこは、何だかとても懐かしい彼の匂いがした。
ここに最後に来たのは、もう随分と前になる。まだ雄英に通っていた頃の、卒業後の春休みに来たのが恐らく最後の記憶だろう。
京間の畳が敷き詰められたこの部屋は、彼にとっては良くも悪くもたくさんの思い出が詰まった場所であって。まだ私達が出会う前の、私の知らない彼に触れているような気持ちになって、胸がじんと熱くなった。

「確かに名前が来るの、すげぇ久々だな。」

そう懐かしそうに微笑みながら、彼は既に敷かれた布団の上に私をそっと降ろしてくれた。

その後は、彼が風呂に入っている間、明日の支度をしたりして時間を潰した。明日から、今回お世話になった皆んなに、アメリカから持ち帰ったお土産を配り回る予定だった。

荷物を解き、沢山詰まったお土産を一つ一つ仕分けていく。あの人にはこれがいい、と色々悩みながら二人で選んだお土産は、今見ても無性に心を躍らせる。明日、これを渡したときの皆んなの顔が早く見たくて、何だか胸がうずうずしてしまう。

そうしてお土産の仕分けが終わった頃に、風呂上がりの焦凍くんが部屋へと戻ってきた。彼は目の前に並んだお土産に少し目を丸めながら、大変だっただろ、と私の肩を優しく抱いた。

それから、二人で同じ布団に入って、くっつきながら他愛も無い話をした。さっき食べた冷さんの料理が美味しかったこと、私がキッチンで泣いていた理由、お風呂場がやっぱり大きかったこと。
温かい彼の体温に包まれながら何でもない話をするこの時間は、特別に心地が良くて楽しくて。
だからだろうか、身体はきっと長旅で疲れている筈なのに、不思議とこれっぽっちも眠気を感じることはなかった。

「……明日は午前中にジーニストのところに行って、午後に雄英、そして夜はA組で食事会か。」
「うん、明日は忙しくなりそうだね。」
「ああ、でも無茶はダメだぞ。少しでも身体辛ぇって思ったら、遠慮なく言ってくれ。」
「うん……でも多分、大丈夫だよ…!」

不安そうに眉を下げてこちらを覗く青灰色の瞳に、何だか無性に申し訳なさが胸の中に渦巻いていく。
彼は、いつも私をたくさん心配してくれる。でも、本当にいつだって私の身体は大丈夫で、心配には及ばなくて。それをどうにか伝えたくて、できる限りの笑顔を浮かべて「私の身体、ここ数年で一番元気だから。」と、言葉通りに振る舞うけれど。
彼の顔は、益々曇る一方で。

「名前」

静かに、落ち着いた声色が、私の名前をそっと呼んだ。
それはまるで、そんな風に振る舞うなと、これ以上何も自分を偽るなと、そう言い聞かされている様で。
あっ…、と彼に何度も口酸っぱく言われている言葉が、頭の中を過っていく。

「うん、大丈夫だよ、もう無茶はしない……これからもずっと、焦凍くんと一緒に居たいから。」

そう、私はここ何年もの間、ずっと痛みに目を瞑りながら、一人で必死に生きてきた。その癖が、未だに抜け切ってはいないのだ。
何かあったとき、彼に頼らなければ事態が悪化することぐらい、頭では分かりきっていた。しかし、分かっていても、誰かに頼ることはとても勇気のいることで、何だか気が引けてしまうのだ。
そんな私の悪癖と、彼はいつも根気強く戦い続けてくれている。いつか人に頼ることが当たり前に思える様にと、優しく諭し続けてくれるのだ。

真っ直ぐにこちらを向く不安に揺れるその瞳に、目一杯に微笑みかける。本当は、貴方に甘えながら生きていたい。そんな想いを胸の中に抱いていると、彼の頬が柔らかく緩んでいった。

「ああ、そうしてくれ。」

そう言って、彼はそっと私の髪に指を通し、優しく額に唇を付る。
まるで大切で、大切で、仕方がないのだと言うかのような柔らかい手つきに、胸がじんわりと熱くなった。



ゆるりと流れていた筈の時間は、気付けばあっという間に過ぎていて。「電気、消すぞ。」という声にこくりと小さく頷けば、彼は枕元にあったランプに手を伸ばしてカチッと電源をOFFにした。

真っ暗になった部屋の中、再び伸びてきた彼の腕にぎゅっと抱きしめられる。お日様の匂いのする布団に、嗅ぎ慣れないシャンプーの良い香りが鼻をくすぐる。
温かい彼の腕の中にいる時は、いつだって幸せで、胸がどきどきと高鳴る。アメリカで最後に二人で旅行をした時からずっと、こうして毎日彼の腕の中で眠っていた。

そう、もう何日もこうして二人で眠っているのに、彼は私を抱き締めて、軽く触れるだけのキスを送ってくれるだけで。

それ以上を、決して求めては来なかった。

とは言え、今日は婚姻届も提出して、改めて夫婦という関係にもなったのだ。少しぐらい、期待の気持ちも湧き上がる。

肌から伝わる温かい温度も、額に掛かる彼の吐息も、全部全部が私の身体を焦がすのに。
しかし彼は、今日も変わらず私に手を出す気配はなくて。

昨日までは、退院したての身体を気遣ってくれているのだと、自分に言い聞かせられたのに。でも、こうして日本に帰って来てからも同じ態度を取る彼に、段々と不安が胸に渦巻いていく。

遠い昔、別れる前の彼は、私をたくさん求めてくれていた。
しかし、隔たった5年の月日は、きっと長過ぎたのかもしれない。彼の気持ちが変わるには、それは十分な時間だと思う。それに、私の身体も今では目も当てられない程に変わり切ってしまっていて。到底、彼に魅力を感じて貰えるようなものではない。

彼はもう、私に触れたいとは思わなくなってしまったのだろうか。
そしてこれから先もずっと、こうして交わることのない日々を過ごすのだろうか。

彼が側に居るだけで私はこの上なく幸せで、それ以上を求めるのは烏滸がましいことだと分かっている。分かっていても、寂しい気持ちがどうしても心を酷く掌握する。
触れられたところで、きっと残念に思われるだけなのだろうけれど。それでも触れて欲しくて、触れたい気持ちが胸を揺すぶり、眠気を拒む。

変なことは、もう何も考えるな。私は今幸せなのだから。
そうやって渦巻く気持ちを紛らわすように、彼の胸にぐりぐりと頬を押し付ける。
すると、どういうことか彼は少しだけ私を抱きしめる腕を緩めていく。

「名前……その、悪りぃ……今日はちょっとだけ離れて寝てもいいか?」

暗闇から聞こえたのは、申し訳なさそうな彼の声で。
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
直ぐに彼から頬を離し、そしてひっついていた身体も慌てて離した。

「あっ…ご、ごめんなさい…っ!寝苦しかったよね……」
「いや、違ぇ、そうじゃないんだ……。」

ゆっくりと退いていく彼の腕に、遂に彼の体温全てが私の身体から消えてしまう。
頭を駆け巡るどうしようもない不安に、布団の端をぎゅっと握ってその場を凌ぐけれど。身体に触れられるどころか、抱きしめて寝ることすら拒まれてしまった私の心は、動揺を隠せなくて。

やはり、あまり触れられたくは無かったのだろうか。
もしかしたら気持ちが悪いと、不快に思われてしまったかもしれない、と頭が真っ白になっていく。

彼は今でも私のことを好きだと言ってくれた。
私も、同じ気持ちでいた。
しかし、彼の好意は本当は、昔と全く同じままではなかったのだ。

酷い困惑や緊張感が、脳をぐらぐらと揺さぶり続ける。どうしよう、どうしよう、と焦る心にもう後などなくて。
それに追い打ちをかけるように、彼は隣で静かに布団から立ち上がった。

「……悪りぃ。トイレ行ってくるから、先寝ててくれ。」

そんな一言だけを言い残し、襖を開けて部屋を去ってしまう彼の背中に、胸に大きな穴が空いたみたいな気持ちになった。

先に寝ててくれだなんて。
ただの一回、ほんの少し頬を寄せてしまっただけで、こんなことになるなんて、一体誰が想像できたというのだろう。
ばさりと被った布団からは、焦凍くんの匂いがする。こんな布団で、ぐっすりと寝られる筈がなくて。
ぎゅっと瞑った瞼からは、涙がこぼれ落ちてしまう。

彼が側に居るだけで、幸せなのに。
一体いつから私は、こんなにも欲張りな人間になってしまったのだろうか。

全然温かくない布団の中が、こんなにも寝心地の悪い場所だったなんて。知らなかった。忘れていた。本当はこれが当たり前のはずなのに。


それから暫く時間が経ったが、彼は中々帰ってこなかった。その間、私に眠気が訪れることもなかった。
そして、もう彼は今晩この部屋に帰って来ないかもしれないと疑い始めた丁度その頃に、ゆっくりと静かに襖の開く音がした。

ああ、彼が再びこの部屋に帰ってきた。
畳を踏む足音と、そして静かに襖が閉まる音が聞こえてくると、心臓がどくどくと大きな音を鳴らした。

畳を歩く足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
まるで時間が止まったみたいに、その音だけを息を潜めながら聴いていた。

「名前」

直ぐ枕元で止んだ足音の代わりに、小さな小さな低い声が、私の名前をそっと呼んだ。
それに、私は狸寝入りをした。拒絶されることが不安で、怖くて怖くて堪らなかったからだ。

すると、その直ぐ後に、とても長い溜息が聞こえてきて、胸がどきりと跳ね上がった。
その苦痛な溜息が、私に向けられたのだと思うと、身体が震え出しそうだった。

布団の中でぎゅっと身を縮こめて、ただひたすらに彼の怒りが通り過ぎるのを待つけれど。

布団の直ぐ隣に入ってきた彼は、どういうことか私の腰へと腕を回し、そして背後からぎゅっと身体を抱きしめた。

「くそ……全然おさまんね…ッ」

熱い息と共に耳元へと吐き出されたのは、そんな苦しげ気な言葉で。
ぐっとお尻を押す硬いものに、どくどくと心臓が音を鳴らす。

これは一体どういうことか。
突然のことに、頭が真っ白になっていく。

"全然おさまらない"というのは、一体何のことだ、なんて。
そんなことを真面目に思えるほど、私は無垢な少女ではない。

何も状況が分からないまま、苦しそうに息を吐く彼にそっと静かに問いかけてみる。

「し、したいの……?」

本当は、彼も同じなのかもしれない。
突然の熱っぽい彼の様子に、ついそんな考えが頭の中を過ぎる。

すると、すっかり寝入っていた筈の私の声に、ぴくりと身体を震わした彼は、そっと私の身体を離した。

「名前…っ!?…悪りぃ、起こしちまったか?」
「……うんん、ずっと起きてたの。」

寝たふりをしていて、ごめんなさい。
彼の方へと身体を向かせ、そして小さな声で謝罪をする。そんな私を、彼が怒ることはなくて。ただ、「そうか。」とだけ口にして、伸ばしてきた大きな手でそっと私の頬を撫でた。

「したいのっていうのは、その……」
「あっ、えっと……やっぱり違う、よね……ごめんなさい……あの、でも、もし抱くのが嫌とかなら、口でも、頑張れると、思う……」
「!…いや、待て。そうじゃねぇ!」

ああ、私は何でことを言ったのだ。私と抱き締め合って寝ることすら、彼にとっては耐え難い苦痛なのに。したいなんて、そんなことを思う筈がない。
つい先ほどの彼の拒絶を思い出し、一人俯いていると、私の手をぎゅっと掴んだ彼は、少しだけ声を荒げて言った。

「全然、全くこれっぽっちも嫌だなんて思ってねぇ…!それに、口でって……そんなこと、名前はしなくてもいいんだ…。」

はっきりとした口調で紡がれたその言葉に、思わず目を見開き固まってしまう。
彼は、私を一つも嫌だとは思っていなかったのだ。それはとんでも無く嬉しいことなこに、素直に喜べない自分がいて。
それならどうして彼はさっき私を拒んだのか。どうして今まで触れてくれなかったのか。
まだ不安の残る私の様子に、彼は少し困ったような声色で言葉を足した。

「悪りぃ……その、名前は病み上がりだから、日本に戻ってちゃんと落ち着いてからしようと思ってただけなんだ…。」

それなのに、何かすげぇ情けねぇよな。
そう眉を下げて寂しそうに笑う焦凍くんに、ふるふると首を振る。

「そんなこと、ないよ。色々考えてくれてたの、すごく嬉しいし……その…私の身体、触れたくない訳じゃ無くて、本当に良かった……。」
「!っ、そんなの当たり前だろ、寧ろ触れた過ぎで毎日本当に大変なくらいだ。」

今だって、抜いてきたのに全然収まんねぇ。
そう苦し気に呟く焦凍くんに、ぶわっと頬が熱くなる。

彼は、本当はこんなにも私を求めてくれていたなんて。
何一つとして知らなかった。
知らずに、一人で不安になって、彼のことを疑って。私は何てくだらないことを考えていたのだろうと、自分を責めたくなってしまう。

彼は私のことを気遣って、ずっと待ってくれていたのだ。
その優しさに、胸がどうしようもない程にいっぱいになっていく。

「私、その……あれから誰ともしてなくて、多分とても面倒くさいと思う、けど……それでも良いなら、今晩焦凍くんに抱いて欲しい。」

どくん、と波打つ心臓が、煩くて堪らない。
それでも、彼にそれを伝えたくて、必死に言葉を紡いでいく。
こうして彼の思いを知れた今、何も怖いものはない。不安も、嫌な憶測も、全部が無意味なものであると、彼が教えてくれたのだから。

「本当か、それ……?」

そんな静かな問いかけが、彼の口から溢れでる。
それが何に対してなのかは分からないが、事実でないことなど一つも口にしていない私は、ただしっかりと頷くだけで。

「そうか……面倒くさいなんて、そんなの思う訳ねぇだろ。寧ろ、すげぇ嬉しくて、どうにかなっちまいそうだ。」

そう言って、彼は昂る気持ちのままに私の身体を抱き寄せる。ぎゅっと抱きしめられるその心地よさに、心が満たされていくのを感じる。

「俺も、名前のこと今晩抱きてぇ。
……でも、本当にいいのか?」

その問いかけは、もはや愚問だった。
それでも最後の最後まで、私のことを気遣ってくれる彼の優しさが、胸の奥を熱くさせる。

ぎゅっと彼の身体を抱き締め返し、そしてしっかりと首を縦に振った。
すると、ゆっくりと彼の唇が私の額に付けられる。

「絶対ぇ無茶はさせねぇし、優しくする。……でも、もし少しでも辛いと思ったら、直ぐに俺に言ってくれ。」

そんな優しい声に抱かれれば、嬉しさを感じずにはいられなくて。
分かったと、小さく頷きながらも、口元が緩んでしまう。

「名前、愛してる。
俺と結婚してくれて、ありがとう。」

そんな言葉と共に重ねられた唇は、とても優しくて、熱くて、愛おしくて。
自然と伸びた彼の手がそっと肌に触れる感覚が嬉しくて、いつの間にかはらはらと雫が頬を滑り落ちていた。




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