#14 帰趨


柔らかくて心地の良い風が頬を撫でる。
太陽の匂いに混じた僅かな草木の香りが、緑のまぶしい季節であることをこっそりと教えてくれる。

重い瞼をゆっくりと開いていけば、真っ暗で何もなかったそこに、ぼんやりとした白色が映り込む。中々定まらない焦点に目を軽く擦ってみると、その白色は徐々にはっきりとした輪郭を縁取っていく。
白色の天井に、白色の壁、そしてすぐ側でひらひらと舞う白いカーテンの隙間からは、午後の日差しが差し込んでいて。眩しいその光を目を細めながら眺めていると、段々と頭が覚醒していく。

どうやら私は、いつの間にか寝落ちてしまっていたみたいだ。
それに気付き、身を捩りながら上半身をベッドから起こす。誰もいない部屋の中を見渡せば、その静けさに少しだけ寂しい気持ちになってしまう。

彼はもう、行ってしまったのだろうか。
一人この部屋を去っていく彼の姿を想像すると、視線が手元に落ちてしまう。せめて一声だけでも掛けられたなら、なんてことを考えていると、不意に窓とは反対の方から扉の開く音が聞こえてきた。

ガラガラとレールに沿って滑っていくドアの音に、誘われるように視線を上げる。
すると、そこには白いビニール袋を片手に持った紅白の髪の男が、少し驚いたような顔で立っていた。

「お……起きたんだな。おはよう、名前。」

そう言って部屋の中へと入ってくる彼は、柔らかい笑みを浮かべていて。ここから去ってしまったのだとばかり思っていた彼の姿に、心臓がほんの少しだけ跳ね上がった。

「おはよう、焦凍くん。」

今は朝ではないけれど。昼寝から目覚めたばかりの私に向けられたその挨拶に、何の迷いもなく返事を返す。
彼は嬉しそうに微笑んで、いつものようにベッドのすぐ脇にある丸椅子へと腰掛ける。白色のどこか寂しさで溢れていた空間が、彼の存在一つで瞬く間に色付いていくような、そんな気がした。

「私、どれぐらい寝てたのかな…?」
「ん…そうだな、だいたい1時間ぐらいだ。」
「そんなに寝ちゃったんだ…ごめんね……。」

スマホの時間を見つめながら答える彼に、やってしまったと小さく謝罪の言葉を告げる。
すると彼は手に持っていたスマホを側の棚に置き、そのままその手を私の頬へと伸ばした。

「別に謝るようなことじゃない。薬が効いてる間は眠くなるって、先生も言ってただろ?」
「そうだけど……でも、焦凍くんがせっかく来てくれてるのに…。」
「いいんだ。寝てても起きてても、名前の側にいられるだけで俺は十分だから。」

彼の親指が、優しく私の目尻を撫でる。
愛おしそうに、大切に私に触れるその手に、堪らない気持ちが胸の中に込み上げてくる。

「……それに、名前の寝顔が見れて俺は幸せだったぞ。」

ふっと満足そうに目を細めるその表情は、私が寝ている間、彼がいかに有意義な時間を過ごしていたかを示すようで。
絶対にだらしない寝顔だった筈なのにと考えれば、羞恥心が頬を僅かに熱くした。

「ず、ずっと見てたの…?」
「ああ。すげぇ可愛かったから、写真も撮った。見るか?」

そう言って、スマホを片手にさも当たり前かのように首を傾げる彼に、思わず変な声が出てしまう。
慌ててスマホの画面を手で覆って「み、見ないよ…っ」と彼に抗議すれば、代わりにくつくつと喉を鳴らした笑い声が返ってくる。
そんな何だかとても楽しそうな彼の様子に、まあ別に何でもいいかと思えてしまうのは、彼のことが大好きな私の弱みなのだろう。

そんな何でもない会話が途切れれば、彼は何かを思い出したように「そう言えば……」と口にする。そして、片手に持っていた買い物袋をサイドテーブルに静かに乗せた。目の前に置かれた袋には、病院内にあるコンビニのロゴが入っていて。薄らと透けて見える中のものに、ドキドキと期待が膨らんでいく。

「名前、見てくれ。今日もすごそうなやつ沢山見つけてきたんだ。」

そう言って、彼は嬉々とした表情で袋の中から次々と色んなものを取り出していく。
カラフルな色をしたグミ、変なオモチャのついたクッキー、絵本に出てきそうな大きなキャンディ、そしてビビッド色の怪しいジュース……。
目の前に並べられたそのどれもが、日本ではあまりお目に掛かれない代物ばかりで、不思議と興味を掻き立てられる。何かよく分からなさそうに、でも自慢気にお菓子を取り出す焦凍くんが楽しくて、面白くて、緩んだ頬を戻すことをすっかり忘れていた。

この病院に来てからずっと、私には食事制限が課せられていて自由に何かを食べることができなかった。しかし、つい先日、経過が良好な私の状態を診た担当医から、その制限を緩和するお許しが出たのだ。それが嬉しくて喜んでいれば、その次の日から彼はこうしてお菓子を買ってきてくれるようになった。
それはきっと、寝たきりの私が退屈しないようにとか、アメリカにいるのにどこにも行けない私のことを気に病んでとか、とにかく色んな彼の優しさが込められているのだろう。
だから私は、彼の主催するただお菓子を食べるだけのこの時間が、いつも胸が熱くなるほどに嬉しかった。

これは何味だろうな…と虹色のグミを見つめながら真剣に悩む焦凍くんと、色んな意見を交換する。そして、お互いに考察が十分に深まったところで包装袋を開け、2人で同時にグミを食べて答え合わせをする。口に広がる思いもしない味にギョッとした顔を見合わせれば、何だかおかしくなって笑い合う。
意外と酸っぱかったな、と楽しそうに焦凍くんに、何だか胸がいっぱいになった。

「お……そういや写真撮るの、忘れてたな。」

今日のも緑谷に送らねぇと…、そう言いながらお菓子の写真を一つ一つ撮る焦凍くん。
そんな最中、枕元に転がっている私のスマホが震え出した。

一体誰からだろうか…そう思いながらスマホを手に取り画面を見ると、そこには大切な親友の名前が表示されていて。
どうしよう、と開封されたお菓子の袋を見つめていると、それに気付いた焦凍くんは「こっちは気にするな」と言うように優しく目を細めて、こくりと頷いた。
そんな彼の好意に甘えて、電話ボタンをタップする。すると、画面は途端にカメラモードへと切り替わる。

『あ!もしもし、名前ちゃん?』

画面越しには、こちらに手を振るお茶子ちゃんの姿が映っていて。突然始まったビデオコールに、少しだけ慌ててしまう。
にこりと愛らしい微笑みを浮かべる彼女は、いつもの寝巻き姿をしていて。締まりのない緩い格好をした彼女に、自然と心が癒やされていく感覚を覚える。

『えへへ、昨日ぶりだったけど、何かもう名前ちゃんの声聞きたくなって、思わず電話しちゃった。』

そう言って嬉しそうに笑うお茶子ちゃんに、じわりと胸が熱くなる。確かに、昨日もこの時間に電話をした。別に用事なんて無かったけど、何となく声が聞きたいと思って電話をした。
彼女と電話をした後は、いつも雲の上にいるみたいにふわふわとした気持ちになる。楽しくて、嬉しくて、心がいっぱいに満たされたような、そんな気持ちになるのだ。だから、昔もよくお茶子ちゃんと電話していた。
また昔みたいに彼女から電話を貰えるようになって、私がどれだけ浮かれているのかなんて、きっと彼女は知りもしないだろう。
「私も、お茶子ちゃんの声が聞きたかったよ。」と素直な気持ちを返せば、彼女は嬉しそうに「やっぱりかぁ〜!相思相愛やね!」と戯けて見せた。

『体調はどう?』
「うん、すごく良いよ。今日はね、初めて朝食に和食が出てきてね−−−」

それはそれは、もう堪らなく嬉しかったのだという気持ちを、心に思いつくままに彼女に伝えた。
ずっと塞ぎ込んでいたあの5年間は、元々口下手だった私から更に言葉を取り上げた。使わない言葉は、中々口から出てこない。だから最初は思うように気持ちを言葉にできなくて、何度も諦めそうになった。
だけど、焦凍くんもお茶子ちゃんも、私が言葉を見つけるのをいつも優しく待ってくれた。こう思ったのか?と、ぴったりな言葉を一緒に見つけてくれた。だから、私は誰かと話をすることに、少しずつ緊張しなくなっていった。
もっと沢山話がしたいと、前向きに思えるようになったのだ。

お茶子ちゃんと他愛も無い会話をしていると、不意にスマホの充電が残り少ないことに気付く。ハッとなってベッドの上をきょろきょろと見渡していると、その様子に気付いた焦凍くんが隣でグミを頬張りながら呟いた。

「充電器か、ちょっと待ってろ。」

そう言って、焦凍くんは枕元に隠れていた充電ケーブルの先を私のスマホまで伸ばしてきてくれる。大きな手が私の手の上からスマホを握ると、ケーブルの先端を穴へと差し込んだ。すると、それと同時にお茶子ちゃんが何かに気付いたように呟いた。

『その声は、轟くんやね。』

不意に名前を口にされた彼は、「お、」と間の抜けた声を溢す。その声に確信したように『やっぱり』と口にするお茶子ちゃんに、スマホを彼の方へと向けた。

「昨日ぶりだな、麗日。」
『せやね、轟くんも元気そうで何より。』

軽く挨拶を交わす2人に頬を緩めていると、不意に私のスマホを手に取った焦凍くんは、そのままベッドへと腰掛けて、私の腰を片手で抱く。こうすれば名前も映る、なんて言いながらぎゅっと引っ付く彼の身体にドキドキしていれば、画面越しに私たちを見たお茶子ちゃんは「もう、2人ともお熱いんやからぁ…」と冗談気に口にした。

『…そう言えば今日のチームアップでデクくんが言ってたよ、轟くんが1番アメリカを満喫しとるって。』
「俺がか…?」
『うん、なんか最近アメリカっぽい変なお菓子の写真が沢山送られて来るんだって。轟くんがファットガムみたいになってたらどうしようって、心配しとったよ。』

緑谷くんの物真似を挟みながらそんな話をするお茶子ちゃんに、思わず焦凍くんの顔を見上げる。
確かにこのカラフルで甘いお菓子たちのカロリーは、きっと日本のお菓子の比にならないぐらい高いだろう。それを、普段はお菓子なんて滅多に食べない彼がこうして食べ漁っているのだ。ここで寝たきりの私が太るのは当然のことだが、もしかしたら彼も太り始めているのでは…と、頬や首元、お腹の辺りをまじまじと見つめてる。しかし、その容姿はここに来る前と何一つとして変わらない。
神様はきっと完璧な彼をそんなに簡単に太らせはしないのだと、何だか世の中の不平等を思い知った気持ちになった。

「そうか、何か心配かけちまってたんだな……やっぱ緑谷ともちゃんとビデオ通話した方がいいな。」
「?そういう問題なのかな…?」

真剣に顎に手を当て悩む彼に、思わず横から口を挟んでしまう。
まだファットガムみたいにはなってないぞ、と律儀にビデオ通話で緑谷くんに連絡をする彼の姿を想像すると、何だか可笑しくなって笑いが込み上げてくる。そんな私と同じことを思ったのか、電話越しからはお茶子ちゃんの笑い声がきこてきて。何が起こったのか分からずに首を傾げる焦凍くんに、お茶子ちゃんは『デクくん絶対に『へ…!?』ってなるよ。』と言って呆然とする緑谷くんの真似をしてみせた。

そんな会話が弾む中、ふと何かを思い出したかのように『あっ、そうだ…!』と声を上げるお茶子ちゃん。ごぞごぞと画面の外で何かを取り出すような動作をする彼女のことを、頭にハテナを浮かべて見つめる。

すると、程なくして顔を上げたお茶子ちゃんは、頬を緩めながら嬉しそうに効果音を口遊んだ。

『じゃん…っ!名前ちゃん、見てよこれ…!』
『?…わぁ、綺麗なピアスだね…!』
『でしょ!……これね、偶々見つけたんだけど、凄い可愛かったから名前ちゃんとお揃いで買っちゃった…!日本に戻ってきたら、これ付けて一緒にお出かけしようね!』

キラキラと光る石のついた可愛いピアスを画面に近付けながら、そんな胸が弾むような提案を彼女は嬉々として口にした。
これをつけて、お茶子ちゃんと2人でお出かけするなんて。少し想像しただけでも、それは楽しくて仕方がなくて。しかし同時に、途方も無い申し訳なさが心の中をいっぱいにする。

「でも、そんな…本当に貰ってもいいの……?」
『うんうん!もちろんだよ!』

だから、早く病気を治して日本に戻ってきてね。
それは、さっきまでの弾むような楽しい声とは違って、特別優しく彼女の口から紡がれる。その言葉は、決して病気の完治を急かすようなものではなくて。ただ純粋に、私の帰りを心待ちにしてくれているのだと伝わってきて、じわりと目頭が熱くなる。

「うん…戻る前に、お茶子ちゃんに沢山お土産買わないとだね。」

気を緩めれば、すぐに涙が溢れ出てしまいそうで。嬉しくて堪らないこの気持ちを、目一杯の笑顔に乗せて誤魔化した。
最近はずっと、こんな感じだ。優しいことや温かい言葉を貰うだけで、すぐに胸がいっぱいになって涙腺が緩んでしまう。きっと、ずっと長い間、他人の優しさを避け続けてきたから、こんな変な感情の感じ方になってしまったのだろう。
そんな私に、焦凍くんはいつもありのままで良いのだと言ってくれるけれど。あまり泣いてばかりいると、お茶子ちゃんも困ってしまうから。

その後も嬉しい気持ちを目一杯の笑み変えて、他愛も無い会話を沢山交わした。楽しくて、夢中になって話していると、時間はあっと言う間に過ぎていく。明日もウラビティとして頑張るお茶子ちゃんをこれ以上拘束してはいけないと、会話が途切れたタイミングでお休みを告げた。

電話を切り、ふわふわとした余韻に浸りながら、再び目の前のお菓子と向き合うけれど。もうすぐ夕食の時間だということに気付けば、お菓子に伸びる手が止まる。
そんな私に彼は「続きは明日にしよう」と提案してくれるから。また明日の楽しみができたことに喜びながら、彼と一緒に残ったお菓子をコンビニの袋に詰め戻した。

その後も取り留めのない話を彼と続けていると、気が付けば面会時間が終わりを迎えようとしていて。スマホの時間を見た焦凍くんは、ボソリと一言呟いた。

「お……そろそろアルバイトの時間だ。」
「!本当だね、もうそんな時間なんだ…」

丸椅子から立ち上がり、壁に吊るしてあった薄手のジャケットを身に纏う焦凍くんは、何だかとても寂しそうな顔をしていて。そんな顔をされたら、彼のことを引き留めたくなってしまう。しかし、私はそんな我儘を言える立場では無いし、そもそも彼にアルバイトをするよう勧めたのは私なのだ。笑顔で送り出すのが当然で。
ぎゅっと私の身体を抱きしめる彼の背中に手を回し、「今日も頑張って来てね。」と言って彼のことを応援した。

オールマイトの紹介を受け、彼は今アメリカでも名の通ったヒーローの元でサイドキックのアルバイトをしている。
私が入院している間、元々焦凍くんはずっと付きっきりで私の側にいるつもりだったそうだが、それでは身体も鈍るし、時間を弄んで仕方がない筈だからと、オールマイトに相談して彼にアメリカでヒーロー活動をすることを提案した。最初は難色を示していた焦凍くんも、お互いにアメリカに行く目的があった方が気持ちが楽だとお願いする私に、最後は渋々頷いてくれた。

そうして病院の面会時間を外した時間でヒーロー活動をするようになった日本人ヒーロー・ショートだが、今では地元の新聞に名前が載らない日は無いぐらい、すっかり有名になっていて。そのニュースは日本にも届いているらしく、ショートが突然マンハッタンの街に現れてからは、彼のファンと思われる日本人観光客がずっと増え続けているのだと、この間メディアが報じていた。

そんな日米の大人気ヒーローである彼だが、毎日この病院で病気の彼女の面倒を見ているということは一つも報じられていない。きっと私の知らないところで彼と、彼の周りの人達が沢山気を遣ってくれているのだろう。そう思うと、心が温かいような、苦しいような、そんな表現し難いものでいっぱいになる。

「行ってくる。また後で電話する。」
「うん、気をつけてね。」

名残惜しげに離れていった腕の代わりに、唇に優しく触れるだけのキスが降る。温かくて心地の良い彼のキスに、まるで夢の中にいるみたいだとぼんやり思った。











あの雨の日の出来事は、きっと一生忘れないだろう。

生きることを諦めてしまったあの日。
ずっと知りたかった真実を知ったあの日。
彼に再び愛していると言って貰えたあの日。
私は何もかもを擲ってでも、彼と一緒に生きたいと思った。

そして私のその過ぎた願いを、彼は必死に叶えようとしてくれた。

ずぶ濡れのまま2人で家に帰ったその翌日、仕事を休んだ彼は私を連れて病院を訪れた。そこで、2人でアメリカでの治療についての説明を受けた。病気は既にかなりのところまで進行している状態で、すぐにでも治療を受ける必要があることを医師から言い渡されると、彼はその翌週に2人でアメリカへと渡るチケットを用意してくれた。

まるで最初から問題なんて何処にも無かったかのように、目の前の現実が淡々と進んでいく。その一つ一つが進む度に色んな不安に揺られる私に、彼は優しく微笑みながら「大丈夫だ。」と手を握ってくれた。
彼の言葉はいつだって力強くて、頼もしい。ただ、それでも心が完全に落ち着くことはなくて。飛行機代も、治療費のことも、アメリカでの生活費だって、考えれば考えるほど私の命には見合わない。それなのに、お金のことは何も心配要らないとだけ告られても、それで納得できるほど私の心は単純ではなかった。

私の借金人生に彼を巻き込んでしまうのが、辛くて苦しくて堪らない。そんなのは最初の借金を彼に肩代わりして貰った時からで、今更だと言われればそれまでだけど。でも今回は、彼の貯金で賄えるような額では無い。だから、どこかからお金を工面しなければならなくて。
どこからお金を借りたって、きっとまた沢山の利子に追われながら苦労する日々を送ることになるだろう。それがどんなに暗い毎日なのかを知っている私は、いくら彼に大丈夫だと言われても、心から安心することはできなかった。

そんな不安に駆られて中々前向きになれない私に、彼は少し困ったように眉を下げていて。静かに隣に腰掛けて、私の手を強く握りながら、彼はその「大丈夫」の理由について言葉を紡いだ。

「お金は、色んな人に助けてもらったから大丈夫だ。
……でもその代わりに、皆んなからは交換条件を貰ってるんだ。」

そんな初めて耳にする内容に、思わず「交換条件…?」と聞き返す。すると、焦凍くんはそれにしっかりと頷いて、その一つ一つをゆっくりと口にした。


−A組の皆んなからは、毎年の集まりには必ず参加するようにと。

−お茶子ちゃんからは、月に一度は必ず会いに来るようにと。

−ジーニストさんからは、月に一度は必ず連絡を寄越すようにと。

−炎司さんからは、月に一度は必ずご飯を食べに来るようにと。

−雄英の先生達からは、偶にOGとして実習のサポートに来るようにと。


身体が良くなったら、お金の代わりにそれを返してくれれば良いのだと。皆んなからは、そんな信じられない条件が言い渡されていて。
思わず言葉を失ってしまう私に、彼はどこまでも優しい表情を浮かべながら、そっと手の甲を撫でてくれる。

「だから頑張って病気を治して、これから一緒にみんなに返して行こうな。」

それは、とても穏やかな声色で。
緩く細められる青灰色の綺麗な瞳に、ぎゅっと唇を噛み締める。

優しさなんて言葉では、到底表現しきれないほどに卓越した、温かすぎる皆んなの心に。
私の手を引き導いてくれる、希望に満ちた彼の言葉に。
息もまともにできないぐらい、胸が痛くて、苦しくて、堪らなくて。
それなのに、どうしようもなく嬉しいと思ってしまうのは、どうしてか。

次々と溢れてくる沢山の想いが、涙になって瞳からこぼれ落ちていく。
遠くへ遠ざけたはずの存在が。胸を焦がし続けた愛しい日々が。まだ、こんなにもすぐ側にあったなんて。
知らなかった。
考えたことも、無かった。
だから頼ってはいけないと、思っていたのに。
そんなことを思っているのは、私だけだったのだ。
それを、ここにきて漸く気付くなんて。私はどれだけ臆病で愚かなのか。

彼を含め、皆んなから貰ったものは、あまりにも大きすぎる。
消え掛けの、この粗末な命が、一体幾つあれば彼らに全て返し切れると言うのだろうか。
きつく結んだ唇が、震えてしまう。

私は、この惜しみない彼らの優しさに、甘えてしまってもいいだろうか。
生きて、また彼らと共に笑い合って過ごしても、いいのだろうか。

その問いかけは、愚問だと。まるでそう言うように、温かい腕が優しく私を包み込む。大切に、大切に、そっと頭を撫でてくれる彼の手のひらに、溢れる涙は止まることを忘れてしまう。

生きて、また沢山彼らと笑いたい。
次こそは、焦凍くんと幸せになりたい。

いつの間にか贅沢に膨れ上がった私の願いを、妨げるものはもう何もなかった。









退院したら、少しの間2人でアメリカを旅行しよう。
そう言ってずっと前に彼が病室に持ってきてくれたのは、数冊の旅行雑誌だった。もう何十回も、擦り切れるほどに読んだその雑誌には、沢山の付箋が付いていて。
来週の検査で何事もなければ、退院できる。そうしたら、全部は無理だけど、できるだけ沢山の場所を2人で回ろうと、彼と約束していた。

何度考えても夢としか思えないこの幸せに、目が覚めたらまたあの日に戻ってしまっているのではないかと、ふとした瞬間に不安が胸を襲う。
しかし、それでも心を強く保っていられるのは、忙しい仕事の合間に送ってくれる、彼からのメッセージがあるからで。
今もちょうど、『お昼に食べた』という文言を添えて送られてきた、マスタードがたっぷりついたホットドッグの画像に、自然と頬が緩んでいく。『現地の奴らはこの10倍マスタードをつけて食べるのが普通らしい』と言葉を続ける彼に、また同僚のヒーローに揶揄われてるのだと察して、一人病室で笑ってしまった。

そんな彼からのメッセージに元気付けられ、いよいよ迎えた最終検査の日。担当医から、検査の結果に異常はないと診断された私は、入院から約半年で無事に退院の許可を貰うことができた。


そしてやってきた退院日、焦凍くんがずっとお世話になっていたヒーロー・オズワルドさんが、私の退院と焦凍くんの歓送を祝して自宅でホームパーティを開いてくれた。彼の家族やヒーロー事務所のサイドキック達、そしてこの半年間、焦凍くんとチームアップを共にしたマンハッタンのヒーロー達が集まって、食べきれない沢山の料理を前に肩を組んで笑い合う。目紛しいほどに飛び交うジョークを全て間に受ける焦凍くんは相変わらずで、それを皆んなで面白がって笑う度に、私のいない病院の外の世界では、彼はこうして皆んなと仲良くやっていたんだなと改めて知った。
そんな彼らも、パーティの最後にはポロポロと涙を溢しながら焦凍くんが事務所を辞めることを寂しがっていて。何だかとってもいい人たちに巡り会えたのだと思うと、胸の中がほんのりと温かくなった。

そんな盛大な皆んなとの別れを胸に中に仕舞い込み、次の日から私たちは東海岸を旅行した。雑誌やネットで見たことのある人気のベーグルやパンケーキ、顔の大きさぐらいあるハンバーガーに沢山のチップス、街のワゴンで売っている庶民的なホットドッグ。入院中に何となく話したアメリカで食べてみたいものを、彼は何一つ溢すことなく私に食べさせてくれて。胸もお腹もいっぱいになりながら、色んな場所を観光した。
足の悪い私が行けるところは限られているけれど、それでも彼との旅行は楽しくて幸せで、時間はあっという間に過ぎていってしまった。


そして最終日の夜、再びマンハッタンへと戻ってきた私たちは、街で偶々見つけたレストランで最後の夕食の時を過ごした。別にグルメ本で星が付いていなくても、100万ドルの夜景が見える洒落た場所でなくても。彼と一緒なら何だって美味しく感じるし、どんな処でも心が弾んで嬉しくなる。そんなことは今更で、当然のことだけど。
しかし、それはちゃんと彼にも伝わっていのだろうかと、ふとした瞬間に思ってしまう。
この胸いっぱいに膨らむ気持ちを全て言葉にするのは難しい。口下手で不器用な私には、尚のことだ。それでも、もう二度と彼にあんな不安な思いを抱かせたくなど無くて。出てこない言葉の代わりに、隣を歩く彼の手を更にぎゅっと握り直す。
すると、それに応えるように、彼も私の手を握り返してくれる。右側にいる彼の顔は見えないけれど、でも彼の左手はとびきり温かくて、それだけで彼がどんな顔をしているのかが何となく想像できた。

地下鉄に乗り、最後に訪れたのは河辺の公園だった。すっかり夜になってしまったその場所で、手を繋ぎながら2人並んでゆっくりと歩く。水面が揺れる水の音が、何だかとても心地よくて。不意に頬をさらっていく春の夜風に、心が穏やかになっていく。
「この辺りが良いな」と隣で呟く彼は、私の手を握ったままその場に立ち止まる。一体何が良いのだろうと、首を傾げながら彼の顔を見上げれば、見えていなかった右側の景色が一気に左目に映り込む。
そこにはライトアップされたブリッジと、その向こう側にはキラキラと光るダウンタウンの夜景が見て。水面に映った幾つもの光も相まって、全てが息を呑むほどに美しいかった。

「凄い、綺麗だね。」
「ああ、綺麗だな。」

それはとんでもなく綺麗で、圧巻そのものなのに。
口からは、そんな何でも無い言葉しか溢れ出て来ない。
隣で全く同じ言葉を呟く彼もまた、きっと同じ思いでいるのだと思うと、自然と悪い気はしなかった。

水面が揺れる音だけが静かに聞こえてきて、まるで時間が止まっているかのように感じてしまう。息を呑んで、何も考えずにその美しい夜景をただ眺めていると、低く穏やかな彼の声が不意に耳に入ってくる。

「……この街の夜景なんて、ここ半年は毎日見てきたはずなのに。名前と一緒に見ると、こんなに違ぇんだな。」

呟くように放たれたその言葉に、ハッとなって意識を戻す。
そうだ、彼はこの半年間、病院の面会時間を外した朝と夜の時間帯でこの街を守るヒーローをしていたのだ。この素敵な夜景だって、毎日のように目にしていたに違いないのに。
しかし今、私の隣にあるのは、まるでその景色を初めて目にしたかのように瞳を輝かせる彼の美しい横顔で。何だか無性に寂しい気持ちが胸を打つ。

「きっと、オフだからそう思うんだよ。」

そう、それは多分、私と見るからなどではない。
毎日忙しく過ごす彼は、きっとこうして落ち着いて夜景を見たことがなかっただけなのだと、何となく思った。

見知らぬ土地で覚えることも沢山あって、しかも日本よりもずっと凶悪な犯罪に立ち向かわなければならない毎日を、彼は過ごしていたから。
この半年間ただ寝て過ごしていた自分の日々が、何だか申し訳なく感じてしまう。

「どうだろうな……でも多分オフの日に一人でここに来たとしても、こんなに心は踊らねぇと思う。」

そう言って、繋いだ手にぎゅっと力を込める焦凍くん。
夜景を見ていた視線を上げると、いつか間にか色の違う彼の瞳がこちらに向けられていて。
とても真剣な眼差しが、私の視線と絡み合う。

「夜景だけじゃない……名前と一緒なら、何でもすげぇ楽しくて、幸せで、頑張れるんだ。」

それは、2人で一緒に過ごしたこの半年間で私が感じたのと全く同じで。
彼も、同じ気持ちでいてくれていたのだ。
そのことに気づけば、途端に胸がじわりと熱くなってくる。

「日本に戻っても、ずっと名前の側に居させて欲しい。」

それは、あの雨の日に公園で交わしたのと同じ言葉で。
勿論、その言葉を信じてアメリカで治療することを選んだ私は、日本に戻った後も許される限りはずっと彼と一緒にいるつもりだった。しかし、改めてそう言われると、もしかしてそのつもりでいたのは自分だけだったのだろうかと、少し焦ってしまう。

すると、繋がれていた温かい彼の左手が、ゆっくりと私の手から離れていく。
どうしてか、何も言わずに去ってしまう彼の熱に、右手が堪らなく寂しくなって、代わりに空気を掴む。
目の前には、見たこともないぐらいに真剣な彼の表情があって。次にどんな言葉が出てくるのか全く予想もつかなくて、少し怖く思えてしまう。

すると、ポケットから何か小さなものを取り出した焦凍くんは、それを私の前へと差し出した。

「もう二度と嫌な思いはさせねぇし、一人になんて絶対にさせない。
……だから、俺と結婚してくれないか?」

そんな予想だにしない彼の言葉に、思わず呆気のない声が口から溢れる。爪先から頭の天辺まで駆け巡る衝撃に、目を大きく見開いて驚くことしかできなくて。
目の前に差し出された小さな箱には、綺麗な宝石のついた指輪が嵌ってる。一切の濁りのないその宝石は、夜景の色を写してとても綺麗に輝いていて。
不意に、その箱や台座が少しだけ傷ついているのに気付く。

「これって……」
「悪りぃ…その、新しいのを買う時間がなくて、5年前に買ったやつしか手元にねぇんだ……」

日本に戻ったら、またすぐに新しく買い直すから。
そう言って申し訳無さそうに眉を下げる焦凍くんに、違うのだと何度も首を横に振る。

「いい……これが、いいの……新しいのなんて、要らないよ…っ、」

ゆっくりと両手を伸ばし、彼の手元にある指輪の箱を大切に大切に包み込む。
それは、彼が私のことをたくさん考えて、悩んで、買ってくれたもので。離れて過ごした5年間、ずっと捨てずに手元に置いていてくれた、私を想う気持ちそのものだから。
こんなにも嬉しいものが、他にあるだろうか。
こんなにも彼に愛されていると思えるものが、他にあるだろうか。

仕切りなく込み上げてくる感情に、目頭がじわじわと熱くなってくる。気を緩めれば涙が溢れてしまいそうで、ぎゅっと唇を噛み締める。
指輪の箱を包む手が、気持ちに耐えかねて僅かに震えてしまう。それを不安に思ったのか、彼の優しい声が「名前…?」と私の名前を呼んだ。

彼にちゃんと、この気持ちを伝えなければならない。
彼の優しい理解に頼って、言葉にせずに逃げることは、もう絶対にしないと誓ったから。

指輪から、視線を彼の瞳へと戻す。
青灰色の綺麗なそれは、いつだって私のことを優しく見つめてくれていて。
愛しくて、堪らない。

「焦凍くん、私ね…っ」
「ああ、」
「お金も無くて、身体も不自由で……焦凍くんに頼ってばかりで、してあげられることなんて殆ど無いけど……」

あの頃とは違って、私の手の中には何も無い。お金も名声も何もない私が彼にあげられるものは、ただ彼を想う気持ちだけで。
そんなもので、どうか我慢して欲しいなんてことは、とても言えたことでは無いけれど。
でも、それでも私は、繋いだこの手をもう離すことなどできなくて。

「それでも、私はずっと焦凍くんと一緒にいたい…っ」

胸がいっぱいだった。ポロポロと流れ落ちる涙に、食いしばる口から漏れる吐息に、沢山の感情が詰まっていて、どうにもできずに吐き出される。

すると、指輪の箱を持っていた手がするりと静かに離れていく。代わりに、大切な指輪を抱きしめるように胸の前へと運べば、伸びてきた大きな腕にぎゅっと力強く抱き寄せられる。その瞬間に、言いようのない安心感が全身を駆け巡って、心臓が震えるようだった。

「名前のこと、一生幸せにする。」
「…うん、私も焦凍くんのこと、幸せにする。」


離れて過ごした5年間、絶望の中でずっとずっと望み待ち焦がれていたこの温もりは、いつだって私の胸をぎゅっと締め付ける。
彼に名前を呼ばれるだけで、嬉してくすぐったくて幸せで、堪らなくて。


彼の腕の中にいられる幸せを精一杯に噛み締めながら、涙でぐちゃぐちゃの顔で目一杯に綻んだ。




Flare 完



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