#13 濫觴


とてもリアルな長い夢を見ていたかのような気持ちになった。

ずっと彼女に報いたかった。だから、経緯はどうあれ漸く手にした彼女との時間に、自分の出来うる限りの全てを尽くした。少しでも彼女が幸せに思えるように、とにかく毎日必死だった。

最初は身体を強張らせ、他人行儀な素振りをしていた彼女が、家で少しだけ以前のように笑うようになったのが、凄く凄く嬉しかった。
何年も一人で塞ぎ込んでいた彼女が、少しずつ麗日の話をしてくれて、堪らなく胸が熱くなった。
一緒に過ごしているうちに、彼女の心が段々と開いていくような気がして、言葉に言い表せない喜びを感じていた。
ゆっくりと前へと進むその姿に、彼女のことをちゃんと救えているのだと信じて疑わなかった。

だけどそれは、本当は全て俺の自己満足に過ぎなかった。
実際の彼女は、俺の多大な期待に自分を追い詰めていく一方だったのだ。
そんなことにも気付かずに、どうして俺は彼女を救った気でいたのだろう。

泡が弾ける様に、目が覚めた。
彼女と過ごす時間に浮かれきった俺は、漸く現実が何たるかを理解した。

きっと、俺の手ではもう彼女の心を救えない。

そんな最低な結論が、何処からともなくやってきて俺の心に纏わりつく。幾ら拭い払っても、しつこく囁きかけてくる嫌な声に、心がおかしくなりそうになる。
しかし、それでもあの夜、俺を求めるように背に手を回してくれた彼女のことを思い出せば、自然と気持ちが楽になる。このまま終わって良いはずがないと、心が強く焚きつけられる。

彼女を、探さなければ。
もう自分の知らないところで、彼女に泣いて欲しくはなくて。
辛いことを呑み込んで、壊れた心のまま生きて欲しくなんてない。

誰よりも、幸せになって欲しい。
誰よりも、幸せにしてあげたい。
他の誰でもない俺が、今度こそ彼女のことを幸せにするのだと、そう誓ったから。
何処にいたって見つけ出して、何度でも彼女のことを掬い上げる。

そんな強い思いだけを胸に抱え、雨の中を駆け出した。
彼女の行く宛なんて何一つとして分からない。でも、何故だかあの時のように、彼女の居場所が分かる気がした。

街灯の少ない住宅街はどこもかしこも薄暗くて、嫌な不安が胸を襲う。こんな暗くて危険な道を、足が悪くて右目の見えない彼女が一人歩いていたと思うと、どうしようもない気持ちが込み上げた。

そんな中、ふと視線をあげた先には、緑地公園の入り口があって。どういうことか、ここに彼女がいる気がして仕方がなかった。
ポールの間を走り抜けて、公園の中のあちこちへと視線をやる。ぽつりぽつりと間隔をあけて立ち並ぶ街灯の下には、雨に濡れたベンチが幾つもあって。
しかし、そのどれにも彼女の姿はなかった。

この感覚は、気のせいだったのだろうか。
やはり、ここには彼女は居ないのかもしれない。
そう思い、諦めて別の場所を探そうとした丁度その時だった。

ふと耳を掠めたのは、誰かの小さな嗚咽だった。
それは雨の音に紛れて、一瞬でどこかに掻き消されてしまった。
だけど、足は自然とその声が聞こえた方へと向かっていく。こんなところに彼女がいる筈がないと、普通ならそう思う筈なのに。公園の隅の、来たこともないような場所に、ぽつりと一つだけベンチが置かれていて。すぐ側にある街灯は、その上に座る一つの人影を照らし出す。

ここからは少し遠くて、はっきりとは見えないけれど。
それでも、それが雨に濡れた彼女の姿であることを、何となく確信してしまった。


冷たい雨が、彼女の小さな身体へと容赦なく打ちつける。
一歩一歩と彼女の元へと近づいて行くと、その身体が僅かに震えていることに気付く。

ああ、やっと見つけた。
そんな安堵の気持ちと一緒に、消え切らない不安や焦りが胸の中に渦巻いる。

彼女のすぐ傍まで寄り、これ以上濡れないようにと静かに傘を差し出すけれど。彼女はただ身体を小さく縮こめたまま俯いていて。一つも反応を示さないその様子に、きっと心がここに無いのだとすぐに頭が理解した。

目の前の今にも消えてしまいそうな彼女のことを、何とかして呼び戻したくて。
愛おしいその名前を、そっと大切に口にした。

すると、彼女の身体が小さく揺れた。
ああ、この声は、ちゃんと彼女に届いているのだ。
そう確信すれば、堪らない気持ちになって、再び彼女の名前を口にした。

その声に弾かれたように、俯いていた顔がゆっくりとこちらを向く。
そこに見えたのは、あの時病院で座り込んでいた彼女と同じで、虚な悲しい瞳だった。

堪らなく、心が揺さぶられる感覚に襲われた。
言葉にならない強い感情が、こんなにも胸の中から溢れているのに、どうすればいいのか分からなくて。

気がつけば、片手に持ったビニール傘を投げ捨てて、彼女を強く抱き締めていた。
儚く消え去ってしまいそうな彼女の身体は、確かにここに存在して。それが一体どれだけ嬉しいことなのか、ずっと彼女を夢に見た5年の月日が痛いほどに訴えかける。


「良かった…っ、本当に良かった…っ」

確かめるように手繰り寄せた腕から伝わる、僅かな彼女の熱でさえ、胸の中をじわじわと焦がしていく。
抑えきれない込み上げてくる感情に、みっともなく声が震えてしまうけど。
そんなこと、今は正直どうでも良かった。
彼女がここにいれば、もう何だって良かった。

「なんで、どうして…っ」

そんな小さな声が、腕の中から聞こえてくる。
驚きや躊躇いの混じった声が耳を掠めると、何故だか無性に気持ちが込み上げ、彼女を抱きしめる腕に力が入る。

「出ていくなんて、そんなこと言わないでくれ……っ!」
「っ、」
「お願いだから、今度はちゃんと名前の側にいさせてくれ……」

もう2度と、あんな思いはさせないから。
もう2度と、誰かに名前の幸せを託したりなんてしないから。

「好きなんだ……どうしようもねぇぐらい、ずっと、名前のことが愛しくて堪らねぇんだ……っ、」

ずっと彼女に言いたかったその言葉は、心の奥底から込み上げてくるその想いは、情けない声となって口から溢れ出ていった。
それでも、言い切らずにはいられなかった。
この5年間に溜め込んできた気持ちを、ありのまま彼女に知って欲しかった。

きっと思いもしなかったであろう俺の言葉に、彼女は小さく戸惑いの声を溢した。

「なに、言ってるの……」

彼女の小さな手のひらが、俺の胸をぐっと押す。まるで俺を拒むようなその仕草に、不安や動揺に駆られてしまう。促されるままに、ゆっくりと抱き締めた腕の力を緩めると、彼女は俺の上着をぎゅっと握り締めた。
俯いたままの彼女の表情は、何も分からない。
でも、彼女のその手は、ただ俺を冷たく拒みたい訳ではないのだと、そう訴えている気がした。

「……焦凍くんは、嘘ばっかりだよ。」
「っ、嘘なんかじゃねぇ、」
「嘘だよ…!だってあの日、わたしのこと好きじゃないって言ったのは、焦凍くんなのに…っ、」

震える彼女のその言葉が、鋭い刃となって胸の奥深くに突き刺さる。
全くもって、その通りだ。
俺が、あの時彼女にあんな嘘を吐いたから。
彼女の瞳には、俺の気持ちの全てが嘘に映ってしまうのだ。

何が嘘で、何が真実であるのかを、彼女に正直に伝えなければならない。そのために、ここまでやって来たのだから。

俯く彼女の瞳を見ようと、その場にそっと膝を付いた。すると、彼女は顔を覗き込まれるのを拒むみたいに、ふるふると小さく首を横に振った。

「恋人が居るくせに、今さらそんな嘘吐かないでよ…っ」

突然出て来たその言葉に、一体何の話をしているのだと思わず困惑してしまう。
何か、彼女は大きな勘違いをしているのでは。そう思い、慌てて彼女の肩を掴んで、有り得もしないその事実を否定する。

「恋人なんていねぇ、」
「別に隠さなくてもいいよ、もう全部知ってるから…」
「違う……!名前はまだ何も、これっぽっちも本当のことを知らねぇんだ…ッ」

だから、そんなことが言えるのだ。
俺がどれだけ名前のことを愛しているのか。
俺がどれだけ名前のことしか頭にないのか。
その全部を知れば、きっと俺のことを嫌悪せずにはいられないだろう。
それぐらい、いつもいつも名前のことでいっぱいなのに。

俯いていた彼女の顔が、ゆっくりとこちらに向けられる。
それは、涙や雨でぐちゃぐちゃで。
それでも、堪らなく愛おしいと思えてしまう。

「全部、知ってるよ……借金を返すために出してくれたあのお金も、本当は事務所を作るために貯めてたんだよね?それなのに私はそれを台無しにして……」
「違う…ッ!!そうじゃない…!」

ぐしゃりと歪んでいく彼女の表情が耐えられなくて、「そうじゃないんだ…」と何度も首を振って否定する。
彼女がどうしてその話を知っているのかは、分からないけど。でも、彼女は多分最も肝心なことを知らずにいる。
どうしてこうも上手く噛み合わないのだと、もどかしさに胸がどうにかなってしまそうだ。

「確かに事務所を作るために、お金を貯めてた。」
「っ、!」
「でも、それは違うんだ……本当は名前をそこに誘って、その…もう一度全部やり直そうと思ってたんだ……。」

ずっと、何年もかけて準備をしてきたその事実を、初めて誰かに打ち明けた。
胸のすくような感覚とは裏腹に、彼女にどう思われるのかがまるで分からずに、緊張が胸の中を込み上げる。
彼女はただ、目を大きく見開いたまま言葉を失っていた。いきなり告げられたその事実を、どう受け止めていいのかが分からないでいるのだろう。

「でも、それももうできなくなったから……あのお金は、本当に使い道が無くなったものだったんだ。」

肝心の名前は怪我でヒーローを引退してしまい、事務所を立ち上げる必要も無くなった。
元々名前のために貯めたお金なのだから、借金に困っている名前の為に使うのは、ある意味当然のことだった。それを返して貰おうなんて、そんな考えは微塵も存在しなかった。しかし、それを彼女が良く思わないのも、何となく分かっていた。
だから、家政婦なんて適当な提案を申し出て、側に居続ける理由を作った。

全ては名前の為にしてきたことで、だから名前は何も台無しになどしていない。
だから、もうこれ以上自分を責めるのは辞めてくれ。
そう言い聞かせるように、冷たくなった彼女の肩をそっと優しく撫でる。
すると、彼女はとても悲しそうにぐしゃりと顔を歪ませる。

「じゃあ、なんで……どうしてあの時、焦凍くんはわたしのこと、捨てたの……っ」

それはまるで、胸の中にずっと溜まっていたものを吐き出すような、辛くて苦しい声色で。
それは、あの時冷たく遇らって殺してしまった彼女の言葉なのだと、すぐさま脳が理解する。

決して、彼女のことが要らなくなって捨てた訳ではない。寧ろ、大切だからこそ手を離したのに。
彼女はきっと、そう思ってはいない。自分が至らないから捨てられたのだと、そう理解していて。
だから、あんなにも俺の顔色を窺って怯えながら過ごしていたのだと、今更になって気付く。

「結婚しようって……本当は、そう言おうとしてたんだ。」

そう静かにつぶやいた俺の一言に、彼女の瞳は再び大きく見開かれる。
あの頃、何度も想像した彼女の喜ぶ顔が脳裏に浮かんできて、堪えきれない感情を隠すように、濡れた彼女の頬を優しく親指で拭った。

「でも俺は、育った環境も名前への気持ちも、全然普通じゃねぇから……考えれば考えるほど、怖くなった。名前のこと、上手く幸せにしてやれる自信が無かったんだ。」
「…っ、」
「……俺じゃない他の誰かの方が、名前のこと幸せにできるんじゃ無いかって、本気でそう思ったから。」

だから、あんな最低な大嘘を吐いて、名前のことを手放した。
俺のことなんて忘れて、誰よりも幸せになって欲しかったから。

「でも、違った。久々に見かけた名前は一つも幸せそうじゃなくて……だからあの日、名前と別れたことをずっと後悔してたんだ。」

あの時の窶れた名前の姿を思い出す度に、どれだけ過去の自分を恨んだことか分からない。
取り返しのつかないことをしてしまったと落ち込み、嘆かなかった日はなかった。
それが、あの別れの真実で。誰も幸せにならない俺の選択に、名前はただ巻き込まれただけなのだ。

全てを告げた俺の目を見つめる彼女は、震えた唇で確かめるように言葉を紡ぐ。

「そんな…じゃあ焦凍くんは、わたしのこと、本当に嫌いじゃない、の…っ、」
「っ!そんなこと、今まで一度だって思ったことはねぇ。」

そうはっきりと告げれば、戸惑う彼女の視線は徐々に下へと落ちていく。
当たり前だ、彼女は俺に嫌われたと思い込み、ずっと悩んできたのだ。それなのに、本当は自分勝手な俺にただ振り回されていただけなんて言われれば、誰だって言葉にならない憤りの一つや二つは覚えるだろう。

「謝っても、もう遅いのは分かってる。俺のことをまた好きになって欲しいなんてことも、言わねぇ。」

両手に包んだ彼女の頬を、そっとゆっくり持ち上げる。
再びこちらへと向けられる彼女の瞳は、動揺や躊躇いの色で揺れていて。
心臓がどくんどくん、と大きな音を立てる。

「でも、お願いだから、せめて名前の側にいることだけは、許して欲しい……名前のこと、今度はちゃんと守りたいんだ…ッ」

もう絶対に、何があってもあんなことにはならないと、そう誓うから。
だから、お願いだから名前の側に居させて欲しい。
辛いことも悲しいことも、一人で呑み込まずに俺に全て分けて欲しい。

他の誰でもない名前のことが、好きで好きで堪らないのだ。
だから、どうか俺を拒まないでくれ。

決死の思いで懇願する俺の言葉に、彼女は何かを言いたげに薄く唇を開くけど。
しかし、それが音になって聞こえてくることはなくて。
代わりに、彼女の片手がそっと俺の手に添えられる。冷え切った小さなその手は、少しだけ震えていて。
そのまま彼女は、ふるふると首を横に振りながら苦しそうに呟いた。

「できない…っ」

絞り出されたその声は、決して拒絶の意を含んだ冷たい声ではなくて。
まるで、どうしようもないのだと言うような、辛くて苦しい声色だった。

「どうして、」
「そんなの、どうだっていいでしょ……っ
私のことなんて、もう放っておいてよ……っ」

そう言うと、彼女は頬に添えられた俺の手をパンッと払い跳ね除けた。
雨に濡れたその手からは、その衝撃で幾つもの滴が弾け飛ぶ。
その先で、俺を見つめる彼女の瞳は、とても悲しそうに涙を浮かべていて。

拒絶されているのはずなのに、彼女が口を開くたびに不思議とそれは、『助けて』と叫んでいるように聞こえてしまう。




「名前」

さっきまでの訴え掛けるような必死な声とは一変し、大切に大切に彼女の名前を口にする。
すると、彼女はピクリとその細い肩を振るわせた。

「何を、隠してるんだ…。」

真っ直ぐに彼女の目を見つめながら静かに問い掛ければ、その途端、綺麗な色の瞳は躊躇ったように泳ぎ出す。
それは明らかに、何か知られたくないことを隠すような反応で。
口を噤み黙る彼女は、まるでこれ以上は何も話さないと言うかのように俺から顔を背けようとする。
そんな彼女の手首をぎゅっと握り、視線をこちらに向けさせる。

彼女が何かを隠していることは、ずっと前から知っていた。
それが、今の彼女を苦しめている要因であるのも何となく勘付いていた。
一体何が彼女をそうさせているのか、それを知らずにはいられなくて。

思わず彼女の手首を強く握り過ぎてしまえば、ずっと片手に握っていた彼女のハンカチがその手の中から滑り落ちる。
雨を吸って重くなったハンカチは、ペチャリと音を立てて濡れた地面に転落した。

何気なくその一部始終を目で追っていると、落ちたハンカチにはとても模様とは言い難い、沢山の赤が付いていてい。

まさかと思い、彼女の方へと視線をやる。

「おい、これって……」

そう問いかけるのと同時に、彼女の顔がどんどん翳っていくのが目に映り、心臓が嫌な鼓動を刻み出す。
彼女のその反応は、次に続く筈だった言葉全てを肯定するものだった。

動揺や焦りで胸の中がいっぱいになり、何一つとして言葉が出ない。
そんな俺に、彼女はゆっくりと隠していたその真実を口にする。

「……もう、長くは生きられないの。」

静かに告げられたその言葉に、頭の中が一瞬にして真っ白になった。

彼女は今、一体何と言ったのか。
聞こえてきた言葉の意味が、上手く理解でなくて。
粟立つ全身の肌が、ただただ心地悪く感じてしまう。

長くは生きられないなんて、一体どうしてそんなことになっているのだ。
ずっと一緒に過ごしてきたはずなのに、どうして俺は何も知らずにいたのだろうか。
どうして俺は、いつもこんなに愚かで救いようが無いのだろうか。

「嘘だろ、そんなことって……」

譫言のような言葉が溢れる。
徐々に全身の力が抜けていく俺の手からは、彼女の手首がするりと抜けていく。
そのまま胸の前でその小さな手がぎゅっと握られれば、震えた声が言葉を続ける。

「お母さんと同じ病気、なの……」

その一言に、黒々とした絶望が視界をみるみるうちに闇へと染める。

ああ、そんな馬鹿なことがあってたまるか。
こんなにも誰かに尽くしてきた彼女が。
こんなにも優しくて頑張り屋な彼女が。
誰よりも幸せになるべき筈の彼女が。
一体どうして、こんな酷い終わりを迎えなければならないのだ。
それも、よりによって彼女の母を死に追いやったあの病気を、彼女にも背負わせるなんて。
神様は、一体どれだけ彼女を不幸にすれば気がするのだろう。

行き場のない怒りや絶望が、胸の中を暗澹とさせていく。
そんな俺に、彼女は酷く申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。

「お金、全部返せなくてごめんなさい…。」
「っ、!そんなこと、どうだっていい…ッ!」

お金なんて、そんなの最初からどうだって良いことだ。
彼女は自分の身がこんなに酷い状態だというのに、どうしてお金なんかのために俺に謝るのか。
どうしてそんなに、自分のことは蔑ろにしてしまうのか。
こんなにも、俺は彼女が大切で仕方がないのに。
彼女自身が、自らを酷く傷付けてしまう。

「…そんな身体で家を出て、一体どこに行くつもりだったんだ」

不意に思い出すのは、彼女が暮らしていたボロアパートで。また、あの冷たくて暗い場所で一人過ごそうとしていたのか。そう考えると、胸が苦しくなっていく。
しかし、次に頭を過ぎったのは、家を出る前に見た封筒で。彼女はあまり多くはない筈の自分の貯金を、家のテーブルの上に置いてきていた。そんな状態では、一人で生活できる余裕なんてどこにも無いだろう。それに、出ていくにしても病院には通わなければならない筈で、沢山お金が必要になる。

考えれば考えるほど、彼女の行動は腑に落ちないことばかり見つかっていく。
そんな俺に、どうしてか彼女は無理やり笑顔を浮かべて言った。

「お金、返さないといけないから……」

そう言って返事を曖昧に濁す彼女に、心臓が嫌な音を立てる。

その身一つで家を出たに等しい彼女が、一体どうやってお金を返すと言うのか。
不意に、胸の前で握られた小さな拳が震えているのが目に留まる。すると、その次の瞬間には、最悪な想像が頭の中を過っていく。

「おい待て、嘘だろ……っ!そんなことして返してもらった金を、俺が素直に喜ぶとでも思ったのか…ッ!?」

最悪だ、なんて悍ましいことをしようとするのだ。
彼女の肩をぎゅっと握り、強く訴えかけようとするけれど。俺の言葉に否定もしなければ、ただ唇を噛み締めて何かに耐えようとする彼女は、きっと何も分かっていない。

「金なんて、要らねぇ…っ
名前がいなきゃ、何の意味もねぇんだ…ッ」

あんな何でもないお金のために、大切な彼女を犠牲にするなんて。そんなこと、決してあってはならないのに。彼女は、自分が一体どれだけ掛け替えの無い存在なのか、まるで分かっていなくて。

胸が、悲しくて苦しくて耐えられなくて、目頭がじんと熱くなっていく。今にも張り裂けてしまいそうな心を堪えるように、彼女をぎゅっと腕の中に閉じ込める。

嫌だ、彼女を死なせたくなどない。
せっかく5年越しに本当の想いを打ち明けられたというのに。この先、彼女がいない日々を送るなんて、そんなの耐えられる筈がない。
沈み切った心を襲う深い深い苦しみに、奥歯を噛み締め必死に堪える。
すると、不意に彼女の手が俺の背中に回される。

「ねぇ、焦凍くん」
「…、?」
「わたしね、焦凍くんのこと、ずっとずっと忘れられなくて…焦凍くんに嫌われた自分がとっても嫌いだったの。」

ぎゅっと手に力を入れた彼女は、俺にしがみつくように抱きつく。
その感覚がとても懐かしくて、視界がじわじわと滲んでいく。

「でも本当は嫌われてなかったんだって知れて、その……凄く嬉しかった。」
「っ、」
「嘘でも、愛してるってまた言って貰えて、本当の本当に嬉しかったの。」

嬉しいという言葉を吐く彼女の声は涙声で震えていて。
無意識に、彼女を抱く腕に力が籠っていく。

「嘘なんかじゃねぇ、本当に心の底から愛してるんだ…っ!
だから、そんな諦めたみたいなことを言わないでくれ…っ」

そんな最後の言葉を伝えるみたいに、自分の胸の内を明かさないで欲しい。
まだ何も始まってすらいないのに、一方的に終わりに向かうなんて、そんなの一体誰が許すと言うのだ。

「……治療では、もう何ともならねぇのか…?」

雨に湿った彼女の髪を撫でながら、何かやりようは無いのかと必死に思考を巡らせる。
そんなものは今更あるはずもないのだろうが、それを聞かずにはいられなかった。
手探りでも、何か縋り付く先を探したかった。

すると、彼女は何も言わずに静かに黙り込んでしまう。

彼女のその反応が何を意味するのかを、知らない俺ではなかった。

ああ、この期に及んでまだ彼女は何かに口を噤むと言うのか。
こんなにも必死に手を伸ばしているつもりなのに、まだ一人で抱え込もうとするのだろうか。

「頼むから、もう何も隠さないでくれ……全部、知りたいんだ。」

もう二度と、選択を間違えたくはない。
何もかもが手遅れになった後で、後悔したくはないのだ。

彼女の身体をぎゅっと抱き締め直す。
すると、背中に回された彼女の手もまた、ぎゅっと俺の身体にしがみついた。
そして、躊躇いながら小さく言葉を紡いだ。

「アメリカに行けば、治療ができるみたい……でも、お金が沢山必要で……だから、できない……」

全てを諦めたかのように、もういいのだと彼女は首を横に振る。

ああ、そんな。
どうして彼女はこんなにも辛い選択を、一人で選んでしまうのだろう。
誰も望んでない選択を、自ら選んでしまうのだろう。

胸元にある小さな頭に手を添える。そして、『もう大丈夫だ』と精一杯に伝えるように、何度も優しく撫でてやる。

「…なら一緒に、アメリカに行こう。」

彼女が生き残れる方法があるのなら、それを選ばない理由はない。
そんな当たり前のことを、彼女は一つも当たり前に思わない。
俺の言葉に躊躇ったように、彼女は「え…っ、」と声が溢して言った。

「なに、言って……」
「アメリカに行けば、名前は助かるんだろ?」
「で、でも無理だよ、だってお金が…っ」
「金なんて、そんなのどうとでもなる…!!」

思わず張り上がった声に、彼女の身体がピクリと揺れる。
そんな彼女に、今にも張り裂けてしまいそうな気持ちを吐き出す。

「でも名前は、死んじまったらもう2度とこうして抱きしめらんねぇんだ……っ」

ぎゅっと力の入る腕は、もはや抱き締めるなんて可愛いものではなかった。
それでも、腕の中からこぼれ落ちてしまいそうで、不安でどうしようもなくて。
最悪な展開を、ほんの少し考えただけでも、胸がずたずたに引き裂かれたみたいに、苦しくて堪らなくなる。

「ずっと側にいたい、もう2度と離れたくなんてねぇんだ…」

何処にも行かせない、側に居てくれるなら何だって良い。
どうしたらこの気持ちをわかってもらえるのか。これ以上の言葉も行動も、俺にはもう何も浮かばなくて。
お願いだから伝わってくれと、心の底から祈ることしかできない。

彼女は、嗚咽を噛み殺すような小さな声で泣いていた。
今まで一人でたくさん溜め込んだもので埋もれて、まるで息ができなくなったみたいに苦しそうに呻いていて。

それでも、俺の胸に顔を押し付けながら、くぐもった声で必死に言葉を紡ぐ。

「死にたくない……っ
焦凍くんと一緒に、生きたい……っ!」

心の底から懇願するような声が。
無理やり押し殺してきた本心が。
初めて彼女の口から、溢れる出てくる。
その瞬間に、胸の奥がぶわっと熱くなっていくのを感じた。

「ああ、ずっと2人で一緒に生きよう…っ」

雨に濡れた彼女の髪を掻きながら、柔らかい頬に両手を添える。
いつの間にか止んでいた雨の音に、優しい静寂だけがここにいる俺と彼女を包み込んでいて。まるで世界が2人だけの場所みたいに思えてしまう。

ゆっくりと、濡れた瞼が開いていく。
さっきまでの光を無くした虚な瞳は、綺麗な色を帯びていて。

「名前、愛してる。」
「私も、焦凍くんのこと、愛してる…っ」

たった一言、彼女がそれを口にするだけで、愛おしさや嬉しさが込み上げてきて忽ち胸をいっぱいにする。
いつだって、そうだ。
俺をこんなに幸福な気持ちにしてくれるのは、彼女だけ。
だから俺は、彼女の幸せを何よりも願ったのだ。

ゆっくりと重ねた唇は、今までにないほどに切なくて甘いものだった。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -