#12 悉皆


こんなにも誰かを愛おしく思うことは、後にも先にもないだろう。
そう確信できるほど、ずっとずっと彼女の全てに夢中だった。


目が合えば、照れたように小さく綻ぶその笑顔が可愛くて。
遠慮がちに触れてくる柔らかい手が、たまらなく愛おしかった。

名前を呼ぶと、綺麗な瞳がゆっくりとこちらに向けられる。嬉しそうに首を傾げて俺を見上げるその仕草は、言葉にできないほど甘く愛らしくて。胸をぎゅっと掴まれる感覚に、心臓が幾度となく悲鳴を上げた。
そんなどうしようもなく膨れ上がる気持ちのままに、彼女の髪や頬、唇にキスをする。これまで数え切れないぐらい、ずっとこうしてきた筈なのに、彼女は毎回初めてするみたいに恥ずかしそうに頬を赤らめる。弱々しく縋るように俺の手をぎゅっと握る彼女がとても愛おしくて、心臓が聞いたことのないぐらい大きな音を立てていた。

名前のことが、好きで好きで堪らなかった。
彼女が居ないと、俺は満足に息をすることすらできなくて。
だから、ずっとずっと側にいて、彼女のことを大切にしようと、そう心に強く誓っていた。

それなのに、誰よりも愛おしくて大切なその手を、俺は自からの手で振り解いた。
当時の俺は、それが最善なのだと一人で勝手に思い込み、信じて疑わなかったのだ。






それは、少し肌寒さを感じる季節のことだった。
念願のプロヒーローになってから2年が経ち、仕事も順調に軌道に乗ってきて、そして何よりお互いに一人暮らしをする彼女との距離が、少しもどかしく思えていた頃のことだった。

元々、そういうのにはあまり詳しくなかったけれど、とにかく沢山下調べをした。不安で仕方がなくて、姉さんや麗日にも色々と相談に乗って貰った。少しでも彼女に喜んで貰えるようにと、必死に悩んで考えて。
そうしてやっとの思いで買った婚約指輪を、彼女にいつ渡そうかと考えていた。
そんな幸せな悩みを抱えた俺に、その日は音もなく突然やってきた。


それは、どこか浮かれた気持ちを抱えながら、いつものように街中をパトロールしていたとある夜のこと。突然、俺の目に飛び込んできたのは、ビルの10階ぐらいから身を乗り出す女性の姿だった。
ここ最近は驚くほど平穏な日々が続いていた。だから、その光景があまりに信じ難く、見間違いではないかとその場で何度も瞬きをした。
しかし、そこには確かに女性がいて。夜の暗がりに紛れた彼女の姿には、誰1人として気付いていない様子だった。
このままでは落ちてしまう、そう考えるよりも先に右足は大きな氷結を次々と足元に作り出していて。柵から手を離し、重力のままに落ちてくる彼女の真下へと何とかして滑り込んだ。
両腕を前へと出して、その身体を間一髪で受け止める。すると同時に、腕の中からは小さな悲鳴が聞こえてきた。

「大丈夫ですか…?」

か細い身体を抱きながら、そっと優しく問いかける。
すると、腕の中の彼女は小刻みに震えながら呟いた。

「ど、して……っ」

聞こえてきたのは、殆ど音が出損ねた消え掛かった声だった。
きっと彼女は今とても混乱していて、上手く声が出せないのだ。そう思い、彼女を落ち着かせるように「もう大丈夫です」と優しく声を掛けてやる。
すると、腕の中の彼女の顔がゆっくりと持ち上がる。
泣き垂らした赤い瞳と視線が合えば、そのまま鋭い眼差しがこちらをギロリと睨み付けた。

「なんで、助けたりなんかしたの…ッ!!」

次に鼓膜を打ったのは、そんな予想だにしない彼女の一言で。はっきりと告げられたその言葉に、思わず唖然としてしまう。

人の命を助けることは、当然のことだと思っていた。
このままでは彼女が死んでしまうと、とにかく必死に手を伸ばした。そこに彼女の意思なんてものを汲み取る余裕は、何処にもなかった。
勿論、もしあの瞬間に『このまま落ちたかった』という彼女の意思を感じ取っていたとしても、彼女が落ちるのをただ見ているだけなんて到底できるはずもなかったのだが。

「何があったのかは知らねぇけど、自分から死のうとするのは絶対にダメだ。」

そう強く言い聞かせるように、震える彼女の両腕をぎゅっと握る。しかし、彼女にはまるで何も聞こえていないようで、絶望に染まり切った怯えた表情でぽつりぽつりと言葉を呟く。

「嫌よ……もう解放して…死んだ方が、楽なの…っ、」
「…解放?」
「そうよ…どうせこのまま生きてても彼に殺されるだけなの…!もう痛い思いをするのは嫌…ッ、そんなの耐えられないッ!!」

何かに酷く怯えながら癇癪を起こす彼女は、自分の頭を抱えて泣きじゃくる。よく見れば、その細くて白い腕には幾つもの痛々しい痣があって、彼女が何に怯えているのかを何となく理解する。
彼女に死を選ばせるほど酷いことするなんて、そんなの絶対に許されることではない。彼女の話す"彼"と呼ばれる人物に、思わず憤りを覚えてしまう。
きっと、彼女はずっと1人で辛かったのだろう。苦しくて堪らなくて、とにかく解放されたかったのだ。それが例え死という結末だったとしても構わないと、そう思えてしまうほど追い詰められてしまったのだ。

この人を、助けなければならない。
オールマイトなら、緑谷なら、きっとそうする。
そんな考えが、静かに胸に火を灯す。

「落ち着け…もう大丈夫だ。誰も貴女を殺したりはしねぇ。痛い思いもしなくていい。……だから、言える範囲でいい。何があったかゆっくり話してくれないか?」

彼女が落ち着くようにと優しく背中を撫でてやると、それを合図に崩れ落ちるように彼女は声を上げて泣き始める。そんな彼女を抱えながら氷結を溶かして地上に降りると、彼女は涙を流しながら一つ一つその身に抱えたものを吐き出した。
大好きだった恋人が、共に過ごすに連れて自分を縛るようになったこと。それに耐えかね家を出て行けば、連れ戻されて酷い目にあわされたこと。
その後はずっと自由がなくて、辛くて苦しい毎日だったこと。
そして自分のお腹に男との子供ができ、このままでは自分も子供も幸せになどなれないと、意を決して今先ほどベランダから飛び降りたのだと。彼女は溜め込んでいた全てを少しずつ俺に語った。

それを聞いて、なんて酷い話だと率直に思った。
そんな酷い男とは、当然この先も一緒にいるべきではない。一刻も早く彼女を男の元から引き離し、そして彼女がこんな結末を選ばずに済むような、普通の幸せを感じられる環境に移してあげるべきだと思った。子供については、どうするにしてもきっと彼女にとっては重くて苦しい選択をすることになるけれども。でもきっと今それを乗り越えなければ、彼女は二度と救われないのではと、何となくそう感じた。

後からやってきた警察に事情を伝えて、彼女を乗せた救急車が走り去っていくのを静かに眺める。すると、すぐ側では、赤々と光るランプの光を追うように手を伸ばす一人の男が、女性の名前を呼んでいた。

彼は、見るからに普通の人だった。
穏やかで優しそうで、とても女性に手を挙げるような乱暴な人には見えなかった。
男は警察に引かれる腕を振り解き、その場に膝から崩れ落ちる。そして、そのまま地面に頭をつけながら何度も何度も彼女に謝り続けていた。

そんなつもりはなかったのだと。
本当に、心から愛しているのだと。

その男の姿が、何故だかやけに胸の中を騒つかせた。


それから数日が経っても、その日の出来事がどうしても頭の中から離れなかった。

男はただ、彼女のことを心底愛しているだけだったのだ。
しかし、その愛し方を完全に間違えてしまい、結果的に彼女を束縛して追い詰めてしまった。
男の釣り合わない過重な愛に、彼女は耐えられなかった。それはある意味当たり前の結果であると、彼女の話を聞いて思った。

しかし、それがまるで他人事のように思えないのは、どうしてか。
男の、彼女を心底愛する深い気持ちが、やけにリアルに想像できるのは、どうしてか。

そう疑問に思ってみるけれど、その答えは案外直ぐに頭の中で導かれる。

ああ、きっと俺も、あの男と同じなのだ。
底なしの、この悍ましいほど深く深く彼女を想う気持ちは、あの男が恋人に向けていたものとまるで同じものだから。
いつか俺も、大切な彼女のことをああやって追い込んでしまう日が来るのではないだろうかと、そんな考えが頭の中で渦巻き続ける。
死んだ方が良いなんて言葉を、名前に言わせてしまうなんて、そんなの想像したくもないけど。べたつような嫌な不安が、気が付けば胸の中を覆い尽くす。

何を、馬鹿なことを考えているのだ。
そんなことは、絶対に有り得ない。
そうやって我に返ろうとする度に、不意に脳裏に浮かんでくるのは、遠い昔お母さんに手を上げていた親父の姿で。

そこには誰の幸せも、存在しなかった。
お母さんは、いつも辛そうに泣いていた。

自分は絶対に親父のようにはならないと、ずっと心に誓っていた。
しかし、本当にそれを貫き通せるのか、あの男の姿を見てからはやけに心が揺らいでしまう。

自分の中に流れるのは、お母さんをああなるまで追い詰めた親父と同じ血で。あの日の壊れてしまったお母さんの姿が、あの男の恋人の姿と重なって、嫌な汗が全身を纏う。

いつか自分も、親父やあの男と同じ轍を踏んでしまうのではないだろうか。何か強い激動に駆られて周りが何も見えなり、意図せず彼女を傷付けてしまうのではないだろうか。
彼女を想うこの恐ろしく大きな感情が、いつか彼女の心を蝕んで、追い込んで、そして死の淵へと追いやってしまう日が来るかもしれない。
そんな怪物の種である俺と一緒に居ることが、本当に彼女の幸せなのだろうか。
優しくて他人思いで、そのくせ自分の痛みはひた隠しにして明るく振舞う彼女のことを、俺はずっと大切にしてあげられるのだろうか。

考えたことも、なかった。
彼女のことをただ心の底から愛していて、だからこの先も彼女と一緒に居れば必ず幸せになれるのだと、当たり前のように思っていた。
でも俺は、何をとっても普通ではない。
育ってきた環境も、彼女を想う気持ちの大きさも、とても歪で人とは違う。そんな俺が、彼女に普通の幸せを与えられる確証なんてどこにもない。

誰よりも幸せになるべき彼女が、お母さんやあの女性のような末路を辿るというのなら。きっと俺ではなくて、もっと普通に彼女を愛してくれる誰かと一緒になる方が、彼女は幸せになれるのではないだろうか。

彼女のことを、誰よりも何よりも愛している。

だからこそ、普通じゃない俺は彼女を手放すべきなのだ。

何日も一人塞ぎ込み悩んだ末に出た答えは、そんな何もかもから目を逸らす様なものだった。
それでも、それが彼女を1番幸せにする方法だと、その時は信じてやまなかった。


だからあの日、俺は彼女に最初で最後の大嘘を吐いた。
彼女に渡す筈だった指輪をポケットの中で握り締めながら、心にもない言葉を次々と彼女へと吐き出した。


「もう、終わりにしよう」

「名前のこと、もう好きじゃないんだ。」


突然言い渡されたその言葉に、彼女の顔はみるみるうちにぐしゃりと歪んでいく。すっかり血の気の失せた表情で、ただ唇を振るわせて何かを言葉にしようとするけど。それを遮る様に、俺は彼女の瞳を冷たく睨み付けた。

彼女の口から、もう何も聞きたくはなかった。
少しでも言葉を聞いてしまえば心が簡単に揺らいでしまうと、自分でも分かっていたから。

初めて送る冷たい視線に、彼女は狼狽えながら下を向く。そして、何も言わずに黙ったまま、綺麗な瞳からぽろぽろと涙を溢していた。

そんな彼女の姿に、息が全くできないほど、胸が苦しくて仕方がなかった。
心臓が痛くて痛くて堪らなくて、奥歯をぐっと噛み締めながら、彼女の顔から視線を逸らした。

そう、これで良かったのだ。
これで彼女は、俺では与えられない普通の人の幸せを、得られるようになるのだから。

そう自分に言い聞かせながら、悲鳴を上げる心にそっと重い蓋をした。去り際に背後から小さく「待って…」と声が聞こえてきても、何も聞こえないふりをした。








それから2年半の月日が経ち、久々に街で仕事中の彼女の姿を見かけた。

俺のことなどすっかり忘れて、別の誰かと幸せに暮らしているのだろう。そんなことを考えていた俺の瞳に映ったのは、幸せとはまるで程遠い彼女の窶れた姿だった。

あの頃の、柔らかく微笑む彼女の笑みはどこにもなくて。
そこには、溜まった疲れをひた隠しにして笑い、ボロボロの身体を引き摺りながら必死に誰かを助けまわる変わり果てた姿があった。今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女のその姿に、酷い困惑と抉られるような胸の痛みに襲われる。

違う、そうではない。
俺が彼女に望んだのは、こんな未来などではない。
もっと優しくて温かい普通の人の幸せを、彼女に与えてあげたかったのに。
それが、どうしてこんなことになっているのか、全く理解が追いつかなくて。

彼女の手を振り解いてからの約2年半、一体何があったのかを知りたくて、彼女と親しい人達に必死になって聞き回った。しかし、それを知る人間は誰一人としていなかった。
ただ、彼らは口を揃えてこう言うだけだった。

2年前から突然、彼女と連絡が途絶えてしまったのだ、と。

彼女が何かを一人で抱えているのは、明らかだった。
優しい彼女は、いつも当たり前のように誰かの痛みに気付いて手を差し伸べるのに、そのくせ自分が痛い時には黙ってそれを隠すのだ。
だから、ずっと彼女の側にいて、彼女が痛みを抱え込んでしまわぬように支えるのだと、そう心に決めていた筈なのに。
どうして俺は、彼女のことを自分から突き放したりなんてしたのだろう。
どうして俺は、それで彼女が幸せになれると確信していたのだろう。

実際の彼女は、他の誰かと幸せになるどころか、一人で全てを抱え込んでしまうだけだった。
彼女を傷付けないようにと選んだ選択は、彼女をとても酷く傷付けるだけの決断だったのだ。

その事実を目の当たりにした瞬間に、どうしようもない後悔や戸惑いの気持ちで胸の中がいっぱいになった。
大切で、今でもこんなに愛しくて仕方のない彼女に、俺はなんて酷いことをしてしまったのだろうか。

今すぐ彼女の元へと駆け寄って、崩れ落ちてしまいそうなその身体をそっと抱き寄せたいと思うのに。あの日、彼女のことを冷たく突き放した最低な自分が後ろ髪を引く。
傷だらけの彼女がすぐそこにいるのに、足は棒のように動かなくて。

もう、元には戻れない。
俺は彼女に取り返しのつかないことをしてしまったのだと、今さらになって思い知る。

伸ばした手のすぐ先には、彼女の姿が見えるのに。その手が届くことはなくて。
誰かの悲鳴が聞こえてくれば、彼女はどこかに走り去ってしまう。
そんな彼女の小さな背中を、ただ言葉もなく見つめることしかできなかった。





その日以降、どうすれば彼女に報いれるのかを必死になって考えた。
もう恋人では無くなってしまった俺と彼女を繋ぐものは、同じ職種であることだけで。

例え恋人には戻れなくても、ヒーローとしてなら彼女の側に居られるのではと、そんな考えが頭に過った。望みはかなり薄いだろうが、残された手立ては他にはなくて。
だから、彼女ともう一度全てをやり直すために、とにかく沢山お金を貯めた。小さな事務所を構えるのに、それほど大きな金額が必要だとは思わなかったが、何か不備があってはならないと必要以上に沢山貯めた。

そして、貯金も十分な額になり、そろそろ彼女に声を掛けようと心に決めた頃のことだった。

いつものようにHNを流し読みしていると、ふととある事件の報告書が目に留まった。
それは、ちょうど彼女の担当している地区での事件についてだった。特に大々的に取り上げているわけでは無い小さな記事の最後には、ひっそりとこう書かれていた。

救出された一般人は命に別状なし。
ただし、ヒーロー1名が意識不明の重体、と。

何だか無性に嫌な予感に苛まれ、気付けば身体が勝手に病院へと向かっていた。どこの病院かなんて、そんなの知るはずも無かったのに、昔何度か彼女の見舞いで訪れたあの大学病院に自然と足が進んで行った。

そして、嫌な予感はついには確信に変わってしまう。彼女の本名をフロントで告げれば、代わりに病室の番号が返ってきて。本当に彼女だったのだという絶望が、無性に心を焦らせた。

真っ白な病室には、死んだように深く眠る彼女がいた。その右目や右頬は大きなガーゼが覆われていて、とても痛々しくて苦しかった。
いくらか痩せた色の薄い左頬を、そっと優しく撫でる。指先に僅かに感じる彼女の温もりに、胸がぎゅっと締め付けられる。

俺のせいで、本当にごめん。
愛してる、ずっと名前のことだけ愛してた。

5年ぶりに触れる彼女に、胸の中は色んな気持ちで溢れかえって、どんどん視界が滲んでくる。
こんな姿を見られたら、きっと彼女に嫌われてしまう。そう分かっていても、愛しくて堪らない彼女への気持ちを抑えつけることなどできなかった。



それから暫く彼女が目覚めることはなかった。
今回の怪我は相当大きなものであったことに加えて、日頃の疲労困憊が彼女の身体を蝕んでいたからだと、偶に顔を合わせる看護師が教えてくれた。
彼女が眠り続ける間、毎日のように彼女の病室を訪れたが、ジーンズで編まれた御守りを見かけたこと以外は、誰も見舞いに来た痕跡はなかった。彼女の家族は、どうしても来られない状態なのだろうか。そんなことを考えながら、未だに目覚めない彼女の枕元の棚に、彼女の好きな色の花を飾った。

そうして数日が経ったある日、いつものように病室に向かおうとする俺に、看護師は彼女の目が覚めたことを教えてくれた。その知らせを聞いて、安堵や嬉しさで胸の中が軽くなった。
しかし、目覚めた彼女の病室へと今まで通りに通う訳にもいかなくて。それからは、見舞いの花をフロントに渡すだけの日々が何日か続いた。もちろん、花の差出人は彼女に告げないようにとお願いをした。

そうしていつものように花を届け終えた、とある日のことだった。病院の待合室の廊下で、不意に松葉杖をつく音が耳に入ってきた。広くて無機質な白い空間には、それほど多くの人はいない。だから、その音がどこから聞こえてきたのかは、直ぐに見つけることができた。

両手に包帯を巻いた彼女は、荷物の入った鞄を肩に掛けながら、ぎこちなく松葉杖をついていた。
もう起き上がっても大丈夫なのか、そう心配になるほど心許ない足取りは、とても見ていられるものではなくて。
今直ぐにでも彼女の肩を支えたくなる気持ちを、ぎゅっと拳を握って耐える。

すると、彼女の鞄が肩からするりとずれ落ちて、床へと落ちてしまう。それを拾おうとする彼女の手から、今度は松葉杖がカタンと滑り落ちてしまう。
崩れ落ちるようにその場に座り込む彼女の姿に胸が押し潰されそうで、耐えきれなくなった身体は無意識のうちに彼女の元へと駆け付けていた。

「大丈夫ですか?」

まるで知らない人のような口振りで声を掛けたのは、これが偶然だということにしたかったから。彼女が俺を拒まぬ様に、自然に近付きたかったのだ。

突然声を掛けた俺の方へ、ゆっくりと彼女の視線が向けられる。そこには、ずっと愛しくて堪らなかった彼女の瞳が、どこか色彩を失ったみたいに翳っていて。
目尻に溜まった今にもこぼれ落ちそうな涙が見えて、思わず目を見開き驚いてしまった。

「名前」

自然と手が彼女の頬へと向かっていく。親指に触れる温かい涙の雫に、胸が張り裂けそうになってしまう。
何かを必死に耐える様に強張っていく彼女の顔は、とても辛くて苦しくて。それもこれも全部俺が彼女にしてしまったことの結末なのだと、胸に深く刻み込む。

本当は、その傷だらけの頼りない身体をぎゅっと抱き締めていたかった。
あの日の嘘を謝って、今も変わらず愛していると彼女に伝えてしまいたかった。

でも、彼女が俺の手を必要としてくれたのは、ほんの一瞬だけで。直ぐに何でもない笑顔を貼り付ける彼女に、開いてしまった見えない距離を痛感する。
当たり前だ、あんなに酷いことをした俺を、彼女が快く思っている筈がないのだから。

しかし、それでも彼女とやり直したいと思う俺は、果たして正しいと言えるのだろうか。

考えれば考えるほど、「怪我が治ったら、一緒に働いて欲しい」なんて言葉はとても言い出せなくて。
貼り付けた笑顔で俺に手を振る彼女に、手を振り返すことしかできなかった。


そしてその数日後に、怪我を理由に彼女がヒーローを引退したことを知った。
彼女とやり直すきっかけをすっかり失ってしまった俺は、途方もない気持ちを一人持て余した。
彼女がどこに住んでいるのか、それすら知らない俺には、もう彼女とやり直すということは絶望的だった。

だから、偶々繁華街で彼女を見つけた時には、絶対に何としてでも彼女のことを繋ぎ止めようと心に決めた。
そして、誰一人として知らなかった彼女の事情を知った俺は、それはもう過去の自分を悔やみきれないほどに後悔した。彼女はその大切な身体を売りに出すほど、お金に困っていたなんて。多額の借金を返すために、今までずっと一人で身を粉にして必死に働いていたなんて。そんなの、何一つとして知らなかった。
あの日、彼女に別れを告げなければ、彼女がここまで追い詰められることなど無かったのかもしれない。
そう思うと、最低な自分を責めずにはいられなくて。

代わりにお金を出すと言った俺に、彼女は酷く戸惑い首を横に振り続けた。それでも半ば強引に話を進め、そして彼女と共に暮らすところまで何とか話を漕ぎつけた。

今度こそ、ちゃんと彼女を守り切るのだ。
辛い思いはさせないし、悲しい思いもさせない。

そう心に誓っていた筈なのに。









その日は、天気予報通りに夕方から激しい雨が降っていた。任務を早く切り上げて事務所に戻ると、そこには難しそうな顔をしたバーニンが頭を抱えていた。

「今さっき事務所に来た名前ちゃんと話してたんだけどさ、途中からなんか凄い顔色悪くて…1人で帰して大丈夫だったかな…?」

そんな彼女の言葉に、何故だか堪らなく嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、とても良く当たるもので。任務の報告書も出さないまま、慌てて事務所を飛び出した。

彼女は最近、とても体調が悪そうだった。
それに加えて、何かをずっと隠している様だった。
それは十中八九、あの日の夜、勢いでキスをしてしまったことに関係するのだろうと、そう思っていた。
だから、彼女に否定されるのが怖くて、踏み込んだことを聞けなかった。

こんなに不安になるのなら、きっと聞いておくべきだったのだ。
そんなことを考えても後の祭りだと分かっているのに、彼女のことになるといつもこうなってしまう。

どうか、この嫌な予感は勘違いであってくれ。
何事もない顔をして、家で帰りを待ってて欲しい。
そんな、これまで当たり前だった日々を切願するほど、心は不安で堪らなくて。


そして辿り着いた家の中からは、一つも音はしなかった。
心臓が、どくんどくんと大きな音を刻み始める。
玄関に靴はなくて、どの部屋にも彼女はいない。もぬけの殻になった家の中を見渡せば、ふとテーブルの上に手紙と少し厚みのある封筒が置かれているのに気付く。

それを目にした瞬間に、一体何が起きたのかをすぐに理解してしまった。



『焦凍くんへ


あの日、私に手を差し伸べてくれたこと、今でもとても感謝しています。
最後まで恩知らずな女で、本当にごめんなさい。
今までこの家に置いてくれて、ありがとう。

借りているお金は、用意できる限りを後日口座に振り込みます。全部返せなくて、本当にごめんなさい。

どうか、心から愛する人と幸せになって下さい。
焦凍くんの夢を、ずっと応援しています。


名前』




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