#11 慟哭


今にも雨を降らせそうな厚い雲が、空一面を覆っている。まだ昼過ぎだというのに、もうすぐ夜が来るみたいに辺りは妙に薄暗くて、何だか嫌な予感が胸を騒つかせる。落ち着け、大丈夫だ。そう心の中で呟きながら、深呼吸をするみたいな溜息をそっと静かに吐き出した。

ぼんやりと眺めていた空から視線を外し、前を向く。無機質なオフィスが規則正しく立ち並ぶその一角には、学生時代に毎日のように通っていたビルがあって。あの頃と何も変わらないその光景に、無性に懐かしさが込み上げてくる。
肩に下げる鞄を握り締めながら、ごくりと小さく息を呑み込む。一歩一歩と踏み出す足は、低気圧にも関わらず今日はそこまで痛みを感じなかった。

ゆっくりと開いていく自動ドアの向こうには、記憶通りのエントランスが広がっていて。フロントに立つ女性に会社と名前を告げれば、「名字様ですね、お待ちしておりました。」と言って彼女は柔らかく微笑んだ。
受付が終わると、早速待ち合わせ場所である所長室へと足を進める。すると、背後から慌てて私の名を呼んだ受付の女性は「所長がお迎えに上がるとのことなので、こちらで少々お待ち下さい」と言って私を引き止めた。

いや、こっちに来るって、そんなはずがない。
だって、所長室はここから1番遠いこのビルの最上階にあるのだ。そんな所から態々しがない販売営業の人間の出迎えに所長自ら足を運ぶなんて、どう考えてもあり得ないことだ。
しかし、そんなことを今目の前にいる女性に言ったところで、板挟みになった彼女が困ってしまうだけで。どうぞお掛けくださいとすぐ側にあるソファを勧めてくれる彼女にお礼を言って、そこに大人しく腰を掛けることしかできなかった。

所長を待っている間、エントランスを行き交うサイドキック達を見つめながら、ぼんやりと一人考える。
学生時代、神野の事件のすぐ後に一時的なインターンシップ先として私を受け入れてくれたのが、このエンデヴァー事務所だった。ただでさえ忙しかった筈のあの時期に、実力派の爆豪くんだけでなく私も一緒に受け入れて貰えたらのは、今考えても不思議なことで。きっと行く宛に困った私を助けるために、焦凍くんがエンデヴァーさんと色々掛け合ってくれたに違いない。
あの頃の私なんて、仮免許こそ持っていたが実力で言えば論外だった。だから、きっと3人のおまけ程度に扱われるのだろう…そう引け目に思っていた初日から、エンデヴァーさんは私にとても熱い指導をしてくれた。誰よりも忙しい人なのに、彼には手を抜くという考えがそもそも存在しなかった。次々と事件を解決していく彼の背中を見ているだけで、凄いと圧倒されてしまうけれど。それだけじゃない、彼は普段の仕事を全うしながらも、未熟な私達の動きを一つ一つ考察して指導する余裕があって。これがNo. 1になる人間なのだと、直接肌で感じた。

そして丁度あの頃、初めてお邪魔した轟家は色んな気持ちが複雑に絡み合った、滅茶苦茶な場所だった。だけど、辛くて厳しい決戦も終わり、私と焦凍くんが付き合いだした頃には、彼らの家はゆっくりと温かい家族の形を取り戻していた。
世間がいくら彼の過去を蔑もうとも、関係ない。今の彼は仕事が終われば家族との時間を大切にする、誰がどう見ても素晴らしい人間だというのを、私は知っているのだから。

そんなことを考えていると、奥にあるエレベーターが到着した音が鳴る。そして徐々にこちらに向かって歩いてくる足音が記憶の中の彼のものと重なると、ハッとなって立ち上がる。

振り向いた先には、数ヶ月ぶりにお会いするエンデヴァーさんの変わらぬ姿があった。

「すまない、待たせたな………今は名前と呼んだ方が良いか。」
「エンデヴァーさん…はい、お久しぶりです。」

寧ろこちらこそ、迎えに来て頂いてすみません。
そんな申し訳ない気持ちでいっぱいの私に、彼は「気にするな、少し散歩がてら来ただけだ」と少し視線を逸らしながら言った。相変わらず、彼は嘘が苦手らしい。優しくて真っ直ぐな彼のその性格に、ほんの少しだけ焦凍くんの姿が重なった。

「荷物をこちらに寄越せ、所長室まで運んでやる。」

そう言って、先ほどのやり取りを紛らわすみたいに、彼は私の肩にかかった荷物を手に取る。それがあまりに自然な手つきで、つい呆気に取られてしまった私は、気付けば荷物を自分の手から離していた。

「そ、そんな、悪いです…っ」
「遠慮は不要だ。」

いや、遠慮とかそういう問題ではなくて。顧客である彼に荷物を持たせる販売員など、一体どこにいるというのか。慌てて荷物を戻してもらおうと手を伸ばすけれど、彼はそれを断固として拒否する。一度言い出したら、最後まできっちりやり遂げる。そんな彼の性格を知っている私には、もはや折れるという選択肢しか残っていなくて。
「ありがとうございます…」と彼にお礼を伝えると、上から「ふん」と満足そうに鼻を鳴らす音が聞こえた。


活気ある事務所の雰囲気は、あの頃と何一つとして変わらなかった。懐かしい気持ちを抱きながら、きょろきょろとよそ見をして歩いていると、こちらをチラリと見たエンデヴァーさんは少し困った顔を浮かべて言った。

「…すまんがショートは今緊急の案件にあたっていて、暫く事務所には戻って来ない。」

そんな予想だにしない言葉が彼の口から放たれて、思わず「え…っ」と声をあげて驚いてしまう。
どうやら彼には、私が焦凍くんのことを探しているように見えたみたいだ。

私が今日仕事でエンデヴァー事務所に訪れると言うことは、焦凍くんには事前に伝えていた。そして今朝、彼から今日は一日中外回りの予定だと言うことを聞いていたため、ここに彼が居ないことを私は既に知っていた。しかし、エンデヴァーさんはきっと、私がそのことを知っているなんて一つも思っていないだろう。
「帰りは焦凍に送らせたかったのだが、すまない。」と何故か謝るエンデヴァーさんに、思わずギョッとしてしまう。

「いえ、そんな…っ!送って貰うなんてとんでもない…!ヒーローショートは忙しい身ですし、それに、えっと……」

いくらそういうのに疎そうなエンデヴァーさんでも、きっと私と焦凍くんがもう恋仲ではないことぐらい知っているはずだ。それなのに、わざわざ焦凍くんに送って貰うなんて、どう考えても不自然で。
でも、それを焦凍くんの実の父親である彼にどう伝えるべきなのか、言葉が中々定まらない。そんな私の様子を見たエンデヴァーさんは、その厳格が張り付いた顔を目一杯に緩めた優しい表情を向けて言った。

「ああ、焦凍から事情は概ね聞いている。こちらに気を遣わなくとも構わない。」

怪我で生活が困難だから、今は一緒に住んでいるのだろう。
さも当たり前かのようにさらりと彼の口から告げられたその言葉に、私はこれでもかと言うほど目を見開き驚いた。エンデヴァーさんは、何も知らないのだとばかり思っていた。だって、彼とプライベートな話をするのをあれほど嫌がっていた焦凍くんが、彼に私と住んでいるという事実を態々伝えているなんて、一体誰が想像するというのだろう。

しかし、よくよく考えてみると、それは当然のことなのかもしれない。焦凍くんが朝出る時間を私に合わせてくれているのも、この間までずっと帰る時間が早かったのも、きっと全部所長である彼を通している筈なのだから。
今まで一度も考えなかったが、そこには焦凍くんがエンデヴァーさんに掛け合ってくれていた事実や、エンデヴァーさんの優しい計らいがあったのだ。そのことに気づいてしまえば、どうしようもない気持ちが胸の中を一杯にする。

私は、こんなにも彼らの優しさや気遣いを無償で貰っていたなんて。
知らなかった、では済まされない。でも今の何も持たない私には、彼らに報いることなど到底できやしない。
そんな歯痒い気持ちも罪悪感も、ずっと胸の中に降り積もっていく一方で、決して無くなることはなくて。
それに追い打ちをかけるように、「何かあればいつでも頼ってくれ。」なんて優しい言葉を彼は掛けてくれるから。
どこにも逃すことのできない胸の痛みは、静かに私の心を蝕んでいった。




「こちらが新作のスーツの生地になります。特殊な耐火素材でできていて……」

所長室へと辿り着くと、雑談もそこそこに本題の製品紹介へと入った。鞄に詰め込んできた新製品のサンプルを机の上に並べて、彼の興味のありそうな順番に説明する。先ほどの優しい眼差しとは一変し、腕を組みながらいつも仕事時に見せる険しい顔でそれを聞くエンデヴァーさんに、緊張で鼓動が早くなる。
企画部門に所属する私には、普段はこういった営業みたいな仕事をする機会は殆どなくて。今回、何かの会話の弾みで「元ヒーローが説明に来た方が、きっと信用を得られるはずだ」なんて上司に言われなければ、一生ここに来ることは無かっただろう。

「うむ…?この腕周りがやけに軽く感じるのは何だ。」
「それはですね、こちらの新しい構造を使っていて……」

途中、気になったサンプルを手に取り試着をするエンデヴァーさん。それに合わせて、事前に用意してきた資料をタブレットに映し、説明する。
彼が今手に取ったのは、まさに私が提案し改良されたアイテムのうちの一つで。それは遠い昔、エンデヴァーさんが使用感について呟いていたのを思い出して開発部門に提案したものだった。
それは、ほんの些細な改善に過ぎないけれど。それでも驚いたように目を丸めて、厳しかった表情を少し緩めるエンデヴァーさんに、気に入ってもらえたのだと安堵する。

「お前は本当に、相変わらず素晴らしい働きをするな。」

腕に付けたサンプルを見つめながら、そんなことを口にする彼に、私は目を見開き固まってしまう。だって、私の記憶の中の彼は普段そんな風に人を褒めたりしない方だ。お世辞や冗談を口にするようなタイプではないことも知っていて、だからこれは彼の本心なのだと余計に思わざるを得なくて。
あのエンデヴァーさんが、私を評価してくれている。そう思うと、嬉しさで心が今にも震えてしまいそうになる。

「今日のは全部気に入った。うちのサイドキックの分の注文にも盛り込んでおいてくれ。」
「は、はい…!ありがとうございます。」

仕事のことには一切の妥協を許さない彼が、私のことを認めてくれたのだ。その事実に完全に緩んでしまいそうになる口元を隠し、彼に頭を下げてお礼を言った。

「…今後も期待しているぞ。」

当たり前のようにそんな言葉が降ってくる。
それは、とても嬉しい一言な筈なのに、舞い上がっていた心が途端に凍てつく感覚を覚えてしまう。
それはそうだ、だって私には彼の期待に応えられる未来なんて、もうどこにも残されていないのだから。

寧ろ、きっとこれが彼と共に仕事をする最後の時間になるだろう。
そんなことを今ここで彼に言える筈もない私は、ただ頭を下げたまま「ありがとうございます…」と返すことしかできなくて。上手く押し殺せない気持ちがグシャリと顔が歪めてしまうけれど、大きく息を吸い込んで何とか普通の表情を取り繕う。
顔を上げた先にある温かい彼の瞳に抱かれると、涙腺が緩んでしまいそうで唇をぎゅっと噛み締めた。


「……それと、名前」

机に並べたサンプルを仕舞い終わった私に、エンデヴァーさんは声を掛けた。背の高い彼の顔を見上げると、そこには何だかもどかしそうに首の後ろを掻く彼がいて。
どうしたのだと首を傾げていると、よく見知った綺麗な青色の瞳が真っ直ぐに私に向けられる。

「また今度、うちに飯でも食べに来い。…きっと冷も喜ぶだろう。」

それはとても温かくて優しくて、どこか過去を懐かしむような声色で。きっと5年前のあの時ように…なんて思いで誘って下さっているのだろう。
でも、そんな彼の好意が今はとても苦しくて仕方がなくて。

「はい…また今度、是非。」

そう言って精一杯に笑みを浮かべる私は、また大切な人に最低な嘘を重ね続ける。
今度なんてものは一生訪れたりはしないのに、それを知らない彼はただ私の言葉を信じて「ああ。」と静かに頷いてくれる。
そんな彼の返事に心が痛くて堪らなくて、ぎゅっと握りしめた拳には爪の跡がくっきりと残っていた。









「あれ…あれあれ!?これはまた随分と珍しいお客さんだねエンデヴァー!」

エンデヴァーさんと一緒に所長室を出ると、目の前に広がるオフィスにはよく見知った炎の髪が目に留まる。同じくこちらに気づいた彼女は私のヒーロー名を呼び、嬉しそうに足を弾ませながらこちらへとやってきた。

「バーニンさん。お久しぶりです。
その、今はもうヒーローでは無いので、本名で呼んでいただけると…」

そう言うと、ハッとなったバーニンさんは私の全身をジロリと眺めると、「ああ、そっか…!ごめんね、名前ちゃん!」と慌てて呼び方を改めてくれた。

「今日はうちに何か用事でもあったのかい?」
「はい、今日はサポートアイテムの新製品の紹介に伺いました。」

そう言ってエンデヴァーさんの手元にある荷物を申し訳無さそうに眺めると、バーニンさんは何か面白いものを見たような笑みを浮かべていた。
それに虫の居所が悪くなったのか、「いくぞ、名前」と彼女を避けるように歩き出すエンデヴァーさん。その後を慌てて追おうと足を踏み出すと、その途端、一人のオペレーターが電話を片手に「エンデヴァー、警察からの緊急要請です!」と声を張り上げた。
慌てて彼の方を見ると、すぐさま険しい表情を浮かべたエンデヴァーさんは「場所と状況を教えろ。」とオペレーターへと指示を出す。そして、私の頭に優しく手を添えた彼は一言短く謝って、「下まで送ってやってくれ。」とバーニンさんに私の荷物を押し付けた。

まるで嵐のように去ってしまった彼の後ろ姿を眺めながら、「行っちゃったね。」と呟くバーニンさん。それに頷く私に、「私らも行こっか。」と人懐っこい笑顔を向けてくれた。



「いやー、しかし今の若い子は本当に逞しいねぇ…!」

歩き出したバーニンさんの横に並んで歩いていると、彼女は突然そんな言葉を口にした。一体何のことだと首を傾げていると、彼女はその呟きの理由を付け加えていく。

「名前ちゃんはこうしてヒーローを引退してもしっかりサポートアイテムの会社で働いてるし…!同級生のダイナマとデクは独立するし!」

いやー、本当やる気に満ちてていいね!!そういうの好きだよ!!
いつもの元気な声で嬉しそうに私の背中をトントンと優しく叩くバーニンさんに、思わず苦笑が溢れ出る。
爆豪くんと緑谷くんは、確かに類を見ないすごい逸材だ。しかし一方で私は怪我を理由にヒーローを引退しただけの、ただの落ちこぼれに過ぎなくて。とても彼らと並んで称賛されるような人間ではない。
そんな返事をやんわりと返そうとしていたら、隣にいる彼女は突然何かを思い出したかのように「あっ!」と大きな声を溢した。

「…そういえば、ショートくんも自分の事務所持つって話してたけど、どうなったんだろうね?」
「え…?」

それは、初めて耳にする焦凍くんの話だった。

彼が、自分の事務所を持ちたいなんて。
そんなこと、昔も今も彼の口からは一言も聞いたことがなかった。
ぽつりと胸の中に落ちた戸惑いが、じわりじわりと波紋を呼ぶ。

それは本当に、彼が言っていた事実なのだろうか。
そんな不安な心を抱く私の気など知らない彼女は、エレベーターの下三角のボタンを押すと、うーん…と顎に手を当て何かを考え込む。

そして、私の知らない事実をまた、新たにその口から溢していく。

「ショートくん、独立するためにずっとお金貯めてたみたいだし、そろそろ凄い額になるんじゃないかな?」

あ、コレはボスには内緒で。あの人、ショートくんに本気で事務所継いで欲しいみたいだからさァ。
そんな呑気な笑みを浮かべるバーニンさんに、呼吸をすることすら忘れてしまうほどの衝動に駆られる。

独立するために、焦凍くんはずっとお金を貯めていた。

そのお金が、一体何に使われたのか。
それが分からないほど、私は能天気な人間ではない。

『それぐらいなら、今の俺の貯金で何とかなりそうだ。』
『ああ、でも気にしなくていい。別に使う予定もねぇから。』

あの時彼が口にした言葉が、不意に脳裏に浮かび上がる。
その言葉が一体何を意味するのか、全てを理解してしまった私は、ぞっと身の毛のよだつような感覚に思わず全身を震わせた。

お金を使う予定がないなんて、そんなの彼の大嘘で。
あの時私に差し出してくれたお金は、本当は自分の夢を叶えるために彼がずっと一人で貯めてきたものだったのだ。
それなのに私は、何て最低なことをしてしまったのだ。

ぎゅっと握り潰されているみたいに、心臓が痛い。
動揺で頭が真っ白で、視線がおかしなぐらいに定まらない。

何も、知らなかった。
本当に何も、知らなかったのだ。

だから私は、あの時差し出された彼の手を取ってしまった。
自分が救われたのだと、信じていた。
本当は彼の夢を、全て奪ってしまっただけなのに。

チン…とエレベーターが到着した音が聞こえて来る。誰も乗っていないその中へと足を進めるが、頭の中は空っぽで。
静かに行先階のボタンを押すバーニンさんは、何だか含みのある声色でその話題を続けていく。

「まあでも、今はそれどころじゃないのかもしれないね。」

その言葉に、まだ何かあるのかと思うと恐怖で心臓がぎゅっと縮む。嫌な汗が全身から噴き出てくる感覚に、もうやめて欲しいと思うのに声が一つも喉を通らなくて。
怖くて固まってしまう身体は、ゆっくりと動くバーニンさんの口元から視線が外せない。

「ここだけの話なんだけど、実はさァ、ショートくん最近やっと新しい恋人ができたみたいなんだよね…!」

いやー、名前ちゃんと別れてから一体何年経つんだって話だよ本当に!!
そんな彼女の明るい声に、鈍器で強く頭を殴られたみたいな感覚を覚える。

彼女は、一体今なんと言ったのだ。

思わずよろけて倒れてしまいそうになる身体を、何とかエレベーターの壁へと押し付ける。次々と変わっていく階数の表記に夢中な彼女は、そんな私の様子には一つも気付いていないみたいだった。

焦凍くんには、恋人がいる。
焦凍くんには、恋人がいたというのに。
どうして私はそんなことにも気付かずに、彼と過ごしていたのだろう。

優しく大切に扱われ、温かい手に触れられて、勘違いをしていたのだ。
今さら大事に想って貰える筈がないのに、どうしてか許されているような気でいた。

あのキスだって、私を求めてくれたからだと、そう思いたかったのに。

私はとっくの昔から、ずっと邪魔者だったのだ。


感じるのは、全身から力が抜けていくような感覚と、心が空っぽになっていく感覚だけで。
言葉が何も出てこない。
自分が息を吸えているのかすらも、分からない。


さっきからずっと何かを話しているはずのバーニンさんの声が、遠のき聞こえなくなっていく。

その後、自分がどうやって家に帰ったのか、何も覚えていなくて。
気付けば夕立に降られてずぶ濡れのまま、家の玄関に立っていた。








『名前、好きだ。愛してる。』

そう言って私を力強く包み込んでくれる大きな腕は、いつもとても温かくて。彼の背中に手を回してぎゅっと抱き付けば、嬉しそうに私の髪に彼はキスをしてくれた。

『ずっと、こうして一緒にいような。』

心底大切そうに私に触れる彼の言葉には、嘘偽りなど存在しなくて。
本当に、ずっとこうして彼と一緒に過ごせるのだと、私は信じてやまなかった。


だからあの日から、突然一人置いてけぼりになってしまった私の心は、ずっと彼の面影ばかりを追いかけ続けた。
次第に何も感じなくなった壊死した心をすぐに切り落とさなかったのは、きっと彼との万が一を期待していたからだろう。

そんな彼を求める己の弱さが、こんなにも最低で許されない結末を招くなんて、一つも思ってなかったのだ。




無心で鞄に詰め込んだ荷物は、この家に来た時よりも若干少ないぐらいだった。新しく彼に買ってもらったものは、私のものではないから置いてきた。きっとそのまま捨てられるだけだろうけれど、どっちにしろ使われないのだから何でもいいと思ってしまった。

いつもこの時間帯には身体の怠さが襲ってきて、暫く動けなくなるのだけれど。今は怠さどころか、身体のどこにも何も感じなかった。きっとアドレナリンが大量に出ているお陰だろう。

最後に彼への置き手紙と、帰りに下ろしてきた全財産を机の上に置いていく。家の鍵は、施錠後に封筒に入れてポストの中に返しておいた。

これでいい、これでいいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、雨の降る夜の街へと傘も差さずに飛び出す。吹き荒れる雨風が身体を打ち付けると、全身が寒さに震え上がった。
ぐっと歯を食いしばって耐える中、何となく頭に浮かんで来るのは、彼が新しく買ってくれたあのコートはとても暖かかったのだということだけで。
それももう、今から消えて無くなる私にとっては、どうでも良いことに過ぎないのにと、思わず溜息が溢れ出た。

理由もなく生きた人間の臓器を売買することは、この国では違法に値する。しかし、海外では法的に許されているケースもあるらしい。そこに漬け込み違法な商売をする団体は、残念ながらこの国にはたくさんあって。年間の行方不明者の約2割はそうして海外に送られているのだとよく言われている。

ヒーローをしていた頃は、そんな団体を見つけ出すのにも一苦労していたのに。
いざ自分が利用する立場になれば、あっさり見つかるのだから、この世はとても良くできている。

仲介料と手数料を引いた残りの金額が、一体どれぐらいになるのかなんて想像すらつかないけれど。私が踏み躙ってしまった彼の夢に少しでも返せるのなら、それで良いと思ってしまった。
これ以上、私が彼に返せるものはもう何も無いから。
だから、死んだ後も彼にずっと恨まれ続けるのなら、それは仕方がないことなのだと呑み込んだ。

きっと、一人勝手にどこかに消えた私を、彼は探したりはしないだろう。探して見つけ出したところで、私に返せるお金など無いことは分かりきっているのだから。
それに、私さえ居なくなれば、彼はあの不要な罪悪感に縛られることはなくなる筈で。
晴れて自由の身となって、あの家で新しい恋人と幸せな日々を送るのだろう。

それが、本来あるべきかたちだから。
これでいい、これが最も良い結末なのだと、そう自分に言い聞かせ続けるけれど。

激しい雨のせいだろうか、視界がぼやけて前が見えない。
真っ暗な夜道はまるで死へと続いているみたいで、歩く足が震えてしまう。

気付けば、すぐ側にある緑地公園へ逃げ込むように道を逸れていた。そこにあるベンチに一人座り込めば、途端に込み上げてくるあの咳が頻りなく私の身に襲いかかった。
雨に濡れたハンカチで口元を抑え、息もまともにできないほどの激しい咳に耐える。
苦しくて辛くて仕方がなくて、でも誰に縋ることもできなくて。
一人でずっと耐えてきたこの苦しみも、もうすぐ全てが終わるのだ。だから、ちゃんと今歩き出さなければならないのに。

まるでそれを拒むように、咳は次から次へと引っ切り無しに出続ける。口の中が血の味でいっぱいで、気持ち悪くて堪らない。

止まらない身体の震えに、平気だとか、大丈夫だとか、いつもみたいに言葉を並べてみるけれど。
そんな言葉では、もう心は騙し通せなくて。


心の奥底に棲まう本当の自分が、言葉にしてはいけない事実を強く強く訴える。



“死にたくない。”


“ずっとずっと、生きていたい。”


タガが外れ、溢れてしまった自分の思いに、慌ててぎゅっと口元を抑えるけれど。
そんなことでは、解き放たれた気持ちを鎮めることなどできなくて。


“ずっと、誰かに側にいて欲しかった。”


“右目も右足も、自由を失いたくなかった。”


“友達に、助けてと縋り付きたかった。”


“彼に、愛して欲しかった。”



これまで『仕方がない』と呑み込んできた感情が、一気に胸の中から溢れ出る。
止まれ、止まれといくら訴え掛けても、それは一向に止む気配はなくて。瞳からは、大粒の涙がポロポロと溢れていく。

今更何かを望んだところで、何も手に入らないのは分かっている。
それなのに、最期に全てを望まずにはいられなくて。


「名前」


雨が地面を打ち付ける音に混じって、不意に私を呼ぶ彼の声が聞こえて来る。

ああ、こんなにもはっきりと幻聴が聞こえるなんて。
私の頭は、ついにおかしくなってしまったみたいだ。

口元から離したハンカチを握りしめて、ただぐちゃぐちゃに濡れた地面を見つめる。
すると、地面を叩きつけていた雨の粒が、突然一つも空から落ちてこなくなる。

雨が、止んだのだろうか。
そんなことを考えるが、辺りには変わらず雨の音が響いていて。
代わりに、水が何かに弾けるような高い音が雨音と混ざって聞こえてきた。


「名前」


また、だ。
また、彼の声が聞こえてくる。
今度はさっきよりも優しく、大切に私の名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえてきて。

恐る恐る、その場でゆっくりと顔を上げる。


するとそこには、ここに居るはずのない焦凍くんが立っていて。

ぱさりと、傘が地面に落ちる音がする。
それと同時に、私の身体は何か温かいものに包まれる。


「良かった…本当に良かった…っ」


次に鼓膜を揺らしたのは、耳馴染みのない弱々しく震えた彼の声だった。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -