#10 桎梏


唇を指先でそっとなぞる。感じるのは冷たい手の温度だけなのに、切なくてもどかしい気持ちがどこからともなく溢れ出し、じわじわと胸を掌握していく。

あの時、どうして彼は私にキスをしたのだろう。

重ねた唇から伝わってくるその熱も、僅かに聞こえてくる呼吸の音も、優しい手が触れる感覚も。忘れはしない、あの頃彼としたそれと何一つ変わりはしなくて。
大切に大切に、私の全てを優しく包み込んでくれるような甘いキスは、まるで彼が今でも私のことを愛しているのだと言っているみたいで、胸がじわりと熱くなった。

ずっとずっと、私は彼を愛していたのだ。
もう二度と愛してもらえないと分かっていても、彼のことを忘ることなど出来なくて。ふとした瞬間に隣に居ないその姿を思い出しては、幸せだった過去の記憶に何度も何度も縋り付いた。

初めて恋に落ちたのも。
初めてキスを交わしたのも。
初めて躰を許したのも。

私の初めては全部、焦凍くんだったから。
だから、他の誰かに恋をすることなんて、微塵も考えられなかった。

そうやってずっと去ってしまった彼にばかり恋焦がれ、誰も居ない空っぽの日々を過ごしてきた。誰かの腕の温かさなんて、すっかり忘れてしまっていたのに。

彼は再び私をあの温かい腕で包み込み、そして、あんなにも甘くて優しい口付けをくれた。
そこにどんな意図があるのかなんて、私には一つも分からないけれど。
それでも、もしかしたら…なんて淡い期待を一度抱いてしまえば、もう止めることなどできなくて。


彼も、私のことを───

心の中で呟こうとした言葉の続きを、咄嗟に思い留めた。

すると不意に脳裏には、初めて彼が私に想いを打ち明けてくれたあの雨の日の情景が浮かんでくる。少し湿った彼の手がぎゅっと私の手を握り、ただ真っ直ぐに私を見つめて「名前が好きだ。」と伝えてくれた。
そんな淡く弾けるような思い出の中、彼の瞳に映る私はいつだって幸せそうな表情を浮かべていて。
あの頃の、彼が好きだと言ってくれた私は、身体のどこも不自由ではなくて、当たり前だが借金なんて一つもなかった。いつも憧れの夢やキラキラとした未来に胸を焦がしていて、失うことへの恐怖なんて微塵も感じていなかった。

それが、今はどうだろうか。
無茶ばかりを続けた身体は傷だらけでボロボロで、目も脚も普通の人のようには使えなくて。ただひたすらに抱えた借金を返す日々を送る、夢も希望も何も無い惨めな人間になってしまった。

こんな私の一体どこを、今更愛せると言うのだろうか。
愛しいと思えるところなんて一つもない、ただ同情を誘うだけの人間を、誰も愛したりはしないだろう。
それに私は、過去に彼に嫌われた身で。一度嫌いだと認識された人間が、再び好意を抱いて貰えるなんて、そんな虫のいい話などそう簡単に転がっている筈がない。

思い返してみると、昨晩の彼は一度も私に「好きだ」とか「愛してる」という言葉を口にしていなかった。付き合っていた頃はあれほど沢山伝えてくれたその言葉を、昨日はただの一度も口にはしなかったのだ。
それだけで、彼が私を愛していないことは明白で。

でも、それならあのキスは一体何だったのか。

唇に残った甘い余韻だけが、無性に胸を騒つかせる。

そんな私の複雑な心境なんて構わず朝はやってくる。
朝日の差し込む暗い部屋で膝を抱いていた私は、結局一睡もできないまま朝の支度を始めた。











翌朝、リビングにやってきた彼は私の姿を見つけると、その紅白の頭を深々と下げて謝った。そんな彼に慌てて顔を上げるようにお願いをして、「私の方こそ、ごめんなさい。」と今度は私が頭を下げた。
あの後、夜遅くに家の鍵が開く音がして、それから何度か彼の部屋とリビングを行き来する足音が聞こえてきた。きっと彼も昨晩はよく眠れなかったのだろう。
少し疲れた表情を浮かべた彼は、謝る私に首を振る。どこまでも優しい声色が「名前は何も悪くない」と呟けば、胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなった。

いっそのこと全部、私の所為だと責めてくれれば良かったのに。
好きでもない私に触れてしまった後悔も、上手く眠れずに溜まった苛立ちも、全部私に当て付けて発散すれば、きっと彼の心は少しは楽になるだろう。そんなことしか、私の使い道などない筈なのに。

でも、彼は絶対にそんなことをしたりしない。
どんなに理不尽な人間でも懐に入れて大切にする、誰よりも優しい人だから。

悲しそうに顔を歪ませる彼は、何かを言いた気な様子で私を見つめる。
きっと、昨日のことを言われるのだ。
そう何となく悟ってしまうと、急に身体が強張っていく。分かりきっていたとしても、事実を告げられるのは怖くて堪らないことだった。

しかし、彼はそんな私を暫く見つめるだけで、何も口にはしなかった。
本当は、私からあのキスの理由を彼に尋ねなければならなかったのに。意気地なしで臆病な私には、それを言及できる勇気なんてどこにもなかった。




それからは、まるで何事も無かったかのようないつも通りの時間が流れた。用意した朝食を彼は美味しいと言って食べてくれて、手に取ったお弁当を大切そうに鞄に仕舞う。そんな彼の態度に内心ホッとした私も、いつも通りに彼と接するように試みた。
不意に彼の唇が目に留まれば、あのキスの感覚がじわりと蘇ってきて胸を変に昂らせる。その度に唇をぎゅっと固く結んで、何とかその場をやり過ごした。

そうやって最初のうちは、何の違和感も感じることなく過ごせていた。
しかし数日が経ってみると、何かがおかしいことに気づき始める。いつも通りの距離感で彼の隣にいるつもりでも、どこか彼を遠くに感じてしまう。今もソファの右隣に座っている筈なのに、まるでそこには彼が居ないような心許なさに襲われる。

無性にもどかしくなった右手を、思わずぎゅっと握り締める。
するとその途端、今まで感じていた違和感の正体にふと気付いてしまう。

彼の手が、私のどこにも触れていないのだ、と。

その手はいつも私を安心させるかのように、さり気無くどこかに添えられていた。だから、右目が見えていなくても彼が隣にいるのだと確信できたし、伝わってくる温もりにどこか安心感を抱いていた。
しかし今は手どころか肩すらも触れない距離にいて。たった数センチの距離なのに、大きな溝が突然隔たってしまったみたいに感じてしまう。

ああ、きっとこの溝は偶々できたものではない。
彼が意図的に私のことを避けているのだ。

それに気付いた途端、握っていた右手が思わずビクリと震えてしまう。
ここ数ヶ月、ゆっくりと積み重ねてきた何かが、音を立てて崩れ落ちるような感覚がした。

どうして私は、いつもこうなのだろうか。次は上手くやらなければと、あれほど気を付けていた筈なのに。また、あの時と同じことを繰り返している。
その溝は、誰よりも優しくて責任感の強い彼が、少しずつ我慢の限界を迎えているということで。
このままでは、きっとまたあの時のように捨てられてしまうのだと、本能的に理解する。

あの日、最後に見た彼の冷たい瞳が脳裏に浮かべば、途端に背筋が凍てつくような感覚に襲われる。段々と遠のいていくテレビの音に、自分が上手く呼吸できているのかすら分からなくなる。

すると突然、喉の奥から込み上げてくるあの感覚が訪れて、身体が不味いという警告を出す。彼が隣にいる今ここで、あの咳をする訳にはいかない。痛む足など気にする余裕のないままソファから立ち上がると、逃げるようにリビングを後にした。

彼に聞こえてしまわないように、ポケットに入れていたハンカチで口元を押さえて咳をする。駆け込んだトイレで崩れ落ちるように膝をついて、息もできないほど激しく込み上げてくる咳を必死に止めようと歯を食いしばる。
嫌な汗が全身を纏っていて気持ちが悪い。
少ししか息を吸う間が保てなくて、胸が苦しくて、怖くて、不安で堪らなくて。
ぽとぽとと目からは涙が溢れ出てくるけれど、それを拭う余裕なんて何処にもない。

これは、彼を不幸にし続けている私への罰なのだろうか。
もういい加減に彼を解放しろと、神様は怒っているのかもしれない。

落ち着いてきた咳の合間に大きく息を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出す。
胸の苦しさからは徐々に解放されていくけれど、口元を覆うハンカチに付いた赤色は、日を追うごとにその面積を増やしていて。

多分、私の身体はあまり良い状態ではない。そんなこと、だいぶ前から分かっていた。でも病院に行く時間も取れず、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせて騙し騙し過ごしていた。
もうそろそろ本当に限界なのかもしれない。
そう勘付かせるように、身体は日に日に気怠さを増している。

今度の週末、焦凍くんは仕事で家に居ないらしい。彼に黙ってこっそり病院に行くとするなら、もうその日しかない。
心の中でそう呟きながら、ハンカチの血のついた面を内側に折り畳む。そして濡れた頬を裾で拭い、何事も無かったかのような顔を浮かべて、彼の待つリビングへと戻った。










そしてその週末、最も危惧していた事態が私を襲った。

朝、いつにない気怠さに違和感を感じながらも、何とかいつも通りに焦凍くんを仕事に送り出した。そして彼が家を出た途端に、アドレナリンが切れたみたいに眩暈や頭痛が急に押し寄せて来て、暫くソファから動けなかった。

結局、朝食の後片付けを始めたのは眩暈が治ってからで、彼が出てからだいぶ時間が経っていた。その後も身体に妙な違和感を感じながらも洗濯や掃除を簡単に済ませ、病院に行く前に買い物を済ませておこうと先にスーパーへと足を運んだ。

しかしその道中、目的地をすぐ目前にして、私はまたあの咳に見舞われたのだ。
いつもよりずっと激しく込み上げてくる咳に、道端で蹲って耐えることしかできなくて。苦しくて怖くて、でもどうすることもできない私に、近くにいたヒーローが慌てて駆け寄り、そして近くの病院へと私を運んでくれた。

病院に着く頃には咳は落ち着いていたけれど、今朝感じていたあの眩暈や頭痛が断続的に襲って来て、暫く動けずにいた。そんな私の状態を見た医師は、目の前で看護師に何やらたくさんの指示を出していた。そのやり取りを聞き取る余裕などない私は、ただ看護師に言われるがままに検査室へと足を動かした。
初めて見るような装置に身体を預けているうちに、頭痛や眩暈は治っていて。検査が終わり、待合室へと戻る頃には酷い身体の疲れだけが残っていた。

冷たくて硬い待合室の椅子に座りながら、嫌に鳴り響く自身の心臓の音を聞く。
検査室を出てから、一体どれだけ時間が経ったのだろうか。
今晩のご飯の買い出しがまだ終わっていないことや、帰ってからしようと思っていた残りの掃除のことが、頭の中をぐるぐると渦巻いていて。そんな何でもないことを必死で考えていないと、可笑しくなってしまいそうだった。

そんな普通じゃない思考を巡らせていると、不意に診察室から名前が呼ばれる。ドクンと跳ね上がる心臓に気付かない振りをして、静かに診察室の扉を開いた。

丸い椅子に腰を下ろした私に、医師はまずいつから症状があったのかを尋ねた。
その後も幾つか質問を投げかけられ、その度に嘘偽りない事実を初めて思うままに口にした。

そして最後に深刻な面持ちをした医師は、静かに私の病名を口にした。
そのどこか聞き馴染みのある響きに、私は思わず言葉を失ってしまう。

今、一体医師は何と言ったのか。
聞き間違いでは無いだろうかと医師の顔を見つめてみるけれど、そのどうしようもなく残念な表情に、耳を疑うことすらも諦めてしまう。

医師の口から告げられたのは、私の母を死に追いやったあの病気の名称だった。

それが事実であると分かった瞬間に、心臓が凍てつくような感覚を覚える。息を沢山吸っている筈なのに、まるで何も肺に入ってきていないみたいに胸の中が空っぽで。ひたすらに遠のいていく辺りの音に、意識がどこか遠くに離れていくみたいな感覚を覚える。

私は、このまま死んでしまうのだろうか。
殆ど感覚のない指先が、少しだけ震えている。まだ病名しか医師の口から告げられていないのに、彼のその表情がすでに全てを物語っているようで。何とも表現し難い感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに掻き乱れる。
未だに理解の追いつかない頭は、空っぽになる一方で。ただ一つだけ思い浮かんだ疑問を、何とかして言葉に出した。

「あと、どれぐらい生きられるのですか…?」

その言葉に、医師は明らかに眉を顰めて言葉を喉に詰まらせる。
その様子だけで、残りが僅かであることは明白だった。

「……このままいくと、もってあと半年程度でしょう。」
「そう、ですか……。」

突きつけられる現実に、足元が崩れ落ちていく感覚に襲われる。
たった半年で、一体何ができるというのか。
そんな短い時間では、どうしたって焦凍くんへの借金なんて返せない。

はっきりと輪郭を現した絶望の淵に、もう言葉なんて一つも出てこなくて。知らぬうちに踏み入っていた最悪のシナリオに、今更どうにもならないことを痛感する。

ああ、私は何てことを焦凍くんにしてしまったのか。
あの日、焦凍くんの手を取った愚かな自分に酷い憎悪を抱く。
返せもしない借金を彼に肩代わりさせて、その責任を果たさぬままむざむざと死ぬなんて。そんな最低なことがあって良いはずがない。

あの日、理由も聞かずに私の借金を払った彼は、「名前はこの先何の心配もしなくていいんだ。」と言って、私を抱きしめてくれた。
絶望の底から私を掬い上げてくれた優しい彼に、どうしてそんな恩知らずなことができるというのか。

視線を落とし絶望を噛み締める私に、医師は少し躊躇いながら言葉を続ける。

「治療をするという手も、あるにはあります。」

その一言に、私はハッとなって顔を上げる。
5年前、母がその病気を患った時は、治療法などこの世の何処に存在しなかった筈なのに。今はそれも確立されたと言うのだろうか。
どこか希望を探すように医師の顔へと視線を戻すが、その表情は決して明るいものではなくて。

「……ただ、国内ではまだ認可されていないので、アメリカでの治療になります。保険も適応していないので、治療費だけでも相当な金額の用意が必要です。」

それはつまり、普通の人間にはその治療は受けられないのだという意味で。希望でも何でもないその選択肢に、目の前が真っ暗になっていく。

ただでさえ多額の借金を背負っている私が、そんな大金など用意できる筈がない。そんなの、考えるまでもないことだ。
念の為にと医師から手渡される資料の表紙をじっと眺める。資料を一向に開こうとはしない私に、医師は私の選択を薄々察しているようだった。

「もうそれほど時間はありませんが、一度ご家族とよく相談されることをお勧めします。」

最後に、そんな気遣いの一言を優しく添えてくれるけど。そんなことを相談する家族なんていない私は、その言葉に愛想笑いを浮かべることしかできなかった。










病院へ行ったあの日から、私の体調は明らかに悪くなる一方だった。ショックからか食事はあまり喉を通らず、仕事から帰った後は身体が鉛のように重たくて、休まなければ立っていることすらもままならない状態だった。
このことを、ちゃんと焦凍くんに伝えなければならない。そう分かっていても、キスをしたあの日から突然帰りが遅くなった彼が、私のことを避けているのは明らかで。そんな彼に、もう余命が僅かしかないなんて最低なこと、とても言い出せなかった。

『悪りぃ、今日も遅くなっちまいそうだから、晩飯は先に食べててくれ。』

そんなメッセージが毎日のように届く度に、胸の奥がズキリと痛くなる。残された時間が迫ってくる感覚に、どうしようもない焦りを感じてしまう。
彼の分の夕食を何とかして作り終えると、何も食べずにそのままソファに横になる。彼が帰宅したら、ちゃんといつも通りに振る舞えるように。そんなせめてもの思いを抱きながら、気怠い体を休ませる。

幸いなことに、彼は私の異変には何も気付いていない様子だった。
しかし、この状況をいつまでも隠し通すことなどできない。きっと、もうすぐ家事や仕事すらも十分にできなくなってしまうだろう。
そんな状態になってからでは、もう遅い。
彼の役に立たないうえ、お金を稼ぐこともできない私など、この家に置いておく価値すらないのだ。
もしかしたら、優しい彼はまた私に不要な同情をして、ここに置いてくれようとするかもしれない。
でも、その恩に報いるほどの時間も財産も、私にはもう残っていない。

早く彼に本当のことを打ち明けて、ここを出ていかなければならない。この身体だって早く売らなければ、誰も良い値で買い取ってくれなくなってしまう。弱っていない臓器が一体どれだけ残っているのか分からないけど、それでもそれを売らなければ、私は焦凍くんに借金の一割も返せない。そんな酷い話があって良いはずがない。

最後まで最低な人間で、ごめんなさい。
そう呟きながら、重たい瞼をそっと閉じる。顔を埋めている柔らかいクッションからは、優しい焦凍くんの香りがした。





ふわりと何かに包まれる感覚がして、無意識のまま瞼を開く。視界には、ぼんやりと赤と白が映っていて、何の色だろうかと考える。

「お……悪りぃ、起こしちまったか?」

不意にそんな声が聞こえて来て、何も考えないまま「焦凍くん……?」と尋ねてみる。すると、徐々にはっきりとする視界の先には、心配そうに眉を下げた彼の顔が見えてきた。

しまった、いつの間にか寝落ちてしまっていたみたいだ。
その事実に気付いて、慌てて身体をソファから起こす。彼の夕食を温めないと。いつの間にか身体に掛かっていた毛布を引っ剥がし立ちあがろうとすると、すぐ側から伸びて来た手が私の身体を引き止めた。

「いや、いい。名前はこのままゆっくりしててくれ。」
「そんな…っ、ご飯、温めないと…」
「それぐらいなら俺にもできるから、大丈夫だ。」
「でも、」

それは私に与えられた仕事で、私がしなければここに居る意味を失ってしまう。そんな私の心の声を読み取ったのか、彼はそれは違うとでも言うかのように首を振り、私の身体にそっと毛布を掛け直した。
そんな彼の好意にまるで身動きを封じられたような気持ちになり、そのまま脱力するようにソファへ背を沈める。しかし、どうにも落ち着かなくて毛布の端をぎゅっと握ると、目の前に膝をついた焦凍くんは、私の顔を覗き込むようにこちらを見た。

「名前…最近、無理してねぇか?」
「え…っ?」
「顔色、あんま良くねぇみたいから…」

ドクン、と心臓が跳ね上がった。
彼にバレてしまったのだろうかという焦りが、頭の中を駆け巡る。

「そ、そうかな?そんなことないよ。」
「…そんなことなくないだろ。ここ最近、ずっと辛そうな顔してるぞ。」

はぐらかすように笑う私に、焦凍くんの表情は更に険しくなっていく。彼は、怒っているのだろうか。不安で堪らなくなる心は、一体どうすれば良いのか分からなくて。

「その……せ、生理で、お腹が少し痛いだけだから……」

そんな嘘が、咄嗟に口から溢れ出た。自分でも最低な嘘だと分かってたけど、気づいた時にはもう何もかもが遅かった。

ああ、全く私は何をやっているのだろう。今本当のことを言わなくて、一体いつ彼に伝えるというのか。
ただでさえもう時間がない状況なのに。
私はどれだけ意気地なしなのだ。

ぐるぐると渦巻く後悔に胸が押し潰されそうで、思わず唇を噛み締める。
それが生理痛に耐えているように見えたのか、彼は少し慌てた表情を浮かべて言った。

「そうだったのか…。その、気付かなくて悪かった。名前の体調が戻るまで家事は俺がするから、名前はゆっくり休んでてくれ。」

そう言ってその場に立ち上がった焦凍くんに、慌てて首を横に振る。

「そんな、大丈夫だよ…!今はもう痛くないから…っ」
「ダメだ。今痛くなくても、次にまたいつ痛くなるか分かんねぇだろ。」

だから、名前はここで休んでてくれ。
そう言って、焦凍くんは優しく私の頭に手を添える。
きっともう、数えるほどしか彼の側には居られないし、彼の役に立てる時間は残っていない。だから、今ここで少しでも彼の為になることをしないといけないのに。

目の前で優しい表情を浮かべる彼は、きっと私がそうすることを望んでいなくて。

「温かいココアなら飲めそうか?」

そんなどこまでも優しく私を気遣う彼の言葉に、思わず涙が込み上げそうになってしまう。

「うんん、自分で注ぐから平気だよ…」
「名前、」

首を振り断る私の手に触れたのは、温かい彼の手で。
そのままぎゅっと握られると、久しぶりのその温もりに、どうしようもなく胸が熱くなってしまう。

「お願いだから、甘えてくれ。」

真っ直ぐに私を見つめる彼の瞳には、私を心底心配する優しい気持ちが滲み出ていて。
嬉しいのに、悲しみや寂しさが心を埋め尽くしていて、自分でもよく分からない感情に戸惑ってしまう。

このまま死んでしまうだけの人間に、彼のその優しさは勿体無くて。
だから私は、早くここから立ち去らなければならないのだと、心の底から理解する。



程なくして目の前のテーブルに置かれたマグカップからは、ほんのりと甘い匂いが漂っていて。
最近は何を食べても味がしなかったのに、そのココアだけは特別とても美味しく感じた。



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