#9 紫苑


その日は、朝からずっとそわそわして落ち着かなかった。

夕方、いつもより少し早めに仕事を切り上げて帰宅の準備をしていると、ポケットにあるスマホが鳴った。そのままスマホを手に取り通知を見ると、そこには焦凍くんから約束の場所に到着したというメッセージが来ていて。少し足早にオフィスを出たのは、ついさっきの話だ。

会社の前の大通りから一本小道に逸れると、人通りも車数も極端に減る。だから、すぐそこにいる深々と帽子を被りマスクで顔を覆った男が彼であることは、すぐに理解できた。
彼の元へと足を進める私の存在に気付いたのか、彼は顔を上げてこちらを向くと、嬉しそうに目を細めて私の元へと駆け寄った。

「名前、おかえり。」

私の側へと辿り着くと、焦凍くんはその両腕をほんの少しだけ広げてみせる。しかし、直ぐに何かに気づいたような表情をすると、何事もなかったかのように静かにその腕を下ろした。

それはほんの一瞬で、しかも分かりにくい僅かな動きだったけれど。
確かに今、彼の腕は私を抱き止めようとしてくれていたのに、私は気付いてしまっていて。無意識のうちに身を預けようとした私の身体は、行き場をなくしてその場に踏み止まってしまう。

ああ、この期に及んでまだ私は、こんなにも当たり前のように彼の腕に包まれようとしているのか。彼に散々嫌われて捨てられたということを、まるで理解していない。
きっと彼も無意識だったのだろう、目の前で紛らわすような曖昧な笑顔を浮かべているのが何よりも証拠で。ぎゅっと服の裾を掴みながら、チクリと痛む胸に耐える。

そんな一連のやり取りに何も気付いていないような素振りをしながら、できる限り自然な笑顔を浮かべて「焦凍くんも、おかえりなさい。」と返事をした。
そんな私の反応に安堵の表情を見せた焦凍くんは、「表にタクシーを呼んておいたから、行こう。」と言って私の身体を支えるように腰にそっと手を回した。


タクシーに乗ってから約束のお店に着くまでは、そう時間は掛からなかった。
刻一刻と迫ってくるその時が、何だか無性に恐ろしくて、心臓はずっとドクドクと大きな音を鳴らしていた。
皆んなと仕事以外の場で会うのは、実に5年振りになる。あの時の私は一体どんな風に皆んなと話していたのだろう。それすらあまりはっきりと思い出せなくなっていて。本当に、私はこれから皆んなと会っても大丈夫なのかと、不安で胸が押しつぶされそうになってしまう。

今更、一体何の用だ。そんな冷たい目を一つでも向けられてしまえば、私はきっともう二度と……。

気を緩めれば震えてしまいそうになる身体中に、力を入れる。
すると、固く強張った私の手に、温かい手がそっと静かに重ねられる。

「大丈夫だ。」

それは、まるで私の心を読み取ったかのような、穏やかで優しい言葉だった。
ハッとなって顔を上げると、直ぐ隣に座る彼はただ柔らかな笑顔を浮かべていて。
この手を絶対に離したりはしないから、だから何も心配しなくていいのだと、そう言われている気がして、身体の力が抜けていく。

じんわりと手から伝わる彼の体温は温かくて。
もしも今、この手に指を絡めて握り返せたとしたならば、どれだけ幸せなのだろうか。そんなことは絶対に許されないと分かっていても、考えてしまう自分がいて。
気持ちを紛らわすように深く呼吸をして、そして小さく彼にお礼を言った。











「いらっしゃいませ。」
「19時から予約をしている、麗日です。」
「麗日様ですね、どうぞこちらです。」

気付けば、焦凍くんに手を引かれてお店の中へと入っていた。今すぐにでも竦んでしまいそうな足を前へと押し出せるのは、温かい手が私に大丈夫だと伝えてくれているからで。
案内された奥の大きめの個室の入り口には見知った人影がチラリと見えて、心臓が大きく跳ね上がる。
急に歩く速度が遅くなった私の心を察したのか、焦凍くんは私の手を握る力をぎゅっと強める。絶対に一人にしないと、彼の手はそう訴えているみたいで。その手に縋り付くみたいに私の身体は少しずつ前へと進む。

「飯田、遅くなっちまって悪りぃ。」
「轟くん…!ああ、全くもって構わないさ!」

実はまだ半数も揃ってないのだと言って笑うのは、久しぶりに聞く飯田くんの声で。焦凍くんの後ろに隠れるように立っていた私は、ゆっくりと視線を彼の顔へと上げていく。
すると、同じタイミングで私を見た飯田くんとメガネ越しに視線が合う。

「名字くんも久しぶりだな…!本当に今日はよく来てくれた…!」

そう言って飯田くんは、昔と何も変わらない優しい微笑みを浮かべてくれる。そんな彼の反応は凄く懐かしいものなのに、それにすら緊張してしまっている私は「あっ」とか「えっと…」なんて言葉しか口にすることができなくて。
本当に、なんて情けないのだろう。
こんなの、飯田くんに残念に思われるに決まっているのに。言葉を探せば探すほど、頭の中が真っ白になって何も浮かんで来なくなる。
そんな私に飯田くんは少しだけ驚いたような顔をして、そしてポンと私の肩に手を添えた。

「あまり無理に言葉を探す必要は無いぞ。今ここに君がいてくれるだけで、俺たちは至極嬉しいんだ。今日は君のペースで、君のできる話をしてくれたら、それでいいさ。」

その言葉に、ハッとなって飯田くんの瞳を見る。
すると彼は見たことのある優しい表情を浮かべながら私のことを見つめていた。

『君は親しい人以外と話すのがあまり得意ではないのだろう? 気負わず、君のペースで話してくれればそれでいいんだ。』
1年の初めの頃、人見知りで上手く話せない私のことを、飯田くんはいつも気に掛けてくれていた。私には何の取り柄もなくて、いつもクラスでは目立たない存在なのに、それでも彼はしっかりと私のことを見ていてくれていて。
彼はいつだって、とても優しくて頼りになる委員長だった。

彼はきっと、あの頃と何も変わっていない。
雄英を卒業したって、ヒーローを辞めたって、私を一人の仲間として気に掛けてくれている。

込み上げてくる感情に耐えきれずに、ぎゅっと唇を噛み締める。そんな私の手を、焦凍くんの大きな手は静かに握り直してくれる。

「そういや、麗日はまだ来てねぇみたいだな。」

個室の中を覗いた焦凍くんは、そう言った。その視線を追うように個室の中をチラリと覗けば、そこには懐かしい顔が沢山あって。皆んながこちらを見ている気がして、緊張が喉の奥から込み上げてくる感覚に襲われる。

「ああ、そうなんだ。実は麗日くんはここに向かう途中、足を挫いたお婆さんを見掛けたらしく、そのお婆さんを病院に送ってから来るという連絡が来ていたよ。」
「そうか。」

お茶子ちゃんは、まだここには来ていない。
その事実はとても残念なことなのに、何だか少し安堵してしまう自分がいた。
あんなに優しい飯田くんとも、まともに話をすることができなかったのだ。きっとお茶子ちゃんとも同じことになってしまうに違いない。
今度こそ、ちゃんと彼女に謝らなければならないのに。
いくら深く息を吸っても、無駄に大きく響く鼓動は中々鳴り止んではくれなくて。その息苦しさは私からどんどん自信を奪っていく。それでも今ここで立っていられるのは、ひとえに繋がれた彼の手が私に優しい熱を与えてくれているからで。

ささ、好きなところに座ってくれたまえ!と飯田くんに個室の中へと促されれば、焦凍くんはゆっくりと足を中へと進めていく。突き刺さるような視線が怖くて足元ばかりを見つめていれば、とあるテーブルの前で焦凍くんは立ち止まった。

「ここ、いいか?」
「あ、うん!勿論だよ、轟くん。」

そんな気の良い声が聞こえてきて、ふと顔を上げる。
するとそこには、とても懐かしい面影がこちらを優しく見つめていた。

「名字さんも、久しぶりだね。」

そう言って穏やかに微笑む緑谷くんに、どうすれば良いのか分からなくて無意識に視線が泳いでしまう。
小さく頷き、絞り出すように「う、うん……」と一言呟いてみるけど、それはとても会話とは言えないもので。

上手く緑谷くんと話ができない。

そんな私の心の焦りを汲み取ったように、焦凍くんは私の前にある椅子を引き「座れるか?」と一言かけてくれる。いつもの優しい彼の声に心が少しだけ落ち着きを取り戻すと、しっかり頷くことができて。彼の手に支えられながらゆっくりと椅子へと腰を下ろした。

「名字さんとは地下組織の討伐作戦以来だから、1年半ぶりぐらいになるかな…?」そんな話を切り出してくれる緑谷くんに対して、「そう、だね…。」なんて明らかに様子のおかしい返事しかできなくて。
本当は、元気そうでよかったとか、緑谷くんの活躍はいつも耳にするよとか、そういう話をしたいのに。昔の私がやっていた、緑谷くんとの自然な会話の仕方がどうも分からなくて。頭に浮かんでくる言葉全てが何だか馴れ馴れしい気がして、言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。

そんな私に、緑谷くんは怒ったりつまらなさそうにすることはなくて。ただ、優しく穏やかに私の瞳を見つめて言った。

「今日は久しぶりに君に会えて、僕は本当に嬉しいよ。」

その言葉に、思わず目を見開いた。
こんな会話すら満足にできない私に、彼はどうしてそんなことを言ってくれるのだろうか。
明らかに気を使ってくれている緑谷くんは、きっと私のいるこの空間が不快でならない筈なのに。
それでも目の前には、あの頃と何も変わらない彼の温かい眼差しがあって。緊張で押し潰されそうな胸が、優しく心を包み込まれるみたいな感覚を覚える。

「怪我、大変だったね。」

私の目元の傷を見た彼は、そっと静かにそう言った。
たった一言だけなのに、その彼の表情も、声色も、視線も、全てが私のことを心底大切に想っているのだと訴えているみたいで、じわりと胸の奥から何かが溢れ出してくる。

「うんん……今はもう、平気だよ。」

首を横に振りながら、大丈夫なのだと示すように笑ってみせる。
さっきまであんなに喉に詰まっていた言葉は、次は自然と口から滑り出た。
そんな私に緑谷くんは少しだけ目を丸め、そして何だか少し寂しそうな表情を浮かべた。

「…君は、何年経っても変わらないね。」

穏やかに放たれたその言葉に、驚きのあまり「えっ」という音が口から溢れる。
こんなにも、何もかもが変わり果ててしまった私の、一体何が変わらないというのか。緑谷くんの言葉の意図が分からず躊躇っていれば、彼は続きの言葉を付け足した。

「どんなに辛くても、君はいつも平気だとしか言わないから。」

そう言って悲しく歪められる彼の顔に、思わずぎゅっと拳を握る。
どうしてそんなことを言うのだろう。
身に覚えのない言葉に戸惑う私は、目の前にある深緑色の瞳を見つめることしかできなくて。

「本当はね、学生の頃からずっと僕達は君が我儘言って甘えてくれるのを待ってたんだよ。」

名字さんは誰より他人思いの優しい人だけど、でも誰かに甘えるのが苦手な人だから。

そうゆっくりと紡がれた緑谷くんの言葉には、冗談や着色などは一切見受けられなくて。本当に真っ直ぐに、ただありのままの事実だけが告げられているのだと、何となく理解できてしまう。

違う、私は決して緑谷くんが口にするような人間ではない。
寧ろその逆で、あの頃の何も知らない私はいつも皆んなに我儘言って甘えてばかりだったのだから。

「そんなこと、ない。私はいつも、自分のことばかりで、だから……」

私の自分勝手で浅はかな言動は、隣にいた優しい人達をいつも苦しませてきた。あんなに優しかった焦凍くんのことも沢山傷付けて、嫌われてしまった。
それなのに、私はまた性懲りもせず隣にいる彼を苦しませている。同情するに値しない自業自得な私の選択を、自分のせいだと責める彼を利用している。

そうやって考えれば考えるほど、隣に座る彼の顔が見れなくなって。
まだ手のひらに残っている彼の熱が、私の胸を酷く苦しく締め付ける。

こんなことを言われても、緑谷くんは困るだけなのに。
そう分かっていても、彼を困らせるような言葉しか私の頭には浮かんで来ない。

ああ、だから私は、ここに戻って来てはいけなかったんだ。
何も知らなかったあの頃のようになんて、そんな振る舞いが今更できる筈がない。そんなの最初から分かっていたことだというのに。

視線がどんどん手元に落ちる。
そんな中、私を呼ぶ声が個室の入り口の方から響いた。

「名前ちゃん…!」

その声に、弾かれたように顔を上げてた。
振り向くと、そこには息を切らしながらこちらを見る懐かしい姿が立っていて。
気付けば、勢いよく椅子から立ち上がっていた。
微かに右足が痛むけれど、今はそんなの気にする余裕なんてなかった。

「……お茶子ちゃん」

私が一歩、彼女へと近づいたその隙に、いつの間にか駆け寄って来たお茶子ちゃんは私の身体を力一杯に抱き締めていた。

「おかえり、名前ちゃん…っ
来てくれて、本当にありがとう…っ」

柔らかい彼女の髪が、私の頬を掠める。
耳元から聞こえてきた彼女の震えた声に、胸が痛くて堪らない。
それなのに、どうしてか心はじわじわと温かい何かに包まれていく感覚がする。

「お茶子ちゃん…私、その…っ」

言葉を紡ごうとすればするほど、目頭はぶわっと熱くなって視界が徐々に滲んでいく。
今までのこと、ちゃんとお茶子ちゃんに謝らなければならいのに。
まるで酸素が足りない人のように息を吸っても苦しく、言葉なんて一つも口から出てこない。

そんな私の言いたいことを、彼女は察したのだろう。
私の首元で、お茶子ちゃんはふるふると首を横に振った。

「名前ちゃんは何も悪くない。最初から、何も悪くないから……だから、もう何にも謝らなくていいんだよ。」

そう言って、優しい彼女の手が私の頭をそっと撫でる。
ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるかのようなその手は、私のことが大切なのだと言っているみたいで。
胸の奥底から、何か大きなものがぶわっと込み上げてくる感覚に、思わず拳をぎゅっと握る。

「そんなことない…っ!私、お茶子ちゃんにも皆んなにも、沢山酷いことをした……それなのに…っ」
「うんん、違う。名前ちゃんはそんなこと、何もしてへんよ。」

そう言って私の言葉を否定したお茶子ちゃんは、抱きしめる腕にぎゅっと力を込める。

お茶子ちゃんも皆んなも、これまで私を心配する声や優しい言葉を沢山かけてくれたくれた。それなのに、私はその優しさを踏み躙るみたいに無視したり、素っ気なく返したり。
これが酷いことでないのなら、一体何が酷いことだと言うのだろうか。
そこまでして、どうして私のことを許してくれようとするのだろう。

そんなことを考える私に、お茶子ちゃんはゆっくりと言葉を続けた。

「悪いのは、名前ちゃんが誰かに頼るのが苦手だって知ってたのに、ずっと一人にしてしまった私の方だよ。
…辛かったのに、今まで何もしてあげなくて本当にごめんね。」

心の底から訴えるような彼女の言葉に、ぽろぽろと涙が頬を伝っていく。
そんなことない、お茶子ちゃんは何も悪くないよ。
今すぐそう否定したいのに、頭の中がぐちゃぐちゃで何も言葉にできなくて。ただ黙って首を横に振ることしかできない私のことを、彼女は優しく撫で続けてくれる。

「もう何があっても名前ちゃんのこと、絶対に離さんからね…」

だから名前ちゃんも、もう二度と離れていかんといてね。

聞き慣れないお茶子ちゃんの涙声が、胸を酷く圧迫する。
ぎゅっと抱きしめられる腕の中、涙で出てこない言葉の代わりに、そっと彼女の背中に腕を回し抱き締め返した。

彼女がこんなにも深く私を想ってくれていたなんて、何も知らなかったのだ。
何が彼女の幸せか、分かった気になって過ごしてた。
何も持たない私では、彼女の隣にいる価値などないと本気で思い込んでいた。

でも、実際はそうではなかった。
彼女の優しい腕からは、どんな私でも構わないからずっと側に居て欲しいのだという気持ちが伝わってきて。
とっくの昔に壊れてしまっていた心が、そっと優しく温かい場所へと掬われていく。

止めどなく溢れる涙を拭うこともなく、ただ彼女の言葉に何度も何度も頷いた。
私の方こそ、もう二度とお茶子ちゃんから離れたくはなくて。
痛みを呑み込み、失ったものを追うだけのあの惨めな日々から、どうか私を助け欲しくて。

縋り付くように肩を振るわせて泣く私を、彼女は優しく撫でてくれた。



「ねぇ麗日、もういいよね?」

暫くすると、温かいお茶子ちゃんの腕はゆっくりと離れていく。そんな彼女の腕を見つめていると、すぐ背後から聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
反射的に振り返ると、そこには三奈ちゃんと透ちゃん…それに女の子みんなが立っていて。あっと声を上げる間も無く、腕を広げた彼女達によって私の身体は再び温もりに抱きしめた。

「名前、おかえり…っ!名前が居なくてずっっっと寂しかったんだからね〜!」
「名前ちゃん…!本物の名前ちゃんだぁ…!心配してたんだよ〜!」

涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、彼女達に「ご、ごめん…なさい…っ、」と謝っていると、目の前の梅雨ちゃんは私の手をとり首を横に振りながら言った。

「ケロ…どうか謝らないで、名前ちゃん。
お茶子ちゃんが言ってた通り、何もしてあげられなかったのは私達の方なのよ。」
「そうだよ。だからさ、これからは目一杯名前に尽くしまくるんだからね…!」

覚悟しときなよ。そう言うと、響香ちゃんは酷い顔だと笑いながら、濡れてぐちゃぐちゃな私の顔にハンカチを当ててくれた。そのハンカチの柄がロックなところが彼女らしくて、自然と笑みが溢れでた。

「轟、しばらく名前のこと借りるからね…!」

私の肩に腕を回した三奈ちゃんは、すぐ側に居る焦凍くんにそんな断りを入れる。すると、彼はそれに返事をする前に、私の様子を伺うようにこちらに視線を向けてきた。

きっと、ずっと側に居るという約束を、彼は気にしているのだろう。
どこまでも責任感が強く優しい彼に、胸が熱くなっていく。
私はもう平気、大丈夫だよ。そう伝えるように彼へとこくりと頷くと、彼は目を細めて柔らかい笑顔で微笑んでくれた。

「ああ、分かった。」

緑谷、別のテーブルに行こう。
そう言って、脚の悪い私を気遣い近くのテーブルを譲ってくれた焦凍くんは、去り際に優しく私の頭に触れた。
「麗日達とたくさん話してこいよ。」
そんな言葉を残して、焦凍くんは緑谷くんと上鳴くん達のいるテーブルへと移っていく。

この心の底からじわりと温まっていく感覚も、ずっと重くつっかえたままだった胸の苦しみが消えていく感覚も、全部全部、彼が私をここに連れてきてくれから感じることができている。
そう考えると、数えきれない感謝の気持ちが一気に込み上げてきて、心の中で何度も彼にお礼を告げた。


その後、空白の5年間を埋めるように女の子達と話をした。借金のことや焦凍くんの家にお邪魔になっていることは、流石に言えなかったけど。その他のことは、おおよそ全てを彼女達に話した。母が病気になってからはお金が必要で、だからみんなの誘いを断っていたのだと正直に告げると、どうして頼ってくれなかったのだと、またお茶子ちゃんを泣かせてしまった。でも、この世で1番頼っていた焦凍くんに振られてしまった私には、誰かに頼ったり甘えたりするのが怖いことのように思えてしまって。だから、誰にも何も言わなかったのだと口にすると、皆んなは辛そうに顔を歪めていた。

そんな楽しくもない私のこれまでの話は、この賑やかな席には合わなくて。一通り話し終えた後、話題を変えるように「皆んなはどうだったの…?」と逆に聞き返してみた。
それからは、皆んなの楽しい話や嬉しい話、辛い話がたくさん聞けて、ずっと感情が表情に出っぱなしだった。こんな風に誰かと話すのは久々で、すっかり固くなってしまった表情筋は下手くそな笑顔しか作れないけど。それでも皆んなには私が心から笑っているのが伝わっているみたいで、心が温かくなった。

少しずつだがお酒も入り、皆んなの口数が沢山増えてくると、向かいに座る三奈ちゃんは突然話題を切り替えた。

「ていうかさ、名前はいつの間に轟とより戻したの?」

いきなりとんでもない言葉を口にした彼女に、思わず目を丸めて驚いてしまう。

「よ、より戻してないよ…っ」
「うそ、だってさっき恋人繋ぎで店に入って来たじゃん!」
「それは、私が中々歩き出さなかったから…」

そんな私に呆れた焦凍くんが、手を引いてくれただけで。恋人だからとか、仲が良いから手を繋いでいた訳では決してない。
そもそもそんな関係を疑われること自体が、彼にとっては不名誉なことで。ここで私がちゃんと否定をしなければと、少しだけ声を張る。

「焦凍くんは、その……もう私のこと、全然好きじゃない、の……」

そう自分で口にしておきながら、なんて惨めなのだろうかと心の中で自笑した。
彼は私のことを嫌っている。それは揺るぎのない事実であり、それでも今もこうして私に良くしてくれるのは、彼が酷く後悔をしているからだ。
そして、そんな彼の気持ちを理解していながら、私は彼を騙すようなことを続けている。
無意識のうちに視線は手元に落ちていき、水仕事で逆剥けだらけになった指へと留まる。

「えっ、ちょっと待って…!どういうこと?名前は本当のことまだ何も聞いてないの…?」
「?……本当のことって……?」
「それは、その………」

ふと視線を上げると、皆んなは少し驚いた様子で目を丸めていて。何の話をしているのか尋ねると、三奈ちゃんは明から様に言葉を濁す。
ああ、もしかしたら…。たった一つだけ思い当たることを見つけた私は、手元のグラスを見つめながら言った。

「焦凍くんが後悔してるのは…何となく知ってるよ。だから好きでもない私に優しくしてくれるんだよね。」

過去の後悔を利用して彼と恋人に戻るなんて、そんなこと私にはできない。だから私が彼とより戻すなんて、この先絶対に起こり得ないことなのだ。
そう訴えかけるように言葉を紡ぐと、三奈ちゃんは呆然とした顔を浮かべて「どうしたらそんなことになるの…?」と一言呟いていた。
その言葉の意図がよく分からない私は、一人首を傾げていて。そんな私に、梅雨ちゃんは優しい声色で言った。

「ケロ…名前ちゃんはまだ轟ちゃんのこと、好きなのね。」
「!」

その言葉に、ハッとなって視線を逸らす。
もちろん今でも彼を愛しているだなんて、そんなこと彼に聞こえるかもしれないこの場で口にできる筈がなかった。
こんな恩知らずな醜い想いを知られれば、きっと今度こそ私は彼に煙たがられ、見放されてしまうだろう。
もうこれ以上、彼に嫌われたくなどなくて。再び捨てられるその瞬間が、どうしても恐ろしくて堪らなかった。

「大丈夫よ、誰にも言ったりしないわ。」

嫌なことを言ってしまって、ごめんなさい。
そう少し困ったように声をかけてくれる梅雨ちゃんに、首をふるふると横に振る。梅雨ちゃんは何も悪くない、寧ろその逆で、彼女は私のことをよく理解してくれている優しい人なのだ。

私のせいですっかり落ち込んでしまった雰囲気を、明るく一転させる術など私には何もなくて。どうするべきなのかを一人戸惑っていると、突然三奈ちゃんはお茶子ちゃんの方へと身を乗り出しながら言った。

「やっぱり作戦会議が必要だよ、麗日!来週の日曜、麗日の家で鍋パしよう!」
「うん、せやね。こたつ出しとるからいつでもおいでよ。」

一体何の作戦なのか訳もわからないまま進む彼女達の話に、私はただ頷くことしかできなかった。











その後、上鳴くんや切島くん達や飯田くん達とも順番に話していけば、時間はあっという間に過ぎていった。
席の時間も終わり、2次会に行くメンバーと帰宅するメンバーが分かれる中、私は焦凍くんと一緒に帰宅することを飯田くんに告げた。あの頃みたいに手を振り合って皆んなと別れを告げる自分が、何だか不思議に思えて仕方がなくて。そんな私の右側に立ち、指を絡めてぎゅっと手を握ってくれる焦凍くんは、相変わらず柔らかい笑顔を浮かべていた。

「…今日は楽しかったか?」

大通りでタクシーを待ちながら、彼は私に問いかけた。
目の前を行き交う車が放つライトの光は眩しくて、でもとても綺麗で。じっとそれを眺めながら、まとまらない言葉を整理することなく彼へと告げる。

「うん…久しぶりに皆んなに会えて、たくさん話をして……全部、焦凍くんの言う通りだった。」

『皆んな、名前が思ってるよりもずっと、名前のこと大切に思ってる。』

いつか彼が言ってくれた言葉が、脳裏に浮かんでくる。
皆んなが楽しくなるような話ができた訳ではない。それでも私に冷たくする人は誰一人として居なかったし、逆に、私に会えて嬉しいなどと温かい言葉を沢山掛けてくれた。
私の居場所はまだここに残っていて、私が帰ってくるのを皆んなはずっと待ってくれていたのだと知って、どうしようもなく胸の中が一杯になった。
そんな私の取り留めのない言葉を、焦凍くんは「そうか。」と言いながら優しく聞いてくれる。今日あった嬉しいことは全部、彼が私にくれたものなのに。それを伝えられる感謝の言葉が上手く思いつかなくて。

「ありがとう、焦凍くん。」

結局、口にできたのはそんな何でもない一言だった。
それでも、焦凍くんは私の言葉に嬉しそうに頷いてくれた。










タクシーに乗って彼の家へと帰宅すると、時刻は23時を回っていた。上着を脱いでソファへと腰掛けようとする彼に、何か飲むものを用意しようとキッチンへと向かった。
お湯をケトルで沸かしながら、急須に茶葉を入れる。
すると、不意にカウンターの入り口から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「名前」

とても優しいその声色に、胸がドクンと跳ね上がる。
顔を上げて振り返ると、いつの間にか私の直ぐ側には焦凍くんが立っていて。何を言うでもなく、ただ隣で微笑む彼のことが何だかおかしく思えてしまい、今日はたくさん笑ったことも相まって、自然と頬が緩んでしまった。

そんな私を見た焦凍くんは少しだけ目を丸めて、そして再び私の名前を呼んだ。
その声に首を傾げて彼を見ると、次の瞬間には彼の大きな腕は私の身体を包み込んでいた。

一瞬、何が起きているのか分からずに動揺していると、彼の掌はまるで私の熱を確かめるように身体に触れる。腕の力が徐々に強まっていくと、じわじわと彼の温もりを感じて、漸く抱き締められているのだと理解した。

いや、待って。どうして私は、彼に抱きしめられているのだろう。

私の髪に唇を寄せる焦凍くんは、何も言わずに黙ったままで。それでも、彼の所作の一つ一つが、まるで私を愛おしいと言っているみたいで、心臓がどくどくと大きな音を立てる。

彼は酔っているのだろうか。
そんな素振りなんて今の今まで一つも見せなかったのに、ここにきて突然酔うなんて、そんなことがあり得るだろうか。

そうやって冷静になろうとすればするほど、頭の中は真っ白になって何も考えられなくなる。
閉じ込められた腕の中が温かくて、優しく撫でられる背中がとても心地よくて。きっと酔っているのは私の方で、気が付けば私は彼の背中にそっと腕を回していた。

5年ぶりに触れた彼の背中は、記憶通りの感覚だった。しなやかで逞しい筋肉に、真ん中には真っ直ぐに背筋が通っていて。懐かしくてたまらないその手触りに、思わず心が震えてしまう。

お互いに何も言わず、ただ抱きしめ合うだけの時間が過ぎていく。
それはまるで夢でも見ているような感覚で、一生醒めないでほしいとさえ思ってしまう。

しかし、そんな時間は永遠ではない。
不意に、彼の腕の力が緩められていく。ゆっくりと離れていくその温度が酷く名残惜しくて、でも引き留めることなどできなくて。
そのまま彼の方を見上げると、そこには色の違う綺麗な瞳が愛おしそうに、そして切な気に私の瞳を見つめていた。

その一瞬、息をするのを忘れてしまうぐらいの衝撃に襲われる。
その瞳は、5年前のあの日まで私がずっと見つめてきたそれと同じものだった。

大きな手が私の頬をするりと撫で、そして親指が私の唇を何度もなぞる。ゆっくりと、とても大切そうに触れる彼の指に、心臓が痛いぐらいに鼓動を刻む。


「…キスしても、いいか?」


彼の心地良い低い声色と熱い息が耳を掠める。真っ直ぐに私の瞳を見つめる彼の瞳は、本気だった。

その問いかけにゆっくりと頷けば、焦凍くんは私の唇にそっと自分のものを重ねた。
触れるだけの口付けを何度も何度もくり返す。まるでお互いを確かめ合うようなそのキスは、あの頃と何も変わらなくて。愛おしい記憶が胸の中にぶわっと溢れ返り、私の瞼を濡らしていく。

焦凍くんのことが、ずっとずっと大好きだった。
そして今も私は、変わらず彼のことを愛している。

片付けの角度を変えた彼は、ゆっくりと私の唇を舌で割りながら中へと侵入してくる。温かい彼の舌は私の口内を愛撫すると、深く角度をとって私の舌を自らのものと絡ませた。

一層のこと、自分勝手で強引で、愛など一つも感じないキスをしてくれたら良かったのに。
そんなこと、彼がする筈もなくて。
こんなにも優しくて温かくて、気持ちの籠ったキスをされたら、愚かな私はまた最低な勘違いをしてしまいそうになる。

私も彼も、きっと今は普通じゃない。
だからこのキスに溺れて浮かれたって、期待するようなことは何も起きない。

それでも、この5年間ずっと彼に愛されたかった私の心はこの嬉しさが堪えられなくて。溢れ出た涙がポロポロと頬を伝っていく。

すると、ゆっくりと彼の唇は私の元から離れていく。
瞼を開き、濡れた瞳のまま彼の顔を見上げると、そこには酷く悲しそうに顔を歪めた彼がいて。

「悪りぃ……もうしねぇから、泣かないでくれ。」

そう言い放った彼は優しく私の頭を撫でて、そして私の元を離れていく。
違う、そうじゃない。彼を拒みたくて泣いていた訳じゃないのに、引き止めようにも彼はもう側にはいなくて。

「少し頭冷やしてくるから、名前は先に寝ててくれ。」

そんな声がしたすぐ後に玄関の開く音がして。
結局、彼に何も伝えられなかった私は、暫くその場にしゃがみ込んだ。




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