#8 嚆矢


「足元、気をつけろ。」

そう言って、少し冷たい彼の右手が私の手に触れる。そのままぎゅっと握られた手に力強く引き上げられれば、身体は助手席へと乗せられる。シートに腰を下ろしほっと安堵していると、触れていた彼の右手は音もなく離れいく。それに少しだけ心寂しさを感じていると、「ドア、閉めていいか?」という声が聞こえてきて。やけに熱を帯びる手の甲を反対の手で摩りながら、うん、と小さく頷いた。

マンションの駐車場でのこのやり取りは、少しずつ朝の日課になろうとしていた。先月の約束通り、焦凍くんは働き始めた私のことを毎日職場まで送ってくれている。
本当は朝家を出る時間だって違うのに、彼は私に合わせて少し遅めに出勤してくれていて。それに申し訳ないと抗議すれば、彼は「エンデヴァーが了承してるんだ、何も心配いらねぇよ。」と言って優しく微笑むだけだった。
彼がそこまでする必要が、一体どこにあるというのか。
そう心の中で思う度に、あの日ソファで寝落ちた彼の本音のような言葉が頭をよぎり、胸がズキリと痛くなる。

彼は私に、罪悪感を抱いている。
それは彼が抱く必要などないものなのに、優しい彼は自分が私を不幸にしてしまったのだと思っていて。
借金を何も聞かずに肩代わりしてくれたのも、こうして優しくしてくれるのも、全部私への罪悪感を拭うためのものだった。
でも本当はそんなこと、しなくても良いのだ。
彼は何も悪くなくて、悪いのは全て私なのだから。

どうにかしてそれを伝えたいのに、彼の好意を断る度に、彼は寂しそうな顔をする。それが耐えられない私は、結局彼に甘えてしまう。
そんな騙すような真似を続ける自分は、本当に最低だと思うのに。それでも、決定的な言葉が言い出せずにいるのは、また彼に突き離されるのが怖かったから。


「今日は多分早く上がれると思うから、夕方迎えに来てもいいか?」

隣でハンドルを握る彼は、前を見つめながらそう尋ねてきた。
見慣れはじめてきた外の景色を眺めていた私は、不意に聞こえてきたその声に反射的に彼の顔を見た。

「迎えって、そんな…悪いよ…っ」
「大丈夫だ、名前の職場は帰り道だから。」

そう言って、ちらりと私の顔を盗み見る彼はとても穏やかな表情をしていて。ちゃんと断らなければならないのに、言葉が喉でつっかえてしまう。

私の職場が帰り道だなんて、本当は嘘である。
そんなことぐらい、私にだって分かる。
しかし、そんな嘘を、こんなにも当たり前のように彼に吐かせているのは、誰でもない私であって。
彼が優しい顔をする度に、どうしようもなく胸が苦しくなっていく。

「でも……その、本当にいいの…?」

本当は、焦凍くんがそんなことをする必要なんて無いのだと、そう言わなければならないのに。
断ったときの彼の寂しそうな顔が脳裏にチラつき、言葉が上手く喉を通らなくて。
悩んだ挙句、卑怯な私はまるで何にも気付いてないかのような返事をした。
それに焦凍くんは喜ぶように、すっと目を細めて微笑んでくれる。

「ああ、勿論だ。また終わる頃に連絡する。」

そんな心良い優しい言葉に、私の胸はズキリとした鋭い痛みを訴えかける。

彼は今、一体何を思っているのだろう。
目が合っていた彼の横顔から、視線をそっと前へと逸らす。
優しい笑顔の裏では、これで少しは私への罪悪感が薄くなると、喜んでいるのだろうか。
それとも、まだまだこんなものでは足りないと、そう思っているのだろうか。

どちらであったとしても、それは彼が思うべきではないことで。
彼からの不要な償いを、私は一体いつまで黙って受け続けるのだろうか。
そんな思考がぐるぐると頭の中を巡るのに、どうすればいいかなんて明確な答えは一つも浮かんできやしない。

そんな沈む私の気持ちを映すように、フロントガラスに映る空には厚い雲が覆っていて少し暗くて。ふと家を出る前に見た天気予報で、今日は午後から雨だと言っていたのを思い出す。
景色はいつの間にか見慣れた駅前の道に変わっていて、車はいつもの場所でハザードを焚き路肩に寄った。

「ちょっと待ってろ。」そう言って車から先に出た彼は、くるりと回って助手席側のドアを開けてくれる。
当たり前のように差し出してくる彼の利き手に手を添えると、反対の手で腰を支えてゆっくり車から下ろしてくれた。

「じゃあまた後でな、名前。今日も頑張れよ。」

そう言って、そっと私の頭をさらりと撫でる焦凍くん。
当たり前のように私に触れる彼の手に、心臓がどくんと大きな波を打つ。

何事もないような素振りで「ありがとう、焦凍くんもね。」なんて返したけれど、張り裂けそうな胸は暫く苦しいままだった。










新しく勤めはじめた職場は、目や足が不自由な私を温かく迎え入れてくれた。驚くことに、あまり知名度の高いヒーローでは無かった筈の私のことを、皆んなが当たり前のように認識してくれていて。一緒に働くことができて光栄だと言われて動揺してしまったのは、まだ記憶に新しい。

私が配属されたのは、主にサポートアイテムの企画を行っている部署だった。元ヒーローであり、そしてサポートアイテムのユーザーであった私の意見やアイデアを是非とも参考にしたいと言ってくれて。こんな身体になってしまった私でも、まだ必要としてくれる場所があるのだと知り、思わず心が震えてしまった。

期待に応えようと気合を入れて臨んだ仕事は、思うようにはいかない事が殆どだった。慣れないデスクワークの中、初めて耳にする言葉が多く飛び交う環境は思っていたよりも過酷で、気付けば一歩も動いてないのに体力だけが消耗していて。ヒーローをしていた時に感じていた動いたり個性を出すのとは違う疲労感に、少し戸惑いを覚えていた。

それでも優しく仕事を教えてくれる同僚や上司は、まるで初めてジーニスト事務所に来た時のように温かくて。一刻も早く慣れるように頑張ろうと、気合を入れてパソコンに向き合った。


昼休み、食事を終えて一息ついていた時のこと。ポケットに入れていたスマホが短く振動した。焦凍くんが帰り時間の連絡をくれたのだろうか。そう思い、スマホの通知を見てみると、そこには「飯田天哉」の文字が表示されていた。

その時点で、何となくメッセージの内容は予想できていた。
でも念のためにとアプリを開くと、1番上には想定通り「A組」のトークグループ内で新規通知が来ていて。
それを開くかどうか悩んだ指先が、行き場を無くして画面の上をうろうろと彷徨う。

どうせ、私にはもう関係のない内容だから。
そう思っているのに、メッセージを消せない自分が本当に情けなくて。
見るだけなら、いいかな…。そんな曖昧な覚悟を決めトーク画面をタップした。

そこにはいつものように長文で、同窓会の開催を案内する内容が記載されていた。
それにすぐに三奈ちゃんや上鳴くんが心良い返事をしていて、トークは盛り上がりを見せていた。そんな皆んなの弾む会話を見ていると、学生の頃のまだ幸せだった日々の思い出が頭の中に蘇り、胸が無性に苦しくなる。
どうにもできない痛みから逃げたくて、小さく溜め息を吐き出した。

A組の同窓会は、年に1度欠かさず開催されていた。
プロになって忙しなく活動する元クラスメイトだが、その殆どが何とか予定を合わせてこの同窓会に参加していた。
そんな中、毎年のように参加していないのは、私だけだった。
皆んなのようにビルボードチャートに乗るぐらい人気で、忙しなく活躍するヒーローでもないのに。
何かと理由を付けて、毎年参加を断っていた。

本当は借金があって、誰かと遊びに出掛ける余裕なんてなかっただけで。それに、借金のある私と関われば、いつか皆んなに迷惑が掛かるかもしれないと、そう思ってたから。だから、5年前からずっと、チームアップ以外では誰とも会わないようにしてた。

だけど、それももう潮時かもしれない。
スマホの画面を眺めながら、そう一人心の中で呟く。

雄英では、ヒーローになるために皆んなと一緒に頑張ってきたのだ。ヒーローでは無くなってしまった今の私は、もう皆んなと同じ世界にはいなくて。
ずっと隣を歩いていた筈なのに、いつの間にか私の梯子だけが綺麗に外されてしまった。
だから、人気ヒーローとして大活躍する皆んなの隣に、私の居場所なんてもうどこにもないのだ。

いつかA組のグループを抜けてしまおうと、前々から思っていた。それは当に今である気がしてならなくて。
きっと私が抜けたとしても、別に誰も何も言わないだろう。それぐらい、もう私という存在は皆んなの中で薄まってきている筈で。
今晩、寝る前にグループから脱退しよう。そう一人心に誓って、スマホをポケットにそっと仕舞った。











今朝見た天気予報の予想通りに、帰る頃には雨が降り出していた。先程きた焦凍くんからメッセージに書かれている時間通り外に出ると、そこには彼の車が停まっていた。雨を避けるように早足で車に近寄れば、黒色の大きな傘を持った彼が私の側へとやってきた。

「おかえり、名前」

そう言って優しく微笑む焦凍くんに、胸がとくんと音を立てる。
雨なのに爽やかな彼の笑顔につい見惚れてしまいそうになるのを堪え、「焦凍くんも、お帰りなさい。」と言葉を返す。すると彼は嬉しそうに「ああ、ただいま」と頷いて、いつもみたいに私を車へと乗せてくれた。

運転席へと乗り込んだ彼は、少しだけ濡れている私の服を目にすると、自身のハンカチを手に取り「これ、使ってくれ。」と差し出してくれる。自分のがあるから大丈夫だと言って断ると、どうしてか彼はそのまま腕を伸ばし、私の服や髪についた水滴を丁寧に拭き取ってくれた。その優しい手の動きに、自身のハンカチを取り出すこともできないまま、私の身体は固まってしまう。一通り水滴を拭き終わった彼は私から手を離すと、何でもない顔で「濡れたままだと、風邪引いちまうからな。」とだけ言ってハンカチを仕舞った。
こんな少量の水滴で風邪なんか引くわけないのに、それでも彼がそこまでして私に優しくするのは、きっと全部、そういうことだ。
沈んでしまいそうな気持ちを隠しながら、彼に小さくお礼を言った。


「…そう言えば、飯田から同窓会の案内が来てたな。」

走り出した車のフロントガラスには、大粒の雨が打ちつけられる。それをワイパーが払う一連の動作を見つめていれば、不意に彼が言葉を放った。
その話題は、今日の昼休みに私の心を沈ませていたもので。どうしてか、必要以上に心臓がドキリと飛び跳ねた。

彼もまた、元A組のメンバーなのだ。
その話題を口にするのは、当然といえば当然で。
だけど、私の事情を全て知る彼にすら、自分の心の内をどう伝えれば良いのか分からなくて。

「そう、だね…。」

明らかに戸惑ったような返事をした。
だけど、その不自然さに彼が気付かない訳がなくて。

「名前は、やっぱり今回も行かないつもりなのか…?」

静かに問われたその言葉はきっと、私を責める意図など一つもない筈なのに。
棘のように胸に突き刺さる感覚がして、急に居心地が悪くなる。

「…うん。」

手元に視線を落としながら小さく頷けば、彼は「そうか。」と優しい声色で返事をくれた。
きっと彼は、私が同窓会に行かない理由を正しく理解してくれている。だから、こうして理由を一々聞いて来たりはしないのだろう。そんな彼に何も言わずに黙ったままの私は、本当にどこまで彼に甘えるつもりなのだろうか。

でも、だからと言って、もうA組の皆んなと縁を切ろうと思っているだなんて、彼に言える筈がない。
今でもまだ、A組の皆んなのことを大切に思っている彼だけには、絶対に口が裂けても言えないことで。

沈黙が続く車内には、雨の音だけが聞こえて来る。
もう一層のこと別の話題に切り替えようと言葉を探してみるけれど、その最中、彼はずっと閉じていた口を開いた。

「…いつも、皆んな名前のことを話してる。」

そんな突然の言葉に、一瞬何のことだと戸惑ってしまう。
しかし、少し考えると、それは同窓会の話の続きなのだと理解する。

いつも、皆んなが私のことを話している。
それは一体どんな話をされているのだろうかと、心に不安が渦巻いていく。この5年間、私はずっと彼らのことを拒んできたのだ。悪口の一つや二つ言われたところで、何も言い返せはしない。それもこれも全部、私が悪いのだから。

そんな私の考えを察したのか、焦凍くんは「別に悪い話じゃねぇ。」と言って言葉を付け足してくれる。

「名前と最後に会ったチームアップでは元気そうだったとか、来年は来てくれるかとか…そういうのだ。」
「……そう、なんだ…。」
「ああ。皆んな何年も前からずっと名前に会いたがってる。」

穏やかな声色で紡がれるその言葉に、胸の奥で何かが揺れる。
あんなにずっと、私は優しい皆んなのことを酷く拒んできたと言うのに。
それなのに、どうしてそんな、私を心配するような話をしてくれているのだろうか。
どうしてそんな、会いたいなんてことを言ってくれるのだろうか。

彼がこんな嘘を吐かないことぐらい、わかっている。
それでも、どうしてもその話を信じきれない私は、本当に誰よりも意気地の無い人間だ。

それに、もし仮にそれが本当だったとしても、私はもう彼らと一緒には居られない。
ヒーローでもないただの身体の不自由な借金女と一緒に居たいなんて、一体誰が思うのだ。

彼の話に、曖昧な相槌を打ち続ける。
そんな私の失礼な態度に、彼は決して怒ることはなくて。余計に胸が苦しくなる。

「この間、チームアップで麗日と一緒になったんだ。」

麗日、その一言に私の胸がぐらりと揺れる。
彼女は私が1番仲の良かった、雄英時代の親友だった。
そんな彼女の話題に、次の言葉が不安で堪らなくなる私へと、彼は静かに話の続きを口にした。

「…名前がヒーロー辞めたって聞いて、あいつ泣いてた。」

その言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
記憶の中にあるのは、いつも穏やかに笑うお茶子ちゃんの顔で。そんな彼女が泣いていたという事実に、胸がぐっと苦しくなった。
なんで…、そう出掛かった言葉に答えを返すように、彼はその理由を口にする。

「友達なのに、辛いときに側にいてやれなかったって後悔してた。…それに今後チームアップで会えないなら、もう二度と名前に会えないんじゃないかって、そう言ってた。」

その言葉に、込み上げてくる気持ちを抑えきれずに目頭が熱くなる。
まだ彼女は、私のことを友達だと思ってくれていたなんて。
借金をしてからは、何度も彼女からの誘いを断ったし、チームアップで会った時にも素気ない態度をとってしまった。いつからか定期的に交わしていた連絡も途絶えて、友達とは言えない仲になっていたのに。

私のことを今も変わらず心配してくれて、私のために泣いてくれていたなんて。

ぐっと唇を噛み締めて見るけれど、滲んでいく視界はクリアになってはくれなくて。

「もう二度と、会わないかもしれない…っ」

絞り出すように発した言葉は、震えてしまう。
ぎゅっと握りしめた拳には、爪が食い込んでいくけれど、そんなの今はどうでもよくて。

「私は、誰とも関わらない方がいいと思うから…、」

あの頃の、彼女と一緒に笑い合った私とは、もう何もかもが違っていて。
ヒーローでもない、借金だらけの惨めな私と会ったところで、彼女の特になることなんて何もない。
こんなつまらない私が、彼女の煌びやかな人生に干渉して良い訳がないのだ。

そんなことを考えながら視線を落とす私に向かって、彼は首を横に振る。

「俺はそうは思わねぇ。」
「それは、」

焦凍くんが、必要のない責任を感じているからで。
何もない私には、本当は焦凍くんや皆んなの側にいる資格なんて無い。
そう思っているのに、上手く言葉が出てこなくて。

赤信号で車が止まる。
雨は、いつの間にかフロントガラスを叩きつけるような激しいものに変わっていて。

不意に隣から「名前、」と優しい声が私の名前を呼んだ。
その声にゆっくりと振り向くと、いつの間にか伸びてきていた大きな手が、そっと私の頬に触れた。

「皆んな、名前が思ってるよりもずっと、名前のこと大切に思ってる。」

そう言って、少しカサついた温かい手は、目尻に溜まった涙を優しく払ってくれる。
言葉通り、まるで大切なものを扱うようなその手付きに、胸の中がぐちゃぐちゃになっていく。

「例えヒーローを辞めたって、知らないところで何か大変なもの背負ってたって、名前のことを無関心に思う奴なんて絶対にいない。」

だから、もう二度と会わない方がいいなんて、そんなこと考えるな。

そう口にした焦凍くんの瞳は、とても寂しそうな色が滲んでいて。
堪えていたはずの涙が、ぽろぽろと彼の手に落ちていく。

私にとって、皆んなとの日々は確かに掛け替えのないものだった。
もう戻れないと分かっていても、その思い出に縋り付いてしまうほど、ずっと一人焦がれていた。

戻りたい、皆んなのところに私もいつか。
そう願えば願うほど、今の自分が途轍もなく惨めに思えて仕方がなくて。こんな姿の私を見た、皆んなに見放されるのが怖かった。

彼の言葉は、まるでそんなことは起きないのだと、そう言っているみたいで。
私はまた、あの日々に戻ることができるのだろうか。
何も持たない今の私でも、皆んなの元に居てもいいのだろうか。

信号が青に変わり、離れていく彼の手に無性に不安を覚えてしまう。

「…実際に会ってみて、やっぱ辛ぇと思ったらすぐに帰ろう。俺がずっと、名前の側にいるから。」

だから少しだけでも顔、出してみないか?

車を走らせながらチラリと私の方を見る焦凍くんは、とても穏やかな目をしていて。
そこに怖いものは何もないから、怯えなくてもいいのだと、そう言われているような気持ちになる。

「…少し、考えさせて。」

こんなにも揺れ続ける胸を抱え、ぐちゃぐちゃな頭を回して結論を出すのは絶対に良くない。
濡れた頬を服の裾で拭いながらそう答えると、焦凍くんは少しだけ心配そうな顔をして「ああ、勿論だ。」と頷いた。










『名前ちゃんって呼んでもいいかな…?』

雄英に入ったばかりの頃、まだ右も左も分からず不安だった私に声をかけてくれたのは、お茶子ちゃんだった。

人見知りで、人と話すのがあまり得意で無い私に、彼女はいつも私のペースで言葉を交わしてくれた。
だからだろうか、彼女の前だと自然と上手く話ができた。

そんなお茶子ちゃんをきっかけに、他の女の子達とも直ぐに仲良くなれた。あまり社交的とは言えない私に、皆んなはとても明るく接してくれて。ヒーロー科の授業は大変だったけど、皆んなと一緒ならどんな苦難も乗り越えると思っていた。

いつからか、私が焦凍くんのことが好きだというのが女子の皆んなに知られてしまった時は、彼女は拳を握って明るく応援してくれた。

『名前ちゃん、恋は当たって砕けろ、やで!砕けたらあかんけど…!』

そんな、いつも明るく真っ直ぐな、優しい彼女の笑顔が好きで、ずっとずっと憧れていた。

だから、焦凍くんと思いが通じ合った時、一番に報告したのはお茶子ちゃんだった。
彼女はまるで自分事のように喜んで、何度も何度も「おめでとう…!」と祝福してくれた。

雄英を卒業してからも、しばらくの間はお互いの休みを合わせて遊びに行ったりした。
一緒にショッピングをしたり、スイーツを食べたり、ゲームセンターで遊んだり。
そんな何でもない日々がとても楽しくて、彼女と一緒にいるのが大好きだった。

5年前、焦凍くんと別れてからすぐに母が病気で倒れてしまい、それっきりお茶子ちゃんとは会わなくなった。
本当はずっと、会いたかった。
会って、沢山話をしたかった。

でも、膨れ上がる借金の数字を見る度に、こんな私が彼女に会っても良いのだろうかと躊躇った。
それに、焦凍くんのことを知らず知らずのうちに傷つけてしまっていた私は、今度は彼女のことを傷つけてしまうかも知れないと思うと、怖くて会えなかった。

そうして時間だけが過ぎていき、気づけば私はヒーローですら無くなっていた。
そして、知らないところで私は彼女に涙を流させてしまっていた。

会いたい。
会って、ちゃんと謝って、それで私は……、

不意に手に取ったスマホには、何件もの新着メッセージが来ていて。アプリを開くと、新着メッセージは全て『A組』のトーク内のものだった。

グループの設定を開くと、上側には「脱退」ボタンが現れる。
これを押すと、今度こそ本当にもう二度と前のようには戻れない。

焦凍くんはああ言ってくれたけれど。
それでも、私は自分にそれほどの価値があるとは思えなくて。

画面にあるそのボタンを、そっと指でタップする。

しかし、指が触れるその瞬間に、タイミングよく新着のメッセージが画面上部にポップアップされ、誤ってその枠を触れてしまう。

切り替わった画面は、お茶子ちゃんとのトーク画面だった。
そこには今日の、今さっきの日時で、新しいメッセージが表示されていた。

『名前ちゃん、久しぶり。
ヒーロー辞めちゃったって聞いたんやけど、身体は大丈夫?』

久しぶりの彼女からのメッセージは、とても優しいものだった。
しかし、不意に涙で歪む彼女の顔が頭に過ぎると、無意識のうちにスマホを握る手が震えてしまう。

何か返事をしなければ。
でも、一体どんな返事をすれば良いのか、何も頭に浮かんでこない。
画面を見つめながら一人躊躇っていると、彼女からの続きのメッセージが画面に表示される。

『今年の同窓会、飯田くんと2人で幹事をすることになったんやけどね。きっと名前ちゃん、辛いこといっぱいあってそんな気分じゃないかもしれんけど…。でも、だからこそ、うちらは皆んな名前ちゃんに会いたいって思ってるよ。
別に次の同窓会じゃなくてもええよ。前に行ったスイーツのお店とかでも全然いい、名前ちゃんが会ってくれるなら、どこでもいいからね。
落ち着いたら、返事してくれると嬉しいです。』

珍しい彼女からの長文のメッセージに、心が震えて仕方がなかった。読んでいる途中、スマホの画面には涙がポタポタと落ちてきて、文字を変な形にした。

ずっと彼女のことを避け続けて、勝手に一人になったのに。そんな私に、どうしてこんなにも優しい言葉がかけれるのだろうか。
どうして、そこまで私を想ってくれるのだろうか。

お茶子ちゃんに、会いたい。
今の惨めな私でも、構わない。
きっと、それでも良いと彼女は言ってくれる気がするから。

『お茶子ちゃん、今までずっと避けててごめんね。
心配してくれて、本当にありがとう。
同窓会だけど、今年は』

参加してもいいかな?

そう打ち込んだメッセージを何度も何度も読み返して、送信する。
すぐに付いた既読の文字に、心臓がどくどくと音を立てるけれど、後悔の気持ちはどこにも無かった。
その後すぐに、私からの返事と同窓会への参加を喜ぶメッセージが届いて、身体の力が少しずつ抜ける感覚を覚えた。



次の日の夜、お茶子ちゃんからメッセージを貰ったことや、同窓会には参加してみようと思っていることを焦凍くんに告げた。上手く考えが纏まらない私の話を、彼は一つも取り溢さないようにと、とても真剣な眼差しで聞いてくれていて。優しい相槌が一つ一つに打たれる度に、緊張していた身体から少しずつ力が抜けるような気がした。
私の言葉を聞き終えると、彼はホッとした表情を浮かべていて。「当日は名前の職場まで迎えに行くから。一緒に行こうな。」と私の手をそっと握ってくれた。

その優しい手に、本当はどんな意味が込められているのかなんて私には分からない。
でも2つだけ確かなのは、私はまだ彼を騙し続けていることと、この手が酷く愛おしく思えるということだった。

その後、風呂から上がった彼と入れ替わるように、風呂場へと足を運んだ。いつものようにシャワーを済ませ、バスタオルに身を包みながら脱衣所へと戻る。
すると突然、喉の奥から何かが込み上げてくるような感覚に襲われ、手を口に当てた。

出てきたのは、やはりあの咳だった。

ぐっと奥歯を噛み締めて必死に抑えようとしてみるが、しきりに胸から喉へと突き上げてくる不快な感覚は止む気配がない。

一体これは、何なのだろう。
絶え絶えになる呼吸に苦しさを感じながら、こうなった要因を必死になって考える。

次第に咳は治っていくが、ぞわぞわと身体を襲う嫌な寒気は中々消えない。
一先ず肺一杯に息を吸い込み、ゆっくりと全部吐き出していく。それを何度も繰り返していくと、早まった鼓動の音が徐々に速度を落としていった。

何だか分からないけれど、今日は早く寝た方がいい。
そう思って寝巻きへと手を伸ばすが、ふと感じた口の中に広がる鉄の味にぴたりとその場で手を止めた。そのまま手のひらを開いてみると、そこには赤い色が滲んでいて。
思わず唖然としてしまう。

これは、一体どういう事なのか。
開いた手のひらを思わずぎゅっと握りしめる。

いや、きっとそうではない。
偶々激しい咳をして、喉が切れてしまっただけだろう。手のひらに付いているのはこれっぽっちの量なのだから、何も気にすることはない。

泡立つ肌を摩りながら、何度もそう自分に言い聞かせた。



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