見知った顔は誰もいない。
イエローマンに紅子が入ると、客たちのざわめきが一瞬止み、思い出したように再開された。
女性会員は数えるほどしかない。そんなことを聞いたことがある。
「いらっしゃい」
「……今日はみんな、いないんだね」
猿飛はそうだねぇ、と呟きながら紅子にカクテルを出した。
オレンジの香りがふわりと漂う。
「いい香り」
そんな紅子の呟きに猿飛は笑いながらシェーカーを振る。氷がシェーカーに触れる音が小気味良い。
グラスに口を付ける紅子にぱらぱらと視線が注がれる。
物珍しさからか、それとも違う理由からか。
紅子はその視線を無視してカクテルを飲み干した。
「今日はどうしたの?」
「……寝付けなくて」
肩をすくめて紅子は笑う。寝付けないのは本当のことだ。このところ、漠然とした形のわからない不安が心の内にある。
「……何か飲みたいものがあったら作るよ?」
「うーん……」
特にないので、おまかせでと言う紅子に二杯目のカクテルが出される。
「君、寝付けないからカクテル飲みに来てるの?」
一つ離れた席の客からそんな事を聞かれて紅子は笑った。
「ええ、そうなんです」
話しかけてくれるな、と無言の意思表示を込めてそう答えるとカクテルを飲んだ。
猿飛はその様子を見ていたが何も言わずにオーダーされたカクテルを作っている。
紅子のそっけない態度に客も脈なしと見たのか早々に席を立ってしまった。
三杯目のカクテルが出される。しかし紅子は手をつけずにぼんやりとカクテルグラスを見つめていた。
赤いシロップと薄い金色の液体が混じる境がとても美しい。金色の液体からはぷつぷつと気泡が湧いては消えていく。
「……紅子ちゃん?」
カウンターをとん、と叩く指に紅子は我に返る。
「もう閉店だよ」
考えごとをしているうちに客はいなくなっていた。店内にいるのは紅子と猿飛だけ。
「あ、うん」
「……眠りたくないの?」
眠りたくない訳ではない。眠らなくてはならない、とは思う。しかし寝付けない。
静かになった部屋にいるといろいろな事を考えてしまう……今のように。
「そういうわけでは、ない……かな」
そんな感覚を上手く言い表す事ができずに紅子は説明を放棄した。
「ふぅん……」
紅子の前にあったグラスを片づけて猿飛は洗い物を始めた。水が流れていく音に耳を傾ける。
漠然とした不安は以前のものと少し異なる。
前は自分の将来についての不安だった……たとえば、仕事の事や、結婚のこと。
結婚、と言っても紅子は恋を知らない。
彼氏と呼ぶ人はいたがその人々に「恋」していたかと言うとそうではないと思う。
彼らはとても優しかったし紅子を大切にしてくれた。抱かれればそれなりに心地よくいることができた。
けれど、好きではなかった。決して嫌いではなかったけれど。
いつか、誰も好きになれないまま誰かと結婚して家庭を築き、子供を生み育てていくのか……そんな、ぼんやりとした思い。
今の不安は……
「ねぇ、紅子ちゃん」
掃除をしていた猿飛が紅子を見ずに言った。
「オレとどこかに行かない?」
「……どこに?」
投げかけられた問いに深く考えずに紅子は呟く。
猿飛が軽く笑った。
「別に、どこでもいいんだけどね」
笑いを含んだ言葉に紅子は意味を悟る。
断ったとしても猿飛は気にしないだろう……なぜかそんな気がした。
ぐずぐずと店に居続ける紅子を誘ってみた、そんなところだ。そもそも、眠れないと言ってカクテルを飲みにくるなんてロクな女じゃない。
それに、どうしてイエローマンに来てしまったのだろう? 誰かがいると思ったからなのか。
「……うん」
何かに背を押されるように紅子は返事をする。
「どこがいい? 好きなところに連れてってあげるよ」
また、水が流れる音がする。
ぼんやりとカウンターに座ったままの紅子に向かいから猿飛が顔を近づけた。
「……オレの部屋は駄目だけどさ」
冷たい手が頬に触れる。
「どこでも、いいよ」
その答えが意外だったらしく、猿飛は何度か瞬きをして笑った。
「そう……?」
音もさせずに猿飛はカウンターから出ると紅子の背後に立ち、左手を伸ばす。
ワンピースの襟ぐりから手を差し入れると胸を柔らかく掴んで囁いた。
「ここでもいい?」
「……いいよ」
そっと笑う気配がする。冷たい指が耳から頬に滑り、唇に触れた。
「口、開いて」
愉しげな囁きに従って口を僅かに開くと指がするりと滑り込む。何かを探るような指に舌を絡めると聞いたこともないような低い笑い声が聞こえた。
乳房を揉みしだく手が次第に熱を帯びてくる。猿飛の手が熱いのか自分の肌が熱いのか、紅子には判断がつかなくなってきた。
背後に立ったままの猿飛に背中を預けて紅子は不意に、死んでしまうのかな、と思う。
今日は大丈夫だった。では明日は? 明後日は?
エマージェンシーコールが鳴る度にぞっとするような緊張が訪れる……私は、戦えるのか。
恋は人を強くする、と言うけれど、恋などしたことがないのに。誰かを好きになったことなどないのに。
好きになど、なれないのに。
「どうしたの?」
名残惜しげに指を抜いた猿飛が顔をのぞき込んでいた。
唾液に濡れた指を舐めて舌舐めずりをする……
「……怖くないの?」
「何が?」
頬ずりをして猿飛は優しい声で続きを促した。
「死んでしまうかもしれないのに」
「……さあね」
右手がワンピースのファスナーを下げて肩胛骨のあたりをそっとなぞる。
「でも……そうだね、紅子ちゃんが怖いなら、オレが守ってあげる」
だからオレのところにおいでよ、と言う優しい言葉に紅子は違和感を覚えた。
この男は嫌いではない、けれど、好きではない。そして多分、この男もそうなのだろう。
おかしな話だ。滑稽だ。そう紅子は思いながら身を捩って猿飛にキスをしようとする。
にっと笑った猿飛は紅子のキスをやんわりと受けた。
恋をすれば、漠然とした死への不安も消えるのだろうか。
誰と? 誰を好きになればいい。そもそも、どうやって好きになるのか。
誰に聞くべきなのか。
少なくとも今、キスを交わす男に聞くべきではない、と紅子は思った。
end
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