窓は開いていた。
『窓は開けといてやる。だが、閉まっているときはそのまま帰れ……部屋も、覗くんじゃねぇぞ』
低い声でそう告げて、口の端だけを上げて笑う笑みは決して嫌いではなかった。
彼だけが自分を名で呼ぶのも、嫌いではなかった。
なぜなら、名前も過去も何もかも、なくしてしまったから。
魔女だのなんだのと呼ばれていると、自分が道具かなにかのように思えて仕方がなかった。
それを訴えると彼は少し考えて、紅子と名前を呼んでくれた。その響きはどこか懐かしく、切ない思いを伴って耳に届く。
それに彼はとても良い香りがする。
かすかに甘い香り。
初めて出会ったとき……それは戦場ではあったのだけれど、本当に良い香りがした。
からかうように触れる手は美しく、暖かい。
だから紅子は何度も彼の元を訪れた。彼は敵である自分を何故か、迎え入れてくれる。
扉ではなく、高層の窓をノックして、夜空から訪れる紅子を笑みを浮かべて迎え入れてくれるのだ。
窓は開いていたが、室内は暗い。
そっとガラスに顔を寄せて部屋を覗くと一人、ベッドで寝入っているらしい人物の姿がぼんやりと見えた。
紅子は部屋に入らずに窓の桟に腰掛ける。黒い翼だけが室内ではたはたと揺れている。
吹き付ける風に紅子は一度だけ髪をかきあげて歌を歌った。
覚えている歌など、数えるほどしかない。
それもこの部屋で覚えたものばかりだ。
昔の記憶がないことはとても、寂しい。
怪人達は皆良くしてくれるけれど、なぜか違和感を感じて心を許すことができなかった。
この違和感は何だろう。微かではあるか、積もっていく違和感に紅子は時折城を出て夜空を駆ける。
ハートレンジャーとの対峙ではない空の散歩は、とても楽しい。そして、同じ高さになじんだ気配を感じると、もう少し楽しくなる。
……黒峰が、この高さの部屋に滞在しているという証拠だから。
倒すべき対象である一人に度々会いに行くことを知られたらどうなるのだろうかと、考えることがある。とうの昔にそんなことは知られているのではないかという気もする。
だから何度か、黒峰を誘ってみた。けれど黒峰は決まってこう言うのだ。
『お前が、こちらに来い』
それはできないと断ると、黒峰はいつだって笑う。そして、俺だって同じだ、と言い放つのだ。
黒峰の考えることはよくわからない。
敵として戦場で対峙するときは容赦しない、と言った。その言葉通り黒峰が投じるカードには容赦がない。
しかしそれ以外の……プライベートであれば部屋に訪ねてくるのも構わないし、捕らえもしないと言う。
何を考えているのだろう。サングラスの奥の、見え辛い視線を直に見れば、わからない事もわかるのだろうか。
最近考えている事と言えば、そんなことばかりだった。
こつこつ、と硬質な何かを叩く音に気づいた紅子は音のする方を見る……風に流されてその音はほとんど聞き取れなかったが、幻聴ではなかったらしい。
黒峰が立っていた。
「開けとくから勝手に入れって言っただろ」
「でも、寝てたから悪いかなって思って」
「構わねぇよ」
何故、自分の言うことに従わないと言った風情の口調に紅子は笑う。
もう一度、音がした。その音がさっさと入れと言われているように聞こえて紅子はふわりと部屋に入った。
マスクと翼を収納して室内を見る。
黒峰と自分以外誰もおらず、誰かがいた気配すらない。
わずかに乱れたベッドに座って紅子は暗い、と呟いた。
「明かり、つけてもいい?」
暗いのは当たり前だ。先程まで黒峰は眠っていたのだから。
窓を閉めた黒峰は駄目だ、と言って紅子のすぐ隣に座る。
「どうして?」
「眠いからに決まってるだろ」
欠伸をした黒峰は今にも眠ってしまいそうに思えた。普段ならこの時間でも起きている黒峰にしては珍しい。
「何で起きたの?」
あぁ? と不機嫌そうに呟いた黒峰はばさばさと髪をかきむしると紅子の鼻先に指を突きつけた。
「お前の歌が聞こえた」
「……ごめんね」
「別に」
黒峰はいつものように口の端だけを上げて笑うと黙り込んでしまう。こんなに不機嫌そうな黒峰の様子は初めてだった。
いつもは呆れたり、好きにしろと言った様子が多いのだが……
ちらりと黒峰の横顔を盗み見る。先程の笑みはもう消えて、いつもの人を喰ったような表情もない。ただ、整った容貌だけが際だって見えた。
サングラスの下で、あの目はどんなことを考えているのか。
紅子はそんなことを思った。
「黒峰」
無言で黒峰は紅子を見る。その目は何か問いたげにも見えるし、何も言うなと言っているかのようにも見える。
「それ、はずしていい?」
黒峰が微かに笑う。
「何故だ?」
やんわりとした問いかけは聞いたことがないような声音だ。この声を聞いてしまうから、女達は黒峰から離れることができないのかもしれない。
「……目が、見たいから」
低く笑う声がした。
「いいだろう」
許可を得て、紅子は手を伸ばす。両手でサングラスを外すときにくすんだ色の髪に指が触れる。
とても柔らかな髪だった。
黒峰は紅子からサングラスを奪うと事も無げに投げ捨てる。
かしゃん、という軽い音がベッドと壁の間で聞こえた。
「これで、満足か?」
暗い色を通してではない目がきつく紅子を見る。頷こうととした紅子はしかし、首を横に振ってしまった。
この目には嘘をつけない。
「……顔に、触れてもいい?」
「どうして」
からかうような調子の声に紅子はため息をもらす。
喉が渇いてうまく言葉がでない。
「触れてみたいから……」
かすれた声に、いいだろうと誘うような言葉が返される。そっと伸ばした指先に頬が触れた瞬間、目を射るかのような白い光が紅子を中心に発生し、不自然に収束した。
それは黒峰にとっても紅子にとっても慣れた現象で、紅子は目を伏せ、黒峰は軽く目を閉じていた。
拘束するような戦闘服から解放された紅子は黒いキャミソールドレス一枚で黒峰の閉じたままの瞼に触れる。
薄い皮膚の下の眼球をなぞるように指を滑らせ、頬に指先を落とした。
指先が薄い唇に触れようとしたとき、黒峰はぱちりと目を開く。
「これで――満足か」
紅子は指を顎から首筋へと滑らせる。黒いカットソー越しに鎖骨に触れ、手のひらを胸に押し当てる。
上質な手触りのカットソーの下から鼓動が伝わった。
くくっ、と声を殺して笑う声が聞こえ、その笑いに引き出されるように、言葉がこぼれる。
「服、脱いで……?」
黒峰はゆらりと紅子の耳元に口を寄せると囁く。何故だ、と。
かすかに甘い香りが漂う。それは目眩に似た感覚を呼び起こした。
「見たいから」
「何を」
「……黒峰を」
ふぅん、と言う声が耳元で聞こえたかと思うと黒峰は紅子から離れて無造作にカットソーを脱ぐ。
夜景からの光しかない部屋の中で黒峰の半裸がぼんやりと見える。無造作にカットソーを投げる腕がとても美しかった。
「もう、いいのか?」
おずおずと手を伸ばして裸の胸に触れる。その手を黒峰は形容しがたい目で見ていた。
見たこともない目だ。失った記憶の中でさえも、見たことがないと確信するような目。その目が紅子を見据えた。
薄い唇に笑みが浮かぶ。その唇に触れたいと思う自分はおかしいのか。浅ましいのか。
「キスをしても、いい……?」
ゆっくりと押し出すようにしてようやく口にした言葉に黒峰はやはり、何故、と問う。
「――触れたい、から」
目が細められる。優しげにも残酷にも見える笑みを浮かべて黒峰は紅子に許可の言葉を与えた。
「いいだろう」
サングラスを外そうなどと思わなければよかった。その下の目を見たいと、思わなければよかった。
女達が黒峰について離れない理由がわかる。視線にねじ伏せられてしまうのだ。そして、隠しておきたい劣情をさらけ出せと悪魔のように誘われる。
黒峰に顔を寄せて触れるか触れないかのキスをする。一度、二度。抱き寄せられて黒峰の胸に耳を押し当てて鼓動を聞く。
もう逃げられない。
体の深いところがじわりと熱を持つ。
「……紅子は、処女か?」
からかうような声に知らない、と答える。
記憶を失った自分は自分についてなにも知らないのだから。
「あぁ、そうか。そうだったな」
腕の中に収まった紅子を見て黒峰は苦笑いを浮かべ、そして背中を優しく撫でた。
「お前の記憶を一つだけ、取り戻してやろう」
妙に優しい声に我に返って黒峰を見上げると整った顔が近づいてくる、目を閉じて顔を上向けた紅子の唇に軽く、薄い唇が重ねられる。唇のあちこちに触れるだけの口づけをして甘く噛む。それは黒峰の甘い香りにも似ていた。
……逃げられないなんて、はじめからわかっていた。マスク越しに目を見た時から知っていた。
知らないふりをして、けれど捕まえてほしくて、この男の元に通ったのだから。
まるでなにも知らない少年のように軽いキスを繰り返した後、かすかに開いた唇の間から舌がするりと差し入れられた。
「……う……っ」
紅子の微かな呻きに反応したかのように舌が絡む。先程の甘いキスとは別人のように紅子の舌を貪欲に求め、貪った。舌を食いちぎるかのように荒々しい、深いキスに紅子は酔う。
「っ……黒峰」
唾液が糸を引いて二人の間をつなぐ。舌なめずりをした黒峰はその呼びかけに返事を返すかのように紅子の顎に伝う雫を丁寧に舐め取った。
「何だ、紅子」
キャミソールドレスの上から胸に触れた手が胸を揉みしだく。
紅子? と耳元で名を囁かれるとなにもかも、どうでもよくなってしまう。
「黒峰……そばに、いて……」
「……お前が、俺の傍にくればいいだろう?」
音を立てて頬に触れた唇は耳や耳元を触れ、丁寧に舐めていく。濡れたような音に紅子は微かな声を上げた。
「わたし、が……」
キャミソールドレスの上を這っていた手がするすると裾へと降り、潜り込んで肌に触れる。
腹を撫でていた黒峰が笑った。
「これ以上、痩せるなよ」
一体何のことかとぼんやりと黒峰を見上げる。しかしその手は上へと動き、乳房に触れた。
手のひらで転がすように優しく胸を揉みしだく手はやがてキャミソールドレスを捲りあげて簡単に脱がせてしまう。
サングラスと、カットソーと同じようにキャミソールドレスも投げ捨ててしまった黒峰は胸に舌を滑らせ、ついばむように乳首をくわえて軽く噛んだ。
「あ……っ!」
その反応を楽しむように黒峰は甘噛みを繰り返し、右手は腹を撫でてショーツの中へと滑り込む。
甲高い声を上げながらも紅子は黒峰の指の行く先を悟って僅かに体を引いた。しかし黒峰の腕はそれを許さない。
指は探るようにゆっくりと動き、一点でふいに止まった。
乳房から顔を離した黒峰は笑いを含んだ声で紅子、と呼びかける。
「……ひ!」
指が割れ目をなぞるとぬめりが水音を立てる。指先が一番触れられたくない先端へと動き、撫でた。
「ぁあ……あっ!」
「恋人がいたのは、確かだな」
からかうような慰めるような言葉は紅子の耳には入らない。黒峰の首にしがみついて、震える体を支えようとする。
首筋に荒い吐息がかかり、何かを思い出しそうになった紅子はそれを追う。かすかな甘い香りと、乳首を甘く噛む痛みと、濡れた音が誘う快楽。
私は、昔、黒峰と同じような事をしていたのだろうか。
「……く、ろみね」
黒峰の頭を抱え込んだまま、紅子は息を整えて聞く。
「私、あなたに抱かれたこと、あるの……?」
全ての動きを止めた黒峰に突然強く乳首を噛まれる。純粋な痛みに悲鳴を上げた紅子を乱雑に押し倒した黒峰は紅子を見ていた。
「――俺じゃねぇ。けど、俺だと勘違いしとけ」
霞がかかったような意識で見る黒峰の体はそれでも綺麗で、ゆっくりとした低い声は普段と違い、艶めいている。
かちり、と金属が触れる音がした。見慣れた笑みが口元に浮かび、身につけていた衣服を全て脱いでしまう。
「うん……」
差し伸べた紅子の腕が黒峰の体を捕らえる。黒峰は器用に紅子のショーツを抜き取ると緩やかに開かれていた脚の間に体を進める。
「……あ、ぅ」
まるで心臓のように脈打つそこに熱を持った塊が押しつけられて、緩やかに動き、その度に水音が聞こえた。
早く、と腕に力を入れると声を抑えた笑い声が聞こえた。
「何だ?」
意地が、悪い。かぶりを振った紅子は黒峰をじっと見るが黒峰はただ笑っているだけだ。水音は絶えず聞こえる。
「何を、してほしい?」
言ってしまえと唆すような目が舐めるように全身を見ていく。薄い唇をぺろりと舐める舌が、その目が、黒峰が――
「欲しい……」
「俺が?」
素直に頷く紅子の頭を優しく撫でて黒峰が笑う。
「俺の傍に来るなら、全てやろう……来るか?」
「……ん」
もう一度頷いた紅子の中に黒峰が押し入ってくる。確かに昔、誰かにこうやって貫かれた事がある。
それが誰なのかは、わからない……俺だと勘違いしとけ、という黒峰の声が耳の奥で再生された。
叩きつけるように奥まで突き上げられる度に触れる体に、そうなのかもしれないと、紅子はあっさりと何もかもを手放した。
「くろみ……ね」
首にかけていた腕に力を込めると黒峰は動きを止めて体を繋げたまま紅子を膝に抱えあげる。自分の重みで深く突き上げられて紅子は体を弓なりに反らせて声を上げた。
「……いい声だな」
無言だった黒峰はぽつりと言葉を漏らすと紅子を強く抱きしめて唇を寄せる。舌を絡めて深く、まるで吐息までも喰い尽くすように口づけを交わし、突き上げられて紅子は黒峰の舌から逃げた。
「あ……ぁっ! あ……」
「なぁ……俺の名を、教えてやろうか?」
耳元で甘く囁く声がする。僅かに上擦ったその声が紅子のどこかに触れて、黒峰を締め付けた。
微かな呻きがまた、触れる。
「何があっても、忘れるんじゃねぇぞ」
息ができない。声がかすれて、獣のように荒い呼吸だけを繰り返しながら黒峰にしがみついた。
揺すられる体の奥が熱い。溶けてしまうようだ。頭も、体も。
「黒峰継だ」
囁きと共に耳たぶをかじられて最後の声を上げる。何もかも、どうでもいい。黒峰がいれば、何も。
まだ体内に残る黒峰のものが突然引き抜かれる。凄まじい勢いでベッドに押しつけられた紅子は朦朧とした目で自分の下腹部に吐き出されるものを見ていた。
重い体を起こそうとしていると黒峰は無言で紅子を抱えあげてバスルームに入った。
少し大きめのバスタブに紅子を入れると突然頭からシャワーを浴びせる。
「ひっ!」
冷たい水を頭から浴びた紅子は一瞬で我に返り、黒峰を睨みつけた。絶対にわざとだ。
「……悪ぃ。まだ水だったか」
「そんなの、考えたらわかると思う!」
次第に暖かくなっていく温度にほっと息をついた紅子は濡れた髪をかきあげて黒峰を改めて見た。
「つぐるって、どう書くの?」
覚えていたのか、と言いたげな黒峰はバスタブに入ると紅子を立たせる。
「跡継ぎの、継ぐ」
心底嫌そうに言ってから紅子の体にシャワーを浴びせる……まるで、何もかも流してしまいたいとでも言うように。
「……そう」
シャワーの水流が紅子から離れ、黒峰の体を流す飛沫が顔に、体に弾ける。
濡れた髪をかきあげた黒峰が普段とは違って見えて、紅子は思わず見とれた。
「何だ?」
「なんでもない」
変な奴、と呟いて黒峰はバスルームを出ていった。後腐れのない、ある意味黒峰らしいといえる行動だ。
紅子は温度を上げたシャワーをもう一度浴びなおしてボディソープでくまなく体を洗う。このまま戻れば、匂いに敏感なウルフが気づく。
そこまで思って、紅子は立ちすくんだ。
戻るべきなのか。留まるべきなのか。
判断がつかない。
体を拭いてのろのろと部屋に戻ると、乱れたベッドではなく、隣のベッドで黒峰は眠っていた。どこかに投げられたキャミソールドレスを探さなければときょろきょろと部屋を見ているとくぐもった音がする。
音の方を見ると黒峰がこちらに来いとでも言うように、もう一度枕を叩いた。
そっとベッドに近づくと苛立ったような仕草で腕を捕まれ、引きずり込まれる。
「あ……の、黒峰、私、戻らないと」
意識しないまま、そんな言葉が口をついて出た。言ってしまうとそうしなければならないような気になる。
「……戻る?」
閉じていた瞼が開き、不機嫌そうに紅子を見た。
「戻りたけりゃ、戻れ……目が醒めたらな」
背後から抱きすくめられた紅子はそうだね、と呟いて目を閉じた。
本当はこのまま、ここにいたい。黒峰のところにいたい。けれど、何かが邪魔をしてそれができない。
自分の意志ではどうにもならない何かがある。
小さく首を振ると黒峰が初めて怪訝そうにどうした、と聞いてきた。
「……黒峰のところにいたいけど、できない」
しばらくの沈黙の後、黒峰は紅子を転がすようにして反転させた。すぐ近くに黒峰の顔がある。
真顔だった。
「私は、ここにいたい。でも、できない」
眉をひそめた黒峰は痛ましい目で紅子を見て、その一方でどこか納得したようにため息をついた。
「わかった」
ただそう言って紅子を抱き寄せる。
「わかったから、眠れ」
眠れるかどうかはわからなかったが、黒峰の心音を聞いていると安心はできた。何も考えずにぼおっとしていると低い声が忍び込んでくる。
「……俺の名だけは、忘れるな」
紅子は小さく頷いて、目を閉じた。
end
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