ひんやりとした風にまどろんでいると、声が聞こえたような気がした。
「……起きろ」
もう少し寝かせておいて。心地よい風が吹いているから。
「起きろ」
嫌。だって今日は休日だもの……
「おい、起きろ」
抱え込んでいたタオルケットをひっぺがされて紅子は呆然と目覚めた。タオルケットを掴んだ黒峰が紅子を見下ろしている。
「十五分で準備」
機嫌がいいのか悪いのかわからない口調で黒峰が言い放つ。思わず飛び起きた紅子はきょろきょろと周囲を見渡した。
「エマージェンシーコールですか!」
「……違ぇよ。さっさと準備しろ」
頭からタオルケットが降ってきた。もそもそとタオルケットを丸めて紅子は黒峰の様子を伺う。
「何だ? 着替えさせてほしいのか」
「違います!」
準備するから出ていって下さい、と黒峰を部屋から追い出すと紅子は準備を始めた。
黒峰は気まぐれで、予想もつかない行動をとることが多い。思いついたように紅子を引きずり回し、思いもよらない場所へと連れていく。
そこで目にする光景は美しいものばかりだが紅子は黒峰の横顔を見るのが一番好きだった。
常に人を喰ったような態度を取る黒峰がまるで別人のような表情でぼんやりと景色をながめている。だから、紅子の思い出には美しい光景と、いつもとは違う黒峰の表情が残る。
準備を終えて部屋を出ると、壁にもたれていた黒峰が早ぇな、と言って紅子を見た。
「……いつも思うが」
「何ですか」
しげしげと紅子の顔を見つめていた黒峰が口元だけで笑う。
「化粧してんのか?」
「し……してます!」
以前から化粧に時間をかける方ではなかったが、Jガーディアンズに来てからは化粧の時間が短縮されていく一方だ。ナチュラルメイクというよりは、手抜きと言われても仕方がない。
それはまぁ、と色々と考えてその全てを説明することを放棄した紅子の頭を黒峰は軽く叩く。
「ま、目を覚ましたら別人が隣にいる、なんてことがないのは褒めてやろう」
「……褒め言葉になってませんけど」
愉快そうに笑った黒峰は紅子の腕を掴んで格納庫へと歩いていく。
「こんな早くから、どこに行くんですか?」
ヘルメットを受け取って紅子は一応、聞いてみる。答えが返ってくるとは思っていない。
「……お前さんが喜ぶことをしてやろうと思ってんだがな」
にやりと笑って黒峰はバイクのエンジンをかけた。
「何なら俺が悦ぶことをしてくれてもいいぞ」
「遠慮させていただきます!」
きっぱりとお断りした紅子を乗せて、バイクは基地を出た。人気のない道を抜けて市街地に出ると高速へと乗る。
後ろに人を乗せていることなど考えてもいないような運転にもいい加減慣れた。バイクを駆る黒峰はいつも楽しげで、きっと少年のような顔をしているのだろう。
あの黒峰がそんな顔を誰かに見せるはずもなく、知っているのはバイクだけ……少し悔しい気もするが、いろんな場所へと連れていってくれるバイクを嫌いになれるはずがない。
途中、一度だけ休憩を挟んで着いた場所はのどかな風景が広がる町だった。駅にバイクを止めた黒峰は何も言わずに歩き始める。
「どこに行くんですか?」
「……並んでたら帰るぞ」
「え! 高速まで乗ってきたのに?」
俺は待たされるのが嫌いだと予想通りの言葉が返ってくる。時間は十時前、こんなのんびりしたところで行列ができるものってなんだろう、と紅子が思った時、遠くで雷が鳴ったような気がした。しかし空は恐ろしく青く、日差しも強い。
並んだりするのなら日傘を持ってくれば良かったと後悔する紅子の視界にひらひらと揺れる赤い何かが飛び込んできた。
何も考えずに揺れる布に染め抜かれた文字を口にして黒峰を見る。
「あの、氷って書いてますけど」
「書いてるな」
「約二時間かけて、かき氷食べにきたんですか?」
良かったな、並んでねぇぞと言いながら黒峰は店と思われる敷地へと入っていった。
「文句があるなら帰るぞ」
「ないです! ないから帰らないでください!」
慌てて言う紅子に黒峰が笑っている。店は開店前らしく、すでに数組が並んでいた。
「でも何で、かき氷なんですか?」
前に並んでいる人たちの話を耳に入れつつ聞いてみる。どうやらこの店は夏になると行列ができる店らしく、二時間待ちもザラではないそうだ。朝からたたき起こされたのは、行列に並びたくない思いからの行為だったらしい。
「お前、こないだからかき氷かき氷って呪文のように唱えてただろ」
「……あぁ!」
しばらく考えた紅子は納得してうなずいた。今週は気温が上昇する一方だというのに内勤が少なかった。仕事中におおっぴらにアイスやパフェを食べるわけにもいかず、基地に戻ってからもしばらくかき氷が食べたい、アイスが食べたいと誰彼構わず訴えた覚えがある。
「覚えててくれたんですか、あれ」
「……まぁな」
そっけない返事に嬉しくなって黒峰をじっと見ていると、視線に耐えかねたようにふいと顔を逸らしてしまった。
「ありがとうございます」
何かを言おうとした黒峰は遠くで鳴る音に気づいたようで空を見た。
「雷ですかね、あの音」
さっきも鳴ってましたという紅子に黒峰も頷く。
「店内で食うか……」
そんな呟きが聞こえたとき、がらがらと扉が開く音がした。時間を確認すると十時丁度。紅子と黒峰の後ろにも数人並んでおり、列はこれから長くなりそうだ。
テラス席もご案内できますが、という言葉に店内で、と迷いなく答えた黒峰は窓際の席を選ぶ。
「テラス席もあるんですね」
「天気が良けりゃ、外も良いがな」
窓から見える庭には数人の客が見える。強い日差しに木々の影も濃く、これで天気が悪いというなら晴天とはどんな状態を指すのか、という疑問がわいてくる。
「……天気、いいじゃないですか」
「そうだな」
にやにやと人を食ったような笑みを浮かべ黒峰は庭を眺めている。そのうちに頼んだかき氷が運ばれてきて、紅子は天気のことなど忘れて小さく歓声をあげた。
かき氷を食べようとスプーンを手にしたとき、店内がふっと暗くなる。照明が落ちたのかと思ったがそうではなく、外が暗くなっていた。
黒峰は氷を口に運びながら、やはりにやにやして庭を見ている。
「……雨が降るぞ」
「黒峰さん……性格悪いですよ」
「今に始まったことじゃねぇだろ」
遠雷も聞こえたし、気づかない奴が悪いと黒峰は言って氷を食べ続ける。どんなときでもブレない黒峰の言動にあきれつつ紅子も氷を食べた。
「おいしい!」
氷ではなく雪を食べているような食感に思わず声が出る。庭を見ていた黒峰はその声に紅子を見てにやりと笑った。
「予想通り、ってとこだな」
こんなかき氷は食べたことがない。どんなに食べても頭が痛くならないし、食感は雪かわたあめのようにふわふわしていてすぐに溶けてしまう。
黒峰はどうして、紅子が喜ぶことを知っているのだろう。いつもそうだ。
窓ガラスを大粒の雨が叩く。激しい音と共に雨が降り始めた。
「黒峰さんって、どうして何でもお見通しなんですか?」
庭で逃げまどう客と店員を眺めていた黒峰は紅子を見るとしばらく黙って氷を掬った。
「……そうだな」
黒峰は氷を乗せたスプーンをすごい勢いで紅子の口元に突きつける。思わず身を引いた紅子はおそるおそる、溶けかけた氷を食べた。
「ベッドの中で甘えて聞けば、答えてやらないこともない」
声を潜めて黒峰は笑うと紅子のかき氷を取り上げてしまう。顔を赤くして黙りかけた紅子はその行為に我に返った。
「私のかき氷!」
何食わぬ顔で紅子のかき氷を食べる黒峰は笑っている。
「さっき、俺のも食ったろ?」
「一口だけじゃないですか! 返してください!」
騒ぎにならない程度に、しかし真剣に紅子は訴える。
雨足は弱くなりつつあった。
「……結局、半分ぐらい食べましたよね?」
「そんなに食ってねぇよ」
雨が止んで店を出た紅子はかき氷を食べられてしまった恨みを黒峰にぶつけていた。
黒峰が歩みを止めて空を見る。同じように空を見た紅子が見たのは見事な虹だった。
先程の通り雨が虹を呼んだのだろう。澄んだ空気の中で見る虹は色鮮やかでとても美しい。
ちらりと黒峰を見ると、黒峰は黙って虹を見ていた。
「……虹のふもとには幸せが埋まっているそうですよ」
昔、誰かから聞いた言葉を思い出してそんなことを呟くと気のない返事が返ってきた。
「幸せね……じゃあ、虹のふもととやらを探しに行くか」
「え?」
「幸せ以外の物が埋まってたときは、責任とれよ」
「……私がですか?」
「当たり前だろ。言い出したのは紅子、お前だ」
確かにそうですが、これは昔からの言い伝えです、と訴える紅子をおいて黒峰は駅へと歩いていく。
「もう……待ってください!」
その声に黒峰は立ち止まると振り返って手を差し伸べる。
虹のふもとを探さなくても、幸せがどこにあるかは知っている。けれど、少年のような黒峰の背中に体を預けて虹を追ってみたくて、紅子は手を重ねた。
end
- 5/10 -