(一切の迷いも無く)
明日午後から、と黒峰が宣言したとおり翌日から紅子のトレーニングが開始された。
時間厳守ではない黒峰が珍しく時間を守ってやってきたことに紅子は不審を抱いたが、それも一日目が終わった時点で消え失せてしまっていた。
「一定の反射神経と、判断力って……」
黒峰の総括を聞き終えてモニタールームを出た紅子はよろよろと歩きながら昨日の青山の言葉を思い出す。
「……普通以上って事じゃないの?」
ハートスーツを身につけて行われた「トレーニング」はほぼ「特訓」と言っても良いもので、モニタールームから黒峰が出す指示は手厳しいものばかりだった。
曰く「すべて敵だ、すべて倒せ」
赤子だろうが妊婦だろうが老人だろうがなんだろうが、赤字で警告が表示された者に対して容赦するな。迷いなく攻撃しろ。
ゴーグルを通して逃げまどう人々を見ると情報が流れるように表示されていく。それは昨日見た赤木の模擬体験と寸分違わぬものだったが、自分がやってみて、瞬時に判断するという事がどんなに困難を伴うのか身にしみて理解できた。
紅子は今日のトレーニングで二桁の民間人に「攻撃を加えた」ことになっている。
黒峰の総括もかなり厳しい内容だった。
常に不真面目、とはいえ民間人の命を危険にさらして平然としているわけでもない。
紅子は重い足を引きずって自室に戻った。
二日目も、三日目も黒峰は変わらず厳しい指示を紅子に与えた。誤って民間人への攻撃を加えた回数は格段に少なくなってはいたが、皆無という訳ではない。
その点は黒峰もある程度評価していた。問題は、どうしても「社会的弱者」への攻撃が一瞬遅れることだった。
「……お前は死にたいのか?」
三日目の総括で苛立ったように黒峰が呟いた。
「死にたいわけないじゃないですか」
「なら攻撃しろ。例外はない」
「攻撃しろって簡単に言いますけど、そんなに簡単には……」
「弱い人に拳をふるうなんて、できません、か。ずいぶんお優しい事だな? それで自分一人が死ぬなら構わないが、俺まで巻き添えを食らうのは御免だ」
紅子が反論しようとしたとき、黒峰がデスクを平手で叩いた。その激しい音に思わず身をすくめる。
「いいか、お前は自分の意志で戦場に立った。ならば自分の意志で戦え。戦場で誰かが守ってくれると思うな。最後に頼れるのは自分自身だ。お前を守るのはほかの誰でもない、お前だけだ」
明日のトレーニングは中止、明後日に青山の確認を通してトレーニングを終了とする、と一方的に告げて黒峰はモニタールームを出て行ってしまった。
誰もいない部屋で紅子は椅子に座るとうなだれる。
黒峰の言うことは筋が通っている。それはわかっている。わかっているが今まで生きてきて培ったものが邪魔をする。
それを壊せと言っているのもわかる。それができなければ死ぬしかない、ということも。
「……わかってるけど」
ぽつりと涙が落ちた。
手の甲でごしごしと目をこするが涙はぽろぽろとこぼれていく。
悔しいのか辛いのか悲しいのかよくわからない。もしかしたらその全てを混在した涙なのかもしれない。
止まらない涙を手の甲で拭いたとき、モニタールームのドアが開いた。紅子が反射的にドアの方を見たのは「他の男の前で泣くな」という黒峰の言葉を思い出したからだ。
「おい、奈月」
明日は休養をとるように、と言いかけた黒峰は紅子の様子を見てため息をつくと部屋に入ってきた。
「……よく泣く奴だな」
黒峰は紅子の傍にくるとデスクに軽く座った。それっきり黙ってなにもしない。
紅子も黙っていた。涙を手の甲で拭ってうつむいている……それでもしばらくすると涙は止まった。それを見て黒峰は何度目かのため息をついた。
「女は男に守られとけばいいんだよ」
全く酔狂な女だ、と呆れたような言葉に紅子は黒峰を睨みつけた。しかしサングラス越しに見える目があまりにも優しかったので思わず目をそらしてしまう。
「ま、それでも戦うって言うんだから仕方ねぇ。俺としてはお前がしっかりやっていけるようにしつけるしかないだろ?」
「犬みたいに言わないで下さい……」
「子供扱いするな、お嬢ちゃんって呼ぶな、犬みたいに言うな……部屋に来るな。注文の多い女だな」
黒峰は指折り数えながらそんなことを呟く。
「……このモニターを使いこなすことができなければ、お前はハートレンジャーのウィークポイントであり続ける。俺が守らずとも、他の男共がお前を守ってくれるだろうが、それだけ戦力が削られてるってことを理解しておけ。それと……お前は戦いの場において何を信じる?」
唐突な質問はふざけている訳ではないと言うことが黒峰の表情から伝わる。真面目に答えるべき質問だ。
紅子は呼吸を整えた。
「……自分を信じろ、と黒峰さんは言いますが、仲間を信じる事も大切だと思います」
黒峰は自分が思っていることも考えていることもほとんど口にしない。いつも何かを一人で背負って一人で行動している。
結果としてハートレンジャー達にとって有益な情報をもたらすこととなり、だからこそ千鳥も黒峰の身勝手な行動を容認しているということは紅子も知っている。
けれど、危険が迫ったとき、黒峰一人ではどうにもできなくなったときはどうするのか。
……そんなことは考えたくもない。
「そうか。お前と俺は真逆の意見だな」
「……そうですね」
「ハートレンジャーのメカニックは誰だ?」
「え? 青山さん……ですよね?」
そうだ、と黒峰は軽く頷いた。
「モニターも青山が開発した。俺たちはあいつがいないと満足に戦うこともできない……その点で青山は俺たちを裏切ったことはないし、俺も信頼している。だからあいつはサブリーダーなんだ」
「……はい」
「仲間を信じると言ったお前は青山の情報を信じず、自分の道徳観や感情を信じるのか?」
あ、と小さく呟いた紅子に黒峰はため息をつく。
「それぐらいわかってるモンかと思ったがな。青山が泣くぞ」
「そんなことで、青山さんは泣きませんよ……」
いいや、あいつは間違いなく泣くねと笑って黒峰は紅子の頭を軽く叩くとモニタールームを出ていった。
黒峰はもしかして、誰よりも仲間を信頼しているのかもしれない。だから一人でふらりと出ていくのかもしれない。
戻れない事態など起きないのだと。万が一戻れなかったとしても、残されたメンバーがいれば何も問題はないのだと。
そして、その思いは言わずともわかっているだろうと。
その中に紅子はいるのだろうか。仲間として認識されているのだろうか……
紅子は少し泣いて部屋に戻った。
モニタールームには黒峰と青山がいる。三日目に黒峰が言ったとおり、青山が紅子の反応や判断を確認して以降のトレーニングの要否を決めるということだろう。
黒峰からの指示は一切、与えられない。
全て自分の判断で戦え。制限時間なし。敵を全て倒すか、ハートスーツの強制解除をもってトレーニング終了とする。
それが五日目のトレーニングの内容だった。
紅子は深呼吸を一つすると目の前の光景を見据えた。トレーニングルームに似た光景が一瞬にして市街地の光景に変わり、逃げまどう人々が雪崩を打つように向かってきた。
人々のホログラムにぶつからないよう、自分の立ち位置を確保しながら身をかわしていた紅子の視界に泣きながら逃げまどう子供が数人、現れた。
流れる緑の情報が一つだけ赤く転じる。母親と思われる女性に手を引かれている子供だ……紅子はとっさに子供に向けて拳を振るった。
どれぐらいの時間が経ったか、紅子にはわからない。ただ、逃げまどう人の数が明らかに少なくなってきた。
そろそろ終わってほしいと思ったとき、市街地の映像が消えて室内の光景に切り替わる。部屋の隅には黒峰が立っていた。
「黒峰さん……」
黒峰は紅子の声に気づいたのか、近づいてくる。これで終わったんだとハートスーツを解除しようとしたとき、モニターに緑の情報が流れた。
左足に鈍い衝撃が伝わったのと同時にモニターが赤く染まる。これは赤木が偽の紅子に遭遇した時と同じ状態だった。紅子はバランスを崩しながらも床に転がって黒峰の拳を避けた。
これは、敵だ。
次々と繰り出される黒峰の攻撃をひたすら避けながら紅子は必死に言い聞かせる。
これは敵。この黒峰を倒さなければならない。
けれど、ハートスーツを着用していない黒峰を攻撃できない……ましてや、自分が一番大切に思っている男性だ。
これが赤木だろうが青山だろうが猿飛だろうが攻撃できないのは同じ事だ。しかしよりにもよって黒峰が攻撃してくるとは。
ただ室内を逃げまどう紅子の視界が次第に暗くなっていく……ハートエナジーが低下しているのだろうか。このままだとスーツは強制解除となってしまうだろう。
今はそれでいい。やり直しもきく……では、これが戦いの場であったら。
紅子は逃げるのをやめて黒峰に向き直るとその姿を見据えて蹴りを繰り出した。
目の前の黒峰は紅子の攻撃をたやすくかわすと鳩尾に肘を叩き込んだ……
「どうだ?」
「多少の不安はあるが、あとは実戦で慣れていくしかないだろう」
「じゃ、俺はお役御免ってことでいいな?」
「ああ。すまなかったな」
「ま、たまにはな。ところで青山、奈月が最後に戦ったのは、誰だった」
「……それを私に聞くのか?」
「俺にはモニターが見えてないんでな。で、誰だった?」
「……お前だ!」
「……それは悪ぃ事したな。じゃあな」
目を覚ますと黒峰はおらず、青山がいた。
幾つかの注意を受けた後、トレーニングの終了を告げられた紅子は極度の疲労にふらつきながら部屋に戻った。
あまりにも疲れていると食欲もわかない、ということはJガーディアンズに加入して知った。ぐったりしたままシャワーを浴びて部屋に戻ると黒峰が何食わぬ顔で部屋に居座っている。
出ていけ、という気力もなく紅子はベッドに座った。
「五日目の総括を忘れていた」
モニタールームには誰もいなかったんでな、としれっとして言う黒峰に紅子はそれはそうでしょうね、としか言えなかった。
「……青山さんから幾つか注意は受けました。それとトレーニングは終了、って」
「青山がそう言ったんなら、合格だ」
「そうですか……」
体が重い。ぼんやりしている紅子の隣に黒峰は座ると背中を叩いた。
「しっかり聞け。一度しか言わねぇからな……」
「はい?」
一体何を言われるのかと姿勢を正した紅子に黒峰は思いがけない言葉を投げかけた。
「俺たちが手にしているのは純粋な力だ。この力は使用者の確固たる意志と、第三者の判断によって行使されなければならない」
「……黒峰さん?」
「引き金を引くのは使用者だ。しかし、自身の意志で引き金を引いてはならない。使用者は引き金を引くことに意志を持つのではなく、第三者の命に従うという意志を持たなければならない。わかったな?」
言葉の真意がつかめず呆然としている紅子にただひとつ、と黒峰は言い添えた。
「俺がもし……先ほどのようにお前を攻撃したならば、紅子、お前は自分の意志をもって俺を倒せ」
「黒峰さん?」
「誰の命でもなく、お前の意志で俺を殺せ。俺はお前だけにそれを許す」
「殺す……って、そんなことできません……」
架空の黒峰に攻撃を加えることでさえあんなに躊躇したのに、現実に黒峰が自分の前に立ちはだかったら、おそらくなにもできない……
紅子は何も言わずに隣にいる黒峰の腕を思わず掴んだ。
「できません。好きな人を倒すなんて……殺すなんて、できません」
「お前は俺が好きなのか」
「……はい」
一呼吸置いて頷いた紅子に黒峰は笑いもせずにこう言った。
「なら、尚更だ。何かあったときはお前が俺の前に立て。一切の迷いもなく俺を撃つがいい。それが俺の意志だ」
「無理です……どうしてそんなこと、言うんですか」
「お前を信じているからだ」
「……どうして私なんですか? 猿飛くんも青山さんも、赤木さんだっているじゃないですか!」
黒峰の腕を掴む力が強くなる。しかし黒峰は表情を変えずに紅子の手に手を重ねた。
「俺は自分と、好きな女しか信じない。だからお前を誰よりも信じている」
それなら、と紅子は手をふりほどいて黒峰にすがりつく。
「黒峰さんは私が同じ事を言ったら、どうするんですか?」
「撃てというなら撃つ。殺せと言うなら殺そう。それがお前の意志ならな」
まるで子供をあやすように背中を優しく叩く手と残酷な言葉は全く異なるようで、底に潜む優しさは変わらない。
「俺たちは負けることを許されていない。だから勝て。どんな手段を使っても……たとえ誰を犠牲にしても」
「できません!」
「その心構えを常に持て。お前は死なせたくない」
「……私だってそうです。黒峰さんがいなくなることなんて考えられません。だからそんな事、軽々しく口にしないで下さい!」
「お前以外の男共は、死ぬ覚悟などとうにできている。ただ、誰もがお前を死なせたくない。だからお前は死を看取ってそれでも生きる覚悟をしろ。最後に残るのは、お前だ」
愕然として紅子は顔を上げる。黒峰は憂鬱な表情だった。
「……どうして、ですか」
「俺もあいつらも、そんなことにならないように全力は尽くす。だが絶対ではない。約束もできない」
黒峰の手が背中を優しく叩く。その優しさは約束できない事を詫びているようで紅子は悲しかった。
「戦いが終わったら」
紅子の言葉に背中を叩く手が止まる。
「どこかに連れていって下さい」
「どこがいい。お前の望む場所に連れていってやろう」
「黒峰さんが一緒であればどこへでも」
「……わかった。約束しよう」
戦いが終わることなどあるのだろうか。
その約束が果たされる日がくるのだろうか……果たされるとしたら、いつのことなのだろう。
それは紅子が戦いという現実を直視した日の話。
大切に思っていた男の心を覗いてしまった日の話。
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