市街地の巡回中に、男から声をかけられた。
「……?」
見覚えのない顔だ、と考えていると男はにこにこと笑いかけてくる。
「学生さん? 今なにしてるの?」
見ればわかりますよね、市街地巡回ですとは言えずに紅子は愛想笑いを浮かべる。
「すみません、忙しいので……」
こういう輩とはかかわり合いにならない方がいい、と紅子は足早にその場を通り過ぎた。しかし男はしつこくついてきて、これからなにするの、どこに行くの、携帯の番号教えてよ……と次々と言葉を投げかけてくる。
その軽薄な態度に苛立ちを隠せなくなった紅子はぴたりと立ち止まった。
アドレス教えてくれるの? と言う言葉をため息で遮る。
「いい加減にしてくれないですか? 私、忙しいんです。それに……」
「遅ぇぞ」
ドスの効いた低い声が紅子の言葉を止めた。男が紅子の背後を見る。
「お前……何時までこの俺を待たせとけば気が済むんだ?」
限りなく不機嫌な声が容赦なく降ってくる。顔など見ずともわかる。これは黒峰だ。
「黒峰さん?」
今日もいつものようにどこかに雲隠れした黒峰がどうしてこんなところに居るのか。紅子にはよくわからない。
「……何だ、その男はよ?」
「あ、えっと、なんか、付きまとわれて」
紅子の言葉をみなまで聞かず、黒峰がほぉ、と呟いた。
「こいつのせいで遅くなったのか?」
背後に立っていた黒峰がずいと前に出る。男が顔をひきつらせて二歩ほど下がる。
「俺の女に何か用か」
何でもありませんごめんなさい、と一息に言って男は人をかき分けるようにして逃げていった。
ちょっとした騒ぎに足を止めていた人々も、問題が解決したらしいと見て去っていく。
「……あ、ありがとうございます?」
「おいコラ、疑問形にするんじゃねぇ」
助け船を出してくれたらしいことはわかったが、気になる点がある。しかしそれを聞いてみる勇気は紅子にはなかった。
「ありがとうございます」
ちらりと黒峰を見ると、声は不機嫌そうに聞こえたが実はそうでもないらしいことがわかる。
「もう少し上手くあしらえるようになれよ」
「あしらったつもりなんですけどね……」
色気が足りないお嬢ちゃんには無理か、とからかうように言った黒峰は唇の端だけで笑う。
「……悪かったですね、色気の足りないお嬢ちゃんで」
「悪いと思うならもう少し努力しろよ?」
そう言いながら黒峰は周囲に目を配って不思議そうな顔をした。
「お前、巡回当番か」
「はい」
「相方は誰だ? 誰が相方でもあんな虫は追い払ってくれるだろうに……」
どうやら黒峰は巡回当番の片割れを探しているようだった。しかしそれらしき人物は見あたらないので不思議に思ったのだろう。
紅子は深い深いため息をついた。
「黒峰さんですよ?」
「はぁ?」
「黒峰さんです。私の相方は!」
黒峰はその言葉を聞いてしばらく考えごとをしていたがくるりときびすを返した。
「……俺は行く。じゃあな」
「黒峰さんっ!」
雑踏に消えようとする黒峰の腕をがっちりと掴んだ紅子は黒峰を渾身の力で引きとめた。
「ここで会ったが百年目ですよ! さあ行きましょう!」
「離しやがれ、このガキが!」
「イヤです!」
ずるずると黒峰を引きずりながら紅子は歩き始める。その様子に道行く人がわずかに足を止めたが大したことはないらしいとまた歩き始める。
やがて黒峰は観念したのか、それともその視線に晒されるのに嫌気がさしたのか、不承不承ではあるが歩き始めた。
「そもそも俺を巡回当番に組み込むのが間違ってんだ、そう思わないか?」
「……これも仕事の一環です」
ぶつぶつと不平を口にする黒峰に呆れつつ紅子は職務を遂行していた。
「お前……そんなに真面目だと男が寄ってこねぇぞ」
心から心配、という様子の言葉に紅子は黒峰を睨みつける。
「仕事ですから」
「仕事じゃなけりゃ不真面目になんのか?」
まぁ多少は、ともごもごと呟いた紅子を面白そうに眺めていた黒峰は立ち止まったままの紅子の腰を抱いた。
「!」
「俺は不真面目に仕事するタチなんでな。不真面目にさせてもらう」
手を払いのけようとしたがまるで接着したかのように黒峰の手は動かない。そのまま歩き始めた黒峰に合わせる形で仕方なく紅子も歩き始めた。
街中でよく見かけるカップル、という風に見えるだろうかと紅子は気にしてしまうが黒峰は全く気にしていない様子で歩いている。
「いい加減離してくださいよ……」
「俺に仕事させたいならこれぐらい我慢しろ」
引き留めたのは間違いだったかもしれない、と紅子は思いながら黒峰について歩く。というか、行きたい方向に行こうとしても黒峰が腰を抱いているので行けないだけだ。
あちこち連れ回されて気づくと人気のない路地にいた。日も暮れかけている……
「どうしたんですか?」
さすがに様子が変だと思った紅子は黒峰を見上げる。
「奈月……」
ふっと顔を寄せてきた黒峰が耳元で囁く。
「余計な事すんじゃねぇぞ?」
言うが早いか紅子を背後にかばってハイキックを繰り出した。
「黒峰さん!」
黒峰の背中越しに数人の人間が襲いかかってくるのが見えたが「普通の人間」が黒峰にかなう訳がない。
余計な事をする間もなくあっさりとカタはついた。
やれやれ、と息をついた黒峰はごろごろと転がっている男達の顔をのぞき込んでいたが、こいつだ、と言って紅子を手招きした。
おそるおそる近寄った紅子はその顔を見てああ、とため息をつく。
紅子をナンパしようとして黒峰に追い払われた男だ。
「……たかがあんな事で、人を襲ったりするんですか」
「こいつにはたかが、じゃなかったんだろ」
この俺に挑もうなんざ十年早い、と冷笑を浮かべた黒峰は紅子の背中をとんと突いた。
「黒峰さん?」
「報告の時間だろ? 戻れ」
でも、と立ち止まった紅子に黒峰は猫を追い払うようにして手を振る。
「仕事は終わりだ」
戻れ、ともう一度言われて紅子は後ろを気にしつつ路地を出た。時々だが黒峰の言葉には逆らえない強さがある。
もしかしたらそれが黒峰の本当の姿なのかもしれない。
紅子は黒峰の事を気にしながら帰路に就いた。
巡回の報告を終えて部屋に戻った紅子はばったりとベッドに倒れ込んだ。
特になにをしたわけでもないのに疲れている。
夕食を食べる気にもなれず、紅子はふらふらとバスルームに向かった。
久しぶりにバスタブにお湯を張って、バスソルトをざらざらと入れる。ローズゼラニウムの香りがバスルームに満ちて、紅子は深呼吸をした。
「いい香り……」
バスタブに浸かった紅子は目を閉じて息をつく。
「どうしてあんな人、好きになっちゃったんだろ……」
ある意味選り取りみどり、の環境にいたはずの紅子はどうしてか黒峰から目が離せなくなっていた。
不謹慎だし不真面目、掴み所がなくて傍若無人。一緒に仕事をすればセクハラは日常茶飯事だ。
しかもあのルックスだから女には不自由していないらしく、紅子はいつも子供扱いされている。
そのせいなのかどうなのか、ちっとも素直になれず、黒峰と顔を合わせるとかなりの確率で言い争いになってしまう。
好きな人の前なのにかわいらしくできないことこの上ない。
それでも、と紅子は思う。
「……時々優しいんだよね」
いつも優しい、という訳ではない。四人の中で言えば紅子には一番厳しいのではないか。
それでも今日のように助け船を出してくれたり折に触れて助言をしてくれたりする。
文句を言いながら巡回につきあってくれたのも、声をかけてきた男に不穏な空気を感じ取ったからなのかもしれない。
だから、諦めることができない……
今更だが黒峰にお礼を言っていなかったと言うことに気づいて紅子は深いため息をついた。
明日言えばいいのか、でも今更だしと悩みながらお湯から上がって体を拭く。
キャミソールとショーツという気軽な姿で部屋に戻った紅子はベッドに寝そべっている黒峰に気づいて奇声を上げた。
「……色気のない声だな、おい」
気だるげに顔を上げた黒峰は紅子を見てニヤリと笑う。
「まぁ、眺めはいいか」
「……!」
その言葉に我に返った紅子はバスルームに駆け込むと当たり障りのない部屋着を着て戻る。
「ひ、人の部屋に勝手に入らないでください!」
何度も言いますけど、と言う紅子の言葉を聞き流した黒峰はつまらなさそうに紅子を見ている。
「なら、鍵を変えるなりすればいいだろ」
「……れっきとした理由が必要なんです! まさか黒峰さんが侵入するからなんて言えないでしょ!」
ふうん、と気のない返事をした黒峰は顔を伏せる。
「寝る」
「ちょっと!」
紅子はベッドに駆け寄ると思いあまって黒峰の頭を叩いた。
「何しやがる!」
「……出てってください」
体を起こした黒峰は紅子の顔を見て固まる。
「もう、出てって下さい……」
涙をこぼしながら紅子は黒峰の膝を叩いた。
「奈月? どうした……」
ばしばしと黒峰を叩いて紅子は泣く。
掴み所のない男を好きになったのは仕方がない。仕方がないがこんなに頻繁に部屋に来てなれなれしくされれば諦めがつかずに未練だけが残る。
「……泣くか叩くかどっちかにしろ」
ため息混じりの言葉に紅子は黒峰を叩く手を止めた。
「で、どうした」
「……諦めがつかないんです!」
「諦め?」
なんだそりゃ、という呆れたような声に紅子は黒峰を見る。
「黒峰さんが暇つぶしにからかってるぐらいはわかりますよ! でも、人が諦めようってしてるのにこうしてふらふら部屋にやってきて、諦めがつかないじゃないですか!」
「……何を諦めるって?」
「黒峰さんです!」
黒峰は驚いたような顔をしたが紅子は全く気づいていない。しゃくり上げながら言葉を続けた。
「どうせ私は子供ですよ。お嬢ちゃんとか言われるし胸だって大きくないし! く、黒峰さんそれなのに俺の女とか言うし、すぐ触るし、もう全然わからないです……」
早々に諦めるから、今すぐ出ていって下さい、と言い切って紅子はうつむいた。
「お前、今何言ったか分かってんのか?」
「わかりません!」
きっぱりと言い切る紅子。今までとじこめておいたものがすべて出てきて、何をどう言ったのかが本当に分からなくなっていた。
くつくつと押し殺したような笑いが聞こえる。悔しいけれどとても魅力的で、ずっと聞いていたいと思う。
諦めなんてつくはずがない。
それが悔しくて紅子はまた黒峰を叩いた。
「痛ぇよ」
紅子の手首を掴んだ黒峰は相変わらず笑っている。文句をぶちまけられて叩かれているのに黒峰は機嫌を損ねるでもない。
「お嬢ちゃん、あのな」
「だからお嬢ちゃんって言うのやめて下さい!」
「なら、紅子でいいか?」
不意を突かれたような気分になって紅子ははたと顔を上げた。
黒峰が苦笑いしながら紅子を見ている。その顔を見た紅子は急に我に返った。
「それでいいな?」
「え……?」
紅子、と改めて名を呼ばれてぽかんとして黒峰を見る。
「お前の気持ちはよく分かった。分かったので俺はこれからもお前の部屋に入るし俺の女呼ばわりもする。まぁ、胸が少しばかり寂しいのは勘弁してやろう……いいな?」
「よ……よくないです!」
「お前が良くなくても俺はそうする」
苦笑いしている黒峰はそう言い切ると紅子の手首を離した。
「それと、他の男の前で泣くんじゃねぇぞ」
濡れたままの髪をわしゃわしゃと撫でて黒峰はベッドから降りる。
「今日は帰る。自分の言った事をよーく考えとけ。無意識の言葉なんぞに返事を返す義理はないからな」
「……え?」
じゃあな、と言って黒峰はいつものように部屋を出ていった。一人残された紅子は黒峰が最後に呟いた言葉の意味を考える。
「何、言ったっけ……」
涙をふきながら紅子は黒峰にぶつけた不満らしきものを思い起こす。
「……返事、返すって」
自分の暴言とそれに対する黒峰の言葉を思い出して紅子は耳まで赤くなった。
明日からどんな顔でミーティングに出席すればいいのか。黒峰が連日欠席してくれますようにと紅子は心から祈った。
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