ぱたん、と言う音が聞こえた。
「明日、雨ですって」
天気予報の画面が部屋をちらちらと照らす。気象予報士の声にかすかな足音ときしむベッドの音が混ざる。
「……それが何か」
寝そべって天気予報を見る紅子にのしかかり、髪を丁寧に撫でてから気のない返事を返した青山は紅子の肩にあごを乗せてテレビを見た。
「非番なのに雨って嫌じゃないですか?」
「別に。私にはあまり関係がない」
耳元で声が滑る。いつ聴いても響きの良い声だと思う……コンサートホールでクラシックを聴く青山もこんな気分でいるのかもしれない、と紅子はつまらないことを思った。
「そうでしたね。青山さんは仕事が恋人だから」
「誰かと外出の予定でもあったのか?」
「まさか」
一人ですよ、と笑った紅子の肩に液体がぽつりと落ちる。
ぽつり、ぽつり……紅子は青山を振り返る。
「髪、ちゃんと拭いてください」
背中に青山を乗せたまま紅子は起きあがろうとするが青山は動こうとしない。見た目よりも重いのは筋肉のせいだろう……薄い皮膚の下の筋肉は触れればすぐにわかる。
「……青山さん!」
「別にいいだろう。しばらくすれば、乾く」
「私が嫌なんです!」
勢いをつけて体を起こそうとする紅子の背中から重さがふっと消える。
ベッドの隅に投げ出されたままのバスタオルを手にして紅子は青山に向き直ると滴が落ちる髪を拭く……こういうところは子供のようだと思う。
青山は黙ってされるがままになっていた。
「せめて、水滴が落ちないぐらいにしてくださいね」
いつも言ってますが、と笑う紅子に青山は返事をしない。いつものことだ。
「……君にはいい加減、誰かを選んでほしいのだが」
代わりにこれもいつもの言葉が返ってきた。ただ、今日は「いい加減」という表現が加わっている。
「簡単に言いますけど、中々大変なんですよ? 皆さんそれぞれに魅力的ですし、私には誰か一人なんて無理ですね……」
バスタオルをテーブルに向かって投げてから紅子はため息をつく。
「青山さんは誰がいいと思いますか?」
「本気にさせることができるなら、黒峰だな」
思ってもみない人物の名が出たことに返事ができない紅子に青山は言葉を続けた。
「あいつはただの色魔ではない。本気にさせる自信があるのなら是非、黒峰を選んでもらいたい……私も興味がある」
「ハートエナジーの測定値ですか?」
「そう。常に不埒なのにあの測定値だ。本気になればさぞかし面白い数値が測定できることだろう」
「……その自信は、さすがにちょっと」
百戦錬磨という感じの黒峰を本気にさせる方法など紅子には思いつかない。
手を伸ばして青山の胸に触れる。
「だって、青山さんを本気にさせることもできないんですから」
「それは仕方がない。私の恋人は仕事だから」
その手を掴んだ青山は紅子を引き寄せて抱く。薄い脂肪の下に感じる筋肉や思ったよりも熱い体温が、好きだ。
「……君のデータ収集も仕事の一つだから、言い替えれば君も私の恋人だし、そういう意味ならいつでも本気ということになる」
「その言い方だと、ハートレンジャー全員が青山さんの恋人になりますが……いいんですか?」
青山はしばらく黙っていたが、よくない、と言い放つ。
「訂正しよう。私の恋人は仕事と純粋なデータだ」
「で、私のデータは取れたんですか?」
「君のデータは不可解すぎる」
そう言って紅子の額に唇を押しつけた青山はベッドに寝そべると腕を伸ばして何かを引き寄せた。
隣に寝そべった紅子はその手元をのぞき込む……ノートブックを起動した青山は何かの画面を開いた。
「これは、君の一ヶ月分のデータ」
様々な色のグラフが入り交じる画面に紅子は眉をひそめる……その様子を見て青山が笑った。
「説明は省く。結果から言うと、良くわからないところでハートエナジーの上昇が見られる……日誌を提出してもらっただろう?」
「はい」
ここ一ヶ月、紅子は青山に命じられて日誌をつけている。いつ、何をしていたか、誰と会ったのか程度のものだが、それも重要な解析資料になるらしい……青山と夜を過ごすようになったのも一ヶ月前だ。
「一人でいるときに限ってハートエナジーが上昇することが多いようだな」
「……まぁ、そうかもしれないですね」
紅子は苦笑いを浮かべる。理由はわかっている。
「私といるときは見事なまでにフラットなのだが」
「それは何色になるんですか?」
「ヘリオトロープ」
聞き慣れない言葉とともに青山が指さしたのは青みがかった濃い紫の線だった。フラット、というが線は常に高い位置に引かれている。
「結構高い位置にありますよね、いつも」
「低い位置で一定していたら、それはそれで問題がある……君か私のどちらかに」
「どういうことですか」
「君が私を嫌っているか、私が絶望的に下手か……」
絶望的って、と紅子は顔を伏せて笑う。そんなことはないですよ、と笑いつつ青山の肩を掴むとわかっていると声がした。
「このデータからわかることは、相性は比較的いいがそれ以上のものはない、ということだ。だから、いい加減に誰かを選ぶべきだと思った」
「データ測定は終わりですか?」
「私以外の人間とのデータなら欲しい」
「……でも」
ネットブックを操作する青山の腕に手を置いて紅子は青山を見る。整った顔が何か、と無言で語りかけてきた。
「青山さんとこんな事してるのをみんなに知られたら、誰かを選ぶもなにもないと思いますよ」
「君が黙っていればいいだけの話だろう」
「……誰かを選んでも、時々来たらダメですか?」
「倫理的に宜しくないな」
「そんなことを言うなら今の状態も倫理的に宜しくないですよ? だって、セフレのようなものですし」
「君にも私にも特定の恋人がいれば、それもどうかと思うがな」
君は誰かを選ぶことができないと言うし、私の恋人は人間ではない、と青山の冷ややかな声が紅子の耳をかすめる。
紅子は笑う。
研究の事しか頭にない、だからこその冷たい言葉だ。
データを取得したいから、明晩から私の所に通うように、と正気を疑うような言葉を口にできる青山はどこかおかしい。
何かが狂っている。
「……皆さん、魅力的なので」
「誰と会っても君のデータは変化しないがな」
「だって、みんな同じぐらい好きですから」
「君は、悪魔か」
呆れたように青山が呟いた。
「ごく普通の人間ですよ」
青山に比べれば、平凡な人間だ。悪魔というのなら青山の方だろう。
何度抱かれても何を考えているのかがわからない。わかるのは、嫌われてはいないと言うこと……研究対象として。
「青山さんに比べれば、かわいいものです」
「私と比べて?」
「……一人でいるときに限ってハートエナジーが上昇する理由、知りたいですか?」
「教えてくれるのか?」
ええ、と頷いて紅子は青山の耳元で囁いた。
あなたの傍にいない夜だから、あなたの事だけ考えているんです……
「時々、聞くでしょう? 昨夜はどうしていた、って」
青山の手が二の腕を撫でる。
「ああ。だが、君は絶対に教えてはくれないな」
「どうしてそんなことを知りたいのか、教えてくれたら……教えてもいいですよ」
手は肩から鎖骨を触れて首筋を撫でた。猫か何かを扱うような手つきが紅子は好きだった。
「……純粋に、興味がある」
「研究対象として? 自分が抱いている女だから? それとも」
うるさい、と言う言葉とともに押し倒された紅子は首をじわりと締められて目を細める。
「昨夜は、何をしていた?」
酷い耳鳴りのように鼓動が響く。かすむ視界に見えるのは表情を殺したような顔だった。目だけが狂おしい。
呼吸をするとひゅう、と喉が鳴る。
「……あなたがいないから、一人で、していたと言えば、どう思います……?」
首から手が外れて、紅子は大きく息をした。乾いた咳を何度かして、呼吸を整える。
「面白いな」
青山は左手でノートブックを操作して再び面白い、と呟いた。
「君は誰も選べないと言ったな」
「……はい」
「しばらく、私の元にいるといい。データの測定を続ける」
紅子の返事を待たずに青山はキスをした。らしくない、強引なキスに紅子は青山の首に腕をかけて引き寄せる。
明日は雨だ。どこにもいかなくていい。
だれも選ばなくていい。
悪魔のような研究者の傍でぼんやりと日を過ごすのは悪くない。
「やはり、君は悪魔だ」
耳に心地よい響きを伴ってそんな呟きが聞こえた。
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