プールサイドに出ると、飛び込み台から青山が見事な弧を描いて飛んだ。
引き絞った弦から放たれた弓のように鋭く遠く飛ぶと指先から静かに着水する。
極限まで水の抵抗を押さえ、いかに早く泳ぐかを追求した先にあるのが、今、目にしているフォームだろう。
ひとつの無駄もなく、誰よりも速く泳ぐために作られた形はとても美しい。
恐らく、水中のストロークも美しいのだろう。ターンも音を立てず、水しぶきも立てず静かなものだ……過去の事とはいえ、間違いなく国内ではトップクラス、世界にも通用した選手を間近で見ると、取り立てて興味のない競技だとしてもため息しか出ない、という事を紅子は知った。
飛び込んだ時の速度を維持したまま青山は百メートルを泳ぎきるとゴーグルを外して何度か頭を振った。
呼吸を整えてから再びゴーグルをかけて静かに水に潜ると、先ほどとはうって変わってゆったりとした大きなフォームで泳ぎ始める。
ゆったり、と言っても紅子が必死に泳いで追いつくか追いつかないかという速度ではあるが。
紅子は青山から一つ離れたコースに入ると泳ぎ始めた。
心肺機能の向上の為に泳ぐといいよ、とアドバイスをくれたのは神谷だ。
うちには水泳が得意な人がいるからメニューでも組んでもらったら、とも言われたが、競技水泳をしてきた青山がスイミングスクールに数年通っていた程度の自分にどんなメニューを組むのかが恐ろしくて頼んだことがない。
それどころか泳いでいる事も言っていないし、これまでプールで出会ったこともない……
壁に掛けられた時計は深夜二時を指している。
こんな遅くに泳いでいたのなら紅子が知るはずもない。
回遊魚のようにコースの中を何度か泳いで顔を上げるとちょうど青山も泳ぎ終えたようだった。
ゴーグルとキャップを外して一度水に潜ると勢いよく浮上して犬のように頭を横に振る。ばさばさと髪と水が散って、普段見慣れた青山ではない青山の横顔が見えた。
髪の先から滴をぽたぽたと落としながら青山は水面をじっと見ている。紅子はその様子に見入っていた。
人の気配に気づいたのか、視線に気づいたのか青山は紅子の方を見ると、目を眇める。
「……奈月か?」
さすがに泳ぐときも眼鏡、とはいかないようだ。はい、と返事をすると青山は潜って紅子の隣のコースに浮上した。
水に濡れた髪をかきあげてからコースロープに腕をかける。
「こんな時間に何をしている」
「……泳いでいます」
見てわかりませんか、と言う紅子に青山はそうか、そうだなと返事を返した。
「私も人のことは言えないが……こんな時間に泳ぐというのも妙だな」
「眠れなかったんですよ、泳いで疲れたら眠れるかと思って。明日は休みですし」
「……クラシックでも聴けば眠るのではないか?」
「それで眠れてたら、ここにはいないですね……」
紅子はコースロープに手をかける。
「青山さんは?」
「私は、この時間帯に泳ぐことが多い。誰もいないからな」
「人がいると、嫌なんですか?」
「……邪魔だ。同じコースに誰かがいると特に。気を使わねばならないし、波は立つし、泳ぐことに没頭できない」
波が立つ、と言う言葉に紅子は先ほどまでの青山の泳ぎを思い出した。そういえば青山が泳いだ後はそんなに激しい波は立っていなかった。
「……青山さんは静かに泳ぎますからね」
「静かではない。水の抵抗を押さえているから波が立たないだけだ。私からすれば、あれだけ水の抵抗を受けても泳げるのは奇跡に近い」
「そうなんですか?」
「いかに速く泳ぐかを追求するとそうなる。どんなレベルであっても競技選手は皆、そこを追求するものだ」
「私はそんなこと、教えてもらいませんでしたけど……」
「選手の素質がなかったんだろう」
青山の辛辣な言葉が飛んでくる。それはそうだろうが、そこまではっきりと言わなくてもいいような気がする。
しかし紅子ががっくりする前に青山が言葉を続けた。
「泳ぎを少し見たが……肩も伸びていないし体も回転していない。体の中心を意識して泳ぐといい」
「体を回転させるんですか?」
「……少しでも多く、水中で水を掴むためには体を回転させて、腕を伸ばす」
例えば、こう。と青山は紅子の目の前で腕を伸ばした。しなやかな腕に薄く筋肉の筋が浮いて見える。
「体を回さずに腕を伸ばすとこんなものだな。体を回転させると、肩が前に出るだろう? 腕はその分遠くまで伸びることになる」
確かに、体をわずかにひねっただけで腕は先程よりも遠くまで伸びている。
「へぇ……そうなんですね」
「何をするにも体の中心は意識すべきだ。泳いでいるときも、戦うときも」
青山は伸ばした腕をコースロープにかける。
「体の中心というと、背骨ですか?」
「……頭の中心から串刺しにされていると思うのが一番だな」
「串刺し……?」
物騒な言葉に紅子は妙な声を上げてしまう。すると青山は声を殺して笑いだした。
「そんなに笑わなくっても、いいじゃないですか」
「……失礼。まぁ、背骨でも構わないが」
笑いながら青山は紅子の真向かいに移動し右手を差し伸べた。
「ここが頚椎。ここからは胸椎」
「あ、青山さん?」
青山は右手で紅子の脊椎を辿っていく。水に潜った左腕はやんわりと紅子の体を抱き寄せた。
競泳用の水着は薄い。あるかないかの薄さの生地は青山の体温を紅子の肌にそのまま伝える。
水の中だからか、普段よりも冷たい。
「……あとは、腰椎と仙椎。この四つの領域を総称して脊椎……背骨、と呼ぶ」
「あの、青山さん、誰か来たら……」
「この時間に? 来ても、私は構わない」
君は困るのか、とうっすらと笑みを浮かべた青山は仙椎のあたりで止めていた指を頚椎まで撫で上げた。
その感触に唇を噛んで紅子はコースロープを掴む……コースに緩やかな波が生じて消えた。
「脊椎を中心に体を回転させるというのが一番わかりやすい。ただ、本当の意味での中心は脊椎をもう少し奥に押し込んだあたり、と覚えておくといいだろう」
普段と変わらない淡々とした口調だが、なにかがほんの少し違う。それは口元に浮かぶ笑みであったり、左手の熱さだったりと、明るい場所では見ることができないものばかりが原因だ。
紅子はコースロープを掴んだまま青山の顔を見ていた。
「……眠れないのなら、部屋においで」
紅子から離れた青山は静かに水に潜って一番端のコースに浮き上がると軽く弾みをつけて水から上がる。
まだ水の中にいる紅子を見ずにプールサイドから去っていく青山の横顔やしなやかな肢体は密やかな強さをもっている。
その強さが紅子を捕らえて離さない。
身に備えた美しさと、刹那に垣間見せる強さと奥深くに隠した熱が手足を拘束してどこへも行けない。
暗く、誰も居ない場所で夢か現かの区別もつかないほど愛でられていたい……どこへも、行けないのだから。
end
- 14/16 -