台風が過ぎると空は急に高くなる。
雲の形も変わり、日差しは夏のように激しいのに秋の気配が近づいてくる。
夏はもう終わりなのだろう……朝夕の空気も冷たくなり、早朝などは寒さを覚えるほどだ。
「もう黄色くなりはじめてるんですね」
巡回の帰り道に桜並木が見える場所がある。紅子が巡回業務を始めた時は桜が咲き始めた頃だった……ちらほらと花をつけはじめた桜を眺めていたのがつい最近のように感じられて、紅子はほんの少し不思議に思う。
時間の流れは一定のはずなのに、どうして早く感じたり遅く感じたりするのだろう。
「……時間の体感速度が異なって感じられるのは、何故ですか?」
「アインシュタインだな」
「……アインシュタイン?」
時間の流れとは無縁の物理学者の名を持ち出された紅子は青山を見る。青山はうなずいて誰かの言葉を淀みなく口にした。
「熱いストーブに一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じるでしょう。ところが、かわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられません。それが、相対性というものです」
「わかったような、わからないような……」
言いたいことは何となくわかるのだが、はっきりとした意味はわからない。
「嫌な事をしていると時間が長く感じるっていう事と一緒ですよね、きっと……」
「そう。今のはアインシュタインの言葉だが……要するに、短く感じられる時間は当人にとって非常に密度の濃い体験をしていると言うことになるのだろうな」
「……青山さんが研究に没頭するようなものですか?」
「まぁ、そのようなものだ」
人の時間は限られているので有効に使いたいと言いながら青山は紅子の歩みに合わせて歩いてくれる。時間を有効に使いたいならもっと早く歩けばいいのにと思うが、せっかくなので言わずにおいた。
そのかわり、少しだけ歩みを早める。
「で、何故そんな話になった。先ほどまで君は桜並木を眺めていただろうに」
君の思考回路はよくわからない、と青山は真顔で呟く。確かに青山であればこんな話にはならないだろう……青山の頭の中には様々な現象に対する答えや仮説が詰まっている。
けれど紅子は青山ではないし、わからないと思えば調べるしかない。もしくは誰かに聞く。
幸いな事に紅子の隣には青山がいた。
「私が巡回当番に組み込まれたのは桜が咲き始めた頃だったんですよね……でも、今はもう葉っぱが黄色くなりはじめてて。時間が経つのは早いなぁと思ったんです」
「なるほど。君はうちに来てからの時間が早く過ぎていくと感じたのか」
「はい」
「それなら理解できる。そう言われれば君がやってきたのは桜が咲く前だったな」
まったく、君は手の掛かる後輩だったと青山は笑う。
「それはそうですよ。事務しかしたことがない人間を連れてきてヒーローになれ、だなんて。無茶にも程があります」
「それは認める。しかし私は、紅子なら大丈夫だと思っていたぞ?」
「……本当ですか? 青山さんものすごく怖かったですよ?」
教育係を指名しろと言われて青山を選んだのは自分だが、理詰めで話を進めていく所や、反論を許さない態度などで紅子は何度か心が折れそうになったことがある。
ただ、青山は紅子の意見をないがしろにしたことはなかったし、わからない事に対しては理解できるまで言葉を砕いて説明してくれた。そこに気づくまでに少し時間がかかったのだが。
「時間がないと言っただろう。それにも関わらず私を選んだのだから、それぐらいの覚悟はできているものだと思っていた」
しれっとした表情で青山は言ってのけると桜並木に目をやった。
「まぁ、確かに紅子が私の元に来てからはあっと言う間だった気がするな」
「あの……私は青山さんのところに来たわけではないのですが」
「同じようなものだろう」
表情一つ変えず、緑に黄色が点在する桜並木を眺めながら青山は言い切った。妙に遠回しな事をするくせに、こう言うことは表情一つ変えずに言ってしまうあたりが青山の不思議なところだ。
「違います!」
「では何故、私を選んだ」
その問いに答えられずにいると青山は軽く笑って紅子の頭を軽く叩いた。
「おそらく、目についたからとかそんな理由だろう? あのときの紅子は目が泳いでいたしな……一番初めに目が合ったのが私だった」
「!」
何故、と言われて答えられなかったのは青山が言ったとおりの理由だったからだ。
単純に目があった。それだけでこの人と指名してしまったのだからひどい話だと紅子でも思う。そしてそれを見透かされてしまっていたことも結構な衝撃だった。
青山がそのことを一向に気にしていないのが救いと言えば救いだ。
「……どうしてそんなことまで覚えているんですか」
頭を抱えたい気分でいっぱいになりながら青山に聞いてみると、実にあっさりとした答えが返ってきた。
「興味があるものはまず観察するのが基本だ」
楽しげに青山は言って何かを思い出したように立ち止まる。紅子は二歩ほど歩いてから青山を振り返った。
「青山さん?」
「そう言えば、君は巡回の帰りに何か言いたげにしていたな。今更だが、気にはなっていたんだ……覚えているなら教えてほしい」
そう言われてもいつの話なのか……青山に話したい事などいつだってたくさんある。きっと青山にとってはどうでも良いことなのだろうが、自分の為に時間を割いて話に耳を傾けてくれるのがとても嬉しかった。
だから紅子は青山に様々な話をする。
「いつの話ですか?」
「……桜が満開になりかけた頃だったと思うが」
そう言われてようやく紅子も思い出した。
青山の少し変わった、風変わりな「優しさ」に気づいたのは桜の時期だった。
そのころから話したいことが少しずつ増えていったような気がする。
「――桜が見たかったんです。でも、青山さんが怖かったので言い出せずに、桜は散ってしまいました」
「心外だな。当時の紅子にとっての私は鬼かなにかだったのか」
「似たようなものですね」
そう断言すると青山は苦笑いを浮かべて紅子に並んだ。
「次に桜が咲いた時は一緒に見るから、その認識を改めてもらえるとありがたいのだが」
「……手を繋いでくれたら、認識を改めてもいいです」
苦笑いを浮かべていた青山の表情が一瞬、驚いたようなものにかわり、そして気むずかしい表情へと変わる。
次に来る言葉はわかっている――業務中だ。
「業務中だ」
思った通りの言葉に紅子は笑った。断られるだろうと思っているので別に悲しくもショックでもない。ただ青山らしいと好ましく思うだけだ。
だから、手を掴まれた時はぎょっとして青山を見てしまった。
「……どうしてそんなに驚いた顔をする。紅子が言い出したことだろう」
「いえ……業務中って青山さん言ったじゃないですか」
驚いてただ見つめるだけの紅子に青山が笑った。
「そうだな。だから、基地の近くまでだ」
歩き始めた青山に手を引かれて紅子も歩く。隣に並ぶと青山は紅子の歩みに合わせてくれた。
だから紅子は少しだけ足を早める。
青山は忙しい。時間は少しでも多い方がいい。
自分と一緒にいる時間はそんなに多くなくてもいい……そのかわりに、たくさんの話をするから。
話を聞いて笑ってくれれば、それでいい。
青山と過ごす時間はいつだってあっと言う間に過ぎていくのだから。
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