パソコンから目を上げて奈月は背伸びをした。
青山から頼まれた書類だけあっていろいろと複雑な決まり事があったり専門用語が多かったりでなにを作っているのかさっぱりわからない。
しかも決められた期限に間に合わせなければならないときている。奈月はここ数日、パソコンとずいぶん仲良くしていた。それも今日で終わりだ。
メールにデータを添付して送付。青山からはデータの送付をもって書類作成は完了、報告は必要ないと言われていたので本来なら奈月の仕事は終わりだが、メールの素っ気ない一文ですませるのも何となく気になるので青山の部屋を訪ねることにした。
(また、クラシックでタテノリしてるのかな)
クラシックを聴けば熟睡してしまう奈月にはわからない心境だが、人には人の好みがある。
大きなあくびをしながら奈月は青山の部屋を訪ねた。
(最近、なんだか寝苦しい……それになんか……)
パソコン仕事で疲れているからなのか……メノスの活動が少なくなっているから運動不足に陥っているのか。
ないない、と首を振りながらドアをノックする。
返事は返ってこないもの、と決めつけていた奈月はすぐに返ってきた返事にあわててあくびをかみ殺す。
「し、失礼します……」
くるりと椅子を回転させて青山が振り返り、眉をひそめた。
「データはメールで……なんだ、泣いているのか?」
「あ、いえ」
まさかあくびをかみ殺したんです、とは言えず奈月は笑ってごまかす。
「そうか、ならいいが。データは確認した。ご苦労だったな」
「もう確認したんですか!」
「ああ。幾つか修正する部分はあるが大したことはない」
慣れない仕事を頼んで悪かった、と言う青山を奈月は少し嬉しく見つめた。
(普段は厳しいけど、こういうときは優しいよね)
青山は何のための書類でどんな提出方法を採るのか、等を懇切丁寧に説明してくれているが、気のゆるんだ奈月の耳には半分も入っていない。
(……楽しそうだなぁ)
楽しげに語る青山をゆるいかんじで見ていた奈月はつい、あくびをしてしまった。
「あ……」
「……つまらない話で悪かったな。疲れているようだから早めに寝るといい」
早め、といってもこの時間は小学生でも起きている。椅子ごと背を向けかけた青山に奈月はあわてて弁解する。
「違うんです! 最近すごく寝苦しくて……」
青山の動きが止まる。再び奈月に向きなおった青山は呆れたようにこう言った。
「羽布団にでもしてみてはどうだ?」
「布団が重くて苦しい訳じゃありません!」
そもそも奈月の布団は羽布団だし、今は羽布団と言う季節ではない。
布団の重さ説をばっさりと却下して奈月はここ数日の寝苦しさと違和感を必死になって青山に訴えた。
「……要約すると、監視されているような気がするということか」
「はい……」
ふむ、とつぶやいて青山は考え込む。
「猿飛が屋根裏から君を覗いているとは考えられないか?」
「あぁ……でも、猿飛くんじゃないような気がするんですよね……なんかこう、違うというか」
「赤木……は、ないな」
「ないですね」
「黒峰が夜な夜な訪れているとか」
「あの黒峰さんが訪問だけで済んでるとしたら、それはそれで問題だと思います」
確かに、と深々と頷く青山。誰もいないと思って二人は言いたい放題だ。
「……青山さんでは、ないですよね?」
「私に覗きの趣味はない」
しばらく考え込む二人。
「ここの警備は万全だが、ハートピンクが感じたことだ。なにかあるのかもしれない」
青山はデスクの脇卓から小さな物を探し出すと奈月に差し出した。
「これは……」
「超高感度の小型カメラだ。部屋に設置してほしい。試作品だが、十分な映像が撮れると思う」
特に深く考えずに指先ほどのカメラを受け取った奈月ははたとあることに思い当たる。
(映像が撮れるって……私の部屋のだよね!)
滔々とカメラの機能を解説していた青山はすっかり固まってしまった奈月に不審の目を向ける。
「試作品、というのが不満か?」
「いえいえ! 青山さんの作品に不満なんてありません……ただ」
「ただ、何だ。不満があれば聞かせてもらいたい」
「……私の生活が映っちゃいますよね、当然」
「当然だろう、そのために……」
顔を赤くしてもごもごと言う奈月にようやく青山も奈月の言いたいことが理解できたようで、しきりに眼鏡の位置をずらしたり戻したりしている。
「……その、映像は流出しないようにするし、必要のない部分はカットする……ので」
ごほん、と青山は咳払いをして奈月をきっと見る。
「とにかく、私を信じてほしい。決して私個人の趣味や欲求からくるものではないことを明言しておく」
「は、はい! ありがとうございます!」
青山の剣幕に押し切られた奈月はぺこりと頭を下げて部屋を出た。
(……カメラにできるだけ映らないように気をつけなくちゃ)
ぎくしゃくしながら奈月は部屋に戻り、カメラを設置する前にシャワーを浴びて、いつもより少しかわいい部屋着を選んだ。
いつ何時、エマージェンシーコールで呼び出されるかわからないので見苦しい格好でいたりはしないが、今日の部屋着は無駄にかわいい。
「……でも、誰かに相談できてよかった、かな」
できるだけ部屋が映る位置にカメラを設置しながら奈月は呟く。確か、音声の収録はできないという話だったので寝言等の心配をしなくていいのはありがたい。
奈月は緊張しながら眠りについたが、やはりいつものように寝苦しい夜を送った。
翌日、長官室への呼び出しに青山は現れなかった。黒峰が現れないのはいつものことなので説明すらなかったが、さすがに青山については千鳥から説明があった。
「玲ちゃん、一体何の研究なんだろうね〜」
「さぁ……」
急な研究が入ってしまったので終日不在にする、という話だったが、千鳥でさえ研究内容については把握できていないという。
「奈月ちゃんが頼まれてた仕事は?」
「私の仕事は昨日のうちに終えたんですけど、もしかしたら追加で調べものがあったのかもしれないですね」
朝食のパンケーキを食べながら奈月はあくびをかみ殺した。
(何か話が聞けると思ったんだけどなぁ……)
奈月は猿飛からのデートの誘いを受け流し、赤木とともに市街地の巡回に出たりして比較的平和な一日を過ごした。
日が暮れても青山はJガーディアンズ内に戻っていないようで、食堂にも姿を現すことはなかった。赤木の話だとカラーカーがないらしいので、もしかしたら国外に出ているのかもしれない。
なんだか寂しい気分で部屋に戻ると、ドアの前に青山が立っていた。そこはかとなく不機嫌そうだ。
「あ、青山さん」
奈月は青山に駆け寄る。
「お疲れさまでした、研究……?」
近寄ってみるとそこはかどころではない不機嫌っぷりだった。
「あの?」
「……君の寝苦しい理由が判明した。しかし、カメラは今夜も稼動させてほしい」
「え? は、はい」
「今夜はともかく、明日からはゆっくり眠れると思う。では」
一方的にそう告げた青山はきびすを返すとカツカツと去っていく。後にはあっけに取られた奈月だけが残された。
(仕事が早いのは青山さんらしいけど……今日、研究って言ってなかった……?)
混乱したまま奈月は部屋に入る。一人で色々と考えてみたがよくわからないことばかりで結局奈月は考えることを放棄した。
明日からはゆっくり眠れるという青山の言葉を信じて奈月は眠りにつく。浅く息苦しい眠りが破られたのは深夜のことだった。
何かを叩きつけるような激しい音に奈月は飛び起きる。
薄暗い部屋に廊下からの明かりが差し込んでくる。かすむ目で奈月が見たのは、何かを振りかぶって窓に投げつける青山の姿だった。
「あ、あおやまさん?」
ガラスが砕け、青山が投げた何かがなにもないはずの夜空にぶちあたり、砕けた。
雑巾を裂くような絶叫が響きわたる。
「何!」
奈月はきょろきょろと周囲を見るが、部屋には自分と青山しかいない。しかし誰かの叫びとうめきが明らかに聞こえる……
「姿を現せ、変態吸血鬼」
仁王立ちになった青山は冷たい声でそういい捨てる。まさか、と割れた窓を見た奈月は何もなかったはずの夜空にしゅうしゅうと煙を立てて顔を押さえるジュテームを見た。
「……!」
「ごきげんよう、マドモアゼル奈月様……」
ジュテームは煙を上げながらも、しかし顔だけは死守したらしくにっこりと奈月に微笑んだ。
「いつ、気づいていただけるのかと心待ちにしておりました」
「気づきませんし、気づきたくもありません!」
即座に否定する奈月にいつものように、そんなことはありませんよ、と答えるジュテーム。
ぱん、と何かが割れる音がした。音の方を振り向くと、そこには割れた眼鏡をかけた青山がいた。
(……青山さんも謎の圧力で眼鏡割っちゃうの?)
少し違う所で驚いた奈月はふっと伸ばされたジュテームの手から逃げてベッドから出る。そしてあることに気づいた。
ハートスーツを着用していないにも関わらず、青山の手にはブルーガンが握られている。手には細い鎖が絡んでいる。
「え?」
奈月はごしごしと目をこする。そんな奈月にはお構いなしに青山はつかつかと窓に近寄り、ブルーガンを構えた。
「ラピットシュート」
「ええっ!」
ブルーガンが青白い光を発射する。それを優雅にかわしたジュテームが高らかに笑った。
「どこまで私とマドモアゼル奈月の邪魔をするつもりですか、全く惨め……!」
ジュテームの言葉が最後まで続かなかった理由を奈月は知っている。
(アサシンショット、って言った……)
背後からのショットを受けたジュテームはぐらりと姿勢崩し、憎々しげに青山を睨んだ。
「何度同じ手にかかったら気が済むんだ? この出歯亀怪人が」
青山は窓を開け放つと夜空に跳び、ジュテームの胸ぐらをつかみあげる。
「青山さん!」
もみ合いながら二人は落下していく。あわてて奈月は窓から身を乗り出した。
「……あ、なんか酷い、かも」
地上ではジュテームに馬乗りになった青山が黒峰ばりの攻撃を加えていた。どうやらジュテームは青山の下敷きにされたらしい。
かすかだが鈍い音が断続的に聞こえてくる所を見ると、黒峰が提唱する「拳に憎しみを込めろ」はあながち嘘ではないのだろう。
すっかり傍観者と化した奈月は普段のスマートな戦い方とはかけ離れた青山の姿を見ていた。
やがて、青山が立ち上がりよたよたとジュテームが宙に飛ぶ。
「……最近出動が少ないから、マドモアゼルにお会いしたかっただけなのに……」
しくしくと泣きながら夜空をふらつきつつ飛んでゆくジュテームにほんの僅か、同情した奈月はカツカツという足音に振り向いた。
スーツの上着を手に、眼鏡を外した青山が部屋に戻ってくる。
奈月は電気をつけると青山を招き入れようとした。
「いや、結構」
どうぞ、と言おうとした奈月を止めて青山は部屋の惨状にため息をつき、ネクタイを緩める。
「済まなかったな。部屋が滅茶苦茶だ」
「いえ、大丈夫です。それより青山さんは……」
顔を覗き込んでそう問うと青山はふいと目を反らす。
「何も問題はない」
「……やっぱり、入りませんか?」
散らかってますけど、お茶でもと重ねて言う。
「あ、でもお忙しいならいいんです! 本当に!」
研究だとか色々あるのなら無理を言うのは良くないと奈月はあわてて言葉を続ける。そんな奈月に青山はふっと笑った。
「……それでは、一杯だけ頂こう」
部屋に招いたのはいいが、結局部屋に散ったガラスの片づけを手伝ってもらい恐縮しきりの奈月に、青山は淡々と何故、ジュテームの来訪が判明したか、何を投げつけたのかを語った。
「聖水ですか」
「あいつは吸血鬼だという触れ込みだからな。こちらも非科学的ではあるが聖水を用意させてもらった」
「効果があるものなんですねぇ……」
「由緒正しい教会で祝福されたものだからな」
信じがたいが青山が投げつけ、ジュテームを灼いたものは水だった。
奈月はとりあえず座る準備をしてから電気ケトルに水を入れるために立ち上がる。
「片づけまで手伝ってもらって……申し訳ありません」
「いや、私が荒らしたようなものだからな……」
苦笑いする青山は眼鏡があるべき場所に手をのばし、眼鏡がないことに気づいて手を下げた。
(眼鏡、なくてもちゃんと見えてるみたい……)
「少し待っててくださいね、すぐにお茶を」
「……君に渡したいものがあるんだが」
「えっ?」
しばらく奈月を見ていた青山はいや、後でと笑う。奈月はとりあえずその場を離れた。
(渡したいものって何だろう……)
電気ケトルにスイッチを入れてぼんやりと考える。茶葉を用意しながら奈月はふと、思い当たった。
(研究じゃなくて、聖水を探してくれてたの?)
カラーカーなら世界のどこでも日帰りで往復するのは可能だ。ただし、疲労感はハンパないが。
「そこまでしなくっても……」
そう呟いて奈月は茶葉を量る手を止めた。
(……どうしてそこまでしてくれたんだろう、私なんかの為に)
でもだけど、いいやまさかそんなことはとぐるぐる考えを巡らせながら奈月は落ち着きなく青山が待っているはずのリビングを覗く。
青山はテーブルに突っ伏して眠っていた。よほど疲れていたのだろう。もしかすると昨日も眠っていないのかもしれない。
テーブルに形の良い手が投げ出されている。長い指には何かが絡みついていた。
(あのとき持ってた鎖?)
そっと近づいて見ると繊細な作りの十字架が見える。渡したいもの、というのはこのことだったのだろうか。
「……本当に、ありがとうございます」
体が冷えないように、と薄い掛け布団を青山にかけて、奈月はその隣にすとんと座った。
ふっと目を覚ますと空が白みかけている。
青山は、いない。
肩に掛けられた布団を掴んだとき、涼やかな音を立てて何かが落ちた。
銀色の十字架と鎖が膝の上にわだかまっている……奈月は細い鎖を首にかけ、まるで想い人の髪を撫でるように十字架を撫でた。
「奈月ちゃん、おはよう〜」
「おはよう、猿飛くん」
猿飛が飛ぶようにやってくる。
「今日はなにかあるかな?」
「その言い方は、なにかあった方がいいように聞こえるよ」
苦笑いする奈月に猿飛はにこにこと答えた。
「そうかな? そんなことないよ♪」
今日の市街地巡回は午後から、猿飛とペアで行うことになっている。あらゆる意味で気が抜けない巡回当番だと言えるだろう。
ミーティングに黒峰がやってくる確率とイエローマンで朝を迎える確率は同じだとか、今日の朝定食はなんにするだとか、他愛もない会話で盛り上がっている所で猿飛の視線が首もとに止まった。
「あれ? いつも……そんなのつけてた?」
「ううん。今日からつけてみようかと思って」
「ふーん……?」
なにか言いたげな猿飛の視線に奈月は少しだけ笑う。
「良いことがあるかもしれないから」
「良いこと、ねぇ……」
なにか言いたげな視線が疑わしげな視線に変わったが、奈月はすべて受け流してミーティングへと向かった。
青山はすでに長官室で千鳥に昨夜の出来事を報告していることだろう。何も変わりはない。青山玲士という人間が一晩で変わるはずはないのだ。
普段と異なる姿は、できれば自分の中だけに秘めておきたい。そして青山がそれを容認してくれれば嬉しい。
それだけのことだ。
「ねえっ! 奈月ちゃんそれ誰からもらったの!」
奈月の気配にただならぬものを察したのか泣きそうな勢いで猿飛が問いつめてくる。
「誰からももらってないよ?」
「嘘だ! 絶対嘘だよそれ〜!」
猿飛の絶叫が廊下に響く。ほんとだよ、と奈月は答えて長官室の扉を開けた。
「おはようございます!」
end
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