ニンゲンの言葉を理解した時に獣であった自分は死んでしまったのだと思う。
奥底に漂うなにものかは引きずり出され、獣の中で混乱したまま次々と送り込まれる情報を拒絶することもできずにいた。
目的は知っている。送り込まれる情報の中、巧みに織り込まれた言葉――殺せ。
何者かを殺すための存在であり、ニンゲンの言葉を理解し、喋るが獣の肉体であるもの。
それは何だ。
獣の中で僅かに芽生えた自我らしきものがうろうろと巡る。
何だ。これは何だ。自分は何だ。自分とは何だ。
ニンゲン達に何度も問うたが答えは得られない。
殺すための存在ならば、このニンゲン達から殺してしまおうか。
浅い眠りの中でそんなことを考えていた時、檻の近くに獣の気配を感じた。
ニンゲンの皮を被った狐が立っている。
「……鍵が開いているようだねぇ」
狐はにやにやと笑いながら檻を開いた。
「かけ忘れかなー……」
そんなことを呟きながら去っていく狐は立ち止まり、振り返った。
「僕の声が聞こえたら、戻るか去るかを決めるといいね」
光が射す。光めがけて飛び出してみると土のにおいがした。その方向へ駆けているといつの間にか「外」にいた。気の向くままに駆け、時にニンゲンを驚かせなから進んでいくと突然開けた場所に出た。
なにもないところが気に入ってぐるぐると駆け回っていると小さな破裂音が聞こえ、足を止めた。
音を辿るとニンゲンの女が立っていた。女と言うには若い。しばらく考えて娘という単語を思い出した時、近寄ってきた娘が言葉を発した。
「飼い主さんは?」
飼い主という単語の意味は理解できるがおそらく自分には存在しないものだ。だから答えなかった。
「……どこから来たの?」
向こうからだ、と言おうとして気がついた。獣は言葉を喋らない。この娘は自分の事を知らないのだから、喋らない方がいいのだろう。だから飛び越えてきた植え込みを見た。
「そっか、あっちから来たの」
娘は笑い、ゆっくりと手を伸ばしてくる。目線よりも下、決して危害を加えることはないと手の動きが示している。食いついたらたやすくちぎれてしまいそうな細い手はあごの下に触れ、毛並みを撫でた。
今まで誰一人として自分に触れようとはしなかった。だから撫でられるという行為は悪くないと初めて知った。
「逃げてきたの?」
目を閉じているとそんな問いかけが聞こえる。逃げたのだろう。狐が逃がしてくれた。
「戻らなきゃだめだよ」
ほんの少し笑いを含んだ声に耳を傾けているとそうなのか、という気分になってくる。娘は両手で顔に触れたり首周りを撫ではじめ、その感触に座っていられなくなって体を伏せた。
娘もすぐそばに座って耳の下を撫でている。
「高そうな犬だね、おまえ」
犬、という言葉に思わず娘を見た。この姿は犬に見えているらしい。自分は犬なのかと思うと妙に落ち着いた。娘の足の上にあごを置くと頭を撫でてくれる。
この娘の手はとても落ち着く。それに誰も答えてくれなかった事を教えてくれた。
うれしかった。
「――犬は犬で、大変なのかな」
低く、明るさが消えた声に被って狐の声が聞こえた。
――どうする? 戻るかい?
狐は戻るか去るかを決めろと言っていた。返事をしなければならないだろう。娘から離れるのは少し惜しい気がしたが仕方がない。
立ち上がり、植え込みへと歩いていると娘の呼びかけが聞こえた。振り返ると娘が立ち上がってこちらを見ている。
「おまえ、いつもこの公園に来るの?」
足早に近づいてきた娘はそんなことを言う。
ここに来たのは初めてで、しかも偶然だ。どうしてそんなことを聞くのだろうと思っていると再び狐が問いかけてきた。
――去るかい?
あの狐はニンゲンに近い。娘の問いかけについて聞いてみたら何かがわかるだろう。
返事のかわりに娘の手の甲をなめると植え込みを飛び越えた。戻って、狐に聞いてみよう。
娘はどうしてそんなことを知りたいのだろう、と。
……確認したかったんじゃない? いつも来ているのか気になったのかもねー……ま、僕はそのニンゲンじゃないからわかんないけど。どうだった? 外のニンゲン。
え、僕? ……いるよ。
うーん、まぁ、どうなんだろうね。よくわかんない。
おまえがどんなニンゲンに会ったのか知らないけど戻ってきたって事は思うところがあったんだろうし、僕個人としては外のニンゲンに接することは悪い事じゃないと思ってる。聞き入れてもらえないけどさ。
だから今晩も出て行くなら行けばいいよ。ただし、僕の声が聞こえたら戻ること。それだけは守ってよ。
でないといろいろ面倒だからさぁ?
昨晩の道を辿り「公園」という場所へ出ると長いすに座っている娘を見つけた。走り足りなかったのでしばらく広場を駆けてから娘の元へ向かう。
娘は笑っていた。
「また逃げてきたの?」
逃げてきたわけではない。昨夜はどうしようかと思っていたが今夜は戻るつもりで出てきた。
敵意が感じられない仕草で伸ばされた手が頭を撫でる。他のニンゲンが頭を撫でてもこんな気分になるのだろうか。そんなことを思っていると明るい声が聞こえた。
「まぁいいか。ほら、ここ座る?」
娘は長いすを手で示している。対等に扱われている気がして悪い気はしなかったので言われた通りに長いすに乗って伏せた。今まで見てきたニンゲンは興味本位の視線しか送ってこなかった。その癖問いかければ極度に反応して遠ざかる。だからニンゲンとはそんなものだと思っていたが外のニンゲンは違うらしい。
娘の腿にあごを乗せて、頭を撫でてもらいながら話を聞いた。
よくわからないが娘が苦しんでいる事だけはわかった。声に激しさが増し、揺らぎ始めたので何かあったのかと体を起こして座ったが目に見える変化はない。おそらく、目に見えないところで変化が起こったのだろう。
なおも続く話に耳を傾けていると、特定の異性に対する不満を語っている事が理解できた。それが苦しみの原因でもあるらしい。
喉元を一噛みすれば死んでしまいそうな娘を苦しめてなにが楽しいのか。ニンゲンは理解できない。
「……なんか、ばかばかしいよね」
困ったような表情で笑った娘になにかしたいと思ったので頬を何度か舐めてみた。ひっかいたりすれば娘がまとう薄い生地が破けてしまいそうだったのでやめた。
何の前触れもなく娘は腕を伸ばして首を抱くと喉元を撫で始めた。細い髪が鼻先に触れる。暖かさが少しづつ伝わってきて、やっぱりこんな娘を苦しめるということが理解できなかった。
自分ならどうするだろうか。考えていると狐の声がした。戻っておいでと言っている。声が聞こえたら戻るという約束だったので娘の腕を抜けて長いすを降りた。
「行かないの?」
娘の言葉にほんの少しだが戻りたくないと思っていた事を知られたような気がした。しかし約束は守らなくてはならない。狐にも立場というものがあるだろう。
かすかに揺れる薄い生地をくわえて破れないように引っぱると娘がにっこりと笑った。自分に笑いかけてくれたのもこの娘だけだ。
この娘は殺してはならない。それだけはわかった。織り込まれた言葉に支配されてはならない。
夜道を駆けながらそう思った。自分は犬だ。それを教えてくれた娘だけは絶対に殺してはならないし殺させるわけにもいかない。
いつの間にか青と呼ばれるようになっていた。よくわからない記号で呼ばれるよりもずっといい。それが「名前」なのだと理解してからはずっとこの「名前」を名乗ろうと心に決めた。娘が自分の為だけにつけてくれた名前だ。
「お嬢さんに会ってきたよ」
狐は笑いながら檻の前に立った。
「おまえと話をしてみたかった、ってさ」
自分の中で別れはすませてきたけれど、言葉で何かを伝えたわけではないから狐に伝言を託した。ニンゲンの姿を保つためのプログラムが始まると安定するまで外出はできないと狐から教えられた。プログラムが終了して性格が定着すればここを離れる。だから娘と会うのも終わりだ。
「だけどさぁ、本当にそれでいいの」
獣のままあのお嬢さんのそばにいてもよかったんじゃないのと狐は言う。確かにそうかもしれない。しかし、獣の姿でそばにいても話を聞くぐらいのことしかできない。同じ姿になればきっと違うことだってできるだろう……再び、会うことが出来さえすれば。
「――気持ちはよくわかるから、僕にできることはするつもりだよ。もう一度お嬢さんに会えるといいよね」
檻に手をかけた狐は苦しそうに見える。どうしてこの狐は自分にいろいろとしてくれるのだろうか。ニンゲンとしての思考が身につけばわかることがあるのだろうか。
ニンゲンになれば、娘が苦しんでいた本当の理由を理解することができるかもしれない。それに、隣に座って言葉を返すことができる。
知りたいことは山ほどあり、ニンゲンになればそのすべてが解決するような気がした。
娘に会う度に感じた不可解な高揚感も、離れがたいという思いも。
「お嬢さんに会えたら、たくさん話をするといいよ。あのお嬢さんならきっとおまえの話を聞いてくれるだろうから」
ニンゲンの姿でも、娘はわかってくれるだろうか。
青と名付けた犬の事を思い出してくれるだろうか。
これから行く場所の事はニンゲン達の会話で知ることができた。
それでもニンゲンになろうと思った。
いつか戻って、娘に会うのだ。
もう一度会えたら二度と離れたりしない。ずっと傍にいて娘を守る。
それ以外は望まない。
頭を撫でて、名前を呼んでもらえれば、十分だ。
end
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