ルイと一緒にいるのは嫌いじゃない。いつもおもしろい話をしてくれるしおいしい物を食べにつれて行ってくれる。
映画の趣味は合わないがその辺りはお互いに譲歩しているのでつまらない、と感じることもない。部屋には本がたくさんあって(一部屋を書庫として使っているぐらいなので)どれだけ時間があっても足りない。
ただ、一つだけ困っていることがある。
「お願いがあるんだけど」
何、と言う声が間近で聞こえる。ルイは見たこともない文字で書かれている古めかしい本を読んでいるところだ。それは別に構わない。
「……腕を離してもらえると嬉しいとか思うんだけど」
問題は本を読むルイの左腕が実弥の腕にしっかり絡んでいることだ。外を歩いているときは普通にしているのにどうして部屋ではこんなにくっついてくるのだろうか。本も読みづらいと思う。
「嫌」
ルイは本から目も上げずに即答した。もちろん、絡めた腕もそのままだ。
「本、読みづらくないの?」
「別に」
「私は読みづらいんだけど……」
猫だからか仕事が忙しいからなのか、ルイは気まぐれに連絡をよこしてくる。これからご飯を食べにいこうだとか、見たい映画があるとかそんな感じだ。平気で一、二週間は音信不通になるしメールを出しても返事が返ってこない。
実弥は元々、べたべたしたつき合いが苦手なのでその事で悩んだりしたことはない。悩んだり困ったりしているのは部屋に行くと必ずルイがくっついてきて離れないことだ。
もう少し距離を置いてもいいような気がする。それとも世間の恋人というのはこんな物なのだろうか。
月子や日菜子に聞いてみたいがあの二人に聞けるわけがない。特に日菜子には恐ろしくて聞けない。
「――そっか。ミヤは私が本に集中しているのが嫌なんだね」
妙に明るい呟きが聞こえたかと思うとルイは本を投げ出してあっという間に実弥の体を抱え込んだ。擬人化した獣達は人間よりも優れた身体能力を持っている。だから気づいたらルイに背後から抱きかかえられていたという有様だ。
「違うよ!」
そんな事じゃなくて、と言いかけた実弥の首筋に柔らかい感触が触れた。
「その……あんまりべたべたしないで欲しいんだけど!」
「どうして。好きな人の近くにいたいと思うのは普通でしょうに」
近くと言わず中に入れてほしいけどねぇとぼやく声を聞き流して実弥はルイを振り返った。
「近くって言うのは物理的な距離じゃないと思う」
「哲学的な事を言うんだね」
「哲学的かどうかはわからないけど、同じ時間を共有することを近く、って言うんじゃないの?」
素顔のルイはしばらく黙っていたが笑った。
「うん。それもあるけど物理的な距離も重要だと思うよ、きっと」
すこし強めに抱きしめられた実弥は小さな悲鳴を上げて腕から逃げようともがいた。ルイの腕が胸に触れているのが気になってしまっていてもたってもいられない。
「そんなに重要じゃないと思う!」
「重要でしょ。生理的に近づけないタイプの人も存在するわけだし、そこはお互いに確かめておかないと……っていうか、どうしてそんなに逃げようとするの」
実弥が逃げようとするのはいつもの事だけどねとルイは笑っている。べたべたされるのが苦手というのもあるが、おとなしくしていたら何をされるかわからないからだ。だから実弥はクッションを抱えて逃げている。
それでも睡魔に負けて目が覚めるとルイの腕の中にいるという何とも言えない状況が繰り返されている。
それなら帰れば? と誰かに言われそうだがルイが帰してくれるわけがない。それに、色々と不満もあるがこの部屋は居心地がいい――ルイの存在を含めて。
嫌なら部屋に来たりしない。
「あのねぇ。我ながら我慢強い獣だとは思ってるけど、この先未来永劫にプラトニックな関係を続けていける自信はないし、そんなつもりもないんだよ。その辺りはわかってるの?」
「……え?」
笑いながらの言葉に実弥はもがくことをやめて言葉の意味を考える。そしてルイの腕から逃げる作業を再開した。
しかし華奢に見えるルイの腕は実弥を捕らえて離さない。
「さっきも言ったでしょ。近くと言わず中に入れてほしいって。実弥は聞き流したみたいだけど?」
「やっ……やだ!」
叫んだとたん、ルイは腕を離して実弥を解放した。実弥は近くに転がっていたクッションをつかんで壁際に逃げる。
「そんなに私が嫌かなぁ」
苦笑いを浮かべてルイがぼやいている。ルイは嫌ではないと思うが色々とあるのだ……人間の娘には。
壁に背中を押しつけている実弥に四つん這いになって近づいたルイはきれいな顔に笑顔を浮かべていた。
「何が嫌なの。言ってごらん」
「だって……髪が短いし」
ルイの笑顔が一瞬固まり、この娘は何を言っているのかという顔つきになった。長いつきあいだからそれぐらいはわかる。しかし実弥には実弥なりの理由がある。そこは理解してもらいたい。
「髪? ミヤの?」
髪を伸ばしたことなどないが少しは女らしくした方がいいのかとも思う……猫とは言え、恋人という存在ができたのだから。
「そ、それにっ! 胸も小さい……し……」
クッションを抱きかかえての言葉はどんどん小さくなっていき、語尾はほとんど聞き取れないほど小さな声になってしまった。自分で言っておいて何だが、本当に、徹底して女らしくない。性格も外見も体つきも女らしくないというのはいろんな意味で絶望的だ。同じ人間だというのにどうして月子のように生まれなかったのかとため息が出る。
しかし、実弥の深刻な思いとは逆にルイはさもおかしげに笑い始めた。笑うだけならまだいい。転がって笑うというのはどうかと思う。
時々だがルイは実弥が真面目に答えたことに対してこんな反応を返してくる。腹を抱えて笑うルイを見ていると腹が立ってきて実弥はクッションを床に強く置いた。
「真面目に話してるのにどうして笑うの!」
「あ……ごめんね」
涙を拭いながら体を起こしたルイは実弥の前に座ると頭を何度か撫でた。
「だっておかしかったから」
「……私は真面目に話してた」
頭を撫でる手を払いのけてそっぽを向くがルイはその手で髪に触れた。
「ミヤにはショートカットが似合うと思うよ」
かわいい顔がよく見えるからねと言われるがそんな言葉を信じる気持ちにはなれない。自分の顔は自分で良く知っている。
「かわいくないよ。それぐらいわかってる」
「ミヤはきれいな顔立ちだからね。でも私といるときはかわいい顔してるよ。自分が知らない顔もあるということは知っておくといいね」
あまりに気恥ずかしい言葉にルイの顔を見ることができない。うつむいた実弥の頭をルイは軽く撫でた。
「それに胸がどうのっていうのは……第二次性徴を終えたミヤにはどうしようもないというか……その、胸が大きくなるまではさすがの私も待てないかな」
半ば笑いながらの言葉に実弥は先ほどまでの気恥ずかしさを忘れて顔を上げた。床に転がるクッションをつかむとルイに投げつける。
「一番気にしてるのに!」
素早くクッションを避けたルイはおかしそうに笑っている。どうやら今回のツボは胸の話だったらしい。実弥はクッションをつかむと次々にルイに投げつける。そのすべてを避けてルイは声をかけてきた。
「気が済んだ?」
「済んでない!」
手元に投げるためのクッションがなくなってしまった事をわかっていてルイはそんなことを聞いてくる。出会ったときからそうだったが、何をしてもルイの手のひらの上、という気がしてくる。
「そんなこと気にしなくてもいいよ。よその男に女らしいミヤなんて見せたくもないしね。私だけが知っていればいい事だから」
だからこっちにおいで、と言われるがルイの傍に行けば何かをされてしまうだろう。抱えるクッションもないまま実弥は壁にくっついていた。
「私より壁が好きならそのままでも良いけど?」
にっこりと笑ったルイは立ち上がり、実弥から離れると投げ出したままの本を取り上げてから読書を再開した。
離れた場所から眺めていてもルイが本の内容に没頭していく様子がよくわかる。もちろん、壁よりもルイが好きなので実弥はできるだけそっとルイに近づいた。
実弥が隣に座ってもルイは本から顔を上げようとしない。一度読書に没頭すると周囲の事などどうでもよくなってしまう癖がルイにはある。
そんなルイの隣に座っているのが実弥は一番好きだった。
「少し待ってね。この章を読み終わるまで」
「うん……」
クッションを抱えた実弥は素直に頷いて本を読みふけるルイの横顔を見ていた。金色の目が文字を追っていたが不意に本から離れて実弥を見る。
「ほら、こっちおいで」
本を閉じたルイは笑って小さく手招きをした。おずおずと近づいた実弥を先程と同じように背中から抱えこんだルイは頭を撫でる。
「私はいつまで我慢したらいいんだろうねー」
「……ご、ごめん」
「いいよ。そういう気にさせればいいだけの話だから」
「――え?」
思わぬ言葉に振り返るとルイが耳元で笑った。
「ミヤがこんなに女の子らしいとは思わなかったけどね。そういうところも好きだよ」
かわいいなぁ、と言う言葉と共にルイは片手で実弥を抱く。身動きができなくなってしまった実弥は頭を撫でていたルイの手が首筋に触れる感触を別の生き物のように感じていた。
end
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