擬人カレシ | ナノ
06


 誰にも教えていないはずの部屋に来客を知らせるチャイムが鳴り、日菜子は玄関へと向かった。この部屋に来るとしたらハクガしかいない。
 ドアを開けるとずぶぬれになったハクガが立っていた。ハクガだろうと思っていたので驚きはしなかったが、傘もささずに歩いてきた事に驚く。

 「傘は?」

 思わず口をついて出た言葉にハクガは無言で首を振る。そのまま部屋に上げるわけにもいかない。バスタオルを取りに行こうとした日菜子の腕をハクガが掴んで止めた。

 「――会いたかったんだ」

 黒髪の間から見える赤い瞳が日菜子を見つめている。遠い夏の夜と全く変わらない、すがるような眼差しだった。

 「バスタオル持ってくるから、待ってて」

 そう声をかけるとハクガは少し安心したように笑って日菜子の腕を離す。脱衣所からバスタオルを手に戻るとハクガは玄関の外で空を眺めていた。
 ハクガの不安げな横顔に、どうしてハクガは自分なんかに会いたいのだろうと思う。ハクガが伝えてくる思いはひたむきで、日菜子には辛い。
 バスタオルを渡すとハクガは黙って髪や服を拭いていたが、シャワーを貸してほしいと言うのでバスルームの場所を簡単に説明した。水回り以外にはリビングと寝室に使っている部屋しかない。案内しなくてもわかるだろうと日菜子は体を拭くハクガを残してリビングに戻った。
 しばらくすると鍵をかけるような音と足音、それに水音が聞こえてくる。
 ハクガと別れて部屋に戻ってから、日菜子はずっと考えていた。
 擬人化した獣は人間とほとんど変わらないが、好意を抱いた相手に対する思いは人間と異なる。日菜子が知る限り、人間なんかよりもずっと素直で純粋だ。
 ただ、日菜子がその思いを向けられるにふさわしい人間であるとはどうしても思えない。ハクガに会いたいと思っていたことは確かにある。けれどそれは昔の話で、今はそんなことを考えたことがない。ハクガが部屋を訪れることが当然だと思っていたからだ。
 どうしてハクガは自分なんかのためになりたくもない人間になろうとしたのだろう。今も、会いたいと思うのだろう。
 ため息をついて頭を抱えた日菜子は硬い物が床に触れる音に顔を上げた。ちゃかちゃかという音に続いて獣が顔をのぞかせ、日菜子は体を硬直させた。
 しかし黒い獣が狐であることに気づいた日菜子は体の力を抜く。ハクガと自分しかいないはずの空間に黒い狐が現れたのならそれはハクガだ。

 「どうしたの、ハクガ」

 廊下からリビングを覗いていたハクガは日菜子の声におずおずとリビングに入ってくると日菜子の隣に座る。

 「服が濡れてたから」

 どのような原理なのかわからないが狐はハクガの声で返事をした。黒い毛皮は濡れてぺったりとしている。

 「……ヒナは僕が狐でも驚いたりしないの」

 不思議そうな声とともにハクガは赤い瞳を日菜子に向ける。狐の姿は研究所で見慣れていたし、ハクガが狐だと言うことも知っていた。初めて獣の姿を見て驚いたが驚きが続くわけでもない。恐ろしいと感じた獣の瞳もこうして見ると何も感じない。恐ろしいと思った自分が愚かで恥ずかしかった。

 「驚いたけど、ハクガは狐でしょ」

 日菜子の言葉を聞いたハクガは目を細めると濡れた頭を日菜子の腕にすりつける。

 「泣いたりしてごめん」

 濡れた頭を撫でながら昨夜の事を詫びるとハクガは頭を小さく振る。しばらく沈黙が流れ、日菜子は言葉を続けた。

 「ハクガはどうして、私なんかのそばにいたいの?」

 大きくとがった耳を動かしてからハクガは首を傾げる。

 「わからない。でも、ヒナじゃないと嫌だ」
 「そっか」

 ため息をついた日菜子はもう一度ハクガの頭を撫でた。

 「……私なんかの、どこがいいの」

 思わず呟いた言葉にハクガが尻尾を動かした。ばたばたと二度ほど動かしたかと思うと動きを止める。

 「一緒にいたらきっと嫌になると思う。嫌になったら無理しないで……お願いだから」

 きゅう、と犬のように鼻を鳴らしたハクガは日菜子の前に移動すると首を伸ばして日菜子の頬を舐めた。

 「……ヒナは僕に会いたかった?」

 昨夜と同じ問いかけに日菜子は目を伏せる。会いたいと思っていたのは昔の事だ。今は思っていない。けれど、違うことは思っていた。恋人と呼ぶ存在がいた時もいない時も。

 「待ってたよ」

 狐の頭を抱いて日菜子はハクガに答える。
 濡れた毛を撫でながら目を閉じるとハクガが耳を一舐めした。

 「また会いにきてもいい……?」
 「いいよ」

 腕の中でごそごそとハクガがもがく。手に触れていた毛の感触があっという間に人の肌に変わり、日菜子は人の腕に抱きすくめられる。

 「僕にはヒナしかいないんだ」

 押し殺したようなハクガの声を聞きながら日菜子は思う。
 昔、ハクガは姿を消して戻ってこないだろうと思った。そう思っていれば本当に姿を消したときのショックが少なくてすむと考えていた。
 しかしハクガは姿を消すこともなく、気まぐれに思えるタイミングで日菜子の元を訪れた。そうやって時間を重ねていくうちに、ハクガがいなくなる事を忘れ、ハクガを待っている自分の事も忘れた。
 いつか、誰かが迎えにきてくれると思っていた。誰かをずっと待っていた。
 夏の夜に出会った狐を、待っていた。

 −続く−


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