今の日菜子に「特別なニンゲン」はいない。澄んだ香りがその証拠だ。それなのに言葉を変え、頑なに会いに来るなと繰り返す。博雅には日菜子の真意がわからなかった。
日菜子のそばにいたいだけだ。博雅がニンゲンの姿を保っているのはそれだけが理由だ。何もかも忘れてしまうなんて無理だ。日菜子に会えないのは嫌だ。
「……ヒナ?」
沈黙に不安を覚えた博雅は少しだけ腕の力を緩めると日菜子の顔を見る。日菜子は遠くを見て泣いていた。涙が次々と頬を伝い、落ちていく。
慌てて体を離した博雅はどうしていいのかわからずに少し離れて日菜子を見守る。泣かせるつもりなんかなかった。
ニンゲンになって日菜子に会いに行った夜も同じように日菜子は泣いた。会いたかったかと聞いたらわからないと返事をされた。
「私なんかに、そんな価値ない……」
弱々しい声で日菜子が呟く。うなだれた日菜子の膝に涙のしずくがぽたぽたと落ちる。
「醜いニンゲンの為にそこまでしなくていい。私もハクガを珍しい獣だって思ってるだけ。だから無理しないで」
とぎれとぎれに震える日菜子の声はあの夜と同じだったが、今夜は嘘をついている。博雅を狐だと信じていなかったと言った日菜子の言葉は忘れていない。日菜子は自分の事を珍しい獣だなんて思っていない。それぐらいは今の博雅にもわかっていた。
耳や尻尾を見てみたいなんて言われたことがないし、一度だけ見せた耳を撫でる仕草からも戸惑いが伝わってきた。日菜子はいつも、自分を受け入れてくれた。
「ヒナは僕のこと、狐だって信じてなかった」
うなだれたままの日菜子は肩をぴくりと震わせるとゆっくりとかぶりを振る。揺れる日菜子の黒髪に触れたくなって博雅は手を伸ばした。
指先に触れた髪がさらさらと流れていく。
「……そばにいたいよ」
涙で濡れた頬に触れた博雅は日菜子の肌を思い出す。熱を持ち、汗ばんでいく日菜子と肌を合わせていると呼吸ができなくなるかと思うほど苦しくなった。そんな気分になるのは日菜子だけだ。日菜子は他の女たちとは違った。
顔を上げた日菜子が濡れた目で博雅を見つめる。
「ごめん」
か細い声で謝罪の言葉を口にした日菜子は瞼を閉じると涙をこぼした。透明のしずくが頬をつたい、肌ににじんで消えていく。博雅は日菜子に顔を近づけると瞼を優しく舐めた。
どうして日菜子が謝るのか、博雅にはわからない。久しぶりに口にした日菜子の涙は薄い水のような味で、博雅の何かを満たしてくれた。
ごめんね、と繰り返された日菜子の言葉を封じるように口づけをした博雅は日菜子を抱きしめる。謝罪が意味するものが別れなら、ここにいる意味がない。あの頃と違い、博雅には自由がある。獣に戻り山へと駆けることができる。
日菜子の事を忘れたくないし、そばを離れたくもないけれど。
すがるような思いで日菜子を抱いていた博雅は背中に触れる優しい手に気づいた。
「……私は、ハクガが思っているようなニンゲンじゃない」
ぎゅっと力を込めて抱き返される感触が博雅の理性を簡単に奪ってしまう。気づいたら日菜子を押し倒してしまっていた。
胸に顔を埋めた博雅の頭を日菜子が撫でる。何も変わることのない優しい手の感触に甘えて博雅は目を閉じた。日菜子がどんなニンゲンでもいい。ずっと一緒にいたかった。
明け方、日菜子は帰った。去り際にマンションのカードキーを差し出すと日菜子は少し考えた末に受け取らず、何も言わずに部屋をあとにした。
殺風景な部屋には日菜子の香りが残っており、博雅は日が高くなるまで部屋に座っていた。
思えば、日菜子から好きだとか愛しているという言葉を聞いたことがない。言えと強要されたこともないし、言わないからと責められたこともない。博雅も聞きたいと思わなかった。
ニンゲンには必要なのかもしれないが、博雅には必要ない。そんなことよりもそばにいてもいいのだと言ってほしかったし、昔のように会いたかったと言ってほしかった。
日菜子はそのどちらも言わなかった。
博雅は立ち上がると部屋を出る。梅雨は明けたというのに雨が降っており、陰鬱な雲が空を覆っていた。
マンションをあとにした博雅は雨の中、傘もささずにくちなしの香りを頼りに歩く。日菜子の部屋はくちなしが教えてくれる。日菜子に会いたかった。
−続く−
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