擬人カレシ | ナノ
04


 連れていかれたのは昨年建ったばかりのマンションの一室だった。
 人間と生活を共にしない獣は原則、研究所の居住棟で生活することになっているが主任の肩書きを持つハクガなら「外」での生活が認められてもおかしくない。
 無駄に広いリビングには大きなテレビとふわふわしたラグを敷いているだけで他にはなにもない。隅にダンボールの箱がいくつか積んでいるが、他の部屋も同じような状態なのだろうとなぜか確信できた。
 家族用の物件と思われる部屋には生活感がなかった。

 「……許可を取ったの?」

 ラグの隅に座った日菜子は離れた場所に座っているハクガに聞いてみた。肩が触れるほど近くに座る癖があるハクガにしては珍しい距離だ。

 「うん……やっと、研究材料じゃなくなった」

 ハクガの言葉に日菜子は言葉を失う。ハクガは擬人化の検証用として選定された獣だ。擬人化してからは研究棟で働いてきたが、それすらもデータを取得するための手段の一つだったのかもしれない。
 ハクガは顔にかかる髪を慣れた手つきでまとめてピンで止める。狐の名残を残す、つり上がった赤い目が日菜子をじっと見ていた。

 「わかっているとは思うんだけど――どうして、何も返事くれなかったの?」

 日菜子は無意識のうちに眼鏡のフレームに触れる。度の入っていない伊達眼鏡は私生活に全く必要のないものだ。ハクガが顔の半ばを隠すように、日菜子は眼鏡で顔を隠した。
 示し合わせた訳でもなくハクガと日菜子はそうやって仕事とプライベートを区別してきた。まるで研究所の職員すべてに関係を持っていることを知られたくないと話し合ったかのように。
 眼鏡を外すと日菜子は小さく息をついた。いつか聞かれるだろうとは思っていた。聞かれた時の答えをずっと考えていたが、恐ろしい、以外の理由があるような気がした。ただ、明確な言葉で表現することができない。だから理由を答えずにわざと話をそらそうとした。

 「もう、私のところにはこなくてもいいよ。ハクガはハクガの好きにしたらいい。せっかく人間になったんだから……――」

 うつむいてぼそぼそと話していた日菜子はハクガが目の前に立っている事に気づいて顔を上げる。険しい表情で自分を見つめるハクガに日菜子は言葉を続けることができなくなった。
 口を閉ざした日菜子をハクガが見下ろし、呟く。

 「こなくてもいいって、どういう事」
 「……言葉通りの意味よ。他に何がある?」

 静かな問いかけに言葉を返すとハクガはひざをつき、ゆっくりと日菜子の肩を両手で掴んだ。整った顔はゆがみ、怒っているようにも、笑っているようにも見えて日菜子は怖気だつ。

 「それなら僕はヒナちゃんをこの部屋に閉じこめる」
 「何、言ってるの……」

 思いもよらない言葉に日菜子は呆然と呟く。ハクガの表情はゆがんだままだ。

 「好きにしたらいい、なんて言うからだよ」

 肩を掴む力が強くなり、ハクガの指が肩に食い込む。日菜子はその痛みにハクガをにらみつけた。

 「ヒナちゃんが何を考えているのか知りたくて、ニンゲンの女を調べてみた。でも、なにもわからなかった。勉強にはなったけどね」

 恐ろしく冷たい言葉に日菜子は一瞬肩の痛みを忘れた。ハクガは女性職員に妙に人気があり、頻繁に誰かと付き合っているという噂を耳にしていたがハクガにとっては「調査」の為だったというのだろうか。当事者たちが聞いたら何というのだろう。

 「僕が知っているのは昔のヒナちゃんのことだけだ。今のヒナちゃんのことは、わからない」
 「……ハクガ?」

 ゆがんでいた表情が笑みを作る。整った顔立ちをしているだけに、ハクガのゆがんだ笑みは日菜子の目に痛々しく映った。

 「ニンゲンが嫌いだ。ニンゲンなんかになりたくなかった。帰りたかった。こんなところにいたくなかった。ニンゲンの女はもっと嫌いだ。あいつら、僕を珍しい獣だって思って近づいてくる。ニンゲンの男と何が違うのか確かめたくて抱いてほしいって言うんだ。狐に戻って犯してやれば喜んでくれたのかな、あいつら」

 淡々と、激高することなく語られるからこそ恐ろしさが増す。
 ハクガが人間を嫌っていることは日菜子も知っていた。人間になりたくないという事も昔、聞いた。けれど、近くにいる女達をそんな目で見ているとは思ってもみなかった。うつろな笑みは嫌いだったが、女達と一緒にいるハクガは楽しそうに見えたから。
 ハクガの力は強くなり、肩が痛むが日菜子はハクガの手を振り払うことができなかった。

 「そんなことは、ないと思う。本当にハクガの事を好きな人だっていたと思う……」

 人として、同じ女としてハクガの言葉を否定した日菜子にハクガは静かにかぶりを振る。そして目を伏せた。

 「――違うよ」

 肩から手を離したハクガは日菜子の背に腕を回す。軽く、肩に押しつけられた頭や背中に触れた手から震えを感じた日菜子は夏の夜を思い出した。頬を撫でる指やあばらが浮いた細い体。痛い、と泣く日菜子を抱いたハクガはそっと涙を舐めてくれた。
 ぼんやりと感じていた「恐れ」以外の感情はきっと、夏の夜に少年の求めに応じた娘の淡い憧れだ。少女漫画に憧れ、いつか誰かが迎えに来てくれるのだと漠然と夢見ていた子供の自分。恋と言うにはあまりにもあやふやな思いをハクガに抱いていたのだと日菜子はようやく自覚する。
 淡い、憧れとも恋ともつかない思いを沈めたまま日菜子はハクガを見ていた。
 誰かと親密に語らっていてもハクガは絶対に日菜子の元を訪れた。だから、ハクガが誰かとつきあっていると聞いても平気だった。何も思わなかった。なぜならハクガは絶対に自分の元に「戻ってくる」と思っていたから。
 夜半、ハクガがやってくる事に密かな優越感を覚えていた。
 ハクガを囲んで騒ぐ女性職員を冷ややかに観察できたのは、誰よりも長くハクガと関係を持っているという思いがあった。
 思いを伝えた訳でもなく、将来を言い交わした訳でもない。少しばかり長くハクガの事を知っている女。ただそれだけの話だ。日菜子はそんな自分がハクガの言う「嫌いなニンゲンの女」に思えてハクガの体を押し戻した。
 赤い瞳が驚いたように日菜子を見つめている。

 「私も、ハクガが嫌いな人間の女だよ。だからもう、私のところにはこないで」

 改めて同じ言葉を呟いた日菜子は、彼氏がいてもハクガの訪問を拒まなかった事を思い出す。ハクガに罪悪感を抱いても彼氏には何の思いも抱かなかった。彼氏、と呼ぶ存在を泊めた事もなかったし部屋に遊びに行きたいと言われても絶対に断った。嫌だった。
 彼らの事は「好き」だったのだろうか、と日菜子は他人事のように思った。

 「違う!」

 物思いに耽っていた日菜子はハクガの強い語気に顔を上げる。

 「ヒナちゃんは違う」
 「……違わない。ハクガは今の私の事を知らないんでしょ。知らない方がいい」

 知らない方がいい、ではなく知られたくない、だ。今のずるい自分の事は知らなくていい。ハクガは無邪気に笑ったり泣いたりしていた子供の頃の「ヒナちゃん」を知っていればいい。今の自分は昔とは何もかも違う。ハクガが求める「ヒナちゃん」ではないと日菜子は思って笑った。
 真顔のハクガが日菜子を見つめている。

 「――嫌だよ」

 ぽつりと呟いたハクガが今度は強い力で日菜子を抱き寄せた。その力はとても強く、日菜子がどんなにあらがっても逃げることができない。

 「ヒナちゃんのそばにいたい。そうじゃなきゃニンゲンなんてやってない!」

 ハクガの腕から逃げようともがいていた日菜子は叩きつけるようなハクガの言葉に動きを止めた。日菜子を抱くハクガはやはり震えていた。

 「僕みたいに性格が定着しない獣はニンゲンになれないって言われた。でも、ニンゲンじゃなきゃヒナちゃんのそばにいられない……」

 日菜子は現場の仕事に携わったことはないが、研究所設立当初から仕事をしてきたせいで擬人化に失敗した獣の話も知っている。性格の定着に失敗した獣は自我を保てず獣に戻り、消息を絶つと聞いた。例外はない、と研究職の男性が話していた事を覚えている。
 ハクガが性格の定着に失敗しているなんて知らなかった。どんな手段で自我を保ち、ニンゲンの姿をしているのか日菜子には想像もつかない。

 「何で……ニンゲンになりたくないって言ってたじゃない。山に帰りたいって。狐に戻って山に――」
 「嫌だ!」

 体の奥から絞り出すかのように叫んだハクガは痛いほど日菜子を抱きしめる。ハクガが何故、どんな思いでニンゲンの姿を保っているのかを知って日菜子は嬉しかった。ハクガの苦しみをよそに喜ぶ自分が醜くて嫌だった。

 「狐に戻ったらヒナに会えない」

 懐かしい呼び方に日菜子は両手を握りしめる。ハクガは何一つ変わっていない。山に戻りたいと言っては泣き、頭を撫でてほしいとねだった少年のままだ。都合の悪いことから目を背けて年を重ねた自分とは違う。ハクガの言葉に恐れを感じ、逃げようとした自分はハクガが嫌う「ニンゲン」そのものだ。

 「……もういいの。もう」
 「会いたかった……ヒナは?」

 苦しいなら狐に戻って、何もかも忘れて。そう言いかけた日菜子はハクガの唐突な問いかけに言葉を止める。昔、同じようなやりとりをした事がある。そのときは日菜子がハクガに問いかけた。
 私に会いにきてくれたのか、と。ハクガは会いたかったと言ってくれた。日菜子は、答えることができなかった。

 −続く−


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