(それは恋ではなく)
それからハクガは週末になると日菜子の部屋に現れるようになった。相変わらず、山には戻りたいらしく聞く度にうなだれて悲しそうなそぶりを見せる。泣かれてしまうといろいろと大変なのでできるだけどこから来たのか、どこにいるのかと言うことは聞かないようにした。
地元の友人から彼氏はいるのと聞かれたりもしたが、深夜に近い時間にやってきて目が覚めたら消えている、どこに住んでいるのかも年齢すらもわからない、そんな存在を彼氏と言っていいのかわからずに結局はいない、と答えていた。恋人や彼氏と呼ぶべきではないのだと思う。
いつか、ハクガは姿を消すだろう。そんな確証のない予感を抱いて日菜子はハクガを部屋に招き入れていた。
ハクガはやってくる度に大人びた表情を見せるようになり、口数も増えた。ヒナと呼び捨てにしていた名もいつの間にかヒナちゃん、に変わり、季節も変わった。
栗を山ほど拾ってきたかと思ったらあけびという果物を持ってきたこともある。そのたびにほこりだらけになっているところを見ると周囲の山に入っているようだ。
やがて冷たい風が吹く季節になり、仕事納めも近くなった週末にいつものようにハクガがやってきた。
出会った頃よりも背丈が伸び、目線は日菜子よりも上になっている。
「寒かったでしょ。お茶入れようか?」
「うん」
こたつに入ったハクガはキッチンに向かう日菜子を目で追っている。この視線にもすっかり慣れてしまった。
お茶をいれて戻るとハクガはこたつにあごを乗せている。よほど寒かったのだろう。
お茶をおいて隣に座ると前髪の隙間から赤い目が日菜子を見て笑った。
「ヒナちゃん、もうすこし、こっち」
ハクガは日菜子の傍に居たがる。テレビを見ていればいつの間にか肩が触れるほど隣にいるしこたつを出してからは少し距離を空けなければならなかったがそれでもできるだけ近くにいたいようだ。
体だけが目的だろうかと考えた事もあったが、日菜子の事情で何もできない時もハクガは隣にいて、頭を撫でてもらえれば満足な様子だった。
日菜子なりに調べてみたらそういうときはそういうときでいろいろとやり方もあるらしいが要求されたことはない。
できるだけハクガの近くに動いてお茶を飲みつつテレビを見ていた日菜子はいつの間にかうとうととしていたらしい。肩を揺すられて重たい瞼を開くとハクガの整った顔が間近にあった。
「どしたの……?」
油断するとまた眠りに落ちてしまいそうになる。仕事は相変わらず忙しく、疲労が蓄積していた。それでも仕事納めの後には正月休みがあるし、実家に戻ることができる。
両親も日菜子が戻るのを楽しみにしていた。
「山にはもどらない」
ハクガは日菜子の髪を指に巻き付けて軽く引っぱっている。楽しげな表情に日菜子は笑った。
楽しいのならそれでいい。悲しい顔は見ていたくない。
「ニンゲンになることにした」
そう、と返事をして引きずられるように眠りに落ちていく。ハクガは自分は狐だと言ったことがあるがそんなことは嘘だ。だから、今の言葉もきっと嘘だ。
ヒナちゃん、と耳元で囁く声がしてこたつから引きずり出された気がする。体が浮いて揺れているのが夢なのか、それともハクガに抱えられているのか日菜子にはわからなかった。
翌朝、目を覚ました時にハクガはいなかった。それはいつもの事だ。
ただ、最後の週末も、年が明けて初めての週末にもハクガはやってこなかった。雪が積もった日にようやく、ハクガが姿を消した事を理解して少しだけ泣いた。
ハクガが姿を消したことを冬の間中引きずって仕事に没頭する日々を送っているといつの間にか年度が替わった。
年度末はいつにもまして仕事量が増え、部屋に帰ったら死んだように寝るという日々を送っていたせいでハクガの事などすっかり忘れていた。我ながら薄情なことだと思ったが、それも仕方のないことだと思う。
過去に捕らわれていては先に進めないもの、と妙に年寄りじみた事を思いつつ配布された広報を眺めていると、育成が終了した獣が研究棟で人間と共に働くといった内容の記事が掲載されていた。
写真や名前が掲載されている訳ではないからどんな獣なのかはわからない。先ほどから興味本位の囁きが聞こえてくるぐらいだから現場の研究者は獣の素性を公にしたくないのだろう。
日菜子はといえば特に興味はなかった。何しろ記事を目にするまではここが擬人化を研究している施設だという事を忘れ去っていたほどだ。
「日菜子ちゃん」
お茶を飲んでデスクを片づけようとした時、同僚が声をかけてきた。同僚といっても年上だ。
「はい」
オフィスの入り口で同僚が白衣姿の青年を伴って立っている。手招きされて仕方なく日菜子は立ち上がった。
「何でしょうか」
「申請書類の様式を教えてほしいって……研究棟の新人さんらしいんだけどね」
同僚は白衣姿の男性をちらりと見る。青年は長くのばした髪で顔のほとんどを隠していた。薄い唇だけが笑いを形作っている。
「わかりました。こちらへどうぞ」
日菜子は同僚から青年の相手を引き継ぐとパーテーションで囲われたスペースへと案内した。
申請書類の見本を見せながら記入方法を説明すると青年は無言で頷いていた。わかっているのかどうかはわからないが、研究棟の新人というのだから大卒もしくは院卒なのだろうし頭もいいのだろう。
青年は特に質問をすることもなく説明を聞き終えた。研究棟には足を踏み入れた事はないが、青年の姿を見るに相当に自由な雰囲気らしい。
顔は髪で見えないし、長くのばした髪は一つにまとめてくくっている。理系の研究者は自由奔放だと聞いたことはあるが、見た目がすでに個性的と言うのもすごい話ではある。
「わからない事があったら内線に電話をしてください――何か質問はありますか?」
メモに内線番号と名前を書いていると突然、青年が日菜子の手をつかんできた。悲鳴を上げそうになった日菜子はここが職場であると言うことを思い出して声を抑える。
「なっ……何をするんですか」
小声で抗議して手をふりほどこうとするが青年は手の力を緩めようとはしない。それどころか楽しげな笑みを浮かべていた。
「やめてください!」
「――ヒナちゃん」
何となく聞き覚えがある声だ。この声を少し若く、高くしたような声を聞いたことがあると思っていると青年は左手で髪をかきあげた。
「僕だよ。研究棟で働く事になったんだ。ニンゲンになったんだよ……褒めてくれる?」
髪に隠れていた目は赤く、つり上がっている。
「……ハクガ?」
日菜子が覚えていたハクガはどこか幼く、あどけない表情を残していた。しかし目の前の姿は明らかに日菜子よりも年上の姿で表情から幼さは消えていた。
日菜子の手を離すと青年はメモを取り上げて去っていく。日菜子は長い黒髪が揺れている様をただ見つめているしかなかった。
ぼくは、きつね。
たどたどしい言葉を思い出した日菜子はため息をつくと頭を抱え込む。人の姿をした存在に自分は獣だと告げられて信じる事ができる人間はいるのだろうか。
残業をしようと思えば仕事はあるが年度始めと言うこともあってオフィスでは早く帰れるものなら帰りたいという雰囲気が漂っている。仕事をする気分になれない日菜子はデスクに戻ると手早く片づけを済ませて逃げるように研究所を後にした。
部屋へと戻りながら白衣の青年がハクガではない証拠を考えてみたが、日菜子が覚えているハクガが何年か経てばあんな風に成長するだろうとしか思えない。声もよく似ていた。人間は半年も経たないうちに急激に成長するなどあり得ないのでやはりハクガは狐なのかもしれない。
無意識に部屋の鍵を開けてぼんやりしながらパンを食べ、惰性でシャワーを浴びてテレビを見て、眠くなったからベッドに潜り込んだ。もう、考えるのが嫌になった。
−続く−
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