(それは恋ではなく)
日菜子が学校で学んだのは経理。特技は暗算。電卓よりも早く正確な計算ができることが自慢だった。それを買われたのかどうなのか……高校を卒業して国家試験に合格し、公務員として勤務することができたのだから運がいいと思う。
国家プロジェクトに属する研究所での仕事のため厳しい守秘義務に縛られ、住居も定められた地区に指定されたが遠京での一人暮らしにあこがれていた日菜子には嬉しいことだった。
仕事は予算申請などに関わることが主だった。
だから、研究所では獣の擬人化を研究していると言われてもぴんとこなかった。日菜子が相手にするのは書類とデータと数字であり、獣でもなければ呪でも科学でもない。獣の姿すら目にしたことがない。
創立されたばかりの殺風景な研究所で日菜子は黙々と数字と向き合っていた。
残業続きのある夏の夜、研究所を出た日菜子は少年を見つけた。青みがかった街灯の光の下でうずくまっている。
「あの、どうしたの……?」
時間はすでに深夜と言っても差し支えない頃だ。こんな時間にこんな殺風景なところでうずくまっているというのはただ事ではない。怪しいとは思ったがつい、声をかけてしまったのには理由がある。
周囲で働いているのはほとんどが大卒の人ばかりで話が合わなかったし、どうしても子供扱いされることが多くて悔しかったり情けなかったりもした。だから、自分と似た年頃の少年をほおっておけなかった……
日菜子の問いかけに少年はゆっくりと顔を上げる。
ひどくつり上がった目は赤く、涙で濡れていた。
「……もどりたい」
「え?」
少年の呟きは小さく、鼻声のためか聞き取りづらい。つられて体を屈めた日菜子を少年はじっと見ている。
「山に……もどりたい……」
涙をぽろぽろとこぼしながら少年は日菜子に訴える。
研究所は山を切り開いて造られている。だからここも山と言えば山だ。言っている事がよくわからなくて日菜子は一般的な言葉をかけてみることにした。
「……もう遅いし、おうちに帰った方がいいよ?」
研究所の付近にあるのは職員が居住するためのマンションやアパートのみで、一般の住人が入居するためのものではない。一戸建ての住宅すら存在しないのだ。少年がどこに住んでいるのかは知らないが、研究所職員の子供なのかもしれない。
少年ははげしくかぶりをふるとまた山にもどりたいと同じことを呟いて泣いた。
どこかたどたどしい言葉使いや美しく整った顔立ちはこの国の人間ではないのかもしれないと言う疑いを抱かせる。
髪こそ黒いが瞳は赤く、美少年と言って差し支えない少年は再びうつむいてしまう。
「どこから来たの? お父さんがここで働いてるの?」
いくつかの質問を投げかけてみたが少年はただ首を横に振るばかりでなにも答えようとはしない。ここに至って日菜子はようやく、やっかいなことに関わってしまったということに気づいた。
研究所に保護を頼もうかとも考えたが機密事項の固まりのような研究所が部外者を受け入れてくれる訳がない。親が働いていたとしても無理だろう。
「えっと、私は帰るから、早く帰った方がいいよ……」
いろいろなことを考えた結果、日菜子は少年をそのままにして立ち去ることに決めた。後ろめたいがどうしていいのか判断ができなかった。
昔、捨て猫を拾ったが家族に猛反対されて泣く泣く元の場所に戻しに行った事を思い出して日菜子は深いため息をつく。そのときと似たような気分の重さだ。
こんな事なら見ないふりをすればよかったと思いつつその場を立ち去ろうと歩き出した日菜子はショルダーバッグが何かに引っかかったような感覚に思わず振り返る。
少年がバッグを持って日菜子をすがるように見ていた……みゃあみゃあと鳴く子猫を置き去りにしてその場を逃げるように立ち去った時もこんな気分だった。
あの時は家族を恨んだが今回は声をかけてしまった自分を恨むしかない。
しばらく少年と見つめあっていた日菜子は手を差し伸べる。少年はきょとんとして伸ばされた手を見ていた。
「――おいで」
日菜子の顔と手を見比べていた少年はバッグから手を離すと立ち上がり、手に手を重ねる。ずいぶん頼りない手を引いて日菜子はアパートへと戻った。
おにぎりとインスタントの味噌汁を出してみたが少年は手をつけなかった。残業で食事ができなかった日菜子はしっかり食べてしまったが。
小さなテーブルを挟んでうなだれている少年は言葉がわからないと言うわけではないらしい。
顔を洗った方がいいと洗面台につれていくとうなずいて顔を洗ったし、タオルはここにあるからと言えばタオルを取った。ただ、無言が続くし口を開けばたどたどしい言葉で同じ事しか言わない――山にもどりたい。
洗い物を済ませて戻ると少年は同じ場所でじっとしていた。
「……ありがとう」
少年は向かいに座った日菜子に気づいたように顔を上げると山にもどりたい、以外の言葉を口にした。ほんの少しだが少年が嬉しげにしているように思えて日菜子は慌てて首を振る。
「別に、なりゆきだから」
明るいところで見てみるとやはり少年は整った顔立ちをしていた。地方都市で生まれ育った日菜子はここまでの美形を見たこともなければ笑いかけられた事もないので気恥ずかしい。
「でも……理由は聞かせてほしいんだけど。どうしてあんな、なにもないところにいたの?」
この地区は研究所と職員のためだけに造られている。部外者が存在を知ることは稀だし、知ったとしても研究所とマンションしかないところに好き好んで来るはずがない。
少年は日菜子の問いかけに表情を変え、目を伏せる。そして山に戻りたいと繰り返した。
「山ってどこ? ここも山よ?」
開け放した窓から夜気を含んだ冷たい風がながれてくる。山を切り開いた土地であるためか夜間は冷房が必要ない。備え付けのエアコンを使ったことは一度もないし、昼間でもせいぜい扇風機を回すぐらいだ。
「ここじゃない……」
心底悲しげな呟きを聞いて意地の悪い事を言わなければ良かったと後悔する。山というのはともかく、少年がどこかに戻りたがっているのは嘘ではないような気がした。
「……ごめんね」
首を横に振った少年はちらちらと日菜子を見て何かを考えているようなそぶりを見せる。しばらく沈黙が続き、やがて意を決したかのように少年はテーブルに身を乗り出してきた。
思わず身構えた日菜子は脈絡のない言葉に首を傾げる。
「きつね」
なにがどうなって狐なのかと思っていると少年は日菜子が怪訝に思っていることを感じたのか口を開いた。
「ぼくは、きつね」
「……はい?」
思わず問い返した日菜子に少年はもう一度同じ事を呟いて日菜子を見つめる。居心地が悪くて日菜子は目をそらした。
「……ニンゲンになんかなりたく、ない。こんなところ、来たくなかった」
ようやく違うことを口にしたと思ったのに訳の分からない事を言う。山にもどりたいと言うのも実は嘘で、単に家出をしてうっかり迷い込んできただけなのかもしれない。
こんなにうまく嘘をつけるのならこの少年は俳優に向いている。今更部屋から追い出したとしても部屋はわかっているのだから再び押し掛けられるだろうし、逆上して暴れられても困る。
考えた末に日菜子はできるだけ優しく言ってみた。
「今日は泊めてあげるから、明日はおうちにもどるんだよ?」
すると少年はテーブルから身を引き、うなだれてしまう。
「いえは、山」
言っていることの筋は通っている。家が山にあるから戻りたい。自分の事を狐だの何だのと言う以外はおかしくはない。
どちらにしても夜が明けたら家に帰さなければと思っていると鼻をすすり上げるような音が聞こえた。
少年がまた泣いている。これがすべて嘘ならたいしたものだが今聞いた事がすべて本当だとも思えない。どちらにしても自分が泣かせてしまったような気がして慌てて日菜子は少年の隣に座った。
「電話番号は? 住所を教えてくれたら帰る方法を調べてあげるよ?」
おうちの人も心配してるよ、と言ってはみたが少年はただ首を振っては泣くばかりで口をつぐんでしまった。
困り果てた日菜子は頭をそっと撫でてみた。艶やかな黒髪はとても手触りが良く、自分の髪よりもきれいだ。
体を強ばらせた少年はそれでも黙っていた。手を払われるわけでもなく嫌だとも言われなかったのでそのまま頭を撫でているとやがて、しゃくりあげる声が聞こえなくなった。
やっと泣き止んでくれたと手を離すと少年は顔を上げ、日菜子を見ると突然抱きついてくる。あまりに突然の事だったので逃げることができない。
「ちょっと! やめて!」
離して、という抗議の声をあげるが少年は聞き入れる様子がない。しかし、ただ抱きついているだけで何かをしようという気配が全くなかった。
少年の肩を押してみたりもしたが微動だにしない。腕の力は強くなり、息苦しさを感じるほどだ。
「……苦し」
思わず呟いた言葉に少年は腕の力を緩めると上目遣いに日菜子を見た。
「あたま、なでて」
思わぬ要求に戸惑うが今までとは少し違う、どこか甘えたような感じのする口振りにつられて頭を撫でてしまう。
少年は目を閉じると再び日菜子の胸に顔を伏せる。少年の腕をどうしてもふりほどくことができずに日菜子は頭を撫でた。
遠くで聞こえる蝉の声に耳を傾けてぼんやりと手を動かしていると頭がわずかに上向いたのを感じた。我に返ると少年が日菜子を見ている。その表情は明らかに今までのものではない。困ったような、どうしたらいいのかわからないとでも言いたげな顔だ。
「どうしたの?」
手を止めて聞いてみるが少年は視線を泳がせたり日菜子を見るということを繰り返すばかりだ。ようやく帰りたくなったのかと思ったとたん、体重をかけられて日菜子はあっさりと畳に押し倒されてしまった。
一瞬のうちに様々な事が脳裏をよぎり、言葉が出ない。少年は日菜子に馬乗りになり、肩を押さえてはいるがそれでも表情に変わりはなかった。行動と表情が異なることに違和感を感じつつ、日菜子はできるだけ穏やかに声をかけようとした。
口を開きかけた日菜子の頬に少年の手が触れる。かすかに震える指がそっと頬を撫でた。
「やめよう……?」
しかし少年は首を振る。
「私はこんなことしたくて君をここにつれてきた訳じゃないよ……あんなところに置いておけなかったから……」
言葉が終わらないうちに少年は日菜子に顔を寄せると頬を舐めた。妙にさめた頭でこういう時はキスをするのが普通じゃないのかと考えていたが、華奢な体が日菜子にのしかかり、腰のあたりに触れる熱を帯びた感触が何かを悟った時点でそんなことはどうでも良くなってしまった。
「あの……」
頬をゆっくりと舐めていた少年は日菜子の声にはじかれたように顔を離し、おどおどとした目をした。怯えなければならないのは自分の方なのに、と少しおかしくなる。
それから先の言葉を口にするのは日菜子としてはとても勇気のいる事だった。妙な息苦しさを感じつつ、少年の顔に右手を伸ばす。顔にかかる長めの髪を梳いて頬に手を添えると少年は腰に触れるものと同じように全身を硬くする。これから怒られるのではないかと言わんばかりの怯え方だ。
「――君ならいいよ」
決して不快ではないから部屋につれてきた。美少年の見本のような容姿だし、好きな人はいたが告白することもできずに恋に恋するような恋ばかりをしていた日菜子は少し、この正体不明の少年を気に入っていた……それに、頬に触れた指や舌は優しかった。たとえ嘘だとしてもそれはそれでいい。
少年は言葉の意味を探るように日菜子を見ていたが急に顔を輝かせると頬に触れたままの手を取り、指先を舐めた。
投げ出したままの左手を伸ばして少年の首にかけると少年は日菜子の頬に頬を寄せて何度もほおずりをする。まるで嬉しいと言われているようで、日菜子は胸が苦しくなった。
−続く−
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