「あれー? 日菜子主任ひとりぃー?」
浮かれた声と共にハクガがオフィスに入ってくる。ノックも何もないのだから失礼な話だ。
日菜子は検算の手を止めて顔を上げた。手、と言っても書類をひたすら眺めてはめくっているだけだから他人にはぼんやりしているようにしか見えないだろう。
「ええ。こんな時間に何か?」
「書類持ってきたんだけどー……」
ドアを閉める音に続いてぱちん、とロックをかける音がする。日菜子は眉をひそめてハクガを見た。
「博雅主任?」
ハクガは手にした書類を揺らしながらデスクまでやってくると書類を投げ出した。
数枚の紙がデスクに散らばる。
「書類は丁寧に扱ってください」
「……うん。ごめん」
散らばった書類を集めてまとめているうちにハクガは日菜子の傍までやってきてデスクを背にずるずると座り込む。
「どうしました、主任」
「うん……ちょっとね」
「……ブラウの事ですか」
ちらりと目を通しただけだが、書類にはブラウの派遣先が記載されているようだった。月子からも話を聞いていたので察しはつく。
ハクガは髪を鷲掴みにして顔を伏せた。
「ヒナちゃんは色んな事知ってるねぇ……」
「月ちゃんに聞きました」
「そっか、月子ちゃんか……あいつ、挨拶に行ったんだね」
「襲われかけたそうですよ」
しばらくの沈黙の後にハクガは乾いた笑いを漏らして顔を上げた。いつもは顔を隠すようにおろしている前髪を掴んでいるのでつりあがった赤い目が露わになり日菜子を見つめている。
「それは思い切ったことを」
何かを諦めたような笑みを浮かべてハクガはぽつりと呟いた。
「どうしてあいつは好きな子を置いてあんな場所に戻ることができるんだろうね」
「……言いたくはないけど、そう育成されたからではないの」
「そうだね。その通りだ」
僕らがそうした、とうめくように呟いてハクガは再び顔を伏せる。日菜子はそれを見ていることしかできない。
「博雅主任は――」
日菜子は少し考えて言葉を切る。ハクガは自分の事を「ヒナちゃん」と呼んだ。
「襲ったら逃げてった子がのこのこ戻ってきたら、ハクガはどうする?」
ゆっくりと顔を上げたハクガは嬉しそうに笑って日菜子を見る。恐らくハクガは「日菜子主任」にではなく「ヒナちゃん」に弱音を吐きにやってきたのだ。
年に数回あるかないかの事だ。普段なら追い返すところだが弱音の内容もハクガにとっては重いだろう。同じ身の上の獣を戦場へと送り出すサインをしたのだから。
「僕なら容赦なく続きを再開するけど」
「そうよね。でも、誰かさんは再開しなかったらしくてね。それで、逃げた子は近くで寝ちゃったらしいの。どう思う?」
「……随分甘く見られてるんだね、そいつ」
それにしてもあんまりだと笑ったハクガはしばらく黙っていたが急に真顔になった。
「誰かさんはその、隙だらけの子を大切にしてるのかも……僕らが本能を抑制する理由はそれしかないから」
「……大切な子を置いていったんだから、戻ってくるでしょ」
椅子を下げると日菜子はハクガの頭を何度か軽く叩く。ハクガは再びうつむくと小さな声でそうかな、と呟いた。
「待っている人がいるんだもの。戻りたいに決まってる」
「うん……」
ハクガは髪を離して日菜子の手を探るように掴む。手首のあたりを掴んだハクガはうつむいたままだった。
「ヒナちゃん。僕はニンゲンが嫌いだ」
今、研究所にいる獣達がこの姿を、呟きを知ることはない。望んでニンゲンになろうとする者達に見せる姿ではない。
なぜ、解析チームを獣のみで構成したのか。人間を選定しろと要求されても頑なに拒み続けているのはなぜか。
聞いたことはないが何となくわかるような気がした。
呪という不可視の物理と科学が融合して構成される擬人化という現象のすべてを人間に託すことができないのだ。
日菜子は何も言うことができない。手首を掴まれたまま天井を見た。
残業を終えた職員達が廊下を歩いていく気配が過ぎ、遠ざかってゆく。
そばでうずくまっているハクガは顔を伏せたまま日菜子の手首を掴んでいる。手を離してしまうとどこかへ沈んでしまうと思っているかのようだ。
せめて、自分だけはこの姿を知っておくべきだ。そう思って日菜子は黙っていた。
「博雅主任」という獣はそんな狐で、日菜子はそんな狐の事を少し離れた場所から見てきた。
名残惜しげにハクガは日菜子の手首を離すとのろのろと立ち上がる。
「……じゃね、日菜子主任」
顔を前髪で覆い、薄い口元をつり上げて笑みを作ったハクガはふわふわと歩いてオフィスを出ていく。
黒い髪が揺れて視界から消える様を日菜子はただ見つめていた。
end
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