(ロマンス)
食器を洗いながら久しぶりに普通の食事ができたと月子はため息をついた。
白米と味噌汁が嫌いな訳ではないが三食それだけの食事が続くとさすがに辛い。その反動でパンをたくさん買い込んでしまったのは仕方がないだろう。
紅茶を入れてリビングに戻ると本を読んでいたブラウが顔を上げた。
「これ、面白いですね」
ブラウが読んでいるのは夢十夜という短編集だ。夏目漱石が見た夢を文章にしたと言われている。
夢というだけあって不思議な話ばかりが続く。読み聞かせの候補にいれてはいるがよくわからない話ばかりで説明を求められてしまうと困るのでいつも避けてしまう。
「実際に見た夢を文章にした話だから、不思議な話ばかりでしょ」
月子はブラウの隣に座ると紅茶を飲んで息をついた。
「お疲れでなければ読んでいただきたいのですが」
ブラウは月子の様子をうかがうように本を差し出す。別に疲れてはいなかったし本を読み聞かせることが一日のサイクルになっていたので本を受け取るとカップをテーブルに置いた。
テーブルの隅には半分折り取られた認識票が置いている。ブラウが人の姿に戻ってからずっと同じ場所に置いており、まるでもう身につける気がないという意思表示をしているかのようだった。
「どの話がいい?」
「第一夜を」
こんな夢を見た、という書き出しで始まる十本の短編の中で第一夜は特に不思議な話だ。死んだ女を百年待つ男の話で幻想的な小道具がちりばめられている。
そんなに長い話ではないのであっという間に読み終えてしまう。いつもならブラウは半分眠っているのだが今日は眠らずに月子の声に耳を傾けていたようだった。
「ありがとうございます」
本を閉じた月子はベランダを眺めているブラウの横顔を見てベランダへと視線を移す。日が落ちた外の景色は何も変わらない。見慣れた風景だった。
「……認識票」
ぽつりと呟いた月子の言葉にブラウは手を伸ばして置きっぱなしにしていた認識票を手にした。
「これが、何か」
「どうして半分折れてるの? 気にはなっていたんだけど……」
手のひらに置いた認識票を見ていたブラウは少し寂しげに笑う。
「認識票が折り取られるときは持ち主が死んだときです。俺は死んだことになっています」
「どう言うこと?」
テーブルに認識票を戻したブラウはそうですねぇ、と少し考えて口を開いた。
「上官判断です……もう使い物にならないということですね」
あまりにひどい表現に月子は眉を寄せる。その様子に気づいたのか、ブラウは言葉を続けた。
「上官は口は悪いですが軍用犬をとてもかわいがっている人でして。死んだことにしてやるから二度と戻ってくるなと言われました。元々、俺のような獣を部隊に置くことには疑問を持っていたようです」
「……そう」
軍用犬としては引退ですと軽い調子で呟いたブラウは口をつぐみ、しばらく黙っていた。
「夢を見るんです。死んだ目が俺を見ているんです。なぜお前は死なないのかとでも言うような目がどこまでも追ってきて、それはきっと俺が殺したニンゲンの目です。眠れば必ず目が追ってきます。獣なのになぜ死なないと囁きます。俺は、だから――」
「もういい!」
月子はブラウの話を遮ると手を掴む。驚いたようなブラウを見据えてもういいよともう一度言った。
「戦場が自分の職場だと知っていたと言ったよね。覚えている?」
「……覚えています」
ブラウは月子の手をじっと見ている。
「人間になることを望んでいたと言った。幸せだとも言った……夢にうなされて眠れなくなって、やつれて、それでも幸せなの。人の姿でいたいの? 何もかも忘れて獣に戻った方が幸せなんじゃないの――どうして、人間になろうと思ったの!」
強い口調で言い放った言葉の余韻が消えてもブラウは答えようとはしない。月子もブラウの手を掴んだままうなだれていた。
「幸せですよ」
穏やかな声に顔を上げるとブラウは困ったように笑って月子を見ている。なぜ、幸せだと断言できるのだろうか。以前もそうだった。
「どうして……」
「月子さんが俺のことを考えてくれるからです」
心の奥底までのぞき込むかのようにブラウは月子を見つめた。
「一度は研究所から逃げたんです。でも、月子さんがいつも公園に来るのかって聞いたから戻りました。俺はあなたにもう一度会いたかった。ニンゲンになれば普通に話すこともできるし、傍にいることだってかなうかもしれない。だからニンゲンになりました」
手の甲に触れたブラウの指の感覚に月子は慌てて手を離す。勢いで手を掴んでしまったがどうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。
「獣に戻ったらあなたの事を忘れてしまいます。それに、どんなにあなたが俺の事を心配してくれたり考えてくれていても、獣に戻った俺にはきっと理解できません。獣に戻れなんて言わないでください。あなたの事を忘れない限り俺は幸せです」
もう、戦場に行くこともありません。と言う呟きと共に伸ばされた手が頬に触れる。逃げる間もなく軽いキスをされて動けない月子を抱きしめたブラウはとても嬉しそうな声で囁いた。
「ずっと傍にいます」
「い……嫌な事はしないって言ったじゃない」
思わず呟いた月子をちらりと見たブラウはそうですねと言って笑う。
「でも、嫌とは言われませんでした」
言い返すことができない月子の背中をブラウの手が撫でていく。そっと触れた唇が甘く首筋を噛んだ。
その感触に体を震わせた月子は目を閉じる。しかし、体にのしかかる重みに目を開いた月子は規則正しい寝息を立てているブラウの肩を掴んで揺さぶった。
「ブラウ!」
返事は帰ってこない。重い体を抱いて月子は深いため息をつく。
「信じられない……」
ここまでしておいて寝落ちされるというのもかなり複雑な心境だ。今度こそ逃げられないと覚悟もしたのにどうやら無駄になってしまったらしい。
しばらくブラウを抱いていた月子はなんだかおかしくなってきて声を殺して笑った。目が醒めたらブラウはどんな顔をするのだろう。
ブラウはもうどこにも行かない。戻ってこないかもしれないと思いつつ待つこともない。
「一緒にいようね」
肩に頭を置いて眠るブラウに囁くが返事はない。それでも月子は嬉しかった。
−続く−
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