(ロマンス)
獣は眠っているのか目を閉じているだけなのかがよくわからない。朝がきて昼になっても青は寝そべっていた。時々姿勢良く座って月子の行動を眺めているがあまり動こうとはしない。
ただ、買い物に行ってくると声をかけた月子の服をくわえて離さなかったので買い物は諦めた。
「水とかご飯はどうしたらいいの」
返事が返ってこないことはわかっているが気になってしまったのでつい、話しかけてしまう。寝そべっていた青はちらりと月子を見る。
「……ハイなら尻尾を二回振る。イイエなら尻尾は振らない」
意志の疎通はできるはずなのでそう持ちかけてみると青は尻尾を二度振った。
「ご飯食べる? 水は?」
しばらく間をおいて問いかけてみたがどちらの問いかけにも尻尾は動かないままだ。
「何もいらないの?」
ぱたぱたと尻尾を振った青は月子の手の甲を一度だけ舐めて目を閉じた。静かにじっとしていたいのかもしれない。青の隣で月子は本を開いた。
連休は獣達に読み聞かせる本の下読みをしようと思っていたので読む本には困らない。ページをめくっているといつの間にか日が暮れていた。
買い物に行けなかったのであるもので食事をすませ、読みかけの本を開くと読書を再開する。しばらくすると青が腕にあごをのせて、まるで何を読んでいるのかとでも言うように手元をのぞき込んできた。
「山月記っていう話。言葉がとてもきれいだから獣達に読んであげようと思って」
実弥も読書が好きだと言っていたから読み聞かせに向いている本を選んでもらっても良いかもしれない、と思っていると青が尻尾を二度振った。
「……読んでほしいの?」
青はまた尻尾を二度振って月子を見ている。ブラウが本を読んでほしいとしきりに言っていた事を思い出して月子は苦笑いを浮かべた。
結局、本を読み聞かせたことは一度もなかった。
「銀河鉄道の夜で良かったら読んであげる」
色々な本を読むが、獣達に評判が良いのは銀河鉄道の夜だ。獣達はどうやら幻想的な話が好きなようで、絵本は「話が短いのでつまらない」と言われることが多い。それでもできるだけ色々な本を取り混ぜて読むようにしている。
青がぱたぱたと尻尾を振ったので月子は銀河鉄道の夜を手に取り、読み始めた。腕に置いていたあごを降ろし、目を閉じた青は耳を時折動かしている。
初期教育中の獣達は本を読み聞かせると興味深げに目を輝かせて聞き入っていることが多いが青はそうではないらしい。人間としての自我が確立している獣との違いなのかもしれない。
これはこれで興味深い、と思いながら本を朗読していくうちに青は体を丸めてしまった。昨夜から夕方までは座っていたり寝そべっていたりしていたが丸くなったりはしていなかったような気がする。もしかしたら眠っているのかもしれない。
章の区切りまでを朗読して、月子は立ち上がってみた。青はぴくりとも動かない。
足音を立てないように移動して水を飲んだりシャワーを浴びたりしてから新しい本とブランケットを抱えてリビングに戻っても青は大きな体を丸めたままだった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。昨夜は寝たり起きたりで満足に寝ることができなかったからだろう。
変な姿勢でソファに頭を伏せていたから背中や腰が妙に痛む。ゆっくりと頭を上げた月子は傍で丸まっていたはずの青が姿を消していることに気づいた。
ベランダに視線を向けると男が座っていた。頭には人間にはないもの――耳がついている。
「ブラウ」
呼びかけにブラウは振り返り、立ち上がると月子の目の前までやってきた。見たこともない不安げな表情を浮かべている。
「どうしたの」
「……夢を見るんです」
どんな夢を、と聞こうとしたが聞けなかった。ブラウはまるで小さな子が怯えて助けを求めるかのように月子にしがみつく。
その様子に離してとも言えず、体を押し返す事もできない月子は両手のやり場に困った挙げ句、そっと肩を抱いた。
「ここに怖いものはいないよ」
どんな夢を見ているのかはわからない。もしかしたら見当違いの事を言っているのかもしれないがブラウの強ばった体から力が抜けたような気がした。
「本当ですか……」
「本当だよ」
だから眠りなさい、と子供に言い聞かせるように囁くと顔を上げたブラウが月子を見た。
「どこにもいきませんか?」
「どこにもいかない。ここにいる」
ようやく安心したように笑ったブラウだが月子から離れようとはしなかった。やがて体から力が失われ、服を握りしめていた手がぱたりと落ちる。月子はブラウの肩に回した腕を離すことができなかった。
重い体を抱いたままで頭を撫でる。時折、髪とは異なる毛の感触に触れることがあり、それが獣の耳を感じさせた。
こんな目に遭っても人間になりたかったと言えるのだろうか。
今でも幸せだと、ブラウは言うだろうか。
不意に日菜子の言葉を思い出した。
『世間的にはここで行われていることはひとでなしの所行なのかしら』
もし、人間の代理として獣を利用するということが目的であればそれは間違いなくひとでなしの所行だ。テストケースであるというブラウの有様を見れば擬人化した獣が人間と何一つ変わりはしないということがわかるだろう。
それでも争いを続けていくというのなら人間が戦えばいい。獣にはなにも関係のないことだ。そのせいでトラウマに苦しめられようがなんだろうが自業自得だ。自分が蒔いた種は自分が刈るべきなのだから。
腕の中で眠るブラウは今、どんな夢を見ているのだろうか。もしかしたらこのまま何もかも忘れて獣に戻った方がブラウにとっては幸せなのかもしれないとさえ思えた。
ブラウは獣の姿に戻ることもなく、耳もいつの間にか消えていたがリビングに座ってじっとしていると言うことに変わりはなかった。
月子が外出しようとすれば行かないでくださいとだけ呟いて黙り込んでしまう。
まともな料理が作れないと言っても聞き入れる様子はなかったので食事はご飯とわかめの味噌汁のみというずいぶん質素なものになってしまったが、ブラウは嬉しそうに食べていた。
簡単な家事を終えてしまえばする事はなくなってしまう。月子はリビングに本を積んで読書に専念することにした。読もうと思いつつそのままになっている本もあれば読み聞かせの為の本もある。せっかく部屋に引きこもっているのだから時間は有効に使いたい。
本を読んでいるとブラウが時々のぞき込んでくるので短編集や絵本を何冊か選んで読んでみればと薦めてみた。ブラウは素直に本を受け取って読んでいたが、この本を読んでほしいと読み終えた本を戻すようになった。
時間帯は夕方か日が暮れてからで、月子が本を読み終えるとブラウは決まってうとうととしていた。夜中は起きていてベランダからの景色を眺めている。
そんな事を数日繰り返しているうちに米が尽きた。
「……今日こそ買い物に行くから。お米ないし」
本を読んでいたブラウは少し困ったような顔をしていた。どうやら月子が部屋からいなくなるのは嫌だがさすがに買い物に行かなくてはならないとは思っているらしい。
「だから荷物持ちについてきてほしいんだけど」
部屋でじっとしているのも気が滅入るだろうと深く考えずに言ってみるとブラウは嬉しそうに頷いた。こんなに明るい表情は久しぶりに見たような気がする。
連休に入ってからは雨も降らず晴天が続いていた。今日も五月晴れという言葉にふさわしい天気で汗がにじむほどだ。
「何か食べたいものはある?」
隣を歩いていたブラウは思わぬことを聞かれたという顔でしばらく月子を見つめていた。
「食べたいものですか……」
小難しい料理は無理だが時間もあるし、買い物にも出たのだからせっかく作るのなら食べたい物の方がいい。それに、おいしい物を食べると元気になるからと考えて月子は少し悩んだ。
人並みには料理をするが、おいしいかどうかはまた別だ。
「……俺のために作ってくださるんですか?」
「え? いや……買い物にも出たしせっかくなら食べたい物をと思って……」
「でも、俺のためですよね?」
ブラウは何がいいかなと呟いて考え込んでいる。月子は思わず足を早めて考えながら歩いているブラウから離れた。
確かにその通りだがああもはっきりと言われると恥ずかしくてならない。口が裂けても「あなたの為に作ったの」などと言うことはないだろう。
すぐに月子に追いついたブラウは満面の笑みを浮かべていた。見えない尻尾がばさばさと振られている様子が手に取るようにわかる。
ハイ・パーセントと呼ばれる狼犬は狼に限りなく近い犬だと言われているが、この様子だとよほどわかりやすい犬の遺伝子を受け継いでいるのだろう。
「ハンバーグが食べたいです」
ハンバーグぐらいなら簡単に作ることができる。材料を頭のなかで思い浮かべながら何をどこで買うべきかと考えているとブラウがあれは何ですかとマンションのあたりを指さした。
見てみるとマンションのベランダに小さな鯉のぼりがはためいている。
「あれは鯉のぼり。男の子が産まれた家に立てるの。子供が元気に育ちますようにって願いが込められてるのよ」
「……何故、魚なんですか」
「鯉の滝登りと言う故事に由来しているという話を聞いたことがあるわね」
普段獣達から質問ぜめにあっている月子はつい、ブラウの疑問に丁寧に答えてしまう。鯉の滝登りのことを説明すると感心したようにブラウは鯉のぼりを眺めていた。
「ニンゲンの子供はいろんなものに守られて大きくなっていくんですね」
「そうね。昔、子供は簡単に死んでいたから……そうやっていろんな物に祈ったの。今はそんなこともないけど、風習として残っているのね。私は良いことだと思うけど」
「月子さんも子供が産まれたら鯉のぼりを立てますか?」
「立てるでしょうね」
実家の周囲ではそれが普通だった。庭に立てることができなくてもああやってベランダにくくりつけるに違いない。
「女の子が産まれたらどうするんですか?」
「ひな人形を飾るのよ」
商店街へと歩きながらひな人形の説明をする。ブラウは面白そうに月子の説明に耳を傾けていた。
「男の子と女の子がいる家族は大変ですね」
「大変みたいね。楽しいとも聞くけど」
妹は月子よりも先に結婚して今では二児の母親だ。時々、子供たちの写真と共に届くメールには大変だけどにぎやかで楽しい、と書いてあって幸せそうな生活が伺える。今は仕事が忙しいし獣達が子供のようなものだが、いつかは自分も人の親になるのだろうかと考えてふと歩みを止める。
「どうかしましたか?」
どうしてこんな話をしているのだろうか。月子は不思議そうな顔をしているブラウを見上げた。
「……なんでもない」
歩き始めた月子に歩調を合わせながらブラウはついてくる。
「月子さんの子供はかわいいでしょうね」
唐突なブラウの言葉に月子はぎょっとして言い返した。
「産む予定はないわよ!」
「予定があったら困ります」
何が困るんだと言いかけた月子は口をつぐんだ。返ってくる答えが予想できる上にどう切り返していいものか困ること請け合いだ。
ブラウは笑っている。
痩せてはいたが連休前のようにやつれてはおらず、断続的だが眠れてもいるのだろう。色々と聞きたいことはあったがせっかく外に出たのだし天気も良い。
話は後にすればいい。
「天気がいいですね」
「そうね」
並んで歩きながら月子は困ったことに気がついて苦笑いを浮かべてしまう。そんな月子に気づいているのか気づかないふりをしているだけなのか、ブラウは表情を変えなかった。
「楽しいです」
「……そう」
獣の姿でも人間の姿でも分け隔てをしているつもりはない。どちらの姿でも青は青だしブラウはブラウだ。つい、名を呼び分けてしまうが意識の中では同じ存在として認識している。
好意を隠しもせずにとんでもないことを口にしては月子を困惑させるはずのブラウと話をすることは楽しかった。あれこれと理由をつけて逃げ回っていたのもブラウが離れていくことなどないと言うことを知っていたからだ。
同じ姿で同じ言葉を語るということは本質が異なるという決定的な事実を打ち消す力を持っている。同じように並んで歩いたとしても「青」と「ブラウ」ではきっと違う。
姿が変わるということはそういう事なのだろう。
「ブラウ」
楽しそうな表情を浮かべていたブラウはどうかしましたか、とでも言うような顔をした。
「おかえり」
しばらく黙っていたブラウは目を細めて眩しい物を見ているかのように月子を見る。
「――戻りました」
ブラウが遠くへ行く時はいってらっしゃいと声をかけて見送る事に決めた。それが、帰る場所は月子の元しかないと言ったブラウへの答えだ。
そこがどんな場所で、どんなに遠くても。たとえ戻ってこれない可能性があったとしても……どんな姿になっても帰ってくるであろうブラウを待つために。
−続く−
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