(ロマンス)
春になって初期教育担当には元気な新人がやってきた。見た感じは冷たそうな美人だったが話してみるとずいぶん気さくな子でほっとした。
研究所付属学園の一期生だから動物が好きなことは保証済みだし、初日から獣達を追って走り回っても嫌な顔一つ見せずに楽しいです、と笑っていた。
雪も溶けて桜が咲いたと言うのにブラウは戻ってこない。
実弥という名の新人に仕事を教えつつ忙しい日々を送っているうちに大型連休の時期になった。
実弥は数日だが実家に戻るのだと少し嬉しそうだった。
「月子さんは帰省しないんですか?」
「うちはちょっと遠いしね」
そうなんですね、と素直に笑った実弥はモップを取ってきますと宣言して元気に教室を出ていった。
開けはなった窓からはすっかり暖かくなった風がながれてくる。桜も散って葉桜となり、新緑が美しい。風に誘われるように窓辺に立って外を眺めながら帰省しない理由をごまかした事を少し後ろめたく感じた。
実家は遠いが帰れないほど遠いわけではない。半日あれば帰り着く。今年は帰る気になれなかっただけだ。
一週間近く続く連休に何をしようと考えていた月子は教室の扉が開く気配を感じた。
「実弥ちゃん、ありがと……」
実弥が戻ってきたのだろうと振り返った月子は扉の前に立っているのが実弥ではなくブラウの姿であることに絶句して立ちすくむ。
短く整えていた髪はずいぶん伸びたようで後ろでまとめている。青い目も穏やかな表情も変わりはなかったが、やつれているような気がした。
「お久しぶりです」
「……うん」
戻ってこないと思っていたのに戻ってくると駆け寄ることもできず、気のきいた言葉をかけることもできない。ただ、その姿を見ているしかできなかった。
「髪、伸びたね」
「そうですね。忙しかったので」
すこし困ったように笑ったブラウは似合いませんかと聞いてきた。似合わないという訳ではなかったので首を横に振る。
「連休は帰省されるんですか?」
「いや……今年は部屋でのんびりしようと思っているけど」
何事もなかったかのように連休の予定を聞かれた月子は普通に答えてしまう。まるで日常会話の続きを交わしているようだ。しかしブラウはとんでもないことを言い出した。
「そうですか。俺もご一緒します」
一瞬、何をどう「ご一緒」するのかわからなかった月子は念のために確認してみることにした。話を曖昧なままにして進めていくと後でとんでもないことになる。
「ご一緒って、連休中はずっと私といるっていう事……?」
「はい」
笑いもせずにブラウははっきりと肯定の返事を返してきた。月子の意向を確認せず、断定的な言葉で何かしらの要求をしてくるのは余裕がないからなのかもしれない。戦場に戻ったときもそうだった。
「……何があったの」
ようやく窓辺から離れることができた月子はブラウに近づく。ブラウは黙っていた。
「ブラウ、何があったのかぐらいは話して。そうでないと返事ができない。気が変わって帰省するかもしれないよ?」
帰省するつもりはなかったが脅すぐらいはしないとブラウは本当の事を話さないような気がした。近づいてみると明らかにやつれていることがわかる。
戦場から戻ったばかりだからと言われてしまえばそれまでかもしれないが、それにしては病的な感じがした。
「ブラウ」
困ったような顔をしていたブラウは月子をじっと見ていたが諦めたように笑う。
「……月子さんにはかないませんね、本当に」
「どうしたの」
それでも黙っていたブラウはようやく口を開いた。
「眠れません。それだけです」
それだけと言うが擬人化している獣達に睡眠は重要なものだ。擬人化にはある程度の体力を要する為に一定時間の睡眠を必要とする。最低でも三時間と定められているが人間と同じように質の良い睡眠を取るに越したことはない。
「私と一緒にいて眠れるようになる確証はあるの」
眠ることができなければ獣に戻り、やがて何もかも忘れてしまう。連休は長く、下手をすればその様子を観察するだけになる可能性もある。そんな可能性がある獣を一介の、しかも研究職でもない職員が預かって良いものだろうか。ブラウはある意味「特別な」獣だ。研究所にとっても貴重な存在であることは間違いない。
特定の目的の為だけに育成された獣。
「――はい」
はっきりとした返事を聞いて月子はため息をついた。
「そう。それなら一緒にいようか……」
もし、ブラウが眠れずにただの狼犬に戻ってしまったとしても言葉がわからない「青」になるだけだ。そうなってしまったら研究所に申請でもなんでもして一緒にいればいい。頼めば累と博雅も力添えをしてくれるだろう。月子は自分にそう言い聞かせる。逆に言えばそれだけの覚悟が必要だった。
やつれた顔に嬉しそうな笑みを浮かべてブラウは一つ、頼みごとをして教室を出ていった。
入れ替わりのように実弥が戻ってきたので教室の掃除を始めたが、実弥はどこか上の空という様子で何度かモップを取り落としていた。実弥にしては珍しいとは思ったが月子も他人の事を気にかける余裕がなく、どうしたのかを聞くことができないままだった。
連休前の残務をすべて片づけて部屋に戻ったのはすっかり日が暮れてからだ。
夕方までは天気も良かったのだが部屋に帰る途中でぽつぽつと雨が降りだした。ひどくならなければ良いけれどと思っているうちに雨は本降りになり、部屋の中にまで雨音が聞こえてくるほどだ。
部屋を掃除したり洗濯物を片づけたりしながらブラウの妙な頼みごとを思い出した月子は外を見る。
オートロックもないし部屋番号も知っているはずなのに外まで迎えに来てほしいと言うのだ。別に外に出るぐらいだから構わないが妙な話だ。
何もかも忘れた獣に戻ることなどブラウも望んではいないだろう。それなら研究所にいた方が色々と手を尽くしてもらえそうな気がして月子は落ち着かなかった。それに、獣達のデータを集めているはずの研究者たちが眠れない獣という格好の研究材料を逃すはずがない。
よくわからない事ばかりだがブラウに聞いてみるしかない。
指定された時間になっても雨足が弱くなることはなかった。マンションの入り口辺りで雨を避けながら立っていると雨音の中に何かが駆けるような音が聞こえてくる。傘を忘れた人が走っているのだろうかと特に気にもしていなかったがその音は近づいてきて、漆黒の獣が唐突に姿を現した。
「青……」
青はぽたぽたと雨のしずくを落としながら月子の前で立ち止まり、くわえていた袋を足元に落とした。拾い上げてみると衣類か何かが入っているようだ。まさか獣の姿でやってくるとは思っていなかったが擬人化して着る物がないと困るということは十分に理解しているようだった。
階段を登る月子の後ろを青は身軽についてくる。
体力を消耗する人間の姿ではなく獣の姿に戻ったという事はそれだけ余裕がないという事なのかもしれない。
部屋がある階につくと青は立ち止まり、体を振るって水を落とす。そして軽い足取りで近寄ってくると青い目で月子を見上げた。昔から何も変わっていない目に月子は手を伸ばして頭を撫でる。
尻尾をぱさぱさと振った青は月子を促すようにカットソーをくわえて軽く引いた。
「……そうだね。入ろうか」
ドアを開けて部屋に戻ると青は玄関で立ち止まったまま何かを待っている。月子はその様子に立ち止まり、バスタオルを手に戻った。
ブラウが汚れたまま部屋に入り、怒られたことをずいぶん根に持っていた様子を思い出したのだ。そんなことで怒ったりはしないが濡れたまま部屋に入られるのは困る。
体を拭いてやっていると冷たい物が指に触れた。
「これ……半分折れてるよ」
指先で持ち上げた物は認識票だったが以前は楕円のプレートだったものが半分に折られていた。百合の紋章をかたどったペンダントもない。
どうしたのと訊こうにも獣の姿では言葉を喋ることができないと言っていたから人の姿になってから聞くしかないだろう。
体を拭き終えたバスタオルを床に敷くと青は何度かバスタオルに足をこすりつけて爪の音を立てながらリビングへと歩いていった。
「ドライヤーもかける?」
新しいバスタオルを敷いた上におとなしく座った青はその言葉に耳を動かすと顔を背ける。
隣に座った月子は持っていたドライヤーをテーブルに置いて膝を抱えた。
「うちの犬も音が大きいからドライヤーは嫌いみたい」
青はお愛想のように尻尾を振ると寝そべって目を閉じた。こんなときブラウならどう答えたのだろう。俺も嫌いですと言うのだろうか。
夜中、目を覚ますと青はベランダの窓から外を眺めていた。その姿がブラウと重なり、月子はやるせない気分になる。
雨は止んでいるようだった。
「青」
声をかけると青は月子の傍に戻ってきた。フローリングの床を蹴る爪の音が静かな部屋にちゃかちゃかと響く。
「……人の姿のブラウも嫌いじゃないよ」
バスタオルの上に寝そべった青は尻尾を振ると目を閉じる。頭や背中を撫でながら月子は言葉を続けた。
「だから眠りなさいね」
小さく鼻を鳴らした青は目を開くと月子を見てまた尻尾を振った。
−続く−
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