擬人カレシ | ナノ
01


 (ロマンス)

 銀杏が色づき、舞い散る葉が積もってまるで金色の絨毯のようだった。
 にぎやかに落ち葉を散らして駆け回る獣達を穏やかな目で見つめていた姿を覚えている。そして何気ない呟きを。

 『彼らは幸せです』

 銀杏が散り、どんよりとした鈍色の雲から真白の雪が降り積もる。
 にぎやかに雪を散らして駆け回る獣達を見つめる目はない。
 やがて雪が溶けて新芽が芽吹き、桜の花が咲く頃、にぎやかな声を一つ迎えた。
 桜の花びらを散らしながら獣達と一緒になって駆け回る娘を見たらなんと言うのだろう。やはり、彼らは幸せですと言うのだろうか。


 冷たい風が吹く夜だった。紅茶でも入れようと立ち上がったところに来客を知らせるチャイムが鳴った。
 こんな時間にやってくるのは日菜子しかいない。残業でご飯を食べそびれたと夜食に誘われることが時々あった。だから何も考えずにドアを開けた月子は思わぬ来客の姿に固まってしまう。

 「夜分遅くに申し訳ありません――入れてください」

 コートの襟元を立てて合わせているので口元が隠れているが声はよく聞こえた。小さめのキャリーバッグを持って、まるで小旅行に行くような格好のブラウが立っている。
 ブラウが月子の許可を得ずに部屋にやってきたのは初めてだ。前日か当日に遊びに行きたいですと言われて必死に断る口実を探すというのがある意味普通になっていて、何の前触れもなくやってくる可能性が十分にある事を考えたことがなかった。
 部屋を知らないわけではないのだから。

 「……月子さん?」

 怪訝そうなブラウの声と開け放したままのドアから吹き込む冷たい風が月子を現実へと引き戻した。
 断ろうかと考えかけた事を察したかのようにブラウは言葉を続ける。

 「お話ししたいことがあります」

 問いかけではなく断定的な言葉にわずかな違和感を感じる。先程もそうだった。その口調に切迫した何かを感じて月子はブラウを部屋に招き入れた。
 ある意味、何事にも鷹揚に構えているブラウが切迫しているという姿は見たことがない。もしかしたら月子には見せていないだけなのかもしれないし、戦場から戻ったブラウにとって日々の些細ないさかいなど大した事ではないだけなのかもしれない。
 脱いだコートを脇に置いてリビングに座っている姿を見ながら月子はそんなことを考えていた。食堂ではよくコーヒーを飲んでいる姿を見かけたがあいにく月子はコーヒーを飲まない。
 紅茶を入れて持って行くとブラウはありがとうございますとようやく普段のような表情を浮かべた。
 つけっぱなしのテレビからは流行の音楽が流れているが月子にはよくわからないものばかりだ。

 「話って、何?」

 嬉しそうに紅茶を飲んでいたブラウはカップをテーブルに置くと改まった表情で月子を見る。

 「部隊に戻ることになりました」

 端的な言葉だったが月子の思考を止めるには十分だった。
 軍人は退役すると予備役に組み込まれることが多いと聞く。ブラウがどの国の軍人として戦場に赴いたのかという事を聞いたことはないが、何にしても戦場に戻ると言うことはよくわかった。

 「話はそれだけです」
 「……そう」

 命令に絶対服従と自称するぐらいだからブラウはおそらく優秀な軍人であり軍用犬なのだろう。もし行かないでほしいと言ったらブラウはどうするのだろうか。
 しかしその言葉を口にすることはなかった。何かと理由を付けてブラウから逃げ回っていた自分にそんなことを言う権利はない。
 どんなに逃げても嬉しそうに近くにいたブラウがいなくなることなど考えたこともなかった。

 「いつから?」
 「明日の早朝には発ちます」

 ずいぶん急なんだね、と呟いた言葉にそうですねと他人事のような返事が返ってきた。冷めはじめた紅茶を飲みながら月子は昼間見た銀杏並木の光景を思い出していた。
 金色の落ち葉を散らしながら遊ぶ獣たちに呼ばれて楽しそうに歩いていったブラウに戦場は似合わない。そもそも戦争なんてものは人間が勝手な理由で引き起こしたもので獣には関係のない話だ。

 「ご迷惑でなければ泊めていただきたいのですが」
 「……迷惑も何も、断ったら野宿をしなければならないんですかって言うんでしょ」

 考え事をしていた月子はうっかり口を滑らせてしまう。ブラウは声を上げて笑った。

 「そうですね。今日は風が冷たいので、できれば屋根のあるところで眠りたいです」

 気を悪くした様子もなくブラウは笑っている。月子はため息をついてどうぞ、と答えた。明日から遠くへと行く人を追い出す訳にもいかないだろう。そこまでするとどんな人でなしだという気分になってくる。
 ただでさえブラウには妙な負い目がある。それに、戻ってこなかったら、という事に思い至った月子はぞっとしてカップを両手で掴んだ。
 人間だろうが獣だろうが死は平等に、唐突にやってくる。

 「どうしました?」
 「……何でもない」

 月子はそんな考えを振り払うかのように立ち上がるとカップを洗うためにキッチンへ向かった。対面式になっているキッチンからはリビングの様子がよく見える。ソファに隠れてブラウの姿は見えず、いつも目にしている見慣れたリビングにみえる。
 もし、ブラウが戻ってこなかったらどうするのだろう。
 カップを洗い終えてリビングに戻った月子は突然腕を掴まれて立ち止まる。ブラウが真顔で月子を見ていた。

 「戻りますから」
 「ブラウ?」

 強い力で手を引かれてバランスを崩した月子はブラウに倒れ込む。そのまま抱き寄せられた耳元で俺が帰る場所は月子さんの所しかありませんと囁く声がした。

 「だから――」

 腕を掴んでいた手が離れてカットソーの中に潜る。肌を滑る冷たい手の感触に月子は思わず声を上げた。

 「やめて!」

 しかしブラウの手は動きを止めない。月子を抱き寄せている腕の力は強く、どんなにもがいても逃げることはできなかった。
 指先が胸に触れる。

 「青! 駄目!」

 とっさに叫んだ言葉にブラウは手を止めた。

 「……そうですよねぇ」

 ため息混じりの声が聞こえたかと思うとブラウは月子の体から手を離す。逃げるように立ち上がった月子は穏やかに笑っているブラウから目をそらした。

 「申し訳ありませんでした」

 その声は普段のものと変わらない。月子は何も言えず、ふらふらと寝室に逃げた。
 暗い部屋で耳をふさぐが囁かれた言葉が頭の中を巡って消えない。普段聞いている穏やかな声ではない、何かを押し殺したような狂おしい声が消えるまでは部屋から出ることができない。
 次は拒むことができないだろう。
 どれぐらいそうしていたのかはわからない。
 ようやく落ち着いた月子はドアを開けてリビングの様子を覗いてみた。
 照明もテレビも消えた部屋の中でベランダのカーテンだけが開け放たれている。どうやらブラウはベランダから見える景色を眺めているらしい。
 エアコンも切ってしまっているようで思ったよりも冷たい空気に驚いた月子は部屋を出た。

 「寒くないの」

 ベランダを眺めていたブラウは月子を見ずに答える。

 「狼犬ですから」

 エアコンを入れた月子はソファに座ってベランダを眺めるブラウの姿を見ていた。
 普段と変わらぬ穏やかな表情だが、一体何を考えているのだろう。

 「俺が何かするとは思わないんですか」
 「……私が嫌な事はしないって言ったじゃない」

 その言葉を聞いたのはずいぶん前のようにも思えるが、つい半年ほど前のことだ。ブラウが研究所に戻ってきて一年も経っていない。

 「そうですね。うかつでした」
 「うかつって……」

 あっさりした様子で笑ったブラウはようやく月子を見た。

 「それだけ信用されていると思うことにします」

 笑顔に陰りはなく、あの囁きは夢だったのかと思えるほどだ。一体どんな顔で囁いていたのだろうと思うが、そんな顔は見たくないとも思う。
 月子の事をいつものような笑みを浮かべてみていたブラウはまたベランダへと視線を戻した。
 時々、断りきれずにブラウが部屋にやってきた時も一人になるとこうしてベランダからの景色を眺めていた。月子にとっては何の変哲もない街の景色だ。

 「……何が見えるの?」
 「月です。月子さんは月や空が一つしかないという事をご存じですか?」
 「それぐらいは知ってる。常識だもの」
 「俺は知らなかったんですよ。国や地域にそれぞれ月や空があるものだと思っていました」

 実はそんなことを考えたこともなかったのですが、と付け加えたブラウは楽しそうに笑う。

 「どこにいても月子さんと同じ物を見ることができるんです」

 その言葉があまりに楽しげで月子は何も言えなくなる。何を言えばいいのだろう。それなら私も月を見るわとでも言えばいいのだろうか。
 きっとブラウは笑ってそうですかと言ってくれるだろうがブラウが見るのは戦場の月だ。
 月子は何も言えず、ブラウもそれ以上何かを語ることはなかった。月を眺めるブラウを見ているうちに眠ってしまったようで、目が覚めた時はベランダから白んだ朝の空が見えた。
 ブラウの姿はなく、ソファで目覚めた月子はぼんやりとした記憶を追う。
 こんなところで寝ると風邪をひきますよという声や髪を優しく撫でられる感触。
 体にかけられていたコートを掴んで月子はしばらく動けずにいた。


 「……思うんだけど」

 日菜子は焼き鳥を食べながら呆れたように呟く。

 「月ちゃんには警戒心がないの」
 「言わないでください……」

 感情の整理ができなくなった月子は夕方になって日菜子を呼び出した。誰かに話すかどうにかしないとやっていられない気分だった。最近はインターネット上で不特定多数の人物に向けて呟きを発信するというシステムもあるが全世界にむけて愚痴を発信する度胸は月子にはない。

 「私も人のことは言えないけど、一度襲われかけた人の所に自分から戻るってどう言うこと。普通なら続きをしましょうってなるわよ」

 深いため息をついた日菜子はビールを飲んで何かに気づいたように頷いた。

 「ブラウはそんなことはしないだろうと思ったのね。信頼関係ができてるわけだ」
 「だって部屋が寒くてびっくりしたんです」
 「声をかければいいだけじゃない。寒いからエアコンつけなさいねって」
 「……その通りです」

 つくねをつつきながら月子はうなだれる。それにしても、と日菜子は何かを考えるそぶりを見せた。

 「どうして逃げたの」
 「は……はい?」

 仕事を離れた日菜子は童顔でかわいらしい感じがする。しかしその外見に似合わず物事をばさばさと切り捨てるように聞いてくる所はいつもの通りだ。前置きもなにもない。

 「普段、無理強いをしないブラウがそこまでするって珍しい事じゃないの? 部屋に遊びにいくのでも月ちゃんが嫌だと言えば諦めるような子でしょ。相当の事があったと思うけど……」

 そんなことは日菜子に言われなくてもわかっている。ついにつくねを砕いてしまった月子は深いため息をついた。

 「……何となくですけど、最後の別れみたいな感じがしたんです」

 帰るとは言っていたがその言葉の裏に帰ってこれないかもしれないという気配が潜んでいたようにも思える。命ある物に絶対は存在しない。

 「そういうのが、嫌で。やっぱり戻ってきてほしいので……」
 「戦地へ戻るのならそれ相当の覚悟もするでしょうからね。私なんかが軽々しく語っていいものではないし、これは戦地へ赴いた者にしか語る権利がないものだけど……だけど月ちゃんは鬼ね」
 「どうしてですか!」
 「蛇の生殺しみたいなことをした挙げ句に傍で寝るとかどうかと思う。ハクガなら……」

 日菜子は何かに気づいたように言葉を止めて明らかに狼狽した気配を見せた。確か、誰かの名を口にしたはずだ。日菜子から異性の話など滅多に聞くことはないが、今付き合っている人か誰かなのだろうか。

 「誰ですか? そのはくが……さん?」
 「……知り合い。まぁ、ともかくブラウが律儀で我慢強いって事と月ちゃんが鬼のようだって事はわかったわ」
 「鬼じゃありません!」

 早く戻ってくるといいね、という短い言葉に月子は頷いてため息をついた。せめて行ってらっしゃいぐらいの言葉はかけてあげたかった。

 「戻ってきたら逃げずに向き合ってあげなさいよ」
 「……はい」

 いつ戻ってくるのかも聞いていなかった。日付を数えることもできず、無駄とは思いつつメールを送ってみたが宛先不明で戻ってきた。当然、携帯電話も通じない。
 もう少し話しておけば良かったと思うがどうにもならない。ブラウはあれで良かったのだろうかと今更ながらに思った。

 −続く−


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