この恋のはじまり


お礼参りが終わり、地上に出てきたジョーカーが教皇庁を後にしようとした時だった。後ろを歩いていた紅丸が「お前さん、この後暇か?」と尋ねてきた。

正直、暇ではないと思ったが紅丸から続け様に「詰所で朝飯くらい食わせてやるが、どうする?」と聞かれると、ジョーカーは少し考えてから朝食くらいならと紅丸の提案に付き合うことにした。


*


まだ薄暗く人気のない浅草の町を歩きながら、ジョーカーは頭に浮かんだ疑問を口にした。

「そういや、朝飯って最強さんが作んのか?」

「そんな訳ねェだろう、飯を作るのは姉貴だ」

「姉貴ィ?」

最強の男に姉がいたとは露知らず、紅丸から初めて聞く「姉貴」という単語にジョーカーはどんな女性だろうかと想像しながら足を進めた。

詰所に着くと、紅丸は「七」と書かれた暖簾をくぐり扉を開け、ジョーカーを呼び入れる。

広めの玄関を上がり廊下を進めば、既に朝食の支度をしているのか腹の減る良い匂いがしてきた。前方に見える長暖簾の掛かった入口が台所なのだろう、トントントンッとまな板と包丁が当たる音が聞こえてくる。

紅丸はそこに誰が居るか分かっているようで、暖簾の前を素通りしようとするが「紅ちゃん」と突然掛かった声にピタリと立ち止まった。

「行き先も言わずに朝帰りするなんて、私に何か言うことあるんじゃないかしら?」

暖簾の奥から聞こえる声は、表情は見えないものの静かな怒りを感じる。

「………今、帰った」

少し黙った後、紅丸が気まずそうに帰宅したことを伝えればバタバタとこちらに向かってくる足音が聞こえ、次の瞬間、暖簾の切り込みから手と続いて顔がスッと出てきた。

拗ねた子供のように、むすっとした表情で暖簾から顔を出したのは綺麗な女性だった。

「あら、お客様もいたのね。気が付かなくてごめんなさい」

怒りを含んだ顔が、ジョーカーを見ると一瞬にして優しくなる。女性は廊下に出て紅丸の横に立つと「はじめまして。新門紅丸の姉、新門女主人公と申します」と原国名で名乗ると丁寧にお辞儀をした。

ジョーカーはこの女が最強の姉さんか、と思いお辞儀でよく見える女主人公の旋毛を見ていると、ゆっくり上がった紅い瞳と目が合った。

「ジョーカーだ」

最低限の自己紹介をすれば女主人公は「ジョーカーさん」と呟くように言い、ジョーカーを頭の天辺から足の爪先まで見ると彼の左腕から血が出ていることに気が付く。

「あら大変、血が…。紅ちゃん、客間にご案内して。お食事の前に手当てしましょう」

救急箱を取ってきます、と言って女主人公は別室に消えて行った。


*


ジョーカーが客間に着くと、紅丸は自室に一度戻ると言っていなくなってしまったので、適当に座り待っていると女主人公が湯の入った小さな桶と年季の入った救急箱を抱えて部屋にやってきた。

「あれ…?紅丸は…?」

「一度、部屋に行くだとよ」

女主人公は「もう、客人を一人にして…」と呆れた様子で言うと、桶に入っていた布をギュッと絞り「痛かったらごめんなさい」とジョーカーの傷口に当てていく。

「…痛くないですか?」

「あぁ…」

温かい手と布の感触に、ジョーカーはこうやって誰かに手当てをしてもらうのは一体いつ振りだろうか、と考えながら目の前の女性を盗み見た。

姉弟というだけ似ていて、紅い瞳と濃紺の髪が色白の肌によく映えている。
髪はどう結んでいるのか分からないが簪で一纏めにしており、女主人公の整った顔立ちに美人というのはこういう奴のことを言うんだろうな、とぼんやり思った。

流石は喧嘩好きな弟を持つだけあって慣れた様子で手当てをしている。
そしてその弟は、恐らく客人の前であれば(無断外出の件を)怒るに怒れないだろうと踏んで連れてきたんだろうな、とジョーカーは考えていた。

聖典(結果的には手帳)を手に入れるために利用したとは言え、姉に怒られるのは不憫だと思えば自然に「なぁ…」と女主人公に話し掛けていた。

「最強さんのこと、あんま怒らないでやってくれよ」

その言葉に女主人公の手が止まり、腕に落としていた視線を上げるとアメジストの瞳と目が合った。そして、少し困ったように笑う。

「分かりました、と言いたいところなのですが、そればかりは聞けません」

話しながら女主人公は救急箱から出したガーゼを傷口に当て、その上に包帯を巻いていく。

「…私が怒っているのは、紅丸が朝帰りしたことではなく、大隊長という立場でありながら誰にも行き先を告げず出掛けたことです」

ふぅ…と呆れと苛立ちが含んだ息を落ち着けるように吐くと女主人公は言葉を続けた。

「昨夜は誰も焔ビトにならずに済みました。ですが、もし誰かが焔ビト化して紅丸に連絡がつかなければここに帰ってきた時、後悔するのはあの子なんです…なので先程の話はお受けできません」

真っ直ぐな眼差しに、これは弟を心配する姉の本心なんだなとジョーカーは思った。

話をしている間に巻き終わったのか、女主人公は包帯の端をテープで止めると「はい、これで終わりましたよ」と言い、使い終わった物を救急箱に戻し始めた。

ジョーカーは急に離れていった手の温もりに少しだけ寂しさを感じていた。その気持ちから目を逸らすように包帯の巻かれた腕をじっと見ていると、片付けている女主人公が嬉しそうにふふっと笑い優しい眼差しでジョーカーを見つめた。

「私、紅ちゃんを思いやってくれる優しいお友達が出来て嬉しいです」

「オトモダチ……?」

「あれ?違うんですか?」

まさかの一言に二人でキョトンとする。

「オトモダチというより、利害の一致ってやつだ」

「利害の一致…」

女主人公はオトモダチでなかったことにしゅんとした様子で「紅ちゃんがお友達を連れて来たと思ったのに…」と呟くと、今度は何か思い出したように「あっ」と小さく声を上げた。

「お待たせしてごめんなさい、すぐに朝食をお持ちしますのでもう少しだけ待っててください」

そう言うと、片付けた救急箱と桶を抱えながら台所に消えて行った。

しばらくするとタイミングを見ていたのか紅丸も客間に戻ると、女主人公も奥から料理を載せたお盆を持って来た。

お盆から食卓に移し替え並んだそれは、ツヤツヤに炊かれた白米や具沢山な味噌汁を始め、焼き魚や数種類の小鉢まである立派な朝食だった。

「ご飯とお味噌汁はお代わりもあるので遠慮なく言ってくださいね」

そして、微笑みながら「いっぱい食べてください」と言うと自分の分は用意せず、台所に戻って行った。

女主人公の消えた先を見ていると紅丸が「冷める前に食え」と食事を促し、両手を合わせて「いただきます」と言い食べ始める。ジョーカーもそれに続き、箸を持つと一口食べてみるがこれがどれも美味い。

「最強さん、いつもこんな美味いの食ってんのかよ?」

「食事当番は姉貴の仕事だからな」

「この味噌汁なんか滅茶苦茶うめェじゃねェか、こんな味噌汁なら毎日食いてェよ」

「……今のセリフ、姉貴の前で絶対言うなよ」

「何でだ?」

「なんでもだ…」

そう言って紅丸は姉に合わせたことを後悔しながら少し熱めの味噌汁を喉に流し込んだ。



20201204
僕のために毎日お味噌汁を作ってください

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