早朝、後藤又兵衛が黒田屋敷の廊下を歩いていると、顔見知りの女中に呼び止められた。
「後藤様、お待ちくださりませ、後藤様」
柔和な笑みを常に口元に浮かべている女が、今は困惑と焦りに眉間に皺を寄せている。
「どうなされた」
珍しいこともあるものだと足を止めて聞いてみれば、女中はあきらかにほっとした様子になった。
「実は、寿松丸様がお部屋から出てきてくれぬのです。いつもならもうすっかり身支度を済ませておられる頃合なのですが」
「どこか具合でも悪いのか?」
「それが、そのようでもなさそうなのでございます。お部屋の襖を開けようとしたところ、大声で入ってくるなといわれるのです。理由をお尋ねしても、いいから捨て置けとだけしか答えていただけず、困っておりましたところ、後藤様のお姿が見えたのでついお呼びとめしてしまいました」
申し訳なさそうな顔をして又兵衛に縋る女中を前に、又兵衛は顎を軽くしごきながら思案した。
実は、又兵衛は松寿丸と遠乗りに出る約束をしていたのだ。松寿丸はこれを大層楽しみにしていた。約束をしたのは先の戦から戻った十日程前であったのだが、その日からというもの松寿丸は又兵衛の顔を見ては約束を忘れるなと念を押し、今日という日を指折り数えていたほどだ。
多少、機嫌や体の調子が悪かったとしても、松寿丸は遠乗りに出ることをやめるとは言い出さぬであろう。
と、すると松寿丸に何かがあったのだと考えるのが妥当であろう。
「では、おれが様子を見てまいろう」




松寿丸の寝所にたどり着き、又兵衛が早速の襖に手を伸ばした途端に中から鋭い声が飛んできた。
「開けるな!」
家臣が黒田家嫡男の部屋の襖を勝手に開けるなど不届きなことではあるが、女中の話を考慮すれば、又兵衛は無駄な骨折りなどすることはないと判断したのだ。しかし、松寿丸は又兵衛の気配を敏に察してぴしゃりと又兵衛のしようとしていたことを言い当てて、制止してみせた。松寿丸は生来こういった勘が鋭い児であった。
「誰だ、そこにおるのは!入ってくるなと申しつけたであろう!」
少年特有の高く澄んだ張りのある声音には特段変わったところも見当たらぬ。少々焦って語気が荒いようであるが、元気そうだと改めて確認すると又兵衛は襖の引き手に指を掛けた。
「誰だか、知らぬが去ね!」
松寿丸がわめくが、又兵衛は眉一筋動かさなかった。
「又兵衛にござるわ」
「……又兵衛か」
「はて、今日はかねてからの約束の日だと思ったのだが……違ったか?」
「ち、違うておはおらぬっ!」
「では、とくとく支度なされませ」
「だ、だが……」
「では、又兵衛は申しつけどおり去ぬるとしようか」
「ま、待て!」
「では、支度を」
「も、もうちと待ってくれ……!」
「待ちませぬ。御免」
又兵衛は問答無用に襖を開けて、寝所にいた松寿丸を見ると珍妙な顔をした。
松寿丸は寝具を頭からすっぽりと被り部屋の角で蹲っていたのだ。
鬼が出ても蛇が出ても怯まぬわ、と豪語するほど負けん気が強く、手合わせをしていても又兵衛や太兵衛といった豪将勇将にも臆せず向かってくる松寿丸ゆえに、その光景は又兵衛の眼には奇異に映ったのも仕方がないことだった。
「なにをしておるので?」
こんもりとした小さな寝具の山に向かって訊いても、答えはない。
どうしたものかと思っていると、寝具の裾から白い布がはみ出しているのに気がついた。又兵衛はその端を何気なしに摘むと引っ張った。すると、松寿丸は何に驚いたのかあっと声を上げてびくりと大きく跳ね上がった。それを怪訝に思いながらも又兵衛は己の手がするすると引っ張り出したものを見て、一瞬ぎょっとした。又兵衛が摘みあげているものは、なんと褌であった。しかも、それはしっとりと濡れていたのである。
「……」
さすがの又兵衛も、これには少しばかり呆気にとられたのだが、すぐに松寿丸が声を上げて褌を奪い取ろうと襲い掛かってきたので褌をつかんだままの手を高く上げてこれを、ひらりとかわした。松寿丸は帯が半ば解け、夜着の前がはだけているにもかかわらず躍起になって又兵衛に手を伸ばした。素直に返してやればよいものを、又兵衛の武士としての性であるのだろうか、どうしてもその追撃をいなして相手を翻弄してしまう。又兵衛が動くたびに、掲げた白い褌が幟のようにひらひらとはためく。傍から見ると猫をじゃらして遊んでいるかのようであるが、当人たちはその滑稽さに気がつかずに必死であった。
しばらくして、松寿丸が癇癪を起こしてわぁあっと声を上げて、又兵衛の厚い胸板に頭から突進してきた。又兵衛は足腰に力をこめるとそれを受け止めると、じゃじゃ馬をならすがごとくの手つきで少年の背中を撫でてやった。
「お、おれが粗相をしたのを馬鹿にしておるのだろう、又兵衛!」
又兵衛の胸に顔を埋めたままの松寿丸があげた恥辱にまみれた鼻声に眼を瞠った。
松寿丸は、自分の身にどのような変化が起こったかをまったく理解していない。これがはじめての精通だったのかも知れぬ。だらか、自分が寝小便をたれたと思い込んで寝所に篭ってでてこなかったのだ。
又兵衛は握っていた褌を畳の上に落として、ぐいっと胸から松寿丸を引き剥がし、膝を折って視線をあわせた。
松寿丸はまだ柔らかさを十二分に残している瑞々しい頬を上気させてきゅっと唇を噛み締めて震えていた。
又兵衛は畳の上の濡れた褌を横目で見た。
この弟のような腕白の童が、女子と交わることができるようになったのだとは俄かに信じがたかった。
黒々とした前髪から覗く太めの濃い眉尻は跳ね上がり、又兵衛を上目遣いに睨めつける目元は羞恥と屈辱で朱に染まっている。潤む瞳から今にも涙がこぼれそうであった。
眼前の稚児は、又兵衛の知る松寿丸とは似て非なる存在であるような違和感を感じ、戸惑いにも似た不思議な気持ちになった。
「松寿丸様は、粗相などしておりませぬ」
「そうなのか……?」
「松寿様が漏らしたのは、胤でござる」
「たね?」
「はい。これは、喜ばしいことです。松寿様の体が大人の男になったという証」
「大人になると、寝ている間に胤を漏らすものなのか?」
「いいえ。漏らしませぬ。漏らす前に、出してやれば良いのです」
「どうすればいいのだ?」
松寿丸は無邪気にそう聞いてきた。まるで、山城での篭城戦の心得や水軍の作法を聞くような神妙さだった。
「松寿丸様は、体が熱く疼いたことはござらんか?」
「……」
松寿丸は頬を上気させたまま、俯いてしまったので、これ以上のことを言及するのをやめた。
「このようなことは、誰に指図されずともおのずと身についてゆくもの。気にすることもなかろう」
さりげなく話を打ち切ろうとした又兵衛の意図に気がつかずに松寿丸は小さく「うむ」と頷いたが、すぐに不安そうになって又兵衛の着物の袂を小さな柔らかい手できゅっと掴んだ。
「松寿丸は、槍に兵法に水練、みんな大事なことは又兵衛から習った。もし、此度のことも松寿丸が困ったらまた教えてくれるか?」
松寿丸の稚く真っ直ぐな眼差しに、一抹の危うさを感じながらも又兵衛は頷いた。
「勿論にござるわ。遠慮はいらぬ。おれは、松寿を弟とも思うておる」
「又兵衛」
「さ、もういい加減に支度なされよ。着替えを準備させるゆえ。今日は、遠乗りにこの又兵衛とでかけるのでありましょう?」
雲間から差し込む陽射しのように、松寿丸が微笑んだ。それを見た又兵衛の双眸は眩しげに細められ、口元にはかすかな笑みが浮かんだのだった。














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