刑部様、悪い知らせがございます・・・。
 敦賀から大坂に到着したばかりの大谷刑部少輔吉継の元に早馬が知らせを携え参じてきた。
 大谷刑部があらかじめ各方面へ放っていた草からの報告であった。
 早馬がついたという知らせを聞いた石田三成が、大谷刑部に宛がわれた屋敷の居室に勝って知ったるといった様子で入ってきた。
「どうした、なにがあった?早く言え」
 横柄で威圧的な凶王三成の言葉に知らせを伝えにきた使者が震え上がった。
「これ、三成。急くな、脅すな。さ、申してみよ」
 苛立つ三成を宥めながら、大谷刑部は使者を促した。
「幽閉していた黒田官兵衛が挙兵しました・・・」
 知らせを聞くや否や三成の顔色が変わった。
「おのれ、官兵衛・・・ッ!どこまでも手向かいするか!」
 乱杭歯を剥き出しにして激昂する凶王を横目に、大谷刑部は沈黙を保っていた。凶報に眉一つ動かさない様子に、控えていた侍や小姓たちの胸の中には黒い疑惑の靄が立ち込めていた。ある侍は「実はこれは刑部様が裏で糸を引いているのではなかろうか?」と邪推し、ある小姓は「もしかすると、大谷様はこれで黒田を討つことができる、やれ好都合と考えておられるやもしれぬ」と己の妄想を現実のように感じて恐怖した。
 しかし、それぞれの思惑を他所に、大谷刑部は布に覆われた口元は人知れず笑みの形を刻んでいた。
 黒田官兵衛という男は健康で体格にも恵まれ、力もあれば剣の腕も立つ。それ相応に人望もあり、さらには知略策略の類にも長けている。
 そんな男の両の手に枷を嵌め、あまつさえ鉄球までつけて身動きを封じたのは大谷刑部であった。黒田の抱く野心を理由に大谷刑部は、彼を深く暗い穴倉に落とした。歴史の表舞台へ出れぬように閉じ込めたのだ。黒田を戒め、縛したその錠の鍵は、大谷刑部が大事に大事にその懐に抱いている。その可愛がりように「それは刑部殿の宝物ですかな?」と誰ぞ尋ねたものがあったとかなかったとか。大谷刑部の執心がどれほどであったか、推し量るに難くない逸話である。
 しかし、大谷刑部は黒田官兵衛を追い落とすたびに、暗い愉悦に浸りながらも思うことがある。それは期待といってもいいやもしれぬ。その期待を、此度も黒田官兵衛は裏切らなかった。
 やはり、どん底にあっても、足掻くか。最果てから這い上がろうともがくか。
 獄を破り、手枷に重しまでつけられた身で挙兵?兵はきっと、戦の経験も乏しい有象無象であろう。まぁそれでも、あの男は軍の体裁を整えるだろう。そうでなければ面白くない。
 不運・不幸・不遇・・・ありとあらゆる「不」を背負った男が、光明を目指し、諦めることを知らず枷をつけられた手を伸ばし、鉄球を引きずって前へ、一歩でも前へと進もうとする。
 結果、泥濘に更に深く足を囚われる。 希望を抱いた分、落胆も大きい。それはそれは楽しいことではないか。 
 それでも、愚かな男は減らず口をたたきながら、大谷刑部の名前を憎らしげに叫びながら、めげずに再び災いの沼地を泳ぎきらんと、手足をばたつかせる。
 やれ、愉快。やれ、痛快。
 大谷刑部は早馬の持ってきた凶報に、ことのほか上機嫌だった。勿論、傍からみれば、いつもと何一つ変わりはしない。ただ唯一、気がついているとすれば三成を置いては他にはいないであろう。
 やはり殺したほうが良いのでは・・・誰かがそう言ったのが大谷刑部の耳に入った。
 三成もその意見に満更でもなさそうな顔をしていながら聞いていた。
 しかし、異を唱えたのは大谷刑部だった。
「やれ、捨て置け。わざわざ挙兵したなら、それはそれでよいではないか。その兵力は使わせてもらおう、我ら豊臣のために」
「刑部」
 三成が微かに顎を反らして、先を促した。大谷刑部の策に興味をひかれたらしい。 
「あやつはまず幽閉先の九州一帯を攻めていくであろう。首尾よく九州を平らげたら、そこで我らがそれを貰い受けるのよ。手間が省けるというもの。どうせなら、豊臣の為に働いてもらおう。負ければ、まぁ、それはそれよ」
「・・・そうか」
 西軍総大将の三成が納得したとあらば、他に口を挟むものはいなかった。当然である。だれも、凶王に睨まれたくはない。
 大谷刑部は南で悪足掻きを始めた黒田官兵衛を胸に思い描き、暗い満足感に浸っていた。
 こうしてこの件はひとまず幕を閉じたのだが、最後に大谷刑部の居室を退出した間の悪い詰め侍が、彼の独白を偶然に耳にしてしまった。
「殺すな、殺すな。殺すでないぞ。あれは、娯楽。我の数少ない娯楽よ」
 ヒィッ、ヒィッとまるでひきつけでも起こしたかのような笑い声に、武士(もののふ)はガタガタと震え上がりまるで脱兎のようにその場を逃げ去っていったという。




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